果てしなく青
前編
薄暗いように見えて、その実鮮やかな深い青に包まれた室内のそこここで、さざめくような、しかし少々低い声の会話が聞こえてくる。 だが、話の内容はわからない。 ここは、はっきりとした物言いで話すところではないからだ。 過不足なく配置された調度品や食器類は、選びに選び抜かれた世界の逸品ぞろい。 照明は、近い距離の相手の顔がそれとなくわかる程度にほんのりと…だが、それ故に目立つ顔立ちもあろうというものだ。 ここは都内某所、各国大使館が点在する落ち着いた大人の街の一角で、それとはわからない地味なビルの最上階にある高級会員制クラブ『lapisRazuri』。 『瑠璃色』という意味だ。 確かな身元と、ある程度以上のステイタスが必要とされるここに集うのは、紳士淑女…ではなく、紳士のみ。 公にし難い事実を抱えた会員同士が本当の名を名乗ることなく相手を探すことが出来る…というのは裏事情で、表向きはただの『紳士クラブ』だ。 それ故に時折、一時でも奥方や恋人の監視を離れて羽を伸ばしたいという、一般的には『多数派』とされる紳士が紛れ込んでいるが、それはそれ、排除されるわけでもなく、『オトモダチ』として歓迎されている。 つまり、いずれにしても色々と好都合なのだ。 匿名だが、身元が保証されているというのは。 だから万が一外の世界でばったり出くわしても、挨拶は『はじめまして』が『当たり前』だ。 そもそも本当の名を知らないのだから。 『lapisRazuri』では、会話だけを楽しむ者もいれば、出来ればもっと深い関係になりたいと考える者もいるし、めでたくカップル成立…ということもあるのだが、その後が永く続いたのかどうかは誰にもわからない。 ただ、またひとりで『lapisRazuri』を訪れるようなことがあれば、『ああ、きっと別れたんだな』と推察されるだけだが、それをわざわざ口にする無粋な輩はここにはいない。 そして今夜もまた、一人の会員が、声を掛けてきた紳士たちと談笑している。 小さな声で。 成人していないと会員になれない『ここ』なので、当然20歳以上であるには違いないのだが、どう多めに見積もっても18歳程度にしか見えない彼は、少々野暮ったい眼鏡を掛けていても愛くるしい容姿は隠しようもなく、密かな人気者だ。 そして皆、だいたい気がついている。あれは伊達眼鏡に違いないと。 彼の中性的で優しげな様と腕の中に納まりの良さそうな小ぶりの身体は当然『ターゲットロックオン』状態なのだが、それとない誘いにもあからさまな誘いにも、彼は乗ってこなかった。 いつも、楽しくお話するだけで『次の約束』もない。 ここで彼に会えるかどうかは運次第と言うわけだ。 だからと言って、単に紛れ込んでいる『オトモダチ』的な会員でないのは間違いなさそうで、だからこそ彼のようなタイプを好みとしている紳士たちは彼が姿を見せるといつも少しばかりソワソワしていた。 この日、ひと月ぶりに現れた彼は、早速数人に捕まり、輪の中で控えめな笑顔を見せている。 本日の話題は、ここしばらくの世界経済の動きについて。 ご多分に漏れず、こういう集まりでの『政治』や『宗教』の話題はタブーだ。 しかし集まっているのは、一歩外へ出ればそれなりに社会の第一線にいる人間ばかりなので、勢い話題は経済問題に流れていく。 「僕はあまり経済問題には明るくないんですが…」 ことさら小さな声で言えば、周囲から笑いが漏れる。 「それ、本気で言ってる? 相当解ってないとさっきの答えはでてこないよ」 どう少なく見積もっても相当ステイタスの高そうなビジネスマン風の紳士の言葉に周囲が安易に同意する。 だが、経済問題に明るくないのは本人的には事実だ。 彼が就いている職業から、経済問題は遠い。 これでもかと言うくらい持ち上げられながら、可愛いらしい彼は、今日はちょっと面倒だな…と、心の中でだけひっそりとため息をつく。 ここに来ると、いつも被っている偽りの仮面を脱ぐ事ができるのだけれど、小難しい話をしたいわけではないから。 「ん? 少し疲れてる?」 