Wind Shear

前編

ウインドシア…それは、平和な空間に突如現れる『乱れ』。 



「天才…ですか?」

「そう、養成所時代から『不世出の天才』とか言われてたらしいんだけどね、実際訓練生からコ・パイになる期間も『最短不倒記録』で、今から『最速・最年少』の機長昇格記録も塗り替えるのは確実って言われてるよ」

 優秀だとは聞いてたけど、そんなに凄いとは思わなかった。

「ともかく、可愛くて頭良くて性格良くて、しかも仕事バリバリだから、もうアイドルなわけよ」

 確かに、とんでもなく可愛かったし、頭も良かった。

 性格は…いつも誰かの後ろに隠れて目立たないようにしていたから、みんなは『あいつは引っ込み思案だ』って言ってたけど、本当は優しくて思いやりがあって…。

 大人になって、仕事がバリバリになるタイプだとは思えなかったから、ちょっとイメージがわかないかも。

 しかも、天才だって言うし。


「『コ・パイのゆっきー』ってキャラ知らない?」
「あ、もちろん知ってます。凄い人気だそうですね」

 ここ…僕が引き抜かれてやって来た『ジャパン・スカイウェイズ』は、経営戦略もさることながら、宣伝活動が上手いことでも知られていて、そのキャラクター戦略も大当たりで今やグッズにコンテンツにと大活躍。

 確かに可愛いし、副操縦士をちびキャラにするっていう着眼点は良いなって思う。

「そうなの。あれのモデル、雪哉くんなんだよ?」
「え、そうだったんですか?」

 雪哉…ゆっきー…。
 なるほど、そう言うことなんだ。

「ま、会ってみればわかるよ」
「そうそう、百聞は一見になんとやら…ってやつよ」

 僕が今までいたエアラインよりも、ここのキャビンクルーたちはみな、明るくておしゃべり好きだ。
 
 上下関係の風通しが良いと聞いていたのは確かに事実のようで、その『おしゃべり』の中にも重要なネタは点在していて、情報交換をし、共有し、意思疎通を図っているようで、働きやすそう。

 それだけでも、ここへ来て良かったなと感じている。

 これまでの職場は海外のエアラインで、人間関係はかなりドライで、ビジネスと割り切ればそれまでなんだけれど、それは当然顧客との関係にも表れるわけで、僕は時々、この人たちは何のためにキャビンクルー――前の職場ではフライトアテンダントと呼んでいたけれど――やってんのかな…って思っていた。

 空の上の『一期一会』あるいは『再会』。
 それがこの職業の魅力だと思うんだけど。

 でも、僕が客室乗務員を目指した6年前は、国内のエアラインはどこも男性クルーの募集を停止していたから、僕は海外へ行くしかなかったんだ。


「それと、今ゆっきーは『不動くん』じゃなくて、『来栖くん』なんだよ」

「あ、そうでしたね。それ都築教官から聞きました。キャプテンと養子縁組したって」

「そうなの。人気ナンバーワンのイケメンで、穏やかで優しいキャプテンなんだけどね、今や親バカ一直線」

「ゆっきー命だよね、キャプテン」

 …ふうん…。

「でも、ゆっきーのファザコンも振り切ってるよ」

「そうそう、『パパ大好き!』が、だだ漏れだもんねえ」

「本人が隠してるつもりなのが笑えるよね〜」

「それ、言えてる」

「ま、OJTに出ればそのうちゆっきーにも会えるよ」

「そうですね」


 ここへ来てもうすぐ2ヶ月。

 同じ機材なのにマニュアルが違うと言うのはかなり足かせになって、6年間でしっかり身体に染みついていた記憶を上書きするのは思っていたよりも大変な作業だった。

 きっと、まっさらな状態からの方が効率は良かったんだろうなとは思うけれど仕方がない。

 だって、今までの実績のおかげで、僕はここへ引き抜かれたんだから。

「雪哉…」

 やっと会える…。

 あの時はまだ心も身体も幼くて、この気持ちを正しく伝える事ができなかったけれど、今度こそ…。

 


 3日間の公休の最後の1日。

 昨日は一日中、敬一郎といちゃいちゃラブラブしていたが、その最愛の人は今頃太平洋の雲の上。

 その代わり…と言ったら誘ってくれた人にはあまりにも申し訳無いだろうけれど、信隆が食事に行こうと誘ってくれて、雪哉は久しぶりに信隆との会話を楽しんでいた。


「男性キャビンクルーって、先輩は仕方ないとしても、後輩たちまで僕のこと『頭なでなで』とかするんですよ〜。都築さん、もうちょっとちゃんと躾けといて下さいよ」

 副操縦士になって2年半。

『表向きは親子だけれど、実態は愛する人との新婚生活』も1年になってすっかり馴染んできた雪哉は、相変わらず先輩たちに可愛がられながら、増えてきた後輩からも可愛がられてしまう始末で、それでも元気に世界の空を飛び回っている。

