Wind Shear
中編
それは、あの『望まぬ再会』から2ヶ月近くが経った、国内線4レグの日のことだった。 この日のフライトは牛島機長と組んでいて、最初の2レグは午前の関空往復で、後半の2レグは14時発の福岡への往復だった。 関空からは12時30分に戻っていて、昼休みをとった後、福岡行きのディスパッチを行った。 比較的天候は安定していて、若干の雲は予想されていても、それほど深刻な様子はない。 乗客にも搭載貨物にも要注意の事項はないが、往復とも405席が満席で、離陸時の速度設定や着陸時の燃料残量などを綿密に確認し、『フライトプラン(飛行計画書)』に機長がサインをして完了だ。 「キャプテン、雪哉」 ディスパッチルームから出てきた2人を待っていたのは制服姿の信隆だった。 「あ、都築さん!」 「おう、どうした都築」 グレー系に桜色の差し色が入ったスーツがこれでもかと言うくらいに決まっていて、やはり未だに恋人がいないのが雪哉には不思議でならない。 国際線の場合、チーフパーサーがこのタイミングで挨拶に来ることはよくあるが、国内線の場合はゲート前か機内に入ってからのことが多い。 「OJT審査で福岡の往復をご一緒させていただきます」 キャビンクルーのトップになってからの信隆は、チーフパーサーとしての乗務は国際線のみだが、査察教官としての乗務は国内線も相当に増えていて、今や五分五分と言ったところだ。 「ああ、教官業務か。お疲れさん」 「のちほどキャビン・ブリーフィングでご挨拶させていただきますが、男女各1名ずつ、審査に入ります」 「了解。で、チーフパーサーは都築が兼務か?」 「いえ、チーフパーサーは岡林が務めます」 OJTと聞いて、雪哉の表情が少し、こわばった。 その時信隆は、牛島と話をしていたが、ちら…と雪哉の様子を伺った。 キャビン・ブリーフィングのタイミングは、機長によって様々だ。 クルー全員が乗ってすぐのこともあれば、ある程度の準備の後を見計らって…ということもあり、出発までの時間や打ち合わせ内容も併せて、機長が然るべきタイミングで招集する。 この日は、乗ってすぐのブリーフィングだった。 今日のキャビンクルーは10名プラスOJT訓練生2名の大所帯。 機材に対して定められた人数は8名なのだが、客席数が多い場合は10名のクルーを乗せるのが、ここジャスカでは『通常』だ。 いつものように、気象条件などのフライト情報から、顧客情報に至るまで、短い時間に効率よく済ませねばならない。 そしてこの日は、審査が行われる訓練生の紹介もある。 ひとりは正真正銘の新人で、2週間のOJTを経て、これに通れば晴れて訓練生からキャビンクルーへの昇格が決まる。 そしてもうひとりは、海外エアラインから鳴り物入りで引き抜かれてきた、すでにキャリア6年の男性クルー…中原香平だった。 ローテーションはあるが、機材別チームを基本にして乗務しているここでは、『はじめまして』というクルーは新人以外にはあまりいないのだが、それでもキャビン・ブリーフィングの時には必ず全員が自己紹介するのが決まりだ。 「機長、牛島です。先週パリに飛んだ時、娘に鞄を買って来たら『パパのセンス微妙』と言われて落ち込んでいます」 キャビン内がドッと沸く。 ほんの短いブリーフィングでも、牛島はいつも――特に今日のように審査の訓練生が乗っている時には――こうやってクルーの緊張感を解すので、雪哉も見習いたいなと思っている。 ちなみに、敬一郎は『機長、来栖です』としか言わない。 けれど『言葉を発するだけで痺れる』とか『立ち姿を間近で拝めるだけでイイ!』というキャビンクルーがいるくらい、今でもモテモテだ。 戸籍上はまだ独身であることも一因であるだろうと思われる。 『シングルファーザー』だが。 「副操縦士、来栖です」 機長の次は当然コ・パイだが、雪哉はいつもと違う視線を身体に感じるような気がして、息が吸えなくて、上手く声が出なかった。 それに、いつもならしっかりと視線を上げて、キャビンクルー全員の顔をしっかり見るのが常だ。 