察しのいいひとりが、優しく微笑んでくる。 「あ、すみません。ここのところ少し立て込んでいたので…」 ぼかして言うが、少しではなく立て込んでいたのは事実だ。 今月はオンコール待機がすべて呼び出しになったし、それ以外でも緊急呼び出しで休みは3日潰れている。 だがそれも自分が選んだ道で、やり甲斐以外に感じるものは無い。 「少し休ませてあげよう」 別の誰かが言うと、周囲も『そうしよう』『一息ついたらまた相手してね?』と、好意的だ。 こういう気遣いがあるから、やはりここに通ってるんだろうなと、意識の少し遠いところで考える。 「ありがとうございます」 そう言って微笑むと、一同は満足そうに頷いて、鮮やかなオレンジのカクテルを差し入れて、『一応』散っていった。 かなり広い空間だが、仕切りは一切無い。 その代わりしなやかな革張りのソファーは1人掛け複数掛け問わずハイバックで、小柄な彼は上手い具合に身を潜める事ができる。 新しいカクテルに少し口をつけると、大好きな柑橘系フレーバーが口腔内に広がった。 好みまでしっかり把握されてしまっていることに、少々窮屈さを覚えつつも、ここ以外に『そういう意味』で気を抜く場所も持ち合わせていないから、多少の事には目をつぶるしかない。 ここに通い始めて3年ほど経った。 その間に、幾人か惹かれる人はいた。 だが、どういうわけなのか、それは必ず、『奥方から一時避難してきた紳士』――つまり『オトモダチ』ばかりだった。 だから、ここで相手を見つけることは諦めている。 いや、ここでなくとももう、それについてはとうに諦めているが。 子供の頃にはもう、恋愛の対象は同性だった。 女の子とは気軽に友達になれたけれど、男の子の友達は少なかった。 どうしても意識してしまい、ぎこちなくなる自分を持て余したから、できるだけ近寄らないようにして生きてきた。ずっと。 現在一緒に暮らしてはいないが、家族との関係は良好だ。 今までそれらしい素振りは微塵も見せて来なかったし、最近では結婚はまだかとも言われなくなった。 姉が一昨年結婚して、両親にとっての初孫が誕生したおかげだ。 手に職もついているから、仕事ができる間は将来への不安もさほどない。 ふう…と一つ、息をついた時に、囁くような話声が聞こえてきた。 小さいけれど、発音は明瞭快活で耳に心地よいその声は、どうやら『好みのタイプ』について熱弁をふるっているようだ。 「俺は『あなた任せ』の可愛い子がいいな。なんかさ、世慣れてないって感じの子って、守ってやりたいって気がするじゃない? そう思うとやっぱり年下がいいよな」 「俺は年齢はプラマイ5歳までオッケーだな」 砕けたやり取りは、若さを感じさせる。 好奇心に負けて、少しばかり首を捻ってみれば、声の主が目に入った。 深く腰掛けてハイバックに身体を預けているから身長はわからないが、がっしりとした体つきに見合う長身であろうことはみてとれた。 そしてその横顔は、やはりそれに見合った精悍なものだった。 ――初めて見る人だな…。 まだ若そうだが、この場には随分と馴染んでいるようにも見える。 そもそもウロウロと歩き回ることはしないので、知らない顔がたくさんあっても不思議ではないのだが。 ――結構好みのタイプかも。 と、思ったが。 「あー、俺、プラス5歳とかパスかも」 「それじゃあ30でアウトじゃん。キビシいなあ」 年齢だけで選択肢を狭めてしまえるのは、己に自信があるからだろう。 そんな傲慢さは今まで一度も持ち合わせて来なかったから、少し詰めていた息をそっと逃がしてみれば、それは簡単に溜め息に変わった。 「うちの職場にも、守ってやりたい系の超可愛い子ちゃんいるんだけど、見かけによらない男前ぶりとデキの良さで、しかも4つも上でさ。こりゃ無理だなって、最初から諦めついてよかったよ」 「それってギャップ萌え系じゃないか。諦めるなんてもったいない」 「いやいや、俺はギャップ萌えってないんだなあ。可愛い子が見た目そのままでちょっとぽややん…なんてのがいいんだ。