果てしなく青
中編
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「お疲れだったな」 「先生も、お疲れ様でした」 「本田、お前また一段と腕上げたな」 「そんなことないです。周りのサポートのおかげですよ」 そう言って、はにかんだ彼の頭を、酒井がなで回す。 「んっとにお前はちびっ子でめちゃくちゃ可愛いのに、凄腕だよなあ。早く救急医の資格も取って、俺を楽にしてくれよ」 なで回す手から笑いながら逃れ、乱された髪を整えながら、緩く首を振る。 「そりゃあ救急医資格も取りたいですし、先生みたいにドクターヘリにも乗りたいですけど、今のままじゃ救急の研修中に外科との掛け持ちで過労死しちゃいますよ」 「おいおい、31のお前が過労死するより前に、俺だっての」 「何言ってんですか。救急専門はシフトがはっきりして休みは確保できるじゃないですか」 「ま、そう言われれば返す言葉がないな」 豪快に笑いながらガシッと肩を抱かれて、思わずよろめいてしまうのは、ずっと立ちっぱなしだった所為だ。 手術は7時間に及び、運びこまれてきた時から数えると軽く8時間は越えている。 が、幸いにも命は取り留め、足も縫合に成功した。 機能がどこまで回復するかは予後の経過とリハビリ次第でまだまだ予断を許さないが。 警察から連絡を受けて駆けつけた患者の妻は、本田――薫の手を取って号泣した。『先生のおかげです』と。 その言葉に、『いえ、私ではなくて、現場に駆けつけた救急隊や、その後の処置に当たった全員と、何よりご主人自身の頑張りの結果ですよ』と微笑んだ。 身体はこれ以上なく疲れているけれど、気分は上がっている。 人の役に立てたと実感した時、自分が存在していることに自信が持てた。 勿論、こんな日ばかりではない。 搬送されてくる傷病者の中には、すでに手の施しようのない状態の者もいる。 いや、ここではむしろその方が多いかもしれない。 けれど、全力を尽くす。 わずかな可能性を信じて。 自分は一生家族を持つこともないから、この道に全身全霊を傾けて、一人でも多くの人を救うことだけを考えて生きていこうと、改めて思う。 「本田、これから見習いたちと本日の反省会なんだが、顔出してくれるか?」 「はい、伺います」 手術が無事終わったからと言ってそこで終わりではない。 あらゆる科の知識を幅広くカバーしなくてはならない救急専門医になるには、ただ経験を積むだけでなく、遭遇した現場を検証し、再考していく作業も大切な勉強だから、日々研鑽を積んでいる救急科研修医たちの反省会で意見を述べたり、相談にのったりするのも、救急救命チームの外科医としての大事な仕事だ。 ただ、自分もいずれ救急専門医の資格を取って、ドクターヘリに乗るフライトドクターになりたいと思っているのも事実で、それらはすべて、『もっと積極的に救急救命の現場に関わっていきたい』との想いからだ。 そうして、『本日の反省会』に顔を出し、漸く勤務を終えて着替えに入ったロッカールームで、メールの着信に気がついた。 |
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初めて会った時から2ヶ月。 思い切れないまま、薫は結局『少々頼りない、年下の可愛い子』を演じ続けて彰と会っている。 大らかで朗らかな彰は、それでも薫が引く線を強引に越えることもなく、優しく接してくれている。 大切にしてもらっているのはよくわかった。 けれど、それは、薫が『少々頼りない、年下の可愛い子』だからだ。 だが、その暖かい心の気遣いに触れるたび、罪悪感を凌駕する喜びを感じてしまい、もうすでに、危惧したとおりにすっかり深みに嵌まってしまっている。 そう、このまま彰の理想を演じ続けることができれば、彼を無くさなくて済むかもしれない…などという、出来もしないことを妄想してしまうほどに。 彰といると、長年身に纏って垢のようにこびりついてしまった鎧がポロポロと剥がれ落ちていくような気がする。 それは、心地良さと同時に、剥き出しの自分を晒す痛みも同時に教えてくれたが。 職場では感じなかった種類の疲れを体中に自覚しつつ、ベッドに転がって薫はもう一度メールを開ける。 『緊急! ごめんっ。欠航になって、明日帰れなくなった』 泣き顔のアニメーションはコミカルだけれど、焦っているのは伝わってくる。 『帰り次第連絡するから、絶対待ってて!』 結局薫は彰の職業をまだ知らないままだ。 本当は知りたくて仕方がない。 知らなければ、会えない間、今彼がどこでどうしているのか、想像すらできない。 けれどどうしても聞くことが出来ないでいるのは、彰に聞いて、自分が話さないと言うことは許されないとわかっているから。 不規則勤務と言っていた通り、彰は3~4日おきに2日ほどの休みを取っているようだ。 一旦仕事に入ると拘束時間は長い様子で、『長時間の肉体労働だから、筋肉つけとかないと腰痛になるんだ』と言って笑ったことがある。 食事に行ったりするたびに感じたのは、アルコール類――特にワイン――の知識が豊富だなと言うこと。 