 ちなみに、年下のキャビンクルーはたくさんいるけれど、パイロットはクルーとしてのキャリアの開始が遅いから、年下といえどもキャリアが上のクルーは後輩とは呼び難いのだ。

 けれど2年半が過ぎて、漸くコ・パイの後輩もキャビンの後輩もそれなりに増えてきたと言うわけだ。


「あはは、『コ・パイのゆっきー』は我が社のアイドルだから仕方ないよ。彼らも『雪哉さん見てると和む』とか『雪哉さんと話すと疲れが取れる』て言ってるからさ、先輩風吹かせて相手してやって?」

「え〜。でもみんな長身男前で、僕のこと見下ろして『可愛い〜』とか言って子供扱いするんですよ。この前のフランクフルト便で一緒になった岡田くんなんか、ご飯の時に『チャイルドミールがひとつキャンセルになったんですけど、どうですか?』とか真顔で聞くんですよ。もう、隣でキャプテンが馬鹿受けしちゃって涙流しながら笑い倒すし〜」

 シートベルトがなければきっと、コックピット中を転げ回っていたに違いないと言うほど笑われてしまったのだ。

 もうひとりのキャプテン――遠距離国際線は交代機長を含めて3人のパイロットで運航される――が休憩中だったのが幸いだと思った雪哉だったが、残念なことに数日後には、同じチームのキャプテンとコ・パイがみんなこの事実を知っていたというオチ付きで。

 当然敬一郎にも『美味しかった?』と、聞かれた。笑いを堪えながら。

 ついでに言うと、後日『ゆっきーブログ』にまで登場したのだ。

『チャイルドミールは本当に美味しくて、栄養満点で、元気キッズにオススメだよ!』…なんて。

 その所為で、『マジで食べたってホント?』と、運航部長にまで聞かれてしまったのだ。


「そりゃ酷いな…って言いたいところなんだけど、実はチャイルドミールってひと月ほど前にリニューアルしてね、それを見て私が『これ、雪哉が喜びそうだなあ』って言っちゃったの聞いてたんだろ」

 ニコッと笑いながらそう言われ、雪哉は目を尖らせる。

「えっ。都築さんの仕業なんですかっ?!」

「だって、動物パンとかフルーツゼリーとか、雪哉が喜びそうなのが乗っかってたからさあ」

「そりゃ確かにコアラパンもリンゴゼリーも美味しかったですけど……あっ…」

「なんだ、やっぱりしっかり食べてるんじゃない」

 ククっと笑われて、雪哉は、はあっとため息をもらす。

『なんでチャイルドミール?』と聞き返したら、『美味しそうですよ』と言われて、『じゃあそれ』と、うっかり言ってしまったのだ。


「ともかく、チャイルドミールは確かに美味しかったですけど、ここで甘い顔をすると今度はベビーミールとか持って来かねないですからね」

「あはは、それはいくら何でも……無いとは言えないか」

「ありませんっ」

 ついからかってしまうのは、雪哉のリアクションが可愛いからだ。

 それはもちろん、信隆だけではなくてどのクルーも同じなのだが、雪哉だけがそれをわかっていない。

 そして、そこがまた可愛い…と言う、雪哉にとっては悪循環なのだが。


「でもね、うちのチャイルドミールは、彩りも味も栄養バランスも安全性もナンバーワンの評価なんだよ。海外のエアラインなんて、量が少なくて見た目がオコサマくさいだけで、脂肪分や糖分なんて大人並みだし、食品添加物もお構いなしだからね」

「…そうなんですか?」

 目を見開く雪哉が、『じゃあ今度からチャイルドミールでもいいかな。量もちょうどいいし』なんて思っているであろうことが手に取るようにわかって、信隆は笑い出してしまう。

「え〜、都築さん、なんで笑うんですか〜?」
「可愛いなあ、雪哉は」

 言われてぷうっと膨れるのがまた…と、結局雪哉はいつまで経っても可愛いのだと、いつものように頭を撫でてしまう。


「それにしても、僕にチャイルドミール持ってきた岡田くんもそうですし、男性クルーってみんな背が高いですよね。あれ、採用基準あるんですか?」

 雪哉は男子にしては全体に小さめだ。
 が、きっと赤ん坊の頃の栄養状態が悪かったからに違いない――乳児院の栄養管理は行き届いているが――と、他人の所為にしていて、特に悩んでもこなかった。

 パイロットの自社養成の採用基準はクリアしていたから、それさえ通ればどうでも良かったのだ。


「一応ね。男性キャビンクルーにある程度身長を求めてるのは、社の方針なんだ。ただ明確に線を引いてるわけじゃないし、身長を理由に落とすことも絶対に無い。身長は、『適性・能力・根性』の次、だな」