あと、家庭を守ってくれる子なんて最高だけど」 その言葉に周囲が忍び笑いを漏らす。 「何言ってんのかね、君は。それなら普通に女子と結婚すりゃいいじゃないの」 「それができるんなら、こんなとこにいないだろ?」 「そりゃそうだ」 「ってか、女子も家庭になんか納まらない時代だからなあ」 「だよなあ」 密かに盛り上がる会話を聞くつもりは無かったのにしっかり聞いてしまい、ただでさえマイノリティは生き難い世の中なのに、そうやって普通に理想を語ることができる彼は、きっと『後ろめたさ』とは無縁なのだろうと思えた。 自分にない剛胆さが羨ましくて、もう一度ちら…と視線を流してみれば一瞬視線がすれ違ったような気がしたが、そこまで…だ。 そのうち『彼ら』は席を立っていった。 結局その日はまたしても経済談義に巻き込まれてしまい、クラブを後にしたのは随分遅くになってからだった。 日付こそ変わっていないが、仕事が終わって真っ直ぐここへやってきてからすでに5時間ほど経っている。 3人ほどからそれぞれに『場所を変えないか』と誘われたが、少しばかりセクシャルな言い回しだったそれに乗る気はまったくなくて、いつも通りに控え目な笑顔でお断りした。 そういう相手を求めているわけではないから。 こうなったらもう、今夜は息抜きじゃなくて、経済問題を勉強に来たと思えばいいか…と苦笑して人目につかない出口から通りに出たところで、いきなり声が掛かった。 「やっと出てきた」 そう言って、街灯の下に立っていたのは、先ほど『理想の相手』について熱く語っていた彼だった。 「…あ」 「待ってたんだ。話がしてみたくて」 その笑顔には傲慢さや自信の欠片もなく、ただ、人懐こさだけが暖かく浮かんでいるが、あまりに突然で立ち尽くすしかない。 「急いでる?」 「ええと、あの、特には…」 明日は一応『完全休日』だ。 全員招集レベルの緊急事態が起こらない限り呼び出されることはない。 「もし、良ければもう一件いかない? ゆっくりできる店知ってるし」 そう言われて、どうしたものかと考えた。 あのクラブにいたからにはどういう人間かわかっているはずで、それでも誘うと言うことは『下心あり』かも知れないが、その時には年齢をバラせばいいかと思った。 年上はお好みではないと言っていたから。 「…じゃあ、少し、なら」 戸惑いが大きかった所為か、まるで焦らすような言い方になってしまったそれに、内心でしまったなと思ったが、警戒心を抱かせない彼の柔らかい笑みは、喜びに輝いた。 「ほんと? 嬉しいな。じゃ、行こう」 そう言って、肩を抱くでもなく、ゆっくりと歩き出す彼の後ろを、少し離れてついていく。 怪しげな店なら逃げ出せるように。 少し距離をあけて前を行く、その引き締まった背中は思っていたよりもずっと広く、そして見上げるほどの長身だった。 男性なら誰でも羨むほどのスタイルを備えたその姿だが、もちろんそれだけで彼がどういう人物なのかは全くわからない。 いや、むしろそれだけで十分なのだ、あのクラブでは。 時々、ちゃんとついてきているのか確かめるように少し後ろを見遣る彼に黙ってついていき、数分歩いてたどり着いたところは、これでもかと言うくらい健全なカフェバーだった。 「ざっくばらんだけど、何頼んでも美味いんだ、ここ」 言いながらドアを開けると、カウンターの内側から快活な声が掛かった。 「お、彰じゃん、久し振り」 「あ、店長、ご無沙汰です」 店長と呼ばれた男性は、後ろに隠れるようにしている存在に気づき、笑みを浮かべる。 「あれ? 友だち? 誰か連れてくるなんて初めてじゃん」 「へへ、ここは超お気に入りなんでね、誰彼連れてくるわけにはいかないんだ」 「嬉しいこと言ってくれるねえ。でもうちとしてはお客が多い方がいいんだけど?」 「んじゃ、今度同期会やるから貸し切りよろしく」 「おおっ、嬉しいねえ」 軽口をたたき合いながら、どうぞと言われた奥の席に落ち着く。 『飲めるよね?』と聞かれて、『軽いものなら』と答えたら、なにやら聞いたことのないものを注文していたが、この店なら大丈夫そうだな…と、次第に警戒が解けていく。 