Happy Wedding?

【前編】

ゆっきーと、怪しいキャプテンたち。
8年愛と新婚さんと、そして…。




 敬一郎と両想いになって、少しばかり後のこと。

 僅か15分違いで羽田に帰着した雪哉と信隆は、オペレーションセンターでばったり会うなり『ごはんに行こう!』と、繰り出した。

 信隆と一緒にいた野崎典子――ノンノンも誘って。 

 信隆が敬一郎の『相談役』だったことはすでに雪哉は聞かされていて、シンガポールから戻って早い段階でメールではやりとりしていたが、顔を見るのはそこそこ久しぶりで、嬉しいけれど少し照れくさい…と言ったところだ。



「そう言えば、随分前の話だけどね、大雨の視界不良でゴーアラウンドになった時、パニックになったお客様がいたんだよ」

「ええっ?」

 信隆とノンノンは明日から2日の公休。
 雪哉は自宅スタンバイだから、いつも以上に開放的に話は弾み、話は『フライト中の怖い話』に及んでいた。


「パニックですか?」

 それは怖いと雪哉が眉をしかめる。

「私たちは、着陸直前で高度が上がったら『ああ、ゴーアラだな』ってわかるんだけど、お客様は大半の方が『えっ?』って顔されるのよ」

 ノンノンがニコニコと言う。

「そういうの、コックピットにいるとわからないんですよね」

 とにかく『ゴーアラウンド――着陸復行』をしたということは、予定通りに着陸出来なかったと言うことだから、コックピットはそれなりに対応が必要な状況という訳で、少なくともその瞬間はキャビンのことは頭にない。

 それは、キャビンクルーたちを信じて任せているから…でもあるからだが。


「だよね。で、『天候悪化により、着陸をやり直しました』って機内アナウンスが流れた途端に、年配の男性が『落ちるに決まってる』って大騒ぎで」

「うわあ…他のお客さんも不安になるじゃないですか」

 一番面倒なパターンだ。
 何ともないことを『ウソ』で引っ掻き回されるのは。 

 雪哉の隣では、ノンノンが何故か『あれ?』と言う顔をしている。


「そうなんだよ。他のお客さんがざわざわし始めちゃって、これはヤバイなって感じになった時にね」

 雪哉が真剣な面持ちで聞き入る。

「そのお客様の近くのジャンプシートにある新人キャビンクルーが座ってたんだ。彼女はその時OJTをチェックアウトして、正式デビューしてからまだ1ヶ月ほどだったんだけど、お客様に言ったんだよ」

「…何て…?」

「『大丈夫ですよ、私はクルーになって今まで45回着陸しましたけど、そのうち『着陸やり直し』はこれで10回目ですから』って」

「えええっ、10回もっ?」

 隣ではノンノンが笑いをかみ殺している。

「それで、お客様が『え、そんなにあるの?』って驚かれてね。『そうなんです。より安全な着陸のためのやり直しですから、今日のような悪天候の日は、かえって安心なんですよ』ってね」

 その話に雪哉は心底感心する。
『こういう時』のためのキャビンクルーであって、また、その度量が試されるのが『こういう時』なのだろうが、それが新人だったと言うのが驚きで。


「凄いですね。乗務1ヶ月目でしょ? それでそんな神対応ができるなんて」

「そうなんだ。その時のチーフパーサーは、『凄い新人が来たな』って思ったって」

「それには同感ですけど、でも、45回中10回って、多すぎませんか?」

「そう、嘘なんだよ、ね、ノンノン」

 ついにノンノンが笑い出した。

「え?」

 雪哉が首を傾げて…。

「もしかしてその新人クルーって、野崎さんですか?」
「そうみたい。久しぶりに思い出しちゃった」

 他人事のように言って、また笑う。

「実はね、私もその時が初めてのゴーアラでね。もちろん訓練でもやってたし、勉強もしてたけど、大雨も初めてで、その中を実際に機体が上昇始めちゃったもんだから、もう、心拍数も一緒に上昇しちゃってバクバクでね、自分を落ち着かせるためにも咄嗟にそんな言葉が出ちゃったのよ」