それも、生半可なものではなく、相当勉強しているのがうかがい知れた。 もしかしたら飲食関係かも知れないとも思ったが、それにしては気象や海外情勢にも詳しいし、一度、かかってきた電話に応対していた彼の会話の中に『エマージェンシー』という単語が聞こえたような気がして、よくわからなくなってしまったのだ。 けれどその時、偶然彰のファミリーネームを知った。 コールに『はい、高野です』と、応えたから。 ただ、彰が本名かどうかはわからないが。 ――欠航って、飛行機だよね。 出張にでも行ってたのかなと思いつつ、返信画面を起動する。 が、よく考えてみれば、今日は日本全国高気圧に覆われて概ね好天だったはずだ。 自分が天気予報を確認したわけでもなく、ただ、仲のいい看護師が今日から休暇で沖縄に行くと楽しそうに話してくれた中に天気の話があったから記憶しているだけだが。 ――あ、でも天候不良とは限らないか…。 薫も以前、地方での学会に出席したとき、帰りの便が機材不具合で欠航になったことがあった。 いずれにしても、不可抗力に焦りは禁物だ。 『大丈夫だよ、気にしないで。落ち着いたら連絡下さい。待ってるから』 慌てて欲しくないから、普段は使わない絵文字でにっこり笑って見せて、薫は『送信』を押した。 ☆★☆ 結局次に会えたのは、半月後だった。 休みがすれ違ってしまったからだが、その間も彰は、短いながらもメールを頻繁に寄越していた。 それは、『本日の業務終了! お休み~zzz』だったり、『これから仕事、頑張るぞ~!』だったり、本当にほんの一言だったが薫を和ませた。 薫はと言えば、『お疲れ様』とか、『気をつけて』とか、当たり障りのない言葉しか送ることができず、しかも大概は着信して随分経ってからの返信になってしまい、申し訳ないなあと思うばかりで。 「あ~やっと会えた~!」 駅前だというのに、会うなり抱きしめられて薫が慌てる。 今までにこんなことはなかった。 そっと肩を抱かれたり、ちょっと手や腕を取られたりすることはあったが、密着したことは一度もない。 ジタバタと逃れようとする薫を渋々離して、彰は情け無い顔をしてみせる。 「かおる不足でガス欠だったよ、もう~」 「え~、オーバーなんだから」 ガス欠は薫も同じ思いだったが、無理をして呆れた顔を作りつつ、それでも漸く会えた嬉しさは滲み出てしまい、その様子に彰はホッとする。 薫の気持ちがちゃんと自分の方を向いていると感じられて。 「ね、かおる」 「なに?」 聞き返すと、彰は珍しく少し改まった様子で、軽く咳払いをして言った。 「なんかさ、今のままの状況だと、ちょっとすれ違ったはずみで会えなくなっちゃったりしそうで、怖いんだ」 「彰…」 「だから今日はちょっとだけ、ちゃんと話がしたいなと思ってて…」 その言葉に薫の肩がこわばった。 だが彰はそれも折り込み済みだったのか、『心配するようなことは何にもないから』と肩を優しく撫でて、それから軽くポンッと叩いた。 「俺の事を聞いて欲しいなって思ってるだけで、かおるのことは、気が向いたら少しずつ話してくれたら良いから」 そうは言われても不安は拭えず、見上げた瞳は随分頼りなく揺れて、彰は少し、困ったように微笑んだ。 薫は怖くてしかたなかったが、彰の事が知りたいという欲求に負けてしまった。 ☆★☆ 連れて行かれたのは彰の部屋だった。 薫と同じ路線の、3つ離れた駅から歩いて7分ほどにある、かなり総戸数の多そうなマンションは、彰によると2DKが中心で単身の社会人が主な入居者だが、チラホラ新婚さんの姿を見ることもあるそうだ。 「かおるもひとり暮らしだろ?」 どうぞ…と、上がるよう勧めながら尋ねられて、薫は『うん』と頷いてから『お邪魔します』と小さく言って彰の後に続いた。 勤め先が用意してくれている薫の部屋は、職場から徒歩5分と言う、都心にあるまじき好条件だが、それもこれも、真夜中でも走って駆けつけられるようにするためだ。 「散らかってるけど」 「え、そんなことないよ。ちゃんと片付いてる」 「かおるの部屋は? 散らかってる?」 「ううん。僕の部屋はあんまり物がないから大丈夫だけど、実家のお姉ちゃんの部屋は女子にあるまじき状態だった…」 そんな姉が結婚と同時に購入した新居は、2年経った今でもモデルルームのようで、じゃあ実家のアレは何だったんだと薫は不思議で仕方がない。 薫の話に彰は声を上げて笑う。 「そうそう、俺の同僚女子も、部屋に彼氏上げられないって言ってる子多いよ。まあ、みんな月の半分は不在だけどな」 不在がちな仕事とは…と、考えつつ、控え目に辺りを見回す。 小ぶりだけれど使い勝手の良さそうなキッチンは、お洒落なカウンター仕様で、ダイニングとベランダ側の部屋は仕切りを収納してしまえば一繋がりでLDKにできるようになっていて、かなりの空間を確保している。 どうやら寝室は別のようで、ひとり暮らしには十分すぎる広さだ。 しかも、あまり余計なものがない。 本や雑誌の類いは多いが、平積みでもきちんと整えて置いてあるし、衣類が散らかっていることもない。 