乗客と共に、彼らの命も預かる者として。 だが、今はどうしても視線が上げられなかった。 それは、中原香平がいるからだ。 「どうした? 大人しいな、雪哉」 牛島が珍しげに雪哉を見下ろす。 「今日は期間限定のポンカンジュース積んでるから元気出してね」 チーフパーサーの岡林若菜がすかさず突っ込んで、辺りがまた爆笑に包まれた。 雪哉も漸く、少し笑った。 その後、信隆と若菜が名乗り――信隆は、『OJT以外の働き振りはチェックしないので安心して下さい』と言ってまた辺りを笑いに包んだ――続いてクルーたちが自己紹介し、香平の番になった。 「OJT訓練生、中原です」 若手のクルーたちの目はすでに釘付けだ。 もちろん、雪哉はそれらもまとめて全て、視野に入れていないが。 そして、すでにキャビンクルーたちの間で香平が『都築2世』などと呼ばれていることを、雪哉はもちろん知らない。 そんな様子を辺りの状況も全て込みで信隆は注意深く観察している。 雪哉の様子も気になるし、この時点でとうに審査は始まっているから、2人の様子ももちろん見落とせない。 新人は、立ち居振る舞いから言葉使い、接客対応、手順、安全管理…などなど、機内の全ての行動が審査の対象になり、合格すれば正式に国内線クルーになり、半年後にもう一度審査を受け、それに通ればその半年後に国際線乗務への希望が出せ、受理されれば訓練に移行できる。 もちろん、国内線に留まるのも自由だ。 だが香平の審査は『マニュアル通り』――つまり『社内規定』に添っているかどうかの一点だけだ。 海外でアシスタントパーサーまで務めていた実力は、すでに言うまでもない。 本人は、国内線に乗ったことがないので短時間の乗務はかえってタイトだと零していたが、この審査に通れば国内線クルーの資格を得、来週からはすぐに国際線の訓練とOJTに入る。 予定通りならば、1ヶ月半には正式に国際線クルーの仲間入りだ。 そして、すぐにアシスタント・パーサーの昇格試験が待ち受ける。 キャビン・ブリーフィングは、気象状況や飛行時間、高度や速度などを機長から伝達し、予定内で終了した。 雪哉は逃げるようにコックピットに入り、やっと息を深く吸い込んで、ライト・シートに着いた。 ここからはもう、持ち前の集中力を発揮して、とにかく安全快適に飛ぶことだけを考えれば良いのだと、心を落ち着けた。 定刻5分前に出発した257便は、福岡に着いた後、50分というもっとも短いインターバルですぐに復路のフライトが始まる。 この50分間の機内での作業ももちろん、審査の対象になっていて、先輩クルーたちは『よりによって1番大忙しの便で審査って、可哀相〜』と思っているのだが、同時に『でもこれでチェックアウト出来れば相当自信になるよね』と思いつつ、新人訓練生を見守っている。 香平に関しては、何をさせても余裕すらあり、接客には甘やかな笑顔を繰り出して老若男女のハートを掴みまくっている様子に、『やっぱ何させても完璧だよね。都築2世、確定だね』なんてささやき合いながら、その働きぶりを参考にしている。 復路も好天でフライトは順調だった。 午後6時15分。羽田への着陸許可が下りた。 日没まではまだ間があり、視界は良好で、滑走路ははっきりと見えている。 障害物も皆無で、機体は真っ直ぐに滑走路を捉えて降下を始める。 コントロールを持つのは雪哉で、このまま順調に着陸するはず…だったのだが。 ――あ。 雪哉が目を見開く。 機体が微妙な揺れを起こし、直前まで大人しかった気流が、突然牙を剥いたのを感じた。 「キャプテン、ゴーアラウンドします」 「roger」 まだ、着陸決心高度まで下がっていなかったが、雪哉は着陸をやり直すと牛島に告げた。 直後に『ウインドシア警報装置』が鳴る。 「Go-around」 「Go-around」 復唱して行動を確認し合い、降下を始めていた機体は、推進力を上げて再び上昇を始めた。 「厄介なところで起きやがったな」 「はい。