「いえ、咄嗟にその台詞が出るのが凄いですよ。さすが野崎さん」

 雪哉に賞賛されて、ノンノンが嬉しげに頬を染める様子を、信隆も優しい目で見る。

「あとからチーフパーサーに『嘘はいけないけど、あの場を納めるには大変良い対応でした』って褒められたんだよね、ノンノン」

 信隆の言葉にノンノンが目を丸くする。

「えー、なんで都築さんが後日談を知ってるんです?」
「だって、あの時のチーフパーサー、華さんだったろ?」
「えっ、華さんって」

 雪哉が反応し、ノンノンもまた、ああそれで…と、納得した。

「都築さんと華さん、仲良かったですもんね」

 ふふ…と笑って当時を思い出す。

「新人キャビンクルーの間では、絶対2人は恋人同士だって噂になってたんですよ?」

 3歳違いのチーフパーサー同士はとんでもなく美男美女で、業務連絡をし合う姿すら麗しく、目の保養になったのだ。

 けれど信隆は笑って言う。

「残念ながら、私が入社した時にはすでに華さんは大恋愛真っ只中だったから」

 彼女はアシスタントパーサーになった頃、訓練生から昇格したばかりのコ・パイと恋に落ち、信隆がクルーになった時には『8年愛』の2年目だったのだ。

「彼女が気取らなくて愛すべき性格なのは雪哉も知ってる通りだけど、あの頃の優秀で頼りになるチーフパーサーだった当時から華さんはあのままでね、私は随分助けてもらったんだ」

 男性キャビンクルーの定期採用が開始された2年前までの間、信隆を筆頭に全員で10人しかいなかった男性キャビンクルーは、みな客室乗務員部もしくは客室訓練部に配属された総合職で、信隆以外の9人は研修中に信隆がスカウトした『逸材』だ。

 その9人は全員各ベースでそれぞれ責任ある立場にいて、活躍中なのは嬉しいことなのだが、女性たちの中で上手くやって行くのはそれは大変なことで、同じ目線で話せる味方を見つけるのは『絶対』だ。

 その『味方』の中でも、20代の間ずっと『戦友』でいてくれたのは、3年先輩の並河華(なみかわ・はな)で、彼女の退職後、現在に至るまで『戦友』なのは同期の小野香澄だ。