唯一、黒いスーツケースが、存在感を示しているくらいで。 「座って」 「あ、うん」 2人掛けのソファーの、出来るだけ端っこに腰掛ければ、『そんなに遠慮しないで』と笑われた。 そう言われてほんの少しだけ真ん中よりに身体をずらすと、彰が何かを持って隣に腰掛ける。 密着した状態に、また緊張してしまうが、それよりも彰が手にしているものに気が取られた。 「これが、俺だよ」 そう言って差し出されたのはネックストラップが付いたIDカード。 名前は『高野彰』。 『彰』は本名だったんだと嬉しくなる。 そして、左上にある、日本人なら誰でも知っているであろうロゴマークは、業界最大手の航空会社のもの。 「ジャスカ…の、客室乗務員…?」 「そう。うちではキャビンクルーって呼ぶんだけど、一般的にはCAって言うな。俺、国際線に乗ってるんだ」 「あ、だから、欠航…」 合点がいった。色々と。 「そうなんだ。あの時サンフランシスコにいたんだけど、緊急着陸があって滑走路が閉鎖になっちゃってさ」 散々待機した挙げ句、結局飛べなくて、エラい目にあったよ…と、心底弱った顔をしてみせる彰をジッと見つめて、薫は不思議なものだなと感じていた。 まさか、送られてくるメールが海外からのものだとは思いもしなかった。 メールというのは、良きにつけ悪しきにつけ、距離感を鈍らせてしまうものなのかもしれない。 「あ、これだけじゃなんだし、これも」 IDカードはその気になれば偽造も出来ちゃうからね…なんて不穏当な事を言いながら見せてくれたのは、ラッピング機材の前で仲間たちと撮った写真。 長身でしっかりした体躯に、見覚えのあるグレー系の制服姿が決まりすぎていて、眩しいくらい格好いい。 「もっとオフィシャルだと、これとか」 といって出て来たのは一冊の本。 所謂ムック本のサイズで、どうやらレシピ本のようだ。 「これ、ジャスカのクルーのレシピ本なんだけど、俺、『キャビンクルー直伝、機内食を10倍楽しむ方法』ってとこで、座談会に参加してんだ。 『ほら、ここ』…と開いたページには、思い思いの立ち姿を決めた制服姿のイケメンがずらりと並んでいて目の毒だが、やっぱり薫には彰が一番眩しい。 「…すごいね」 心底感心すれば、彰は『いやいや』…と、笑いながら手を振る。 「大学出て、まだ乗務3年目のペーペーだよ。30までにチーフパーサーになるのが目標。まあ、その上も上級チーフパーサーとか教官チーフパーサーとか、高い壁はたくさんだけど」 薫にとっては全く未知の業界だが、客室乗務員という仕事もまた、終わりのないキャリアアップの職場なのだなと察せられた。 「あ、じゃあ、英語とか…」 「英語だったら政治や経済の話もわかるし、喧嘩も出来るよ。ドイツ語はまだ日常会話程度だけど」 「すごい…」 その瞳にありありと感嘆の色が浮かんでいて、彰は少し面映ゆい。 「かおるは?」 「僕は、読み書きは出来なきゃ困るし、ヒアリングもそこそこ大丈夫だけど、発音が全然だめだから、会話は苦手」 文法的に正しくは話せるが、流暢からはほど遠いと自覚しているから、どうしても会話は億劫になるが、取りあえず今は会話が必要な状況ではないので放置だ。 「あ、読み書きは必須なんだ?」 「うん。だって、論文ってほとんど英語だし」 「論文?」 「あ、と、な、何でもない」 慌てて首を振る薫に、彰は少し見えた『かおるの姿』に嬉しくなる。 なんとなく…だけれど、かなり専門性の高い仕事に就いているのではないだろうかとは思っていたのだ。 そして薫は、少しばかり観念したように小さく息をついて、消え入りそうな声で告げた。 「えと、あの、大学関係…で」 まるっきり嘘だ。 確かに前期研修医の頃は大学病院にいたが、今は第三次救急指定の総合病院勤務だから。 「そうなんだ。かおる、賢そうだなと思ってたんた」 嬉しそうだったが、彰はそれ以上突っ込んではこなかった。 それは、薫の顔色が悪かったからで、その事に薫自身はもちろん気づいていない。 落ち着きをなくしている様子の薫の背中をそっと撫で、拒まれないのを確認すると、彰は優しく薫の身体を長い腕の中に抱き込んだ。 「…わ…」 途端に身体は堅くなるが、やはり拒絶の様子はない。 その様子に勇気づけられて、彰は腕に少しだけ力を込める。 「大丈夫。しばらくこうしてたいだけだから」 殊更優しい声でそう言って、彰は大きく温かい手のひらで薫の背中を柔らかく撫で続ける。 労るようにも、あやすようにも感じられるその仕草に、薫の身体から次第に力が抜けてきた。 「かおる…」 呟くように、耳元で名を呼んで、その唇はそのまま薫の柔らかい耳朶をそっと噛んだ。 「…っ」 途端に竦んでまた堅くなる身体を今度はしっかりと抱きしめて、熱い息は薫の頬を滑って唇に触れる。 初めて触れた薫の唇は、柔らかいが少し冷えていた。 緊張の所為かもしれないと、彰は自身の熱を移すかのように、唇を重ね覆い尽くす。 欲望のままに貪りたかったが、抱きしめた身体が小さく震えていることに気づいて、優しい触れ合いと、ほんのちょっとだけ舌先で唇を割るのに留めた。 