 そう言って信隆は笑うけれど、『絶対条件ではないけれど、出来れば』…と、求めている訳が雪哉には気になった。

「…それはもしかして、見た目の威圧感とか…ですか?」

「まあ、端から威圧感があっちゃあ客室乗務員は務まらないけど、いざという時には客室内の安全を守るための保安要員だからね。力の弱い女性だけでは対応しきれないこともあるし、男性だからこそできることもある。 事が起きた時の最終的な判断はキャプテンに委ねられるけど、できる限りキャプテンの手を煩わせずに処理するのは、我々の務めだから」

 仕事の話をする信隆は、さすがに現場トップの教官チーフパーサーらしいキリッと引き締まった顔つきで、雪哉はやっぱり素敵な人だなと思う。

 未だに恋人募集中なのだが。


「確かに、男性がいてくれたらこっちも安心…ってとこ、あります。キャビンで酔っ払いが騒ぐとか、時々あるじゃないですか。そういう時に、女性ばっかりだとやっぱりこっちも気が気でないんですよ」

「だろ?」

「マルチで飛んでたら誰かひとり様子を見に行けるんですけど、シングルだとそう簡単には席を空けるわけにいきませんし…。機長名で警告書出したらさすがにほとんどは大人しくなってくれますけど、それまで周りのお客さんも気の毒だし、こっちも雲や風と闘ってる最中に他のことに気をとられるのは怖いですし…」

 雪哉の言葉に信隆が頷く。

「そうなんだ。以前は余所に比べて日系のエアラインにはさほど迷惑行為って多くなかったんだけど、最近は乗客も多様化していて、10年前に比べると機長警告って15%も増えてるんだよ」

「え、そんなにですか?」

 意外な数字に雪哉が驚いた。

「機長5年目の来栖キャプテンくらいだとあんまり実感ないかもしれないけれど、牛島キャプテンとか大橋キャプテンとか、それ以上のキャリアのキャプテンたちは多分実感してると思うよ」

 そういう信隆は、キャビンクルーになって16年。
 敬一郎がコ・パイになってからの年数よりも長い。 

 チーフパーサーになってからも12年のキャリアを持つベテランで、今や、たったひとりの『トップ・オブ・キャビンクルー』にだけ許されている『クラウンチーフパーサー(CCP)』という肩書きを持っている。


「シップの最高責任者とは言え、そんなことに権限発動したくないですよね」

「雪哉の言うとおりだよ。ただでさえコックピットで神経使ってるキャプテンに、余計な手間を掛けさせるわけにいかないから」

 何もないフライトが当たり前だが、ほんの少しの計器類の狂いやちょっとした天候の変化など、些細なことから大きな事故に繋がった例は過去にある。

 だから、パイロットはフライトが平和であればあるほど、気を張らなくてはいけないと、雪哉も教えられて来た。

『要注意時』には、ミスは起こり難いし、対処も早いから。

 つまり、コックピットで気を抜くことはできないなのだ。
 信隆の言うとおりに。


「というわけで、国際線長距離全線と短距離の一部路線、それと国内線の繁忙期の一部路線に男性クルーを最低ひとりは配置できるように準備を進めてるってわけなんだ」

「心強いですね。僕たちもキャビンの女性たちも」

「今いる数少ない男性クルーたちも、自分がキャビンを守るんだって気概で頑張ってるけど、やっぱり仲間が多い方がいいと思っているからね。彼らにとっても心強いってわけだ」

「でも、僕の頭を撫でないようには指導して下さいね」

 雪哉の注文に、信隆が笑う。

「それは個人の裁量の範疇だな」

「え〜」

 1番偉いチーフパーサーに要望を却下されたパイロットが、またぷうっと膨れる。

 そんな雪哉の頭をまたまた撫でながら、信隆が少し、声のトーンを変えた。

「でさ」
「はい」

「その男性クルーを何人か海外のエアラインから引き抜いたっての、聞いてる?」

「あ、はい。一から育ててたら間に合わないからって、何人か有能な若手を引き抜いたっていうのは、こっちでも噂になってました」

 数は少ないが、パイロットの引き抜きもたまにある。
 機長の有資格者に限られるが。

「そうそれ。生え抜きを育てるのがもちろん基本なんだけどね、今はアシスタントパーサーやチーフパーサーが直ぐにでも欲しい状況だから、今回5人引き抜いたんだ。乗務6年から7年で、だいたい雪哉くらいの年齢なんだけど、どの子もすぐにでもチーフパーサー試験に出せそうなくらい優秀なんだ」