 ちなみに、華とも香澄とも噂だけはこれでもかと言うほど立っていたが、恋愛感情は全くなかった。お互いに。

 親友であるのは、今も昔も変わらない。

 ちなみに香澄とは『もしかしたら好きになれるかも知れないね』とひと月だけ付き合ってみたのだが、お互いに『ダメだったね、あはは』で終わってしまった。

 敗因は、お互いに『かなりS寄りの攻め気質』だったから…で一致しているが。


「都築さん、華さんが辞める時、落ち込んでましたもんねえ」

 ノンノンに言われて信隆は当然だろうとばかりに頷いた。

「そりゃそうだよ。心の支えだったからね。結婚退職が決まった時は、思わず『俺の華さんを返せ〜!』って、コックピットに向かって言っちゃったけど」

 コックピットの誰に向かって言ったのかは、雪哉でも『言わずもがな』だが、それよりも気になったことがある。

「え、都築さん、一人称『俺』なんですか?」

 いつも『私』と優しく優雅に発音しているのに、突然のワイルド系で雪哉が驚く。

 華が辞める時の話は雪哉にとってはあまり大したことではない。

 今現在、可愛い女の子に恵まれて、キャプテンと幸せに暮らしている優しい華を知っていて、可愛がってもらっているから。

 2人は今でも、『華ちゃん』『聡くん』と呼び合うラブラブ夫婦なのだ。


「都築さんは煮詰まったら突如として『俺』になるんですよね」

 信隆の『右腕』と呼ばれるようになって数年になろうかというノンノンの証言に、『都築さんでも煮詰まるんだ!』とまたしても驚いた雪哉は、ついうっかり言ってしまった。

「…来栖キャプテンも『俺』で、僕ちょっとびっくりしましたけど、都築さんの方がもっと驚きかも」

 これが最初で最後だと思っていたあの抱擁の時に初めて『俺』と言った敬一郎に驚いたが、それ以降ずっと敬一郎は『俺』のままだ。

 クルーたちの前では『私』なのに。


「えっ、来栖キャプテン、『俺』って言うんだ? キャビンクルーにはいつも『私』だよ? へ〜びっくりかも〜聞いてみたいかも〜」

 ノンノンがちょっとかまぼこ形の目で意味ありげに雪哉を見つめる。

「あ、ええと…」

 マズいことを口走ってしまったかも知れないと、内心で盛大に狼狽える雪哉を見て、信隆がさりげなく助け船を出してくれた。

「来栖キャプテン、オフはいつも『俺』だよ」

 が。

「じゃあ、雪哉くんは来栖キャプテンとオフの時間を共有してるんだ?」

 ちっとも助け船になっていなかった。
 いや、むしろこれは墓穴だろう。盛大に。


「え、や、あの、べ、別に、特に、そんなに」

 どうしていいかわからない。

 コックピットなら、エンジンが止まって計器類が故障して油圧が下がってキャプテンが急病になって滑走路が視認出来なくてダイバートだと言われてもパニックにはならないのに。

 ちなみにエンジンが止まって油圧が下がっていれば、ダイバートの選択肢はないが。

 そんな雪哉の頬を軽くつついて、信隆が微笑んだ。


「でさ、雪哉」
「あ、はい」

 ちょっと立ち直った。

「ノンノン、気がついてるよ」
「え?」

 何のことだろうと雪哉が首を捻る。

「ね、ノンノン」
「ええ、もうバッチリ」

 うふふ…と意味深に笑う。

「と言うか、知ったのは確かに都築さんが先ですけど、気づいたのは私の方が先だと思うんですけど」

「かもね〜」

 顔を見合わせて笑う2人に、雪哉はやっぱり何のことかわからなくて、ただ『都築さんより先に気づくなんて、さすが野崎さんだな〜』と純粋に感心してしまっている。


「ね、雪哉くん。シンガポールの後、来栖キャプテンが飛んでたインターって、どこか知ってる?」

「ええと、フランクフルトの路線審査です」

 問われて即答してしまえる雪哉に、ノンノンが微笑む。
 パイロットたちは、一緒に乗らない限りはお互いの乗務日程を把握していないのが普通だから。


 敬一郎は欧州のエリア資格を取り、フランクフルト便に乗務するための路線訓練を受けて、その審査があったところだ。

 もちろん審査には合格し、これからはフランクフルト便にも乗務することになり、徐々に欧州の路線を増やしていくことになるのだが…。

 そんな大事な時に、シンガポールから戻って2日間をほぼベッドの上で過ごしてしまったのだ。

 雪哉は、敬一郎が欧州エリア資格の訓練中だと言うのは少し前から聞いていたのだけれど、あのシンガポールの次のインターが路線審査だとは知らなかった。

 通常の乗務の合間に、座学訓練やフランクフルト・マイン国際空港の離着陸訓練をフライト・シミュレーターで繰り返していたはずで忙しかったに違いない。

 戻ってきてから、『フランクフルトの審査、通ったよ』と聞かされて、『そんな大事な時に僕なんかに』…と言ったら、『雪哉より大事なものはないから』と言われてしまい、後はお約束の展開で、『審査に通ったご褒美欲しいな』とかなんとかで、かなり好き放題され……。