けれど、たったそれだけの接触でも、堅くなっている身体の緊張はさらに酷くなる一方で、抱えたままソファーにそっと押し倒してみれば、薫は今度ははっきりわかるほどに震えだした。 そんな様子に、彰は『まさかな…』という思いに駆られた。 もしかして、『初めて』なのだろうかと。 『lapisRazuri』で薫を好みのタイプとしてターゲットにしている紳士は多い。 連れ立って出て行く姿を見たことはないが、あれほどモテていたのだから、まさか経験が何もないとは思っていなかった。 いや、思っていなかったと言うよりは、『そこは仕方ないだろう』と自分に言い聞かせていたのだが。 「ね、かおる」 そっと声を掛ければ、怯えの色が見え隠れする瞳が揺れた。 「…もしかして、初めて?」 言葉は返って来なかったが、その瞬間にびくりと竦んだ身体が答えなのだろう。 薫はと言えば、ついてきたはいいが、予想だにしなかった展開に、手も足もでなくて思考も止まりつつあった。 キスすら初めてなのに、この先なんて、考えられない。 でも、このまま流されるわけにはいかないと、なけなしの力で腕を突っ張ってみたが、圧倒的な体格の差は当然力の差でもあって、弱々しい抵抗はかえって彰を喜ばせるだけだった。 もうすでに、とっくに『好き』より『愛』に育ちつつある薫への想いを、どうにか形にして、しっかりと薫を繋ぎとめたいと思い詰めていた彰は、今日、ここで止めて帰してしまっては一生後悔すると、意を決した。 薫に経験があるのなら、今日強引に進めてしまわなくても良いと思ったが、初めてならば、怯えさせただけで終わらせてはいけないと。 「かおる…なにも心配しなくてもいいよ。俺に任せていれば大丈夫だから」 安心させるように、柔らかく優しく言って、薫のシャツのボタンに指を掛ければ、細い指が弱々しくそれを止めようとしてくる。 そんな様子も可愛いくて仕方ないが、ふと思いついて大事なことを口にした。 「あ、俺、HIVはマイナスだから安心して」 「え?」 「それに、かおるに出会ってから誰とも付き合ってないし」 にこっと笑って言われたが、医療従事者という立場上、まず確認しないといけないことをすっかり失念してしまうほどに、薫は冷静さを無くしている。 「あ…彰…」 「ん?」 あまりに幸せそうに微笑まれて、薫は続く言葉をなくしてしまった。 そして、一生誰ともこんな触れ合いをすることはないと思いこんできた『今まで』がひっくり返りそうな状況に、すでに本気で抵抗する気は無くしている。 好きな人と『愛し合う』という経験をしてみたいと思ってしまっている。 これが最初で最後かもしれなくても。 抵抗――というほどのものでもないが――をやめた薫をまたしっかりと抱きしめて、彰はゆっくりと薫の服を剥いでいった。 ☆★☆ 「…ふ…ぁ…」 必死で堪えようとする声を、最初は『我慢しないで』と言ったのだが、薫の羞恥は激しくて、声を堪えることをやめようとしない。 けれどそれもまた、彰は楽しみ始めていた。 そのうち、可愛い声を思う存分に上げさせてやろうと目論んでいる。 胸先を散々弄んで、同時に緩く中心を煽り立てると薫の指先が肩に食い込む。 それすら嬉しくて、包み込む手のひらをついキュッと握り込んでしまったら、薫は小さく声にもならない悲鳴を上げて上り詰めてしまった。 荒く息をついて半ば呆然としている状態を見て、彰はそっと、後ろに指を伸ばす。 途端に強張った身体を反対の手で宥めつつその瞳を覗き込むと、今までとは比べものにならないほどの怯えが浮かんでいた。 「大好きだよ、かおる。ね、ひとつになろ?」 額を付けて、唇に軽いキスを送ると、薫は観念したように、微かに頷いた。 それからは、今までこんなに時間を掛けたことはないと言うほどにゆっくりと薫の身体をほぐし、慎重に身体を繋ぐと、細い身体がのけぞった。 「かおる……かおる…」 熱に浮かされたように繰り返し名を呼んで、次第に堪えきれない動きが激しくなる。 まったく初めての薫はもちろん、それなりに経験をこなしてきた彰でさえ、もう何が何だかわからないほどの快感の波にさらわれて、2人は相次いで果てた。 「この綺麗な身体が俺だけしか知らないなんて、奇跡みたいだ…」 何もかも理想通りだと、彰は信じられないほどの幸福に酔って、薫を抱きしめるが、やはり薫はなにも語ってくれない。 けれど、今は良いかと思った。 自分たちはまだ『これから』なのだからと。 「かおる…ずっと俺だけのものでいて…」 「うん…」 甘く囁かれて、それだけは確かに約束出来ると薫は思った。 こんなに好きになれる人はもういない。 これが最初で最後の恋になると確信しているから。 いつか――それは恐らく遠い日のことではない――彰の心が離れたら、そこから後は、彼の思い出だけを抱いて生きていくのだと決めている。 今までよりももっと、分厚い鎧を纏い、1人でも多くの命を救うことだけを考えて。 |