オールディーズが適度な音量で流れる店内は、日曜深夜の時間帯にもかかわらず8割程度の入りで賑わっている。 客層は主に、20代から30代の社会人風で、そのことも安心材料にはなった。 「ね、なんて呼んだらいい?」 名前は?…と聞いてこないところが『心得て』いる。 「あ、うん、かおる…って言うんだけど」 「うわ、めっちゃ似合ってて可愛いし」 「え、そう?」 そう言われても困る。 実は『薫』は本名なのだ。 本名を名乗るのは少しばかり危険だが、『外の社会』で鉢合わせしたときに、うっかり違う名で呼ばれてしまうと困るから…というのもある。 それに、この名前だと、だいたいの相手が勝手に偽名だと思ってくれるのも助かっている。 だが、それらを差し引いても、薫はこのとき、なぜか偽名を名乗る気にはならなかった。 「俺はさっき店長に呼ばれてた通り、あきら。漢字だとこれ」 言うなり薫の手を取って、その薄い手のひらに『彰』と漢字を書いてみせる。 「あ、うん、わかった」 言ってその手を引こうとしたのだが、そのまま手首を柔らかく掴まれた。 「わあ、可愛い手だなあ」 「あ、あのっ」 「こらこら、いきなり口説きモードってどうよ。この節操なしめ」 目の前に鮮やかな空色のカクテルが現れて、『店長』が彰の額を小突く。 「店長〜、人聞きの悪いこと言わないでよ。俺、ここで誰かを口説いたことないじゃん」 薫を相手に口説くの口説かないのと言い合う状況に、彼らがずいぶん馴染んでいる様子が知れる。 「確かに『ここ』ではないな。余所では知らないけどさ」 「ひど〜い」 「あの、手、離して」 「ああ、ごめんごめん。ちっちゃくて手触りいいからつい」 そう言いつつも、離し際にはちゃっかり甲を撫でることも忘れずに、彰は薫の手をそっと解放する。 その様子をニタニタと見守っていた店長がカウンターに戻ると、彰は少し申し訳なさそうに頭を下げた。 「ええとさ、待ち伏せなんてしちゃって、ごめん」 「あ、ううん、別に…。ちょっと驚いちゃったけど…」 そう、驚いただけだ。まさか…と。 「白状すると、何回かあそこで見かけて、気になってたんだ。でもなかなか声かける勇気が出なくて」 精悍な顔つきに少し照れたような笑みを乗せると、彼がまだ若いだろうことが見て取れる。 「今日、ちょっと目が合ったんだけと、気がついた?」 「えと、そうだっけ」 はぐらかしてしまったが、やはりあの時すれ違ったような気がした視線は、一瞬でも絡んでいたのだ。 「あー、やっぱり気づいてなかったか〜。でもさ、俺はあれでちょっと勇気出たんだ。今日、思い切って声掛けてみようって」 結果オーライで、ホッとしてるところ…と付け加えられて、薫はちょっと視線を下げた。 素直で真っ直ぐな様が、目に…いや、心に痛かったからだ。 自分には偽ってきたことばかりで。 「あそこにはどれくらい? 俺はまだ半年ちょっとなんだけど」 「僕も、まだそんなに…」 語尾をぼかしても、彰は疑いもなく頷いた。 「かおるってすごく若そうだから、親のすねかじりかなあって噂もあるんだけど知ってた?」 「え、そうなんだ?」 実際、いつも実年齢から10歳程度若く見られているが、まさかすねかじりだと思われてるとは、少々ショックだ。 一応重い責任を負って働いている歴とした社会人なのに。 「あはは、噂だよ、ただの。あそこはそんなんじゃ入れないことくらいみんな知ってるし」 「…なら良いんだけど…」 「あんまりにも可愛いからみんな色々ネタにしたいんだよ」 ニコニコと言われてしまえばもう、反論する気も起こらない。 まあ、真面目に反論するような話でもないが。 「で、やっぱり伊達だったね」 「え?」 一瞬なんの話だと思ったが、すぐに気づいて、慌ててこめかみに手をやったら彰は声を上げて笑った。 「や、でっかいアラレちゃん眼鏡も可愛いんだけどさ、やっぱり遮るものがない方がいいあな。もっと可愛いし」 クラブを出て、エレベーターの扉が閉まった途端に外して仕舞ったのだ。