「雪哉? 顔赤いよ?」

 言われて慌てて『回想』から戻る。
 こんな、覗かれたら困るような頭の中身になったことは今までなくて、どんな顔をしてやり過ごしていいのかわからない。

 そんな雪哉の様子を柔らかく見つめて、ノンノンが言った。

「実はね、私その便に乗ってたの」

「あ、そうだったんですか」

「ま、本音を言うと、路線審査中のコックピットとかあんまり入りたくないのよね、普段と違う妙な緊張感漂ってるし」

「…でしょうね」

 機長が審査される現場に雪哉はまだ同乗したことがないのだが、コ・パイの審査とは比べものにならないほど高度で緊張感が溢れているのだろうな…と言うのは想像できる。

「でも、チーフパーサーたるもの、色々な報告とかお伺いとかあるじゃない? キャビンオッケーですとか、ご飯どうするのーとか、何飲むのーとか」

「いつもお世話になってます」
「どういたしまして」

 言って、笑い合う。

「でね、今回の査察機長って浦沢キャプテンだったんだけど、浦沢キャプテンの審査の時って、コックピットの緊張感、ハンパない訳よ」


『話は通じるが冗談は通じない』と言われる浦沢機長は、強面・堅物・厳しいことで知られているが、パイロットたちの評判は悪くない。

 いや、むしろ敬意を表されている。
『言動に説得力があるから』だ。

 それは当然、キャリアと実力に裏打ちされているからであって、だからこそ査察機長を務めているのだが、ただ、『リラックス出来ない』と言う一点で『疲れるフライト』であることには違いなく、それが審査ともなれば、緊張感は倍…いや数倍以上と言われている。

 が、雪哉はその話を『よくわかんないな』と思っていつも聞いている。
 雪哉とは話が弾むのだ、それなりに。冗談は通じないが。


「キャビンブリーフィングの時にコ・パイの中野くんがお通夜みたいな顔してたから、『大丈夫?』って声掛けたんだけど、『このコンビの路線審査に立ち会えるなんて、現世の頂上修行だと思って解脱してきます』なんて、訳わかんないこと言ってたわ」

 あははと笑うノンノンに、雪哉も笑う。

「でも、中野さんの気持ち、わかる気がします。厳しい審査の様子を見られるのは勉強になりますから」

「お、さすが雪哉だね」

 茶化す信隆に、雪哉はぺろっと舌を出す。

「あくまでも自分が審査対象じゃなかったら…ですけどね」 

 だよね〜と、さんざん笑い合って、またノンノンが続けた。  


「でさ、来栖キャプテンも自分からおしゃべりするタイプじゃないでしょ?」 

「そうですね」

 確かに敬一郎はどちらかというと『聞き役』に回る方が多く、『話させ上手』で、積極的に発言するのは『機長として必要な時』だけだ。

 それがキャビンクルーたちの間での『デキる大人の男』と言う評価にも繋がっているわけだが。

「だから、さぞかし空気の張り詰めたコックピットになってるんだろうなあって、私としてもそれなりに覚悟して行ったわけだけど…」

 雪哉が頷く。

「ところがね…」

 ノンノンが声をひそめた。
 知らず雪哉も少しばかり身を縮める。

「意外なことに、コックピットの空気があんまりピリピリしてないのよ」

「…そうなんですか?」

「まあね、緊張感はちゃんとあるんだけど、空気が穏やかなのよね。なんて言うか、ほんわかって感じ?」

 路線審査でほんわかとは、いったいどういうことなんだろうと、雪哉が首をひねる。

 が、考えてみれば敬一郎も機長になって3年半を過ぎていて、ベテランから見れば『まだまだ』なのかも知れないけれど、そのベテランの多くは敬一郎の能力を高く評価しているし、何より今までたくさんの路線審査をクリアして国際線を飛んでいるのだから、適度な緊張感は必要だけれど、今更欧州エリアだからといってピリピリするまでもないような気もする。

 中国エリアは大変で、だから最後の取得になるのだとは聞いているが。 

「で、現地着が夕方になる方の便だから、クルー全員でごはん食べてから解散しようって浦沢キャプテンからお声が掛かって、全員で出かけたわけ。いつものように全額おごってもらっちゃったけど」