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初めて抱いてから、ふた月ほど経った。 何も知らなかった無垢な身体に肌を合わせる喜びを刻みつけるのは、とてもとても幸せなことで、彰は薫の身体にも溺れていった。 だが、あまりがっついて引かれては困るし、そうは思いつつも、会えば触れたくなるし、最後までやらないにしても、いちゃいちゃはしたいし、キスは必ずしたい。 けれど、何気ない話をしている穏やかな時間も愛おしくて、彰の頭の中は薫一色だ。 だが、身体は委ねてくれるのに、相変わらず心は開いてくれていない。 特に自分のことを話して以来、薫の心のガードは一層堅くなったように感じられて彰の焦りは酷くなっていった。 「はあ…」 ここ、ロサンゼルスの気候は彰の性に合っていて、いつもならステイ中にしっかりリフレッシュできるというのに、思わずついたため息は、乾いた空気の中をどんよりと転げ落ちて行く。 「これはまた随分悩ましいため息だな」 「教官…」 ステイしているホテルのオープンテラスで、すっかり氷の溶けきったアイスコーヒーを持て余していた彰の向かい側に腰を下ろしたのは、彼らクルーの頂点、クラウンチーフパーサーの都築信隆。 彰が乗ってきたシップに審査で乗務していた信隆は、少し前から彰の異変に気がついていた。 「ここのところ、遠い目をしてることが多いみたいだけれど?」 「…やっぱり教官の目は誤魔化せませんね」 「ふふっ、誤魔化せるものならやってみろってところかな」 美しく微笑まれて、彰はホールドアップしてみせる。 「…白状します。恋患いです」 「やっぱりね」 「あ~、やっぱりそれもばれてるんだ~」 この人を相手に隠し事をする気はなかったが――しても無駄だから――話す前からバレているようではどうしようもない。 「で、絶賛片思いって?」 「や、そうではなくて…」 どう表現したものかと逡巡した瞬間に、信隆は『ああ!』と、声を上げた。 「わかった。身体は手に入るのに心は手に入らないってやつだな」 「きょっ、教官っ?!」 この人には透視能力まであるのかと、驚き過ぎて声が裏返った。 「あ、もしかして図星?」 嬉しそうに言われてしまえばもう、脱力するしかない。 「…って、もしかしてカマ掛けられたんですか、俺は…」 「素直な彰は素敵だよ」 またしても美しく微笑まれて、彰は今度こそ本当に白旗を揚げた。 「心どころか、個人情報すら手に入りません。フルネームも未だに謎なんです」 そもそも『かおる』も本名とは限らない。身分証になるものを見たわけではないから。 いや、おそらく違うだろうと彰は思っている。 あの出会いで本名を教えてもらったと思えるほど、おめでたくはないつもりだ。 「え、それはまたずいぶんとディープな関係だね」 身体の関係があって、なのにフルネームも知らないというのは…と、驚いて見せつつも、信隆は彰の身を案じる。 悪いことに巻き込まれていなければよいのだが…と。 だがそれは杞憂だった。 「そもそも出会いがあんまり真っ当じゃないんですよ。匿名のクラブ…ええと、危ないところじゃないんです。某大使館街にある会員制クラブで…」 国外だから辺りを憚ることはないのだが、それでももちろん、店名を言う気はさらさらない…はずだったのだが。 「ああ、もしかして『lapisRazuri』?」 スルッと出てきたのその名に、彰は呻いた。 「あ~…教官ならご存知でも不思議ないってこと、失念しまくってました…」 「まあね。あそこには私も20代の頃ずいぶんお世話になったから」 事も無げに言うが、華やかな『遍歴』を持つと噂されているこの人のことだから、さぞかし…と彰は思う。 「って、もしかしてそこで恋人とか…」 「まあ、それなりに楽しい出会いもいくつかあったけれど、でも私があそこへ通ってた目的は、あくまでもガス抜きだよ。何しろ当時は女子率100%の職場だったからね。たまには女子のいないところで思いっきり羽を伸ばしたいってことさ」 「それ、わかります~」 今でも『ほぼ女子』と言っても過言ではない職場は、女性が恋愛対象ではない彰にとって、天国でもあり地獄でもある。 「だろ? で、『あそこ』に通ってたってことは…」 あそこは『そういう紳士たち』が集う場所なのだ。 「そうです。俺は岡田APと同じですよ」 あっさりと周囲にカムアウトしている先輩の名を挙げる。 「…うーん」 珍しく腕組みをして何事かを考えた信隆に、彰は首をかしげる。 そもそも『どっちもOK』と公言してはばからないこの上司だから、彰のカムアウトに困ったわけでもなかろうにと。 「いや、悠理はカムアウトより前にそうだろうなとは思ってたんだけどな、彰はちょっとわかんなかったなあ。うまいこと隠してたわけだ。すごいな」 こんなことで『すごい』と言われてもあんまり嬉しくはないのだが、彰にしても、わざわざ隠していたという訳でもなかったので、言い訳は曖昧になる。 「はあ、まあ、隠してるつもりでもなかったですし、その必要もない職場かなあとは思ったんですけど、岡田APも三浦CPもあっさりカムアウトしちゃってるんで、なんか言いそびれてるうちにまあいいやっ感じになっちゃってですねえ」 気のない言い訳を、可笑しそうに聞いていた信隆だが、『でも…』と何事かを考えた。 