「わあ、都築さんがそう言うなんて、相当ですね」

 上からも下からも信頼が厚く、常は穏やかで優しい信隆だが、査察や試験の時は非常に厳しい。

 ダメ出しがあまりに当を得ているので泣き出す子もいるのだが、やる気がある子にはちゃんとフォローがあるので、見込まれたクルーたちはみな、成長してその後長く続けていく。

 ただ、『これは無理だ』と判断したら最後、『他の業務に移りなさい』とはっきり通告するので、本人も辛い思いを長引かせずに新しい場所で再出発を果たせる。

 実際、客室乗務員から他の部署に移って頭角を現した女性は何人もいると雪哉も聞いていた。


「まあ、こっちのやり方ってのもあるから、しばらくは訓練を兼ねた乗務をこなしてもらいながら、ファーストクラス資格やその他の資格も取ってもらって、まずはアシスタントパーサー…って感じかな」

「パイロットも資格だらけですけど、キャビンクルーも大変ですよね」

「いや、そこはやっぱりパイロットの方が大変だよ。キャビンクルーの資格は社内資格だけれど、パイロットは殆どが法律で決められている資格だろう? 社内資格も国家資格を持っていること前提だし。ただ、うちのキャビンクルーは救急員資格は余所と違って必須だし、持ってる資格で査定も変わるからね。みんな一生懸命勉強してるよ」

 言いながら、せっせと雪哉にサラダを取り分ける。

 最初の頃は雪哉も遠慮して自分がやろうとしていたのだが、『甘やかさせて』と言われて以来、お任せしたきり…だ。

 そして信隆は相変わらず雪哉と食事をすると『ひなの餌付け』状態になる。

 食が細いのは敬一郎も気にかけている様子だが、ベテラン機長たちからも『雪哉の食育に気を配りなさい』と言われているらしい。

 食育とはまた、雪哉が聞いたら目を尖らせそうだが、チャイルドミールを選んでしまうあたり、説得力はないだろう。

 敬一郎はそんな雪哉のために常から色々と工夫している様子で、『ちょっとした子育ての気分だな』と笑ったから、『世界一幸せなシングルファーザーじゃないですか?』と言ったら、複雑そうな顔をしたのが可笑しかった。

 その敬一郎は、最近では、新人キャビンクルーから『キャプテンのご趣味は何ですか?』と、頬を染めて尋ねられて、『雪哉を甘やかすことかな』と真顔で答える『残念なイケメン』になり果てているが。


「で、その優秀な引き抜きメンバーの中に中原香平って言うのがいるんだけど、知ってる?」

「…え?」

 突然の固有名詞に雪哉がパチッと目を見開いた。

「小中学校時代、雪哉と同級生だったって言ってるんだけど」

「…ええと、ごめんなさい。覚えてない…かな?」

 見開いた目を今度は少し泳がせて、雪哉は小首を傾げた。

 その様子に、信隆は小さな違和感を覚える。

 雪哉の記憶力の高さからしても奇妙だし、視線を外して、僅かではないほど狼狽えた。

 普段の雪哉には見られない動揺に、信隆は何かあるなと見て取った。

 小・中学校時代は、雪哉にとってあまり良い思い出のある時期ではなかったと高校の恩師から聞かされている。

 事例を挙げては聞いていないが、その様子からして、かなり心に傷を負ったのではないかと察せられて、胸が痛んだ。

 詳細を探って良いものかどうか、まだ判断がつかないが、気をつける必要はありそうだなと、信隆は雪哉をさりげなく観察する。


 どうやらまだ、あまり立ち直っていないようで、少し顔色が悪い。

 これは余程だな…と、信隆の気持ちも陰る。

 そしてその『中原香平』との温度差のようなものを強く感じる。

 今はまだ原因もわからないけれど、雪哉にとっての不安要素は少しでも取り除いてやりたい。

 それは雪哉自身のためでもあり、雪哉の仕事――不安なく飛ぶため、でもある。

 事と場合によっては、敬一郎にも報告しなければならないだけれど、できればそれはしないで済めばいいなと信隆は思う。

 そう、できるだけキャプテンの手を煩わせないようにするのが、チーフパーサーの務めだから。

 けれど、パートナーとしての敬一郎は、雪哉の何もかもを把握しておきたいと思っているだろうから、兼ね合いが難しいなというのは、いつも思っていることだ。


「ま、客室乗務員と一口に言っても、あっちとこっちじゃ相当やり方が違うから、そこのところの修正に最低でも1ヶ月はかかると思ってるんだ。緊急時の対応なんて、手順をひとつミスるだけでも命取りになるからね」