 良くある話だ。
 いや、中2日ステイがある遠距離路線だと一度は集まって食事に…と言うのが常態化している。

 ステイ中は職務中扱いで、遊びに行っているわけではないので、集まって情報交換したり、交流を深めて安全運航に繋げようと言った意味も大きい…と、いうことになっている。

 そして、招集を掛けたという浦沢機長は、冗談は通じないが、クルー同士がおしゃべりしているところを見ているのはどうやらやぶさかではないようで、いつもムスッとした顔で、さりとて面倒でもなさそうに最後まで参加して、しかも全額『奢り』なのだ。


「浦沢機長っていつも太っ腹ですよね」

 もちろん全ての機長がそう言うわけでは決してない。
 いや、全額持ってくれる機長はごく少数派だ。

 それでも機長は何らかの気遣いを見せるのが常で、その様子に、キャプテンって降りてからも大変だな…と雪哉も今のところは『他人事』だ。

『いずれ』はまだまだ遠い先だから。


「浦沢キャプテンは、お子さんも早々に独立されて、奥様も会社経営で、『他に使うことがないからな』なんて、羨ましいこと仰ってたからね」

 初めて聞く裏話に、雪哉だけでなく、ノンノンも『なんてこったい』と目を丸くする。

 信隆の『キャプテン裏情報バンク』には、驚くべき内容が貯められているが、中でもこれは大玉だろう。
 違うチームのキャプテンだったが、バツイチどころかバツサンで、4人目になる今の奥さんは25歳下という話を聞いた時にも驚いたが。


「で、その席で浦沢キャプテンからこっそり聞かれちゃったわけ。『来栖は何かいいことでもあったのか』って」

 ノンノンがニタッと笑う。

「でね、どうかされたんですか? って聞き返したら、『オーラが虹色なんだ』って言われて返答に困っちゃったわけよ」

「「オーラ〜?!」」

 雪哉と信隆がハモった。

 よもや、あの堅物機長から『オーラ』しかも『虹色』なんて言葉が出るとは、さすがの信隆もツッコミどころが見つからない。

「キャプテン曰く、虹色って言うのはそもそもカリスマ性のある人間の、しかも絶好調期に出るオーラらしいのね。そう聞いて私、『お見合いされたんじゃないですか?』…って言ったわけ。そしたら、『いや、あれは断ったらしいぞ』って」

 なんだか話が怪しい方向へ転がり始めていて、雪哉はどんな反応をしていいかわからずに、目を泳がせる。

「浦沢キャプテンも結構情報早いなあ…なんて感心しちゃったんだけど、結局キャプテン、『恋人でもできたんなら言うことはないんだが、まあ、理由はどうあれ、気力が充実しているのはいいことだからな』って、ひとりで納得しちゃって」

 肩を竦めるノンノンの後を信隆が引きとった。

「確かに、上のキャプテンたちはみんな、来栖キャプテンが独り身なのを心配してはいたけどね。浦沢キャプテンも気にしてたとは思わなかったな」


 雪哉のように、構いたくなったり庇護欲をそそられるタイプではもちろんないけれど、敬一郎も諸先輩方にとっては何かと気になる存在であることには違いないようだ。

 有能で実直、真面目なのにバツイチのまま…だから、なのだろう。
 その証拠にお節介を焼こうとする先輩は後を絶たない。


「で。長い前置きだったけど、ここからが本題なのよ、雪哉くん」

「えっ、ここまで前置きだったんですか?」

 ここまででも十分ディープなのに、まだ前置きだったとは。

「そうよ。だって話の始まりは、私が気がついてる…ってことだったでしょ?」

「あ、そうだったですね」

 てへ…と可愛く笑う雪哉は、この後投下される爆弾にまだ気づいていない。 


「私、ちょっとカマをかけてみたわけ。来栖キャプテンに『路線審査と伺いましたが、リラックスしておいでのご様子ですね』って」

 だが、それに簡単に引っかかる敬一郎だとは、雪哉には思えなかった。

 恐らく笑顔で『いや、そんなことはないよ。緊張しているよ』…と返ってくるのがもっともありそうなところ…の、はずなのだが…。 


「そしたらキャプテンったらね、『今まで生きてきて一番嬉しいことがあったんだ。幸せで、気持ちが充実してるから、そう見えるんじゃないかな』…って、そりゃあもう臆面もなく」