「あそこで出会ったなら、そんなに怪しい相手じゃないだろう?」 あのクラブのステイタスの高さは身を持って知っている。 資産や家柄よりも、本人の格や質が重要視されていると言うことを。 「ええ、俺もそう思って高をくくってたんです。ところが、ガードは日に日に固くなってるんですよ」 「ってことは、何か知られたくないことがあるんだろうな」 もしかして…と思いつつも打ち消してきたことを指摘され、彰が言葉に詰まる。 「心当たりない? うっかり何か言ってしまったとか」 「…それが、ないんですよ。ただ…」 「ただ?」 「家族の話なんかはしてくれるんですけど、職業もおおざっぱな括りしかわかんないし、年齢も曖昧な感じで、それとなく話を振って聞こうとしたら、すごくしんどそうにはぐらかすんで、可哀想になってそれ以上聞けなくなるって感じで」 そう、辛そうなかおるを見るのは苦しいのだ。 可愛いかおるには、いつも笑っていて欲しいから。 「これはまた、随分愛しちゃってるわけだ」 「そうですよ。やっと一生を共にしたいって相手を見つけたのに…」 頭を抱えてしまった彰を見つめ、信隆は少し考えを巡らせた。 「仕事は何してるって?」 「大学関係って言うんですけど、実際は客室乗務員並に不規則勤務だから、なんか矛盾してないかって気がしてます。年も…最初は絶対年下だと思ってたんですけど、なんかみかけによらず凄くしっかり自立してるんで、もしかしたら考えているより上かも知れないなって思ってるところです。そういえば、一度ケータイで呼び出されてすっ飛んで行きました。真っ最中だったんですけど」 あの時の顛末は、男としてあまりにも情けないものがある。 「…それはまた、お気の毒さまとしか」 案の定、信隆は笑いをかみ殺している。 「絶対ケータイの電源落とさないし…」 「と言うことは、相当重要な立場にいるか、緊急を要する職務の可能性は高いな」 「やっぱりそう思います? でも、普段はフワフワぽやんとしてて、頼りない感じなんです と言って、彰はスマホを取り出した。 「写真は撮らせてくれるんだ?」 「いえ、完全NGです。本人曰く、写りが悪いからイヤだっていうんですけど、一度こっそり隠し撮りしたのがこれです」 と言って、取り出したスマホに、可愛い坊やが空を見つめている横顔の画像が現れた。 無防備でくつろいだ笑顔は相当な美少年だ。 「これはまた、雪哉レベルの可愛い子ちゃんだな」 社のマスコットにしてアイドルでもあるパイロットの名を上げれば、彰もあっさりと同意する。 「でしょ? 俺もいい勝負だなと思ってます」 「ってことは、彰の好みは小ぶりな可愛い子ちゃんか」 「見かけだけならそうですね。可愛くてちょっと頼りなさげなタイプが好きで、まあ、それで声掛けたってのは確かですけど」 そう。確かにそういうタイプが好みではあったが、かおるを愛してしまった以上、理想はもう『かおるそのもの』だ。 「…って、そのあたりを見誤ってるんじゃないか?」 「え…?」 「まあ、例えばの話だけれど、普段の彼と彰の前での彼に多少なりともギャップがあったとすれば、どちらかに無理が生じるのもやむなし…と言うこともある。あくまでも仮定だけどね」 その言葉に彰は、もしかしたらと思い当たっていた。 『僕は君の理想とは違うよ』 初めて約束して会った朝、確かそんな風に言っていた。 「…でも、俺はかおるのどんな姿も受け入れられると思うんです」 「へー、かおるくんって言うんだ?」 「あわわ…」 慌てて口を塞いでみても、まさに後の祭り。 そんな姿を信隆は楽しそうに見つめるが、彰は干からびたように萎れて言った。 「でも…それも本名かどうかわかんないんです…」 その言葉に、信隆の表情が曇ったが、ほんの少し間を置いて、柔らかく声を掛けた。 「まあ、私の乏しい経験から言わせてもらうとすれば…」 「教官の経験で乏しいなら、世界中の男がチェリーボーイですよ」 半ばヤケクソで混ぜ返す彰に、信隆はあははと笑って見せてから、ふと真顔になった。 「ひとつだけ、アドバイスしておくよ」 見つめられて、彰は思わず背筋を伸ばす。 「本当に大切なら、言葉で問い詰めないこと。言葉は大切なツールだけれど、それだけに頼ってはいけないよ」 「教官……」 『心を尽くせ』 きっと、そう言うことなのだと彰は胸を押さえた。 次に会うとき、心を尽くしてみよう。 薫が心を開くまで。 |
