『先日提出しました辞表につきまして、お話しさせていただきたいことがあります。お疲れのところを申し訳ありませんが、帰着されましたら少しだけお時間いただけませんでしょうか。ロッカールームにおります』


 那覇往復でのシックスマンス・チェック(クルー昇格半年目のチェック)から帰着した信隆は、今日も数時間で満杯になる自分のメールボックスから、一通の手紙を取り上げた。

 信隆のスケジュールは公開されている。

 それでもなかなかつかまえられないから、用があれば皆、信隆のメールボックスに用件を入れる。

 携帯アドレスも大概のクルーが知っているけれど、忙しいのがわかっているから、本当に急用でなければ使わない。

 それは、キャビンクルーたちの間では不文律となっている。
 社用メールアドレスは、クルー同士ではめったに使わない。
 あれは他部署とのやり取り用だから。


 信隆がたくさんの要件の中からすぐに見つけ出した手紙の差出人は中原香平。

 現在国際線OJT中のキャビンクルーだが、2週間の地上訓練中に辞表を提出して来た。

 理由は言うまでもなく雪哉のことで、当然信隆はそれを受理せずに自分預かりにしていた。

『私がすんなり受け取ると思った?』

 そう尋ねたら、静かに首を振り、『ただ、これは私のけじめですから』…と、目を伏せたまま言った。 

 本気なのは見て取れたが、もちろん手放す気はさらさらない。

 前の職場に偵察に行ったあの日から今まで、香平に接してきて感じているのは、能力の高さだけではなく、『この子なら、後を託せるかも知れない』…と言う思いだ。


『取りあえず預からせてもらうよ。明後日からOJTだろう? これを正式に受理するまでは、気を抜かないでやってもらいたいけれど、どう? もうそんな気はない?』

 その言葉に、香平は視線を上げて、しっかりと信隆を見た。

『いえ、乗ってしまえば関係ありません。この制服をお返しする時まで、キャビンを守る一員として全力を尽くします』

 はっきりと告げた香平の肩を、嬉しさを隠したポーカーフェイスでポンと叩いて、『急くことはないよ。もう少しゆっくり考えてごらん』とだけ言って、信隆は辞表を上着の内ポケットにしまい込んだ。


 あれから10日ほど経った。

 その間に雪哉と話をしたのは聞いていて、雪哉からは『ガツンと言っておきましたから』…と、報告を受けている。

 おそらく辞表の撤回だろう。
 そう、信隆はこの日を待っていた。 

 香平が待つロッカールームへの足取りは軽かった。


☆ .。.:*・゜


 キャビンクルーの頂点に立つ信隆は、現在乗務の8割が審査・査察教官としての業務で、以前のように国際線専任ではなく、国内線もたびたび飛ぶようになっていた。

 本当は通常乗務に就きたいのだが、数年前から何度も『降りて後進の指導に専念できないか』と言われていたのを『自分は飛んでいるからこそ能力を発揮できているのです』とケリ続けた結果、ついに『上』が折れて、『もう降りろとは言わないから、その代わり査察教官として現場を引き締めてくれ』…と言われて、現場トップに就任することになった。

 本来、現場トップのクラウンチーフパーサーは、早くても40代後半での昇格が常で、信隆はまだかろうじて30代なのだから、破格の出世には違いないのだが、異論はどこからも出なかった。

 信隆より一回りほど上の、前任のベテランクルー――もちろん女性だ――が『地上に降りる』ことを決断し、客室乗務員部のゼネラルマネージャーに就任する際、『都築くん以外に後任は譲らない』と言ったとか、個人大株主の某氏から、『都築くんを降ろすのなら、今後の出資を考える』…と、脅しがあったとかなかったとか…の噂も一時流れたが、真偽のほどは定かではないし、それがなくともこの人事は現場からは歓迎されている。

 とにかく皆、信隆には現場にいて欲しいのだ。いつまでも。
 そして信隆もまた、降りる時は辞める時だと思っている。今のところは。

 ただ、すべてを統括する立場になったので、チームからは離れた。

 かつての『国際線:都築チーム』は、現在は『国際線:藤木チーム』になっていて、上級CP試験を一発で通過したノンノンが160名を束ねている。


 信隆のクルーとしてのスタートは入社2年目からだった。

 総合職で運航本部に配属になる予定だったのだが、研修で行った客室訓練部にどっぷりハマってしまい、自ら希望して――運航部長に直訴した――客室訓練部へ異動。
 その後、訓練に携わるからには経験が必要と、客室乗員部へ異動。
 そのまま居着いて正式にクルーになってしまったのだ。

 その後のキャリアは言うまでもなく、あっという間にアシスタントパーサーになり、様々な資格を総なめにしてチーフパーサーに昇格。

 そして誰よりも若い年齢で上級チーフパーサー、教官チーフパーサーとステップアップして、ついにクラウンチーフパーサーに登り詰めた。

 誰よりもこの仕事を愛していると自負してはいるが、自分たちの仕事で最も大切なのは『チームの連係』であり、個人の能力がいくら高くても、それができなければ全く意味がない。