 これはもう、カマもへったくれもない。あっさり本音を大公開だ。

 まさに、聞かされた方にしてみれば『臆面もなく』以外の何ものでもないだろう。

 けれど、自分には確かに『今でも生きてきて1番嬉しいこと』だったが、敬一郎も、もしかしてそうなのだろうか…と、雪哉は真面目に首を捻った。
 そうなら、とても嬉しいけれど…と。


「『機長になられた時よりも、ですか?』って聞いたら、機長昇格は番外で、航大に入れた時が3番目で、コ・パイになれた時が2番で、それよりもずっとずっと上だよ…って、もうね、キャプテンこんな顔で笑えるんだ…ってくらい、カッコ良いって言うか、素敵って言うか、でれでれし過ぎって言うか、こっちが恥ずかしいわよって言うか、もー、とにかく相手がキャプテンだってこと忘れて、背中バシバシ叩いちゃったわよ〜」

 それはまた、目に浮かびそうで浮かばない珍妙な光景だ。

「キャプテンも『痛いよ、野崎さん』なんて笑いながら嬉しそうに叩かれちゃってね〜」

 いっそう『想像不能』だ。

「でさ」

 ノンノンが突然真顔になった。

「雪哉くん、その『1番嬉しいこと』っての、心当たりあるよね」

「えっ、ぼ、僕がですかっ?」

 声がひっくり返ってしまった。
 1番と言い切られてしまえば困るが、それなり…で良ければあるけれど、だからと言って説明出来るものではない。絶対に。

「あ、ど、どうして、僕、が」

 信隆が笑いを堪えているのすら目に入らないほど動揺しまくる雪哉だが、そんなことにはまるでお構いなしの風情でノンノンがにこやかに言った。

「雪哉くん、お肌ツヤツヤだねー」
「え、そうですか?」

 いきなりの話題転換についていけない。
 けれど、話題が変わったわけではなかった。

「愛されてるとお肌に出るんだよ」

「……。」

「雪哉くんもきっと『1番嬉しいこと』があって、オーラが虹色なんだね。来栖キャプテンと『お・そ・ろ・い』で」

 にっこり微笑まれて、雪哉は固まった。
 どうして自分まで虹色なのかもわからない。

 その固まった頭をノンノンは感極まった様子で、『もう、可愛いなあ。たまんない』と、優しく撫でた。

 雪哉はもう、手も足も出ない。

 その様子を嬉しげに見ていた信隆が、不意に言った。

「ノンノンは華さんによく似ているよ」

「えっ!? 都築さん、どうしちゃったんですか? いきなり持ち上げられて、ビビるじゃないですか」

 華の存在は、今や『伝説のチーフパーサー』で、華の在職中を知るキャビンクルーはみな、彼女を目標にしている。今も。

 そんな存在に似ていると言われてノンノンは慌てるが、信隆が言うのだから、それはもう相当なものなのだ。

 信隆としても、このままノンノンが自分の右腕で居てくれればと願っているが、女性には『結婚』『出産』と言う一大事がある。

 華がそうであったように、ノンノンもいずれ生涯の伴侶を得て現場を去る日が来るかもしれない。
 
 結婚しても乗務を続けるクルーは多いが、妊娠が判明した段階で乗務は停止になり、出産を経て乗務に復帰するクルーは多くはない。
 復職しても地上勤務に就くのがほとんどだ。