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「薫くーん、今のうちに食事しておいで」 「え、でも先生まだ休憩時間じゃないですか」 大先輩の女医、野上の勧めに、薫はとんでもないと、慌てて手を振る。 「がっつり休憩取っちゃったら、戻るのがイヤんなっちゃうお年頃なのよ」 だが野上は豪快に笑って薫の肩を叩いた。 『救急救命を目指すならうちへおいで』 そう言って、薫をここへ呼んでくれたのは、実は彼女だ。 薫には、子供の頃から兄弟のようにして育ってきた仲のよい従兄がいて、6歳上の彼が医師になったのを機に、同じ道を目指すことになった。 その従兄が尊敬してやまない先輩が野上で、その縁があってのことだった。 薫は医学部在籍中から救急救命を志し、外傷外科医になったのだが、さらに積極的に救急救命を目指した結果、行き着いた先がここで、最終目標は救急専門医になること。 出来ることなら『フライトドクター』になって最前線で救命活動がしたい。 ここは都内なので陸路は救急車で対応出来るが、山間部や島しょ部など、陸路搬送が出来ない範囲を幅広くカバーしている。 ここの救急救命チームに加わってから、薫を鍛えてくれた救急専門医の酒井はドクターヘリチームのリーダーでもあるが、そのチームを彼と立ち上げたのもまた、彼女なのだ。 「薫くんは、少し食事に時間とった方がいいよ。最近、あんまり食べられてないでしょ?」 野上はすでにベテランで、あと2年もすれば外科部長になるだろうと、看護師たちのもっぱらの噂にもなっている大物だが、後輩たちに対する目配りは細やかで、その点でも見習って行きたいなと薫は思っている。 今のところは、気遣われている一方だが。 「そうでもないですよ。単に食いっぱぐれてるだけですよ」 救急救命センターにいると、食事は5分以内…がデフォルトだ。 もちろん決まりがあるわけでは無いが、ともかくゆっくり食事をしている暇などない。 最初の一口を放り込んだ瞬間に呼び出されることなど、日常茶飯事だ。 だが、確かにそれだけでなく、薫の食は進んでいない。 ここのところ、ほんの少しでも気持ちに隙間が空けば、考えるのは彰のことばかり。 だが、出会いの時から隠し事ばかりで、しかもしっかり嘘までついてしまい、本当の自分ではない自分を好きになってもらえた現状では素直にこの恋を喜ぶ気には到底なれず、彰を想えば最終的には別れのことばかりに行き着く。 その日がいつ、どんな形で訪れるのか。 暗い予感ばかりで幸せな未来などどこにも無い現実に、押し潰されかかっていると言っても過言でないくらいだ。 そんな、どう見ても無理のある薫の様子に、野上はほんの少し眉を寄せてから、また薫の肩を叩いた。 「えっとさ、明日にでも話があると思うんだけど、先にちょっと耳に入れといてくれって部長先生に頼まれてて」 「え、なんですか?」 「例のほら、ロスの病院のERで研修できるプロジェクト」 「ああ、あれですね」 最先端を行く病院同士、手を組んで更に高みを目指す試みはこの世界では珍しくない。 「薫くんが推薦されたみたいよ?」 「えっ、僕がですか!?」 「そ。将来を嘱望されてる腕のいい若き外科医ってことで、母校の教授推薦も取れたって…って、薫くん?」 顔色悪いよとのぞき込まれて、薫は慌てて『大丈夫です』と、繕ってみせる。 が、それこそベテラン医師相手に通じるものではない。 「やっぱ調子悪いんじゃないの? 医者の不養生なんて言葉もあるけどさ、シャレにならんよ? あっちは急患の数もこっちの比じゃないし、体力なきゃ務まんないんだから」 「…ですよね」 気をつけます…とは言ったものの、今はアメリカ行きまで考えられる状態ではなくて、薫は深く暗いため息を落とした。 |
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野上の言ったとおり、翌日には外科部長から直々に話があり、薫はアメリカ行きを打診された。 彰に出会う前ならば、間違いなく願ってもない機会だと喜んだことだろう。 だが、薫はアメリカ行きの話に揺れていた。 この先長く続くはずの無い彰との関係と、アメリカで勉強することは、天秤に掛けるまでも無い選択のはずなのに、まだ終わっていない関係に自らピリオドを打つ勇気も持てないままに、自分の心を持て余す日々で。 今日もせっかく彰と会っているのに、心はさざ波が立ったままで、しかもなぜか彰も落ち着きの無い様子で薫の様子をちらちらと伺っている。 彰はと言えば、どのタイミングで話を切り出そうかと迷っていた。 いや、そもそもどう切り出すのかさえ、まだ決めかねている状態だった。 朝食デートをして以来、2人のお気に入りになった海岸沿いの遊歩道を、お互いに言葉を探しながら歩く。 「あの、さ、薫」 言葉がぎこちなくなった分、思いを込めてキュッと手を握り締めると、薫は弱々しく握り返してくる。 その、あまりの頼りなさに、彰が薫を見下ろした時。 すぐ近くで、悲鳴とともに大きな破壊音が響き渡った。 驚いて振り返れば、猛スピードで逃げていく車と、倒れている女性の姿があった。 「彰、救急車呼んで」 「了解っ」 平日の海浜公園は人影もさほど多くはないが、それでもたくさんの野次馬が集まり始めている。 駆けつければ、女性は頭から血を流していた。 触ろうとしていた男性を制し、薫は耳元に話しかける。 「聞こえますか? お名前言えますか?」 明確な応えはない。 「頭を打っています。触ってはいけません」 きっぱり言うと、あたりは気圧されたように頷く。 隣では、彰が携帯で状況を説明している声がしている。 