このタイミングであの角度から来られるのはちょっとまずいと思いました」 「ああ、俺でも間違いなくゴーアラだ」 ウィンドシアとは乱気流の一種で、風速や風向が急激な変化を起こした状態を言う。 今日のような晴天下で突然発生するものは『晴天乱気流』とも言われ、その発生は予測困難とされている。 着陸目前の速度が落ちている状態で巻き込まれると、最悪失速して墜落ということもあり得る、パイロットが恐れる現象だ。 再度管制と交信してウィンドシアの発生を伝え、滑走路の変更を協議し、キャビンに着陸をやり直したことを伝え、乗客への案内を依頼する。 余裕があればコックピットから直接案内するが、気流の変化は監視の気が抜けない。 着陸順番待ちで雪哉たち257便の後ろにつけていた数機の旅客機が、進入路を外れて上空旋回を始めた。 ウィンドシアの発生で滑走路が変更になったためだろう。 雪哉も羽田上空を旋回し、再度着陸を試みる。 「Minimum」 今度は着陸決心高度まで降りてきた。 このまま降りるか、再びやり直すのか、最終的な判断の分かれ目だ。 「Randing」 雪哉は迷わず着陸を宣言した。 今なら降りられると判断したからだ。 相変わらず複雑な動きをする気流の中を、風を味方につけて降りるのは技術と知識が要る。 予測される角度からの風を念頭に入れて、進入角度を微妙に変えながら、機体はいつものようにタッチダウンした。 タイヤブレーキを一杯に利かせ、エンジンを逆噴射して速度を一気に落とす。 着陸には、いつも『初めての空港』に降りるつもりで気を引き締めているが、ベースの空港に帰ってきて楽だと思えるのはここからだ。 駐機スポットへの道筋に慣れているからだ。 周囲の可動物にさえ気をつけていれば、そうでないものの位置は完全に刷り込まれていて、眼を閉じていても指定されたスポットまでたどり着けるのではないかと思えるほどだ。 ほどなくシップはブロックインし、ゴーアラウンドの影響で10分遅れ・18時35分の到着となったが、航空業界では15分以内の遅れは『定刻』扱いだ。 「雪哉、ナイスランディングだったぞ」 「ありがとうございます。でも、ちょっと力が入っちゃいました」 言って、漸く肩の力が抜けた気がした。 「いや、あの状況なら誰でも力がはいるさ」 いつものように頭をグリグリ撫でて、牛島は雪哉を労う。 コ・パイのレベルによっては、ゴーアラウンドも機長が宣言して、旋回中にコントロールを取り返すところだが、雪哉にその必要はない。 現に雪哉はウインドシアの発生を瞬時に、しかも警報装置より先に察知した。 牛島も警報直前に気がついたが、恐らく雪哉よりも後だっただろうと自覚している。 だが。 「…いえ…、なんか、少し息を詰めてしまって…。これじゃだめですね」 その、いつもと少し違う様子に牛島が眉を寄せた。 タイヤ圧や計器類の点検を終え、航空整備士に後を託してコックピットを出る。 ウインドシアは平和な空間に突然現れてシップを脅かす。 だからこそ、その存在にはパイロットの誰しもが神経を尖らせるが、反面、いつでも遭遇し得ることだから、これだけで神経を摩耗するわけにはいかない。 この程度で摩耗していては、その上に計器の故障や機体の不具合などのアクシデントが重なった時には対応ができない。 パイロットは、そんな『多重アクシデント』にも冷静に対応出来るように、日々訓練を重ねている。 まして雪哉はそう言う状況にも強いことが訓練の結果からも明らかで、無事に回避できたウインドシアでこんな様子になるとは考えにくい。 「雪哉はよくやったぞ。あの対応なら、俺が教官だったら満点だ」 ガシッと肩を抱き寄せてやると、よろけながらもたれ掛かってきて、その力の無さに牛島が驚いた。 「雪哉?」 抱いていなければ崩れ落ちそうだ。 「大丈夫か?」 「あ…すみません。ちょっと気が抜けて…」 雪哉は往路のオートパイロットに入った頃からすでに軽い息苦しさを覚えていた。 