 何もつかめていないけれど、とりあえず雪哉を安心させたいと、『今すぐ』の話では無いのだと強調する信隆に、雪哉は少し緊張を解いた様子で頷いた。

「ですよね」

 機材ごとにマニュアルが違うのも、エアラインごとに手順が違うのも、よく理解できるし、その修正に時間が要るという話は良くわかった。

「とりあえず路線に乗ってもらうのは早くても2ヶ月は先かな。即戦力って言っても一応OJTはやってもらうし審査もするし、機種別資格も最低3つは取ってもらわなくちゃだし、それからいろいろ上級資格にチャレンジしてもらって…出来るだけ早くアシスタントパーサー審査には出したいけどね」

 信隆としても急いでいるのは事実だ。
 そのための『ヘッドハンティング』なのだから。

「その、引き抜いてきた人たちって、機材は決まってるんですか?」

 パイロットほど厳密では無いが、キャビンクルーたちもメインで乗る機材ごとに『課』があって、その中でチームに分かれている。

「いや、今のところはまだ全然。でも、主に国際線飛んでるのも、国内線の大都市間を繋いでるのも雪哉たちの機材だから、今回の面子も同じ機材になるとは思う」

 様子を注意深く覗いながら、事実を告げる。ここで嘘をついても仕方がない。
 どう考えても、男性クルーを配置したい路線と雪哉が担当する路線は被るのだから。


「そう、ですか」

 やはり雪哉の様子はおかしい。

「ただ、コックピットクルーと違って、こっちはチーム間のローテーションもあるからね、特に国際線では、同じクルーに当たるのは、雪哉がパパと飛ぶ回数よりも少ないと思うよ」

 そう言うと、雪哉はやっと、少し笑った。

「都築さんがパパっていうと、敬一郎さん、拗ねるんですよ」

 信隆の前でだけ、雪哉は敬一郎を名前で呼ぶ。
 その他は相変わらず職位のままだ。

 職場なので当たり前と言えば当たり前なのだが、周囲――特に牛島機長や杉野機長のあたり――は、パパと呼ばせようと、あれやこれや画策しては楽しんでいる様子だ。

 社内一の堅物・浦沢機長には真顔で『まさか家でもキャプテンか?名前で呼ばないのか?』と聞かれて、返答に窮した雪哉だったが。


「ほんとに? 良いこと聞いちゃったな。これからはパパって呼ぼう」
「わ〜。酷い〜」

 やっといつもの笑顔になった雪哉の頭を、いつものように優しく撫でた。




 あれは、引き抜きが決まって今後のスケジュールを相談していた時だった。

 引き抜いたのは、海外の大手エアラインで乗務していたキャリア6年目のキャビンクルー。

 母国人以外の出世が難しいと言われているそのエアラインで、20代でアシスタントパーサーを務めている日本人男性クルーがいると言う情報を得て、信隆は実際にそのエアラインに数回乗って確かめた。

 どうやって彼の乗務スケジュールを知り得たのかは極秘事項だが、信隆以外にも客室訓練部の2人の教官がそれぞれ別の便でも確認し、ヘッドハンティングに至った。

 ラッキーだったのは、彼はそもそも日系エアラインを目指していたそうなのだが、新卒当時に募集がなかったから外資系へ行ったと言う事実だ。

 その男性クルーの名は、中原香平(なかはら・きょうへい)。

 175cmで細身の彼は、英・仏・独の3ヶ国語に通じ、柔らかい笑顔が魅力的な甘いマスクの28歳。独身。

 表情を引き締めると相当な美形だが、乗客に向ける笑顔は少し幼く見えて可愛らしい。

 その事実と職歴だけでも十分だったが、決め手になったのは、信隆が乗客として乗った時の、機内のトラブルへの対応だった。

 理不尽なクレームに対して、決して威圧的でも多弁でもないのに、周囲の空気ごと元の穏やかさに戻してしまう能力は目を見張るものがあり、どうしても欲しいと思い、接触を図った。

 そして、今日に至ると言う訳なのだが。


「さて、条件面での質問はあるかな?」

「いえ、以前に伺った時の内容で十分です」

「入社までのスケジュールは?」

「問題ありません。都内に戻れるので、実家から通えてありがたいです」

「それは良かった。実家通いは何かと楽だからね」

 微笑まれて、それなりに緊張していたらしき香平もまた、柔らかく笑んで聞き返してきた。

「都築さんもご家族ご一緒なんですよね?」
「一応ね。家庭内は現在ぐちゃぐちゃだけど」

 笑いながらの答えに香平はどうリアクションしていいのかわからなくなったのか、少し戸惑った様子を見せる。

「え、あの、ご家族に何か?」

「姉貴と妹がいるんだけどね、姉貴はバツイチ、妹は旦那が海外に単身赴任で、どっちも子連れで実家に戻ってるんだよ」

 まだ雪哉と敬一郎にしか話していないことだが。

「それは、大変ですね…」

 考えただけでも大変そうだ。
 香平にも姉がいるが、すでに嫁いでいて現在は鎌倉住まいだ。

「そう。姉貴の子はもう中学生だから、まあいいんだけど、妹の子がまだ乳児でしかも双子でね。朝5時にロスから帰って来て、着替える間もなくおむつ替えるの手伝わされたりね」