 それまでのキャリアがもったいないと感じているのは、信隆だけではないのだが、『不規則勤務と子育て』の両立には、なかなか有効な策が見いだせないのも事実だ。

 それでも、せめて客室訓練部に教官として戻ってきてくれれば…と、華に対しても信隆はまだ望みを棄てていない。

「彼女もこんな風に、優しい気持ちで後輩たちを見守っていたからね。ノンノンを見てると、現役の頃の華さんを思い出すんだ、本当に」

 目を細めて言われてしまえば、ノンノンも照れまくるしかない。

 そして、叶うなら『そうありたい』と願い、『そうなれるよう』に努力を重ねていくつもりで。

「で、ノンノンが気づいてると言うのは、『それ』だよ、雪哉」
「…それ?」

 茶色い瞳が見開かれて大きくなる。

 こうなると雪哉の表情は一層幼く見えて、27歳の副操縦士には……まったく見えない。

 この面子の中だと、『客室乗務員』しかも『訓練生』がいいところだ。

 こうした外見と中身のギャップも、雪哉の魅力のひとつには違いないが。


「雪哉くんが誰かを好きなのには気づいてたんだけどね、色々と確信したのは、シンガポール便とフランクフルト便の合わせ技かな。シンガポールでは2人で引きこもってたとか、集合のちょっと前に2人きりで散歩してたとかって話だし、今回はオーラが見えるキャプテンと、幸せ過ぎてバレバレのキャプテンがいて、もうだめ押しってところね」

「う…」

 2人で散歩に行った現場を目撃されていたとは夢にも思わなかった。

 ほんの少しだけど、手を繋いでしまったのは迂闊だったかもしれない。

 これからは色々と気をつけないと、敬一郎に迷惑が掛かってしまうと、雪哉は内心で気持ちを引き締める。

 気をつけようと思っているのは雪哉だけで、敬一郎はこれっぽっちも思っちゃいないが。


「私は雪哉くんが好きだったけど、雪哉くんを知れば知るほど、自分が上手く行くことよりももっと、雪哉くんには幸せになって欲しいなあって思ってた。だから、雪哉くんの想いが成就して本当に良かったと思ってるし、これからもずっと、応援していきたいなって」

 気分はもう、お母さん…だ。

 そしてそれはきっと、華も一緒なのだと信隆は思っている。

「ノンノンが味方にいてくれたら、もう百人力だよ?」
「任せといて、雪哉くん」

 パチンとウィンクされて、雪哉の瞳が一気に潤んだ。

「わああ、泣かないで〜」

 言われた途端にポロポロと零れ落ちる。

「あー、ノンノンが雪哉を泣かせた〜」

「えっ、何言ってるんですかっ、都築さんも同罪じゃないですかっ。ってか、絶対都築さんの方が思わせぶりだしっ」

 2人が言い合う様子すら嬉しくて、幸せで、雪哉の涙は暫く止まらなかった。 


 ちなみに、ノンノンが、後に信隆には打ち明けたが雪哉に話さなかった事実があった。

 それこそが、『確信』の『核』なのだが。


『3日前に一緒に飛んだ時の雪哉のオーラがな、来栖のオーラに、色と形がそっくりだったんだ』

 ムスッとした顔でボソッと言った浦沢機長。

『あの子は『虹色の人間』のはずなのに、いつも何か陰になって見えない色があったんだ。それが漸く、全部見えた』

 やっぱりムスッとしたままだったけれど、きっと多分、あれは満足そうな顔だったんじゃないかなあ…と、ノンノンは思っている。

 そしてキャプテンも、きっと2人の間の何か――色恋沙汰だと思っているかどうかは定かではないけれど――を感じていたのだろう。

 なんと言っても『オーラ』が見える人なのだから。




「ハッピーな路線審査だったんですって?」

 ノンノンが雪哉を泣かせてしまった日から数日後、国内線のOJT審査から戻った信隆は、出社スタンバイ中の敬一郎と、乗務員用の休憩ラウンジの片隅で、珈琲を片手にコソコソと話し込んでいた。