 だから、後進を育てることはやはり、自分の大切な役目なのだと言うことも理解はしていて、そのためにもやはり、どうしても香平を手放すわけにはいかなかったのだ。

 いや、それだけではないような気もしている。

『仲間たち』は等しく、どの先輩もどの後輩も無くしたくはない。

 ただ、香平については『仲間』と言う括りだけではなく、その成長を側で見守って行きたいと強く願っている。

 そう、雪哉を見守ってきた、あの頃のような気持ちで。


 上着の内ポケットで、カサ…と、音がした。
 香平の辞表をずっと入れていたのだ。いつでも返せるように。 

 ロッカールームに向かう足が、駆け出した。


                   ☆ .。.:*・゜


 辞表を取り下げた香平は、予定通りOJTをあっという間に走り抜け、国際線のクルーとなった。

 その時、不用意な言葉で香平を泣かせてしまったことは、信隆にとって苦い失敗だ。

 けれど、雪哉と同じように、彼もまた、抱えていたものをどこかで吐き出すことが必要だったのではないだろうかと前向きに考える事にした。

 そう、これから先も、香平が『何か』に行き詰まった時には手を差し伸べ、何なら胸を貸してやってもいいな…と思っている。




 そしてやってきた春。

 香平はチーフパーサー試験に合格し、次の乗務からチーフパーサーとしてチームを率いることになっている。

 現段階で取れる資格を全て取り――ほとんどの資格を前の職場で修めていたが、社内資格なので全て取り直しになったのは大変ではあったが――これからの活躍を大いに期待されていて、順調にいけば3年後をめどに上級チーフパーサーへの道が拓けるはずだ。

 世間は4月の入社シーズンになったが、運航本部下にある乗員室や客室本部下の客室乗務員部はいつもと変わらない。

 キャビンクルーと自社養成パイロットの入社は確かに4月なのだが、パイロット訓練生は入社した後、路線訓練に出る3年後くらいまでここにはやって来ない。

 キャビンクルーは大人数を一度に訓練できないので、4月に入社した後、訓練開始を4月・7月・10月の3期に分けている。

 10月開始の訓練生は半年待機になるのだが、その間に何もせずにただ待っていただけか、何かを学んでいたかの差は、信隆たち教官には見抜かれてしまうことになる。

 航大からの入社は、そもそも航大の入学自体が年4期に別れているから、当然入社も4期に別れている。

 つまり、パイロットもキャビンクルーも年中新しい訓練生がやってくると言うわけで、そう言う意味では社内に『春だ』と言う季節感は少ないと言えるだろう。

 ただ、年末年始と盆休みの頃の超繁忙期には、これでもかと言うくらいに季節感を感じざるを得ないのだが。


 そうして、入社して訓練を開始したキャビンクルーは、入社後1ヶ月は地上研修を受ける。

 その後、2ヶ月の客室訓練を受けるのだが、最初は全員国内線乗務を目指す。

 地上での訓練をチェックアウトすると運航便でのOJTが始まり、初めて乗客の前に出ることになる。OJTは約2週間。
 チェックアウトするとクルーに昇格し、『客室乗務員』が誕生する。

 その後、最初の6ヶ月目でチェックがあり、その後は1年ごとに試験と訓練で資格更新することになる。

 国際線乗務は、本人の希望と会社からの選抜。
 国内線クルー昇格の1年後から希望を出すことができて、訓練は2ヶ月。OJTは1ヶ月。

 その後も、機種別資格、ビジネスクラス、ファーストクラスのクラス資格など、様々な資格試験を受けながらの乗務は、パイロット同様、勉強の日々だ。

 機内アナウンスにも資格があって、資格を取らないとアナウンスはできない。
 年に1回の緊急救難訓練と試験では、落ちれば当然乗務停止になるので、訓練が近づいているクルーは顔色でわかると言われているくらいだ。


 そんな彼らの制服は『利休白茶(りきゅうしろちゃ)』と呼ばれる明るめのグレーのジャケットと、少し濃いグレーの『海松茶(みるちゃ)』のボトム。

 男女ともにジャケットとベスト、ボトムのセットで、ワイシャツ・ブラウス共に、白藍(しらあい=薄いブルー)と灰桜(はいざくら=薄いピンク)の2色から自由に選べる。

 ジャケットとベストのダーツ部分、ボトムのポケット部分には真朱(まそお=朱寄りのピンク)の細いパイピングが施されていて、『スタイルが良く見える』と女性クルーには好評だ。

 女性のスカーフは日本の伝統色を配したマルチカラー。
 結び方によって見える色合いがかなり変化するので、何枚も持っているような効果がある。
 階級による色の違いはない。

 男性のネクタイは、鉄紺(てつこん)と、パイピング色と同じ真朱の2種類。ワイシャツとの取り合わせは自由だ。 


 そして、左胸には社章と名札。

 社章は虹色の翼がデザインされていて、ネームプレートには姓のみが漢字で書かれていて、その下に少し小さめのフォントでファーストネームの頭文字と姓がローマ字表記されている。

 香平のそれは、『中原』と『K.Nakahara』の表記になり、そのネームプレートには小さなクリスタルが2個、ついている。チーフパーサーの印だ。

 アシスタントパーサーでは1個で、上級チーフパーサーは3個つけることができ、『スリー・クリスタル』と呼ばれている。

 信隆は当然クリスタル3つだが、ネームプレートの上部に虹色の翼が小さく冠のようにデザインされていて、『全てのキャビンクルーの中で1番偉い人』――クラウンチーフパーサーを示している。