折り返しがすぐで、コックピットから出る間もないほどだったから、一息ついて自分の体調について省みる間もなくて、けれどさすがに離着陸の時には集中していて全く意識していなかったから忘れていたのに、エンジンをシャットダウンした瞬間にまた息が苦しくなってきたのだ。 その様子に、これは尋常ではないと判断した牛島が雪哉を抱き留めようとした瞬間…。 ――どう…しよう…。息…吐けな…い。くるし…… 雪哉の身体が崩れ落ちた。 「雪哉っ?」 「雪哉くんっ、どうしたのっ?!」 牛島と、近くに来ていた若菜の声に、信隆も駆けつけた。 「雪哉!」 自分を呼ぶたくさんの声は聞こえたけれど、返事をする前にブラックアウトした。 |
――雪哉はもう着替えているかな。 敬一郎がコ・パイとすべての点検を終え、航空整備士に後を託してコックピットを出る。 今日は朝から香港を往復した。 過酷な条件下でのフライトが無いこのエアラインで唯一『過酷』とされる『香港日帰りフライト』で、担当するのは大概30代の機長。 5時20分にショウアップして、7時05分に出発し、戻ってくるのが19時25分。 拘束時間は14時間。 そのうち飛行時間は9時間におよび、現地のインターバルはわずか2時間30分。 それは空港内でひたすら気力と体力の回復を図るだけの時間で、このフライトだけは、30代でないと無理だと言われている程だ。 実際は40代機長も多く乗務するが。 そんなフライトはコックピットクルーもさることながら、キャビンクルーもへとへとになる。 だから、近距離国際線にも関わらず、公休は2日つく。フライト前日は自宅スタンバイだ。 スタンバイが起用になれば、もちろん翌日の香港便からは外れることができる。 雪哉は明日も乗務だが、明後日は2人とも公休だから、久しぶりにのんびりできるなと、敬一郎は、1時間ほど前に帰着して、着替えて待っているであろう雪哉に思いを向けていた…のだが。 「来栖キャプテン!」 コ・パイと連れ立って、国際線ターミナルからオペレーションセンターのある第2ターミナルへ戻ってきた敬一郎を呼ぶ声に視線を向けてみれば、そこにはキャビンクルー――国内線チーフパーサー・岡林若菜の姿があった。 「ああ、岡林さん。どうかした?」 「雪哉くんが倒れました!」 瞬間、辺りから音が無くなった。 「医務室に運んでいます」 「キャプテン、デブリはやっておきます。運航部にも連絡しておきますから、雪哉のところへ行って下さいっ」 2人の言葉をどうにか理解して、敬一郎はコ・パイの申し出にありがたくすがることにした。 「ああ、すまん。頼む」 コ・パイは若菜に『後で容態知らせて』と告げ、若菜は『了解です』と答え、敬一郎と共に走り出す。 「雪哉はいつ、どこで?」 「コックピットを出たところです。降機直前でした」 「意識は?」 「最初はなかったんですが、戻りました」 「救急搬送は?」 「ドクターは必要ないだろうと判断されています」 その言葉で、ほんの少し、緊張が解けた。 「今、牛島キャプテンがついて下さっています。都築教官も審査で乗っていらしたんですが、今は審査会議に行っておられて、済み次第戻って来られるとのことです」 牛島と信隆が居てくれたのならこれ以上心強いことは無いのだが、ともかく雪哉の顔を見るまでは…と、敬一郎は乗務の疲れも忘れて走った。 |
静まり返った医務室で、出迎えてくれた看護師が奥の部屋のドアを開けてくれた。 枕元に座る牛島が振り向く。 「ああ、お疲れ。よりによって『地獄の香港便』だったって?」 落ち着いて、少し笑いをも含んだその様子に、敬一郎の鼓動も穏やかになり始める。 「牛島さん、雪哉は…」 先輩の中でも特に親しい牛島のことを、敬一郎は常から職位では呼ばない。 2人の仲は、そう言うことになっている。 そっと近寄ると、雪哉が眠っていた。 若干顔色が悪いが、表情は穏やかでまた少し、安堵する。 「今、眠らせてもらってる。目が醒めたら今日のところは帰って良いということだ。ドクターは到着ロビーへ行ってる。乱気流で酔ったお客が多数出たらしい」 連れて帰ることのできる状態であると言うことに、さらに敬一郎は落ち着きを取り戻した。 