顔の半分を覆わんばかりの伊達眼鏡を。 失敗したなと思ったけれど、後の祭りだ。 「飲んでみて?」 「え? あ、うん」 運ばれていた空色のカクテルを指してそう言われ、薫は少し口をつけた。 「わ、美味しい」 「だろ?」 「青空みたいなのに、柑橘系の味がする…」 青空…と言った薫に、彰は嬉しそうに頷いた。 「そうなんだ。俺のお気に入りなんだけど、俺、空色とか青とか大好きでさ、だから『あそこ』も好きなんだ。陽が落ちたすぐ後の空が、瑠璃から群青に変わる頃みたいな色彩の内装で、空に吸い込まれて行くみたいで」 「クラブの名前、そのもの…だね」 今まで考えたことがなかった。あの空間の色彩のことなど。 ただ、何もかもをそっと隠してくれる居心地の良さだけで。 「その通り」 ニコッと笑んだ目が優しすぎて、眩しすぎて、薫は『伊達眼鏡じゃなくてサングラスがいるな』…なんて考えるほどには少し余裕が出てきた。 彰はその後も、当たり障りがないように見えて、その実、興味をそそるような話をいくつも繰り出して、小一時間も経つ頃には薫の警戒心はすっかり解けてしまっていた。 薫も職業柄コミュニケーション能力は必要で、普段職務上でも問題はないのだが、彰のそれは『特筆レベル』の様に思えて、どんな仕事なんだろうと、うっかり興味が沸いてしまったのだが、頭の中でそれを打ち消し、今夜だけの付き合いなんだから…と、何度も繰り返した。 が、彰は当然尋ねてきた。 「ね、ケータイ教えて?」 「あ、でも、僕は不規則勤務だから、電話に出られることはめったにないんだけど」 これは逃げでも何でもなく、本当のことだ。 「えっ、偶然〜! 俺も不規則勤務で電話は難しいんだよ。じゃあメールがちょうどいいな。アドレス教えてくれると嬉しいな」 今夜だけだと頭の中で念仏のように繰り返し唱えていたから、少し迷った。 けれど、この時すでに、これきりにしたくないと、どこかで思っていたのも事実で。 だが、彰に会うには覚悟がいる。 そう、『少々頼りない、年下の可愛い子』を演じなくてはいけないのだ。 「あの、メールもすぐ返せるとは限らないよ?」 「うん、俺も同じだから大丈夫。一旦仕事に入ったら、丸一日まったく確認できないこともあるから」 まるで自分と同じだなと思う薫だったが、同じ職業には見えなくて――同業者はだいたいわかる――いったいどんな仕事なのかな…と、またしても興味を抱いてしまう羽目になった。 「さて、時間も遅いし送っていきたいのは山々なんだけど、初日からあんまり踏み込んじゃ悪いし、今日は我慢しとくよ」 「…えと、あの、ありがと…」 「次に会えるの、今から楽しみ〜」 口笛でも吹き出しそうなほどご機嫌の彰の様子にこっそり笑みを漏らして、薫はそっと息をついた。 ☆★☆ メールが入ったのは数時間後――翌朝のことだった。 『昨夜は付き合ってくれてありがとう。俺は今日から4日間仕事で、次の休みは金曜日なんだけど、かおるは?』 休日のベッドから動きたくなくて、いつまでもゴロゴロとしていた薫だったが、すぐに返信していいものかどうか、しばし悩んだ。 だが、必要なことを簡潔に書いてあるだけの彰のメールに少しばかり好感が持てて、薫は起き上がって返信画面を開いた。 『こちらこそ、昨夜はありがとうございました。金曜日は午前中なら空いてます』 その日は当直だから、午後はしっかり寝て、深夜勤に備えなくてはいけない。 一応仮眠室はあるが、そこで横になれる時間はほぼない。 送信したら、速攻で返事がやってきた。 『じゃあ、金曜日の午前中、予約! 木曜の夜にまたメールするから、絶対空けといて! お願い』 『お願い』の後に、ペコペコと頭を下げるアニメーションがくっ付いていて、薫は思わず笑ってしまう。 『了解しました』 それだけを送信しようとしたのだけれど、あまりに素っ気なさすぎかなと思い直して、続きに『連絡待ってます』と打ってみた。 だが、その文面を見てしまうと今度は何だか期待してるように見えてしまうなと、躊躇った。 