 そして、クラウンチーフパーサーは、そのネームプレートのデザインから、別名『Rainbow Wing』とも呼ばれる。

 ちなみにパイロットのネームプレートも同じ表記だが、職位を示す印はない。制服を見れば一目瞭然だからだ。

 その他胸に付けるものには、手話ができることを示すバッジや英語以外の言語ができる場合の国旗バッジなどがあり、ソムリエ資格を表す葡萄のバッジもよく見かけるもののひとつだ。

 香平はフランス国旗とドイツ国旗、葡萄のバッジを付けているが、チーフパーサー業務がこなせるようになって一段落したら、手話の勉強も始めようと思っている。

 外資系と違い、同じ路線でも乗客は圧倒的に日本人が多いから、役に立つかも知れないと考えたからだ。

 身だしなみは基本中の基本。

 女性クルーと違って化粧の時間が要らない分、男性クルーは楽だと思われがちだが、髪型にこだわる男性クルーは結構いるから、結局トータルは変わらないのかも知れない。

 ただし、あくまでも基本は『清潔』だ。

 新人は時間がかかると言われている女性のスカーフも、慣れてしまえばネクタイより早く、色々なパターンの結び方を工夫して乗客の目を楽しませている。



 そして、相変わらず『春』と言う感じがしないなと思われていたある日、ビッグニュースがオペレーションセンターを駆け抜けた。

 伝説のチーフパーサー『並河華』――現在は牛島華――が、訓練教官として訓練部に帰って来たのだ。

 度重なる要請にも、本人は現場を離れて久しいことを理由にあまり乗り気ではなかったのだが、10歳になった娘から『私もママみたいなキャビンクルーになりたいから、ママも頑張って』とエールを送られたのをきっかけに、自ら『3ヶ月の試用期間』を申し出て、それで使い物になると訓練部が認めれば…と言うことになった。

 結果は言うまでもなく、華の復職にオペレーションセンター全体が湧いた。 

 ちなみに復職は夫からも歓迎、後押しされたのだが、主な理由が『来栖と雪哉が一緒にショウアップしてるのが羨ましいから、俺も華ちゃんと一緒に出勤したい』…と言う、かなり身も蓋もない話で、さらにその際、敬一郎と雪哉のことを『同伴出勤』と言って、雪哉に足を踏まれた――可愛いことに、わざわざ靴を脱いで踏んでくる――のだが、『キャプテンの足を踏むコ・パイ』と言う、あり得ない事態を目の当たりにして驚愕する新人キャビンクルーに、『いいんだ。俺と雪哉はステイ先で一緒に寝る仲だから』と、その細い肩を抱き寄せながら言い放ってさらに辺りを固まらせて喜んでいるうっしーは、相変わらず人気者だ。


 こうして、365日24時間・年中無休の職場ながら、一応の新年度を順調に発進し、『恐ろしく忙しい』ゴールデンウイークを乗り切り、オフシーズンの梅雨の頃を迎えていた。




「中原チーフパーサー」

 午後2時少し前、オペレーションセンターの廊下で声を掛けてきたのは香平が国内線OJT中だったときの『同期』の女性クルー。

 彼女は当時、短大を卒業して半年ちょっとと言う21歳の訓練生で、同期のOJTとは言え香平はすでに他社エアラインで6年のキャリアを持つ身であったから、随分色々な相談に乗っていた。

 昇格6ヶ月目のシックスマンス・チェックも無事通過して、秋には国際線への希望を出すようだと、国内線のチーフパーサーから聞いている。


「あ、久しぶり。その後、どう?」

「おかげさまで、なんとか先輩方の足手まといにならないようになってきました」

 見上げてくる笑顔に『頑張ってるね』と笑顔で答えると、彼女は少し、頬を赤くする。

「あの、今少しお時間いいですか?」
「うん、プリブリまでまだ30分あるから大丈夫」

 香平はこれからフランクフルトへの乗務だ。

「何かあった?」

 様子からして、何か不安を抱えているのだろうと察せられたから、少し小さめの優しい声をかけてみる。

「…あの…お客様のご不満に、上手く対応…出来ないんです…」

 それは、キャビンクルーの誰もが必ず通る悩み…だ。

「例えばどんなことに困った?」

「隣のお客様の香水が鼻につくから席を替えて欲しいと言われたのですが、満席でどうしようもなくて…。そうご案内したら、2時間も我慢出来ないって、泣き出されてしまって…」

 席を替えて欲しいと言うのはよくある話だ。

 中には『在りもしない理由』をでっち上げて、席替えを強請る乗客もいる。

 そういう場合は大概、あわよくば空いているビジネスクラスへの案内を期待しているが、明らかな体調不良などでない限り、クラスを替えることには応じてはいない。


「確かに満席だとどうしようもないよね。でも『満席だから我慢して』って言われたら、悲しくなるのも確かでしょう? そんなとき、1番近道なのは、『自分だったらどう対応されたいか』を考えることかな」