そんな敬一郎に枕元の席を譲り、牛島が説明を続ける。 「何らかの理由で極度の緊張状態にあって、そこから解放された時にシートから立ち上がって、血圧が急激に下がったんじゃないかということだ。あと、軽い過呼吸な。息を吸おうと必死になって、結局吐くことも出来なくなったようだ」 説明を受けて、敬一郎は疑問を口にする。 「何かあったんですか? 今朝は全く変わりなかったんですが」 問われて牛島も首を捻る。 「ああ、俺もそれが不思議なんだ。午前中の関空往復ではいつもの通りの元気な雪哉だったからな」 言って、暫し沈黙する。 「雪哉も含めて俺たちにとっては変わった事…とは言えないんだが…。お前が降りる時、風は大丈夫だったか?」 「ええ、特になにも。直前まで管制から情報が出ていたことは知ってましたが」 突然現れて突然姿を消すのがウィンドシアだ。 「俺たちはウインドシアでゴーアラしたんだが、コントロールが雪哉だったんだ。けれど雪哉は警報装置より先にゴーアラ宣言するぐらいだったし、そもそも雪哉がそれくらいのことでストレスを溜めるとは思えんからな。何か他にあるんじゃないかな」 牛島の言うとおりだ。 雪哉はその程度のことで揺らぎはしないと敬一郎も考える。 「…そう言えば」 今日一日の雪哉の様子を片っ端から思いだしていた牛島が、小さな違和感を思い出した。 「午後の福岡便…キャビンブリーフィングの時に、少し元気がなかったな」 「キャビンで…ですか?」 「ああ。ディスパッチの時には何ともなかった。シップに向かおうとした時に都築に会って、今日はOJTの審査があるって話で…」 その後、どの段階で雪哉の状況に変化があったのかは、やはり何度考えてもわからない。 「とりあえず、見たところ一過性のものだろうってことだが、念のために精密検査をってことだ。ドクターが戻って来られたら、相談するといい」 「ありがとうございます。そうします」 「まあ、恐らく2週間程度は乗務停止だろうが、何事もないことを願うよ」 この稀有な才能のキャリアを…いや、それだけではなく、雪哉と言う愛すべき仲間を失いたくないと、自分だけでなく誰もが願うに違いないと、牛島は思う。 「しかし…」 言いかけて言葉を止めた牛島を、敬一郎が見つめた。 「もし、心因性なら厄介だな」 パイロットにとって心因性の不調は命取りだ。 敬一郎は、返す言葉無く、黙り込んだ。 「ま、お前がいるから大丈夫か」 殊更明るい声で、牛島が言う。 「…牛島さん…」 「俺は、華ちゃんの愛とサポートのおかげで毎日元気に飛べているし、俺も華ちゃんを生涯守る。お前だってそうだろ? 雪哉に日々癒されて気持ちよく飛んで、雪哉を生涯守るつもりで籍に入れたんだろ? 大丈夫。お前が本気になったら乗り越えられない壁はないさ。それに、俺たちだってついているからな。それを、忘れるな」 柔らかく言われて、言葉が胸につかえて出てこなかったが、敬一郎は唇をかみ締めてはっきりと頷き、牛島はその様子に満足そうに笑む。 牛島の愛妻の華ちゃんとは、敬一郎はもちろん、雪哉も何度も自宅へ遊びに行っていて、気心の知れた間柄だ。 信隆の3年先輩で、2人は今でも『華さん』『のぶちゃん』と呼びあっている。 控えめなノックの音がした。 続いて静かに開いたドアの隙間からするりと入ってきたのは信隆だった。 「キャプテン…」 どちらのキャプテンを呼んだのかは不明瞭だったが、牛島が立ち上がった。 「さて、保護者が到着して、都築も来てくれたことだし、俺は帰るとするか」 「本当にありがとうございました。牛島さんがいてくれて、助かりました」 雪哉だけでなく、自分も助けられたことに感謝して頭を下げる敬一郎の肩を、牛島が労るように叩いた。 「まあ、俺も一晩中でもついていてやりたいのは山々だけどな、俺と来栖の『ダブル・キャプテン』じゃコ・パイは緊張するだろ?」 茶目っ気たっぷりに言って、『じゃあな』と牛島は出て行った。 その背中を見送り、今度は信隆が頭を下げた。 