 姪っ子も甥っ子も可愛いが、せめて着替えくらいさせて欲しいのだ。

「うわあ…」

「花の独身チーフパーサーが、なにが悲しくて朝っぱらからおむつ替えだろうねえ」

 VIPからの指名も数えきれず、上級マイレージ会員の支持もダントツで――ストーカーまでいるが――冷静沈着かつ優雅で温かいおもてなしで乗客の心を掴んで離さない、人気ナンバーワンクルーと言われて久しい機内での自分とのギャップに、可笑しくなるくらいだ。

「えっ、都築さん、独身なんですか?」 

「そうだよ。なに? 結婚してると思った?」

「はい。素敵な方だからてっきり」

「ふふっ、モテすぎてひとりに決められないんだよ」

「…それ、冗談に聞こえませんよ」

「え、冗談だと思った?」

 顔を見合わせて、大笑いになった。 


「でも、本当に、声を掛けて頂けて幸せです」

「そう言ってもらえると嬉しいね。こちらこそ、優秀な人材を仲間に迎えられてみんな喜んでるよ」

「ご期待に添えるように頑張ります」

「頼もしいね」

 不思議と以前からの知り合いのように自然に笑え合えて、信隆は『こういうのもある意味、運命の出会いかな』と感じる。

 運命の恋人には未だ出会えないが。

「では、その他の質問は?」

「質問ではないんですが、少し伺いたいことがあります」 

「なに?」

「都築さん、副操縦士の不動雪哉ってご存じですか?」

 まさかこんなところで雪哉の名前がでるとは思わなかった信隆は、少なからず驚いた。

「もちろん。何度も一緒に飛んでるし、オフでも仲良くしてるよ。もしかして知り合い?」

「はい。小学校5年から中学まで同じ学校で、中1の時は同じクラスだったんです」

「え、そうなんだ」

 と言うことは、雪哉の事情を知っている可能性は高い…と言うことに、まず信隆は意識が向く。

 雪哉はあれだけ可愛いにも関わらず、一度も養子の話がなく――子供の頃は今よりもっと異国の血が容姿に色濃く現れていたために、敬遠されたらしい――高校で寮に入るまで児童養護施設で暮らしていたから、その頃の同級生たちは知っているはずだ。


「はい、中学の時の担任から、雪哉がパイロットになったって聞いてはいたんです。今回同じエアラインで働けることになって、羽田ベースって言うのも聞いてたんですが、路線とか機種がわからないので…」

 同じエアラインの同じベースにいても、パイロットの数は多く、ライセンスによっては接点はまるで無い。

 まして、香平は国際線を飛ぶのだから、国際線に就航していない機種のパイロットとは縁が無いということになる。

 だが、その話をする前に、信隆は大事なことを話しておかねばならない。

「今は、不動くんじゃなくて、来栖くんなんだよ、彼」

「どういうこと…ですか?」

「あるご家庭に養子に入ったんだよ」

「…あ…」

 見開いた目が、事情を知っていると物語る。

「その様子じゃ知ってそうだね」

「…はい。雪哉が……『捨て子』だって言う…のは、…みんな…知ってました」

 かなり迷いながら躊躇いがちに告げた香平の、言葉の最後に信隆の声が重なる。

「でも、ここでは『親とは死別した』ことになってるからね。中原くんもそのつもりでいて」

 有無を言わさぬ物言いに、香平はまた一瞬、大きく目を見開いて、そして頷いた。

「はい。僕もそのことについて、とやかく考えたことはありませんから」

 その言葉が嘘でないのは、信隆にはわかった。
 香平は、信隆の目を見てはっきりと言ったから。

「それなら良かった」

 どうやら負の感情は無さそうだと判断した。

 同級生との再会を喜んでいるだけ…なら万々歳だが、そうでなかった時のために、先回りして軽く釘を刺しておくことにした。


「ちなみに、これはオペレーションセンターに出入りする人間なら誰でも知ってるから言っておくけど、雪哉の養父はキャプテンなんだ。来栖敬一郎機長。もうすぐ40っていうまだ若いパパだけど、雪哉がコ・パイになり立ての時から一緒に飛んでいて、誰よりも強い信頼関係で結ばれた結果が『養子縁組』だ」