 少し首を傾げた彼女に、香平もまた少し考えて続きを口にした。

「子供の頃、『自分がされて嫌なことは、人にしない』って言われたことない?」

「あります」

「その反対だよ。『自分がされて嬉しいこと』なら喜んでもらえるんじゃないかな。自分が同じ不満を持ったとき、どんな風に対応してもらえたら嬉しいか…ってね。不満を真剣に聞いてもらえるだけで気が収まることもあるし、何らかの対応が必要になるとしたら、その見極めもつきやすくなるように思うけど、どうかな?」

 柔らかい笑顔でそう言うと、彼女は目を見開き、曇りを払った晴れやかな顔で『はいっ』と、元気に返事をした。

 香平の言葉は伝わったようだ。

「ありがとうございました!」

 香平のアドバイスはいつもこんな感じだ。
 決して『こうしなさい』とは言わない。
『こんな風に考えてみるのはどうかなあ』…と、続きを自分で考えることを促す。
 それは、以前の職場から変わらない。

 駆けていく新人の後ろ姿を見送って、香平はそっとため息をつく。


「…自分がされて嫌なこと…か」

 ポツンと呟くのは、子供の頃の自分をまた思い出したから。

 あれは『好きな子を苛めて気を引きたい』という、極めて幼稚な心理から発生したことだったけれど、苛められていた雪哉には辛い日々だったに違いない。

 そんなことも思いやれないで、よくも『好きだ』なんて言えたものだと自分でも呆れているのだ。ずっと。

 またひとつ、小さく息を吐いたとき、ポンと香平の肩を叩く手があった。


「あ、都築教官」

 振り向けば、そこには誰もが見惚れる美しい微笑みがあった。

 信隆本人が『クラウンチーフパーサーとか、舌噛みそうな長ったらしい肩書きで呼ばないで欲しい』と言いだしたため、今は大概のクルーが『教官』と呼んでいる。
 いくら何でもただの『チーフパーサー』では申し訳ないと思っているからだ。

 ちなみに乗客の前では、上下関係無く全員が『苗字+さんorくん』で、職位はつけない。
 職位を付けなくてはいけないのはキャプテンだけだ。


「どうした? 何へこんでる?」

 後ろ姿だけで凹みを見抜かれてしまうほど自分がダメなのか、信隆の見抜く力が優れているのか、ともかく乗務前に凹んでいる場合ではないと、香平は少し無理をして笑顔を作った。

「ちょっと、ダメな自分と向き合っていたところです」

 その言葉だけで粗方を察してしまえる信隆は、茶目っ気たっぷりのウィンクを香平に送って言った。

「胸、貸そうか?」

「お気持ちはありがたいですけど、もうあんな無様な姿はお見せしたくないですから、踏ん張りますよ」

 冗談と取って、香平はまた笑ってみせる。
 信隆的には、これっぽっちも冗談ではないのだが、冗談に聞こえるように言ったのも確かだ。

 それに、香平なら『無様な姿』でも美味しくいただけてしまいそうだとも思った。

 そして、思ってからふと気がついた。
 
 どこかで聞いた台詞だなと思ったら、敬一郎が雪哉に熱烈に告げたあの言葉だ。

『みっともない雪哉も全部俺のものだ』…と。

 そう思える自分がなんだか新鮮で、信隆は気持ちのまま、まるで子供をあやすような優しい声で言った。

「踏ん張るのはいいけど、無理しちゃダメだよ」

 けれど、香平の声は少しばかり固かった。

「はい、お気遣いいただいてありがとうございます」

 期待されて引き抜かれて来たからには、早く独り立ちしてチームを纏めねば…と言う意識がまだまだ強い様子で、やはり少し無理を重ねてはいないかと、信隆は香平の様子を注意深く伺う。

 それとはわからないように。


「頑張るのは良いことだけど、ひとりじゃないってこと、いつも忘れないようにね」

 チーフパーサーに求められるのは、統率力だけではなく、歯車の一つとなって、全ての歯車を円滑に連結させること。

 一つだけ速さが違えば、歯車は外れてバラバラになってしまう。

「はい、気をつけます」

 少し目を伏せつつも穏やかに答えた香平の肩を抱いて、信隆は歩き出す。

「で、今日はフランクフルトだよね」
「そうです。711便です」

 答えつつ、香平は内心で驚いていた。
 もしかして、チーフパーサー全員の乗務便を頭に入れているのだろうかと。

 国際線だけならば出発便は1日40便だが、現在の信隆は国内線も全て束ねているから、その数はとんでもないことになるはずだ。

 そしてもちろん、いくら信隆といえど、1日の出発便すべてのチーフパーサーを覚えているわけではない。
 いや、覚える必要もない。必要ならば、手元のタブレット端末で瞬時にクルー全員の現在状況を呼び出せるのだから。