「先輩、すみませんでした」 「どうして都築が謝る?」 「私のミスです。雪哉がここまで追い詰められていたとは…」 糸口がここにあったのかと敬一郎が気づく。 「…何があったんだ?」 問われてひとつ、息をつき、信隆は言葉を選びながら話し始める。 「今日、審査で乗っていたひとりが、海外から引き抜いたクルーだったんですが…」 「ああ、何人か引き抜いたって、あれか」 「そうです。今日乗っていたのは中原香平という子なんですが、実は雪哉の中学の頃の同級生なんです」 敬一郎には初耳だった。雪哉からも何も聞いていない。 「それを雪哉は…」 「知っていました。ですが、雪哉には歓迎すべき相手ではなかったんです」 敬一郎の表情が曇る。 信隆はこれまでの経緯を話し、そしてつい少し前の香平との会話に遡った。 |
新人の女性訓練生に合格が通告された後、信隆は香平を部屋に呼んでいた。 「今さらだとはお互いに思ってると思うけど、合格です」 「ありがとうございます」 「引き続き、国際線の地上訓練に2週間。その後、OJTを1ヶ月の予定です」 「よろしくお願いします」 「で」「あの」 発した言葉は同時だった。 「雪哉の」「雪哉は」 またしても同時。 「どうぞ」 譲ったのは香平だった。 譲られて、信隆は遠慮無く口を開いた。 「聞きたいことが、色々あるんだけど」 「はい」 「雪哉は君に怯えている。それで間違いない?」 「…そのようです」 「そのよう…ってのは? 君には覚えが無いと言うこと?」 香平は少し言葉を探して沈黙した。 そして。 「覚えが無い…ということはありません。けれど、雪哉には誤解されています」 「…誤解?」 「はい。ただ、誤解されても仕方がない状況だったと思いますし、私自身に非がないわけではありません」 静かに語る香平を見て、信隆は、恐らく信じていいのだろうと考えた。 数え切れないほどの訓練生を教えてきた己の『目』を自身で信じているから。 「その話、雪哉のためにも聞かせて欲しいんだが」 やはり静かに言った信隆の目を真っ直ぐに見て、香平は頷き、告げた。 「中学1年の冬…もう少しで、雪哉を殺してしまうところでした」 信隆が、息を呑んだ。 |
戻ってきた医師から今後の検査などについてアドバイスを受け、目が醒めたら帰って良いと言われて2人は雪哉の目覚めを待った。 車で出勤していた信隆が、送ってくれることになっている。 「雪哉が乗る便に2週間のOJTが当たらなかったのは偶然でした。けれど、この先、長時間のインターで当たった時に何かあっては困ると思って、今回の審査に雪哉の乗務便を選びました。審査なら、私が一緒に乗れますから」 けれど結局、雪哉を守りきれなかったことに、苦い思いが込み上げる。 「その…中原…」 「中原香平です」 「そいつの言うことは信用できるのか?」 「ええ、先ほど香平に、例の恩師に連絡を取らせて確認しました」 「相変わらずとんでもないフットワークの軽さだな」 「労災申請したいレベルで職業病です」 敬一郎と信隆の会話のキャッチボールはいつでもこんな風になるのだが、今夜は何を言っても笑えそうにない。 「ちなみに実行犯2人は児童相談所に通告されたそうですが、その後家族ごと行方をくらませてしまい、香平の両親が治療費をすべて負担したそうです。 が、そのことは雪哉に言わないで欲しいと念を押されました。香平は、どうして守ってやれなかったと、両親から相当叱られたようです」 顛末を聞いたところで、気は重くなるばかりだ。 「…とにかく、雪哉に真実を知らせて、乗り越えさせるしかないな」 「そうですね。まず本当の事を知らなくては先へは進めませんね」 それしかないとわかっていても、心が重い。 「なあ、都築」 「はい」 「俺は、雪哉とそいつの関係には関与しないつもりだ」 「先輩…」 「俺は雪哉を守るだけだ。正しいことを知れば、雪哉は正しく判断して行動できるはずだからな」 それは、コックピットという、瞬時の判断が迫られる現場を何度も共にしてきた経験から、自信を持って言える。 