それから数十分、スマホの画面とにらめっこしていたのだが、ふと、本当は期待してしまっている自分に気がついて、ため息が出た。 深入りは出来ないとわかっているのだから、ここで歯止めをかけないといけないのに。 ――でも…。 あと一度だけ、会ってみたいと思ってしまった。 『了解しました。連絡待ってます』 送信してしまってから、やっぱりほんの少し後悔した。 ☆★☆ 「あー、もうめっちゃ嬉しい!」 会うなり満面の笑顔そう言われて、まるででっかいワンコみたいだなと思ったら、つい笑ってしまった。 笑ってしまってから彰の顔を見ると、涼やかな切れ長の目を丸くしているではないか。 「あ、あの…」 どうかしたのだろうかと思えば、今度はとろけそうな甘い声で言われた。 「かおる、憂い顔も可愛いけど、笑ったら百倍可愛い」 声だけでなく顔つきまでとろけそうで、恥ずかしくなって思わず目を伏せた。 行こうか…と言われ、歩き出し、目を少し伏せたままついていけば、頭一つ高いところから落ちてきたのは、少々自信なさげな声だった。 「もしかして、来てくれなかったらどうしようって、昨夜からもうドキドキしっぱなしでさあ」 「でも、約束したし」 いったん交わした約束を、理由もなく違えるなどと言うことは、薫の『常識』の中にはない。 そして彰は、薫の言葉にまた嬉しそうに微笑んだ。 待ち合わせたのは海浜公園のカフェ。 海に向かった硝子張りカウンターに並んで座る。 土曜日夜のメールで、一応最寄り駅は伝えていたし、午後には戻らないといけないことも伝えていたから、遠くないところを選んでくれたようで、少し面映ゆい。 「朝ご飯デートって、めっちゃ爽やかではまっちゃいそう」 さらりと『デート』と言われて薫の心臓が飛び跳ねる。 「あ、あの、ごめんね。こんな時間になっちゃって」 「なに言ってんの。こちらこそ、午後から仕事なのに朝から引っ張り出しちゃってごめんなさいだよ」 「えと、それは全然大丈夫だから…」 そういった薫の、うつむき加減な横顔を眩しそうに眺めてから、彰は『ここの焼きたてクロワッサン、一度食べるとハマるんだ』と、薫に勧めてくる。 それからしばらくの間、『眺めが良いね』とか当たり障りの無い話をしながら朝食を摂った。 「ね、ちょっとだけ踏み込んじゃって良い?」 食後の珈琲を飲みながら、彰が言った。 ドキリとしたが、言葉の割に彰の表情は穏やかで、薫は覚悟を決めて頷いた。 だが、語られた言葉は『lapisRazuri』では幾度となく聞かれたことで、あそこでは挨拶代わりの話題のようなものだった。 「かおるはいつ頃、自覚したの?」 そう、恋愛対象が同性だという事実のことだ。 「ええと、もう、子供の頃から」 「誰にも打ち明けず?」 「うん」 「そっか。じゃあ、あそこは大切な場所だな」 クラブの名を、外で口にすることはしない。 「そうだね」 そう、あそこでだけは、自分の本当の姿を隠さないですんだ。 だがその代わり、日常の自分――それも自分の本当の姿には違いないのだが――は隠さなくてはならないけれど。 彰のことも聞いてみたくなった。 が、それはまだ、彰自身への興味と言うよりも、隠し続けてきた自分とは随分違う来し方のような気がしたから、そこを聞いてみたいと言う単なる欲求に過ぎない。今のところは。 「あ…と、きみ、は?」 「彰だよ」 「え、ええと、あの、彰…くん」 「え〜、『くん』とか無しでいこうよ」 「や、でも」 「年とか関係ないって。俺は、年下でも恋人には呼び捨てされたいタイプ」 何気なく言葉に乗った『年下』『恋人』と言うキーワードに、薫の内側がさざめく。 もうすでに、『こんな恋人が欲しい』と思ってしまっているし、そう思ったその人は、薫を年下だと思い込んでいて、それが『理想』だと言っている。 少し黙り込んでしまった薫に、彰は『ごめんごめん』と笑った。 「ちょっと急ぎすぎだよな、俺ってば」 そう言って、さり気なく薫に逃げ道を与えてくれてから、静かに語り始めた。 「俺は、はっきり自覚したのは高校に入った頃だったかな。 