 香平の乗務便を知っていたのは、ただ、『香平が乗るから』という理由だけなのだ、実は。


「あっちへのルートは明日まで隣接空域で軍事演習があるからね。キャプテンたちは緊張されてると思うよ」

「そうなんです。ルートの変更もあるかもしれないなと」

 抱かれている肩が温かくて、うっかり気持ちよくなってしまいそうな気分を慌てて払い、香平はまた気持ちを引き締める。

「とにかく、キャプテンには集中して頂けるように、キャビンをしっかり纏めたいと思います」

 少し固い香平の表情を解すように、信隆はまた綺麗に笑った。

「あっちも、この1週間は天気に恵まれているようだから、ステイ中にしっかりリラックスして、帰りも頑張っておいで」

「はい」

 漸く香平らしい、可愛らしい笑顔を見せたことに信隆はホッとして、『行っておいで』…と、プリ・ブリーフィングに送り出した。



 キャビンクルーのブリーフィングルームは、大人数が囲める細長いテーブルがずらりと並ぶ広大な空間だ。

 パイロットたちのディスパッチルームは、ひとつひとつのテーブルが小さい。
 通常はディスパッチャーと機長、副操縦士の3名、マルチ編成でも交代機長がひとり増える4名だけだからだ。
 しかも、カウンター式で、ディスパッチは立ったまま行われる。

 打ち合わせ事項はキャビンクルーに比べようもないほど多岐にわたり、その結果『飛行計画書(フライト・プラン)』に機長がサインをして、旅客機は飛ぶことができる。

 キャビンクルーのブリーフィングは、多いときには1チーム15名にも及ぶことがあるので、国内線出発のピーク時ともなれば、プリ・ブリーフィングルームはごった返すが、国際線の出発は時間がばらけているので、『ラッシュ』に巻き込まれることは比較的少ない。

 香平はブリーフィング開始10分前には席に着いているが、この日はすでに全員が揃って香平を待っていた。

『中原チーフパーサーは早く来る』と、皆が認識し始めたからだ。

 香平としては、少し早く来て、乗務経験の浅い子とコミュニケーションを取りたいな…と言う意図があっての事なのだが、こうなってしまえばもう、その分早く終えて、搭乗までの間にその時間を取るしかなさそうだ。


「では、フランクフルト行き711便、プリ・ブリーフィングを始めます」
「「よろしくお願いします!」」

 本日の乗務はチーフパーサーの香平の下、アシスタントパーサーが4名とクルーが7名の12名体勢。

 ブリーフィングが始まると、まず健康状態のチェック、パスポートなどの必須携行品のチェックが行われ、本日の担当が発表される。 

「機材はトリプルセブン・ダッシュ300(777−300)、260席です。ファースクラスト以外は満席です」

 そう言って、香平はクルーを見渡し、1番遠くにいる、国際線乗務初便のクルーに目を留めた。

「石川さん」
「はいっ」
「トリプルセブン・ダッシュ300のドアの数はいくつですか?」
「10です」

 即答だ。だが彼女は今まで1年間国内線に乗っていたのだから、これは当然のことだ。

 だが。

「では、本日はルートに隣接して軍事演習が行われていますが、どの空域か教えて下さい」

 思わぬ質問に、目を見開いて、言葉を詰まらせる。

 先輩たちの視線が注がれる中、恐らく背中には冷たい汗が流れていることだろう。

「キャビン・ブリーフィングの時にまた聞きますから、それまでに確認しておいて下さい」

「は、はいっ」

 そう、このために香平は、いつもわざわざ10分前に来ているのだ。

 慣れないうちは皆、大概早く来ているから、その時に『今日はこういう事を聞くから』と10分の間に予習しておくように促すためだ。

 特に今日のように、OJTを終えて初めて正式クルーとして国際線に乗る子がいれば、色々と不安もあるだろうから、一対一で少し話もしたかったのだけれど。

 全員の前で突然指名されれば焦るのは当然だが、焦って答えが出なくても許されるのはもちろん最初の間だけで、キャビンクルーたる者、どんな局面でも焦りやパニックは禁物だ。

 中には、プリ・ブリーフィングで突然指名されて焦ることを繰り返させて鍛えようとするチーフパーサーもいるのだが、香平はそれよりも、落ち着いて予習を繰り返すことで、短時間で多くを考えられるようになるのではないかと考えている。

『焦ることに慣れる』のではなく、『焦らなくて良い』ようにするには、座学と実践の積み重ねだと。


「では担当を発表します」

 10あるドアの担当を伝える。
 これで、今日はどのクラスを担当するのかもわかる。

 そしてもちろん、緊急時にはそのドアから乗客を90秒以内に避難させるのが最も大切な役目だ。

 この後、コックピットクルーと行うキャビン・ブリーフィングの時には、名前と共に担当ドアを言うのが決まりになっているから、皆、ドアの位置とその周辺の座席配置を頭の中で再確認する。


「インファントはゼロ、チャイルドは2名、3歳と5歳です。その他にお客様に要支援や要注意事項はありませんが、ミールに要注意があります。アレルギー対応食が、チャイルドミール、エコノミークラス各ひとつの2名分、計4食。ハラルミールが1名分、計2食あります。これらの取り違えは許されません。重ねての確認をお願いします」

 香平の言葉に、クルーたちは一斉にタブレット端末に目を落とし、座席配置図中に示されている『特別食』の位置を確認するが、グループや家族で搭乗している場合、席を変わっている可能性もあるので、口頭での確認は必須だ。

 その後、緊急時の機材マニュアルを端末で確認して質問をしあい、担当クラスに別れてミニ・ミーティングを行った後、用意が出来たクルーから、税関と出国審査を通って出発ゲートへ向かう。