「それに、そいつはいずれチーフパーサーになるんだろう? それならいずれ、俺のシップのキャビンを預ける日が来るかもしれない。その時に余計な感情があってはならないからな」 機長と副操縦士とチーフパーサーの間に、負の感情があってはならない。絶対に。 「大丈夫ですよ、香平は」 穏やかにいう信隆に、敬一郎はふと表情を緩めた。 「そうだな。お前が見込んだ人間だからな」 信隆の人を見る目は絶対だと、敬一郎はずっと前から知っているから。 「…ただ、そいつとの事がクリア出来たとしても、雪哉が死にかけて苦しんだという事実は消せないからな。雪哉の傷の深さを思うと…」 言葉が続かない。 守るとは言ったものの、どう包み込んでやればいいのか途方に暮れるくらい、この傷は大きく深いと思えて考えが纏まらない。 重苦しい沈黙が暫し続いた。 その後。 「…敬一郎さん…」 小さく、雪哉が呼んだ。 「…雪哉」 精一杯穏やかな声と笑顔を向けて、『起きたか』と囁いた。 雪哉の大きな瞳いっぱいに、見る間に涙が溜まっていく。 「…ごめんなさい…」 「何を謝ってるんだ? 辛かったのは雪哉の方だろう?」 覆い被さるように抱きしめて、優しく頭を撫でる。 「俺がついているから何も心配いらない。大丈夫だ。都築もいてくれるからな、一緒に帰ろう」 そっと抱き起こしたが、雪哉はふらつくこともなく、しっかりと起き上がった。 「抱っこしてってやろうか?」 笑いを含んで言うと、雪哉は顔を赤くして、首を振った。 信隆はその様子を優しく見守り、いつまでもこの2人の、こんな幸せな姿を見ていたいと願う。 が、あることに気づいてしまった。 「帰りたいのは山々ですが、3人とも制服ですね」 倒れた雪哉も、駆けつけた敬一郎も、審査会議から直行してきた信隆も、着替えていなかったことにやっと気づき、笑い合った。 その後、着替えに行くしかないなと部屋のドアを開けたところに、運航部長が立っていて、ロッカーの鍵を寄越しなさいと手を出した。 聞けばオペレーションセンターはすでに雪哉が倒れた話で持ちきりで、今戻るとまた騒ぎになりそうだから、着替えを取ってきてやるというのだ。 もちろん、取ってきた着替えと引換に、きっちり事情聴取はされて、雪哉はとりあえず、精密検査の結果が出て許可が下りるまで乗務停止になった。 初めてのことにショックを受けている様子の雪哉に、運航部長は『とにかく一刻も早く心配のない状態にして戻ってこい』と肩を叩いて激励し、地獄の香港フライトだった敬一郎と、OJT審査だった信隆を労って帰って行った。 そして、3人はやっと帰路についた。 |
後編へ |
おまけ小咄
『キャビンクルーは今日も大騒ぎ』
「来たわね〜、大型新人、中原香平」 「でも、私より歳もキャリアも上なんですよ、彼」 「いくつだっけ?」 「28。キャリア7年目よ」 「え〜。23、4くらいに見える〜」 「28ってことは、ゆっきーと同い年ですよね」 「ゆっきーは18くらいにしか見えないけど」 「それ、盛り過ぎ。ゆっきーはいいとこ15、6歳。時の流れが別次元の生き物だから」 「それ言えてる。…って、香平くん、あの外資でアシスタントパーサーだったんだって?」 「アジア人初って聞きました!」 「うん。だってあそこは母国人しか出世できないって言うじゃん」 「って聞くよね」 「英・独・仏の3カ国語ペラペラだって」 「すっご〜い」 「都築教官ですら、英・独だよ?」 「うちのクルーは大概そうだよね。英語以外に話せる人って大概ドイツ語だよ」 「フランクフルトとミュンヘンは便数多いですからねえ」 「でも、パリ便あるのに、フランス語できるクルー、少数派だよね」 「あとは、北京語ですね」 「まあ、羽田のインターはフランス語圏の路線はパリ便しかないし、香平くんの古巣はフランス語できないとお話になんないし」 「そりゃそうだ」 「ちょっと訂正」 「なに?」 「都築教官、フランス語もイタリア語もできる」 「え〜、なんでですか?」 