「別に路線審査がハッピーだったわけじゃないさ。自分自身がハッピーなだけで」

 臆面もない状態なのは継続中のようだ。
 下手をすると、戻らないかもしれないという危惧すら感じさせる。

「もしかしなくても、情報元は野崎さんか?」

「ご明察」

「浦沢機長が野崎さんとコソコソ話しているのが目に入って、珍しいことがあるもんだなとは思ってたんだ。まさか自分がネタにされていたとは思いもよらなかったけどな」

 ふふ…と笑いを漏らす様子すら、幸せダダ漏れ状態だ。

「で、臆面もなくノロケたとか」

 とりあえず、突っ込んでみる。

 が。

「別にノロケちゃいないさ。本当のことを言っただけだ」

 それを『臆面もなく』と言うんですが…とは、もう突っ込まないことにした。
 突っ込むだけ無駄というヤツだ。

「でも、幸せいっぱいの来栖キャプテンからは、浦沢キャプテン曰く、虹色のオーラが出ていたそうですよ」

「オーラ? 浦沢機長が言ったのか?」

 案の定、『浦沢機長とオーラ』と言う取り合わせの、この世のものとは思えないほどのミスマッチに敬一郎が目を丸くした。

「ええ、ノンノンも驚いてました」

 だろうな…と呟いて、敬一郎は『ああ、もしかして、それでか…』と、あることを思い出した。

「虹色のオーラと言われていたかどうかは知らないが、珍しいことはあったな」

「浦沢キャプテン絡みで…ですか?」

 頷いて、敬一郎はあの日のことを信隆に語った。


                   ☆ .。.:*・゜


 フランクフルトの路線審査の復路便で、羽田に帰着した時のことだった。

 デブリーフィングを終え、敬一郎は浦沢機長から『ちょっと来い』と言われミーティングルームへ入った。

 何の因果か雪哉を連れ込んで告白した部屋だ。


「いいか、来栖。俺は一度しか言わん」

 いつも以上に厳しい声でそう言われ、てっきり審査の内容について意見があるのだと思い、姿勢を正す。

「はい」

 ところが。

「上は結婚しろだの何だのうるさいかもしれんが、結婚なんぞどうでもいい。ただ、本当に『こいつだ』というのを見つけたら、絶対離すな。それだけだ」

 想定外を更に突き抜けた『お言葉』に、敬一郎ともあろうものが一瞬呆気に取られた。

「いいな」
「はいっ、肝に銘じます」

 真摯に答えると、浦沢機長は『への字』の口のまま、深く頷いた。

「審査、ありがとうございました」

「ああ、そう言えば審査だったな。ま、お前が落ちるってことはないさ」

 いつものようにムスッとした顔で、浦沢機長は『じゃあな』とぶっきらぼうに言い捨てて出て行った。

 芯は優しい人なのだと知ってはいたけれど、こんな風にエールを送られて、敬一郎は不覚にも目が熱くなった。


                    ☆ .。.:*・゜


「まあ、相手についての誤解はあるだろうけどな、どのみち直に入籍して会社には報告するから、それで知ってもらえればいいと思ってる」

 養父と養子という関係でしか公表はできないが、自分が雪哉を得てどれほど幸せなのかは、きっと浦沢機長にはわかってもらえると、敬一郎は信じている。

 そんな敬一郎に『そうですね』と答えつつも、信隆は敢えて言わなかった。

 いや、多分相手に誤解はないですよ…とは。

 何しろ浦沢機長は『お揃いのオーラを出している子』を知っているのだから。




 シンガポール行きのコックピットでプロポーズされてから2ヶ月と少し。

 入籍し、敬一郎と雪哉は晴れて夫婦――いや、表向きは親子――になった。

 会社での必要な手続きもとり、パスポートなど諸々の改姓手続きを済ませ、直属の上司である運航部長に2人揃って報告をし、これからもますますの活躍を期待しているよ…との言葉を掛けられて、その夜遅く、雪哉はシンガポールへ、敬一郎はその1時間後にサンフランシスコへと飛んだ。

 この後、大騒ぎになるとも知らずに。


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