 乗客が搭乗を始める約30分前だ。 



 香平は、半年ほど経てば30歳になるのだが、羽田ベースの国際線チーフパーサーとしては現在最も若い。

 ただ、その半年の間に、順調に行けば1歳上と同い年の女性クルーが2名、チーフパーサーに昇格する予定だ。

 最初から早期にチーフパーサーになることを求められて移籍してきた身だから、年齢が若いと言うことを気にする必要はないのだが、出来るだけフライトチームの最年長がチーフパーサーになるようローテーションが組まれるので、香平がチーフパーサーだと言うことは、つまりチーム全員20代と言うことになることが多く、若干の心細さが無いわけではない。

 ただ、ファーストクラスが満席ともなれば、上級チーフパーサーか、地上職を兼務するベテランのチーフパーサーが一緒に乗ってくれるから、その時には『客室最高責任者』はベテランにお願いして、香平は担当業務に専念している。

 以前の職場ではファーストクラスはまだ担当できなかったから、ここへ移籍して、国際線の地上訓練とOJTのほとんどをファーストクラスの訓練に費やした。
 
 以前、フランスの三つ星レストランで実習もして本場のサービスは身につけていたけれど、日本のおもてなしは更に奥が深く、独特の気遣いも多岐にわたっているため、学ばねばならないことは山ほどあったが、充実した毎日だったし、それを生かせる毎日が送れていることに幸せを感じている。

 本日のファーストクラスは8席中4席の予約。
 4名ならば、香平と、もうひとりのファーストクラス資格を有するアシスタントパーサーの2人で対応できるし、ミールサービスが重ならなければ――ファーストクラスには決まった食事時間がなく、顧客が要望する時間に行っている――アシスタントパーサーに任せて自分は後ろへ様子を見に行くこともできる。

 それに、ファーストクラスの乗客は案外手がかからないのだ。
 みな、旅客機に乗り慣れていて、サービスされることにも慣れているから。

 ただ、今日のファーストクラスの乗客名簿を見て、少し思うところがあった。
 以前のエアラインで可愛がってくれていた顧客と同姓同名の名があったからだ。

 もしかして…とも思ったが、まさかな…と言う思いもあり、ともかく気を引き締めて行こう…と、ゲートに向かう。



 何人かのクルーと話ながらシップを目指して歩いていると、かなりの乗客が香平を目で追うのはもうすでに日常茶飯事だ。

 長身・イケメン揃いと評判の男性クルーの中で、身長は小さい方だが、目を引く容姿は綺麗と可愛いの間くらいで、表情を引き締めればキリッとした美人になり、笑えば花が綻んだように可愛らしくなる。

 そんな香平の以前の職場にはそれなりに男性クルーも多くいて、1便に最低でも2名の男性クルーがいたから、ここへ来て『たったひとりの男性クルー』状態に、しばらくはかなり緊張をしていた。

 しかし、考えてみれば信隆はその状況で15年近くがんばって来たわけだから、やはり精神的にも強く、また心底優しい人なのだろうなと、思っている。

 そして何より、尊敬をし、叶うことなら彼のようなクルーになりたいと心から願っているし、努力していきたいと思っている。


 信隆と香平の年齢差は10。
 間の期に男性クルーはほとんどいない。

 信隆と同じように総合職で入ってきて、客室乗務員部に配属されて、能力を見込まれて信隆にスカウトされたのが9名いるだけだ。

 今はそれぞれ、福岡・大阪・成田の各ベースで信隆と同じように教官チーフパーサーとして、またベースを纏める『統括マネージャー』になって活躍している。

 香平が大学を卒業した年にも採用がなく、定期採用が始まったのは3年後だった。

 香平と同時期に引き抜かれた4名は、香平と同い年がひとりと1〜2歳年上。

 生え抜きのクルーは3つ年下からで、今年の採用が本格採用のやっと5期目になるから、アシスタントパーサーに昇格した子はいるものの、まだまだチーフパーサーには届かない。

 が、人数は格段に増えて、信隆の思惑通り、最低ひとり乗せるという目標は、着実に進んでいる。


 引き抜かれてきた5人のうち、3人はそれぞれ大阪ベース、福岡ベース、成田ベースに配属になった。

 うち、大阪と福岡は元から『地元ベースを希望』という事だった。

 羽田に配属になったのは、香平ともうひとり。

 その、『もうひとり』――三浦健太郎から、香平はある相談を持ちかけられていて困っているところだ。

 健太郎は1つ年上で、アメリカのエアラインから引き抜かれてきた。

 香平と同じく、すでにアシスタントパーサーだったのだが、やはりこれも香平と同じく、新卒当時国内のエアラインに採用が無かったから渡米した…と言うわけだ。

 身長は香平より4、5センチほど高く、細身の香平に比べると随分しっかりとした体躯で、顔つきも『ハンサム』とか『イケメン』というよりは『男前』と言った表現の方がしっくりくる。 
 柔道は黒帯だという話だが、無駄に分厚いわけでもなく、スタイルも良い。