「うち、イタリア直行便ないじゃん」 「うん、フランス語は、香平くんをスカウトするためにちょっと囓った程度らしいんだけど、イタリア語はね、一時期イタリア系のもて男を目指したらしいんだけど、やっぱり性に合わないって、止めたときにはもう言葉はマスターしてたって」 「なんじゃそりゃ」 「都市伝説レベルだな」 「いやー、都築教官のことだから、実は別の理由あるかもよ」 「ああ、イタリア人のマジ恋人がいた…とかですね」 「あー、それありそうだー」 「ってか、香平くんって、都築さんがぞっこん惚れて引き抜いたらしいね」 「そりゃそうだろ〜。他の引き抜き組も実力は当然あるし、長身イケメンだけどさ、香平くんって何か、雰囲気持ってると思わない?」 「それわかります! 何か華があるって言うか…」 「だよね。そう言うところ、都築さんに似てると思わない?」 「うん。『綺麗』の種類は全然違うんだけどね」 「見る角度と笑い方によって、綺麗だったり可愛かったりするよね」 「私、前のエアラインの制服姿の写真見せてもらったんですけど、絶対うちの制服の方が似合ってます!」 「あー、それ解る〜。うちの制服って、やっぱり日本人向きの色とデザインだから、香平くんみたいなアジアンビューティーにはぴったりだよ」 「同感だねえ。ただし、体型の維持が必須だけどさ」 「だよねえ…」 「ちなみになんだけど」 「なに?」 「香平くんが前に居たエアラインから、すでに何人ものVIP客がこっちに流れてるって噂あり」 「えっ、マジですか?」 「追っかけってこと?」 「かもよ」 「路線被ってたっけ?」 「パリとロンドンとフランクフルトとアメリカ西海岸はね。香平くん、成田から東海岸へも飛んでたんだけど、うちの羽田ベースって、東海岸の路線ないからねえ」 「ってことは、東海岸へ行く以外はわざわざ羽田から飛ぶうちのエアラインを選択してるってことですか?」 「でしょうね」 「…そんなところも都築さんっぽいよね」 「都築教官も、追っかけすごいですからねえ」 「政府要人の奥様方にも絶大な人気だからね」 「…にしても、都築チーパーってずっと独身でいるつもりかなあ」 「いくつだっけ?」 「来年あたり40の大台じゃなかったっけ」 「見えないよね」 「見えないってか、渋さと若さが混在した妖しい魅力だよ、ますます」 「ゆっきーとは違う方向で、異次元だよね、彼も」 「恋人が多すぎてひとりに決められないんだ…って笑いながら言ってるけどさ」 「いや、実態は『仕事の鬼』だよ」 「だね」 「ま、ここまで来たらもう、妙なオンナに捕まるより、独身通してもらった方がこっちも嬉しいかな」 「私は香平くんとか推奨ですね」 「いやいや、それを言うならAPの岡田くんがいいよ」 「でも、都築教官って『教え子には手を出さない』って公言してるよ」 「あ〜、じゃあ岡田くんの線は無いか」 「あの子、うちの生え抜きだからね」 「ってことは…」 「ふふっ、香平くんは教え子じゃないですよ〜」 「……」 「…どうしたの? なに考え込んじゃってんの」 「や、ごめん。妄想に耽っちゃったんだけど、ちょっと絵になりすぎだよ。教官と香平くんじゃ」 「確かに。決まりすぎててちょっとシャレにならんって気がする」 「ってかさあ、ただでさえ独身女子がこれでもかってくらい溢れてる職場なのに、来栖キャプテンとゆっきーにくっつかれちゃってさー、もうこれ以上いい男同士でくっつかれちゃたまんないわよ」 「それ言えてる…」 「よっしゃ。絶対、都築教官と香平くんはくっつけないぞ〜」 「って、あんまり妨害しちゃダメだよ」 「なんで?」 「都築チーパーって、絶対障害がある方が燃えるタイプだからさ」 「…難しい舵取りになりそうだな…」 「……ってさ、イケメン同士をくっつけないように画策しなきゃなんないエアラインってなんなのさ」 「………ま、深く考えるのやめようよ…」 |
不毛な座談会ですみませんm(__)m |
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