腕と首から心拍を確認し、薫は彰に声をかけた。 「彰、脈拍52、意識レベル200って伝えて」 「え? あ、Roger!」 彰は一瞬何を言われたのかわからなかった。 救急員資格を持っているから意味はもちろんわかるのだが、意識レベルという言葉が薫から自然に出たことは、相当な違和感だった。 彰が薫の言葉を伝えている間も、薫は女性から目を離さない。 見れば出血は擦過傷からのようで、頭部だけに量は多く見えるが危険な量ではないと判断できた。 問題は見えない場所だ。 薫が注意深く頭部を確認していると、サイレンの音が近づいてきた。 駆けつけた救急隊に、薫は『右側頭部に骨折の可能性があります』と告げた。 「医療関係の方ですか?」 そう尋ねられ、彰が真横にいたが、薫は躊躇わなかった。 「はい。外傷外科医です」 「では、先生の病院への搬送は…」 「可能です」 「同乗願えますか?」 「もちろんです。状況説明しますので、ライン繋いで下さい」 「了解です」 そのやりとりを、目を見開いて聞いていた彰は、駆け付けた警察官から声を掛けられた。 「119番して下さったのは」 「私です」 「ご協力ありがとうございます」 「あ、いえ、とんでもありません」 「お話聞かせていただきたいのですが」 「はい」 その間、少し離れた所では搬送の準備が着々と進められていて、救急車に乗り込む直前の薫と目があった。 苦しげな堅い表情で、ほんの少し、頭を下げて、薫の姿は救急車に消えた。 「すみません。また後日お話を伺うことがあるかもしれませんので、ご連絡先などいただきたいのですが」 「あ、はい」 警察官に連絡先を告げている間に、サイレンを鳴らして救急車は去って行った。 「医者だったのか…かおる…」 あまりにも意外だった薫の姿に呆然としてしまうが、実のところ、その凛々しい様子に彰はすっかり惚れ直していた。 「かっこよすぎだろ…」 勝手に転がりでた呟きは、受け止める者無く、血溜まりの残るアスファルトに落ちた。 ☆★☆ だが、その日から薫と連絡が取れなくなった。 一度警察からコンタクトがあったときに、女性の容態を尋ねてみれば、『同乗して下さった先生が病院到着までずっと処置と病院への指示をして下さったおかげで一命を取り留めたと聞きました』と教えられ、ホッと胸をなで下ろしたのだが、搬送先は自分は知らないのだと言われてしまった。 『教えられない』のかも知れないが。 その後、『会いたい』とメールで呼びかければ、『嘘をついてごめんなさい』と返ってきた。 が、それからは何度呼びかけても返事はなく、そこで完全に途切れてしまった。 『愛してる』 そう送ったメールは、宙に浮いたまま、薫の目に留まったのかどうかもわからなかった。 薫が医者だとして改めて今までを検証してみれば、今までのすべての言動に合点がいく。 不規則勤務も、緊急の呼び出しも…。 それに、看護師の妹がいるという同僚クルーにそれとなく聞いてみたところ、外傷外科医になるには一定以上の一般外科経験を経てから研修に入って、それから漸く資格を得られるものらしい。 そうなれば、年齢もきっと、随分上のはずだ。 だがどうしてそれを隠していたのか。 『僕はきっと、君の理想とは違うから』 初めて約束して会った日に薫が固い声で口にした言葉がふと蘇った。 ――もしかして、俺の所為か…。 おぼろげに、薫が守ろうとしてきたものが見えてきた。 薫はきっと本当に自分のことを想っていてくれたに違いない。 だからこそ、真実を口にすることができなかったのではないかと。 自分はいったい薫の何を見てきたんだと、自身の迂闊さに呆れるばかりだ。 だが、諦めるつもりは毛頭なかった。 彰は都内の救急がある病院を片っ端から探したが、数も多い上に、どの病院もロビーに勤務医の名を揚げてはいるものの、薫のファミリーネームを知らない彰はお手上げになった。 そもそも、ファーストネームも本名かどうかわからないから探しようがない。 『外科医でした』 そう信隆に報告すれば、『それはまた随分とウルトラCなオチだな』と返ってきた。 顛末を話し、それ以降まったく連絡がつかなくなったと泣きつけば、『手がかりが少なくて厳しいとは思うけれど』と前置きしつつも、信隆は姉が医師だからそのツテを当たってみると言ってくれた。 だが、それも甲斐無く、焦りの中で時間だけがむなしく過ぎていき、彰は日ごとに元気を無くしていった。 そんなある日、彰の職場で大変なことが起こった。 ホノルル行き166便に乗務するためにショウアップした彰だったが、オペレーションセンターは騒然としていた。 「何かあったんですか?」 手近な先輩クルーを捕まえて尋ねてみれば、彼女は涙を堪えつつ言った。 「165便が乱気流に巻き込まれて…」 「えっ?!」 この様子ではけが人が出ているに違いないと思ったそのとき。 「中原CPが、意識が無いって…」 いつも気に掛けてくれる、尊敬してやまない大好きな先輩の名に、彰は絶句した。 |
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