 そしてこれも香平同様、トントン拍子でチーフパーサー資格を取って、彼曰く『憧れだったエアライン』の国際線で生き生きと働いているところ…なのだが。

 そんな健太郎はなんと、『コ・パイのゆっきー』に『マジ恋』をしてしまったのだ。

 キャラの方ではない。
 本物の『来栖副操縦士』の方だ。キャラなら問題はなかったのに。

 気持ちを打ち明けられた時には相当驚いた。
 何しろ自分も雪哉に失恋したばかりで、やっと気持ちの整理もついて、前向きにがんばろうとしていた矢先のことだったから。

 もちろん、自分も恋をして破れたのだ…とは一言も言っていない。

 黙っていることについて若干の後ろめたさも無くは無いけれど、知らない方が幸せなこともあるから…と、敢えてこのまま黙っているつもりではいる。

 けれど、雪哉に恋をしても成就はしない…と言うことだけはハッキリしているので、一度言ってみたのだ。『来栖キャプテンと雪哉の関係って、どう思う?』と。

 何にも気づいてないのだとすれば、少し匂わせておかなくてはいけないと思ったのだが、残念なことに健太郎は、『そんなことはすでにお見通し』だった。

 先日も、『スケジュールのコックピットクルーの欄に『来栖』って書いてあったから『やった!』って思ったら、キャプテンの方だった…』と、萎れていた。

 けれど、機長としての来栖敬一郎を健太郎はとてもとても尊敬していて――国際線OJT審査が来栖機長のシップで、その時に色々と気に掛けてもらってその男気に惚れたらしい。雪哉とは別の意味で――でも雪哉のことは思い切れなくて、現在身動きの取れない状態…と言うわけだ。

 ともかく、『お友達以上』を望まない方がいいよ…とアドバイスはしていて、それについて健太郎も、『取りあえず、俺がキャビンにいたら安心だ…って、雪哉くんに思ってもらえるように努力していくよ』とは言っているので、今すぐ雪哉の身に危険が迫る…というわけではないだろうと、希望的観測状態だ。

 当の雪哉はそんな健太郎の思いにはこれっぽっちも気づくこともなく、ひとつ年上の『お兄さんクルー』にすっかり懐いてしまっているが。 



 搭乗してから乗客を迎えるまで、キャビンは大忙しだ。

 コックピットクルーと合同で行うキャビンブリーフィングの他、ミールや備品のチェック、安全確認など、やることは大量にある。

 そうして乗客が搭乗する頃には、クルーは皆何事もなかったかのように身支度を調えて、笑顔で乗客を迎えるのだ。

 711便の機材、777−300は、ファーストクラスの乗客が使う前方のブリッジとビジネスクラスとエコノミークラス用の2つのボーディングブリッジが掛けられる。

 ただ、ゲートはひとつなので、搭乗はアッパークラスから開始される。

 ファーストクラスの4人の乗客のうち、最後にやってきたのは香平がもしやと思った通り、以前の顧客だった。

 日本人の若き実業家で、香平は随分可愛がってもらっていた。


「前島様、本日のご搭乗ありがとうございます」
「久しぶりだね、中原くん」

 香平は上着を受け取り笑顔を返す。

「ご無沙汰をいたしました。でも、驚きました。名簿に前島様のお名前を見つけて、まさかと思っておりました。またご一緒させていただけて大変嬉しく存じております」

 これはもちろん本心だ。
 縁がなくなることを、香平も残念に思っていたから。

「あっちのエアラインじゃVIP会員になって久しかったから、君の乗る便を指定するのは簡単だったけど、こっちじゃ新参者だからね。上級扱いしてもらえるようになるまで、少しばかり時間が要ったよ」

 どうやら本気で追いかけてくれたようだ。

「ご面倒をおかけいたしまして、申し訳ありませんでした」

 確かに、可愛がってくれていた顧客と別れるのは寂しかったけれど、追いかけてくれなんて勿論一言も言っていないから、嬉しいには違いないけれど、責められるのはお門違いだし、謝る必要もないのだが、香平はそう言って微笑んで見せる。


「いや、こうしてまた君に再会できて嬉しいよ。それに、一段と成長したようだし」

 美しく整えられた、クラスの高さが表れているような指先が、香平のネームプレートに優しく触れた。

 そこには、2つのクリスタル。

「この2つのクリスタルはチーフパーサーのしるしだと聞いたんだが」
「はい。チーフパーサーを務めさせていただいております」

 以前のエアラインでは、香平はまだビジネスクラスまでしか担当出来なかったのだが、前島は、常はファーストクラスなのに、香平が乗るときには必ずビジネスクラスを利用するほど香平を可愛がっていた。

 香平の笑顔に前島は満足そうに頷き、そしてまた全身を見て、優しげに目を細める。

「制服も、こっちの方が格段に似合うな。上品なグレーが君の綺麗な肌によく映る」

「ありがとうございます。私もこの制服はとても気に入ってます」

 お洒落なのに動きやすくて、クルーたちの評判は良い。

 以前のエアラインでは、お洒落ではあったものの、機能性は余り考えてもらえてなかったようで、少々動き辛かったのだ。
 クルーは背伸びしたりかがんだり…と、とにかく動き回らなくてはならないのに。