 香平がほんの少し、訝しげに眉を寄せた。

「信頼関係…ですか?」
「そう、2人の間には別ちがたい絆があるから」

 この物言いで、気づくか気づかないか、それはわからない。
 ただ、雪哉に厄介な感情を抱いているなら気づくはずだ。
 聞き流すならそれで良し。

「そう…ですか」

 複雑そうな、掴みきれない表情で、香平は少し俯いた。

「まあ、中原くんが配属される予定のチームは、雪哉が乗ってる機材のチームだから、いずれは一緒に乗れる日が来ると思うよ」

 その言葉に香平は顔を上げた。

「えっ、雪哉、トリプルセブンに乗ってるんですか?」

「そう、コ・パイになった時からね。78のライセンスも取ってるようだけど、うちのドル箱路線は77が主力機だから、乗務はずっと77だよ」

「あの、もしかしたらそれって…」

「まあ、そう言うことだろうね。他のエアラインのことは知らないけれど、少なくともうちでは、最初の3年程度は320や73で地方路線から修行を始めるらしいから」

 言外に雪哉の優秀さを仄めかせば、やはりエアライン業界に6年も身を置いているだけあって、それがどれほどのことなのか理解したようで、『凄い…』と呟いた。

「と言うわけで、君にとっても雪哉にとっても心強いことだろうから、早く同じシップに乗れるといいね」

「はい、頑張ります。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」

 固く握手を交わして『これから』を誓い合う。

「そうそう、私はクルーたちを子供だと思っているから、全員ファーストネームで呼んでいるけれど、君は大丈夫?」

「ええ、あちらではむしろ、それが普通でしたから」

「そう言えばそうだ」

 言って、笑い合った。




「雪哉!」

 国内線4レグの乗務を終え、着替えるためにロッカールームへ向かう途中で名前を呼ばれ、振り向いた雪哉が首を傾げる。

 見たことがあるような気がするけれど覚えのない、キャビンクルーの制服を着た男性。

 長身で男前なのはみんなそうだけれど、中でもこれはかなり美形だな…と、誰もが思う、柔らかそうな『美人』は、雪哉の目前まで走ってきた。

 ――ええと、誰だっけ? 

 自分を名で呼ぶキャビンクルーで知らない顔は無いはずだと、雪哉は不思議に思いながらも『都築さんに負けないくらい、綺麗な人だなあ』…と、うっかりぼんやり見上げてしまった。

 そしてその相手は、嬉しげに雪哉を見下ろして、言った。

「久しぶり! 僕、中原香平だよ。覚えてない?」

 名乗られて、雪哉は息を止めた。

 中学を卒業してから一度も耳にすることがなかった――いや、違う、信隆から聞いていたはずだ。引き抜かれてきたと――その名を聞かされて、心臓が激しく打ち始める。


「雪哉、相変わらず可愛いなあ。全然変わってない。パイロットの制服でも、すぐわかったよ」

 ――嘘…だ。

 最後の記憶は、もう、ずうっと昔。

 中学の卒業式…ではなかったか。
 思い出したくもないから、ずっと心の一番底に閉じ込めて来たのに。

「中学の先生から雪哉がジャスカのパイロットになったって聞いてたんだ。僕、引き抜きの話をもらって、雪哉に会えるって嬉しくて…」

 香平の言葉を、雪哉の震える声が遮った。

「…ご、めんなさ…い。ちょっと覚えてない、です」

 その、雪哉の青ざめた様子に、香平が眉を寄せた。

「雪哉、ちょっと来て」
「な、何するんだよっ」

 手首を掴み、抵抗する雪哉を引きずって、人影のない階段へ連れ込んだ。

「あのね、雪哉…」
「離せっ」

 渾身の力でその手を振り解き、雪哉が叫んだ。

「今さらなんでっ、なんで僕の前に現れるんだよっ」
「…雪哉…」

 香平が驚きに目を見開き、呆然と雪哉の名を呼ぶ。

「せっかく、忘れてたのに…」

 その時ふと、香平は記憶の隅に思い当たった。

「雪哉っ、あ、あの時のことは、僕じゃな…」
「僕の視界に入るなっ」

 差し伸べられた手を叩き落として、雪哉は駆けだした。

 その姿を呆然と見送って、香平は呟く。

「ゆきや…」


 