女の子にくっつかれても、触りたいとも何とも思わなくてさ。 でも悲観的にはならなかった。だってさ、世の中、半分は男なんだし、それだったら相手が女子でも世の中の半分なわけだし、同じじゃんって」 あははと、笑う彰の顔を半ば呆然と眺めながら、この差はいったいどこで生まれるのだろうと、薫は純粋に感心してしまった。 自分にはそんな考えは思いもつかなかった。 誰かと恋を語らう経験をするより前に、自分の思いは一生封印していかなくてはいけないのだと決めつけていたから。 俯いたまま、驚いたように目を見開ている薫の頬を優しくつつき、彰は『ただ…』と続けた。 「理想の相手に巡り会うのは、きっと難しいだろうな…って思ってたんだ。けど…」 少しゆっくりになった語尾に、薫が怖ず怖ず顔を上げてみれば、そこにあったのは、薫を見つめる熱っぽい瞳だった。 その熱に、また思わず顔を伏せる。 「でも、俺、出会えたんだ、理想の子に」 言葉の終わりに、所在なげに下ろしていた右手がぎゅっと握られた。 思わず引こうとしたけれど、もちろんそれが許されることはなく、暖かく大きな手の中にすっぽりと包まれて、薫は上がって行く心拍数が伝わってしまうのではないかと怯えた。 「ちっちゃくて可愛くて、素直で律儀で、ぽわっとしてて、俺が守ってやらなくっちゃって思える、素敵な子を見つけた」 聞きたくなかった言葉が並び、薫はグッと奥歯を噛み締める。 「かおる…」 視線以上に熱を孕んだ吐息が耳を掠めた時、薫の口をついて出たのは、少しばかり強い語気のものだった。 「僕は違うよ」 「かおる?」 「僕のこと言ってるんだったら全然違うよ。僕はきっと、君の理想とは違うから」 年下でもないし、現在就いている職務は『鉄のメンタルでないと務まらない』と言われているほどのものだ。 彼が求める頼りなげな可愛げなど、どこにも、微塵もない。 けれど、彰はこれっぽっちも動じなかった。 「じゃあ、違うかおるも俺に教えて?」 柔らかく言われて、薫は小さく唇を噛んだ。 ――それを知れば、きっと君は僕に興味をなくすよ。 そう思ったが、口にする勇気はなかった。 |
救急救命センターのICUでの回診中、院内用の携帯電話が鳴った。 『本田先生! 救急お願いします!』 携帯の通話をそのままに、1階へ急ぐ。 「状況教えて下さい」 『40代男性、追突で車内に閉じ込められていたところを救助。血圧90−60、脈48、意識レベル300。下肢を挟まれて、視認では挫滅創とそれによるとみられる出血とのことです』 この病院には最先端の救急救命センターがあり、救急専門医の他に各分野での救急医療のエキスパートがそろっている。 本田は主に外傷を専門としている外科医で、この世界ではまだ『駆け出し』と言われる年齢にもかかわらず、その評価はすでにエキスパートの域に達している逸材だ。 1階へ着いたところで救急車のサイレンが近づいてきた 救急救命室はすでに受け入れ体制が整って、それぞれが持ち場で忙しく立ち働いている。 「酒井先生」 「おう、本田」 修羅場を前にして飄々としているのは、この道10年の救急専門医で、ドクターヘリにも乗務している酒井。 「挫滅はどの程度ですか?」 「皮一枚で残ってる程度らしい」 ほぼ切断状態だということだ。 「出血の状況が問題ですね」 「だろうな」 廊下が騒がしくなってストレッチャーが入ってきた。 もう一人の救急医が救急隊員の話を聞いている間に、他の面子は患者に群がるように処置を開始する。 声を掛けて意識の有無を確認し、血中酸素濃度を測る。 「ルート確保!」 「はい!」 右足の状況は、新人看護師が息をのんで立ち尽くすような惨状だったが、医師たちは動じることなく冷静に衣服を切り、現状をつぶさに確認して次々と指示を出す。 本田は手術室に準備を指示した。 ここでの必要な処置と検査が終わり次第、すぐに手術だ。 「本田、オペに回ってくれ」 「了解です」 「よし、頼むな」 緊急手術が始まった。 |
中編へ |
☆ .。.:*・゜
*Novels TOP*
*HOME*