 どうやって家まで帰り着いたのか、良く覚えていない。

 いや、いつもの通りにターミナルから電車に乗り、駅で降りて歩いてマンションまで来たはずだ。

 その証拠に、ちゃんと着替えていて、フライトバッグを引きずって、自分は玄関に立っている。

 自動点灯の灯りに照らされて、雪哉は暫く立ちすくんだままで考えた。

 これからどうするべきなのか。

 いや、何もしなくて良いはずだ。

 思い出さない。視界に入れない。
 そう、記憶ごと消してしまえば良い。

 そうでなければまた、自分は息が出来なくなる。

 何度も深呼吸を繰り返して、雪哉は辺りを見回した。

 ――敬一郎さんがいなくて、良かった…。

 動揺して、感情の針が振り切れた状態を見せずに済んだ。

 敬一郎は、昼前の便でロンドンへ飛んだ。

 到着はこちらの真夜中だけれど、きっとメールは来るだろう。
 いつものように、『着いたよ』と。

 国際線の時は必ず。国内線の時も、そう多くはない泊まりの時には到着をメールで知らせる。

 それは、いつの間にか始まった2人の習慣。


 敬一郎が帰ってくるのは、3日後の夕方だ。
 雪哉は今日から3日連続の国内線乗務。

 明日からまたしっかり乗務すれば、敬一郎が帰ってくるまでには完璧に立ち直れるはずだ。

 それまでは、飛ぶことだけに集中しようと雪哉は思う。

 とにかく、敬一郎に心配を掛けることだけはしたくないと、それだけを自分の心に言い聞かせた。何度も。



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マルチ…マルチ編成:『機長2名・副操縦士1名』の3名編成のこと。
遠距離国際線では休憩が必要になるので、
交代機長を含む3名になる。
機長が2名乗務することは『ダブル・キャプテン』と呼ばれる。

シングル…シングル編成:通常の『機長1名・副操縦士1名』の2名体制のこと。
稀に『ダブル・キャプテン』で乗ることもある。

トリプルセブン:ボーイング777型機のこと。77と略すことが多い。
773だと777−300、772だと777−200。どちらも777のライセンスで乗れる。
78は787形機。73は737型機。
320はエアバスA320型機。


おまけ小咄

『来栖キャプテンの憂鬱』




「なあ、都築」

「はい」

「見た目とか…じゃなくて、世間的に中年っていくつくらいから言うんだ?」

「は? 中年ですか?」

「ああ」

「…確か、お役所的資料では45歳くらいから…だったと思うんですが、まあ、世間的には40くらいがボーダーラインじゃないですか?」

「……そうか…」

「どうかしました? …あ、先輩、誕生日っていつでしたっけ?」

「…誕生日は、ない」

「何言ってんですか。そう言えば、6月頃…だったような気が…」

「いいから忘れろ」

「ああ、もしかして先輩、ついに『不惑』ですね」

「だから忘れろと言ってるんだ」

「そうか、雪哉はまだ28ですね。もしかして、雪哉が20代で自分が40代になるから気にしてるんですか?」

「…お前のその察しの良さは、時に残酷だな…」

「何言ってるんですか。ちゃんと相手を見てモノを言ってますよ」

「なお悪いじゃないか」

「まあまあ。それに20代って言っても次の誕生日で29でしょう? そうこう言ってるうちに30になりますよ。まあ、30になったところで雪哉は変わらないでしょうけど」

「そうは言うけどな、20代と40代の開きは大きいぞ」

「でも、そもそも一回り違うんですから、同じ年代になれることはないじゃないですか。そう思うと諦めつきますよ」

「…それは確かにそうなんだが…」

「なんですか?」

「いや、オフの時にな、髪を整えないで雪哉と出かけると、兄弟かって聞かれるんだ」

「ああ、それ、わかる気がします。先輩、髪を流したままでラフな格好だとかなり若く見えますからね」

「制服だと、どうかな? 制服でオフの時のような髪ではまずいかな」

「…似合わないことはないと思いますけど、制服の時はキリッと整えてていいんじゃないですか? そうでないと『若作り』って言われますよ?」

「………」

「そんなに凹まないで下さいよ」

「…ふん。別に凹んでなんか…」

「大丈夫ですよ。うちの母校には、年の差24ってカップルいますから」

「なんだって?! うちの倍じゃないか」

「ですよ。まさに親子ですよ。私も在校中にお世話になった先生と、雪哉の6つ下の新任教師らしいですからね」

「……ひとつ確認なんだが…」

「なんですか?」

「お前の母校って、雪哉の母校だよな?」

「今さら何ですか?」

「…男子校…だったよな」

「そうですよ、創立から今までずっと中高一貫の男子校です」

「女性の教師もいるのか?」

「いませんよ。事務職や寮食には女性もいますけど、教師は全員男性です」

「…その、24歳違いってのは…」

「保健体育と物理の教師同士で、かつての教え子ですよ」

「……そうか。都築の人間形成に中高時代が大きく影響したようだと言うのは理解できた」

「何言ってんですか。 でも、あの学校に3年もいて、雪哉みたいに可愛い子が恋人できなかったっていうのは奇跡に近いレベルでしょうね」

「……だよな…」

「ま、取りあえず、あんなに若くて可愛い子を伴侶にできたんですから、先輩もせいぜい頑張って下さい」

「………」

「だから、そこ、鬱陶しいから凹まない」


合掌。

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