「これからまた、中原くんのお世話になるよ。よろしく」

「ありがとうございます。精一杯努めさせていただきますので、こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます」

 ファーストクラスでは、ひとりひとりのタイミングに合わせたサービスを行っているので、食事のタイミングもまちまちだ。

 初めての乗客ならば、何気ない会話から始めて、どのようなサービスを期待されているのか探らなくてはいけないのだが、前島の好みはだいたい把握している。

 ビジネスクラスの時でも、ミールは最初だけでセカンド・ミールの時は珈琲だけだった。いつでも。
 それは恐らくファーストクラスに乗っていても同じだろうと思われるのだが、食事の質は以前のエアラインよりもこちらの方が圧倒的に高い。

 いや、高いと言うよりは、日本人好みの繊細さに仕上げてあると言った方が良いだろう。
 特にクラスが上がるほどにそれは如実に表れている。


 ――好まれそうなものをチョイスして、少し召し上がられてみませんか…って声かけてみようかな…。

 そう思って、香平は小さく微笑んだ。

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インファント:2歳未満の乳幼児のこと。
それ以上はチャイルドになる。


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☆ .。.:*・゜

おまけSS

『愛の旅人〜チーフパーサー都築信隆の華麗…からはほど遠い日常』

1年と少し前、香平くんが移籍して来た頃のお話です。



 都築信隆、38歳。
 某大手航空会社の教官にして、トップ・オブ・キャビンクルー。独身。

 怜悧な美貌と抜群のスタイルに、完璧な接客、そして的確かつ迅速な状況判断と包みこむような優しさで、キャビンクルー人気ナンバーワンの地位について、早10数年。

 仕事にのめり込み過ぎて、特定の相手を見つけられないままにアラフォーに至った。

 同じ独身――ただしバツイチ――の1年先輩がついに『運命の人』に出会い、今や暑苦しいほどラブラブハッピーなのを横目に、自分もいつかはまた、雪哉のように思いを寄せられる子に出会いたい…という野望を持たないわけでもないけれど、実際のところはもうかなりどうでもいい状況で、やっぱり『仕事が恋人』なのは継続中だ。


 今日は早朝にロスから帰着して、帰宅したのはまだ世間が『おはようございます』という挨拶を交わしている頃だ。

「ただいま〜」

「お帰り〜! お兄ちゃ〜ん! 美咲のオムツ替えてやって〜!」

「……いきなりかよ」

 年の離れた妹の、さらに2つも年下のダンナが海外へ単身赴任してしまい、妹は双子の乳飲み子を抱えて取りあえず実家へ戻ってきた。

 任期は一応1年だが、どうも単身赴任が終了したあかつきには、ダンナもここへ転がりこんでくるんじゃないかと言う気がしている。

 まあ、面白い男なので歓迎はするが。


「は〜や〜く〜!」

「はいはい…って、姉貴は何処行ったんだよ〜…って、もう出勤してるか…」

 2つ上の姉は小児科医で、同じく医師のダンナと3年別居した挙げ句に漸く離婚が成立して、中学生の息子を連れて実家に戻ってきたところだ。

 頼りになる姉ではあるが、如何せん多忙だ。

 ちなみに中3になった甥っ子は、来年は信隆の母校を受験する気らしく、受験勉強に余念が無い。
 どうせなら中学の時に受けておけば楽だったのに…とは、まさに『後の祭り』なのだが。


 オーバーナイトバッグを片付ける間もなく、取りあえずうがいと手洗いと消毒だけは念入りに行って、ベビーベッドに行ってみれば、確かにそこに転がっている甥っ子と姪っ子は可愛い。

 が。

「は〜い、美咲たん、オムツ替えようね〜…って、こらっ、蹴飛ばすんじゃないってっ。あっ、陽斗っ、お前っ、何を口に入れたんだっ、こらっ、出せってばっ」

 まったくもって、乳児は小さな怪獣だ。


                   ☆ .。.:*・゜


 そして、夕方…。

「あら? 双子ちゃんは?」

 姉が帰宅した。

「お兄ちゃんのお腹の上。3人でお昼寝中」

「…って、重いんじゃないの? のぶ、うなされてるわよ…」

 胸に一匹…もとい、ひとり。腹にもう一頭…ではなくて、もうひとりを乗せて、時差ボケを解消すべくソファーで仮眠中の信隆は、胸部と腹部を圧迫されて、確かに若干うなされている。

 見ている夢は恐らく、小さな怪獣に襲われているところだろう。


 実は、ロスからの復路便でも赤ん坊の世話をする羽目になったのだ。

 エコノミークラスでベビーバシネットに寝かされていた赤ん坊が大泣きを始めてしまい、周囲からの視線に慌てた母親が必死であやしたが、赤ん坊はまさに『火がついた』ような状態で、キャビンクルーたちも手を変え品を変えあやすのだが効果はなく、辺り一帯が剣呑な空気になってしまった。

 その時。

『少し、お預かりさせていただいてもよろしいですか?』

 信隆がファーストクラスから駆けつけて、微笑んで、母親から赤ん坊を引き取った。

『どうちたのかな〜? ご機嫌斜めでちゅか〜?』 

 赤ん坊はひとりだ。

 家に帰ればこれがダブルで襲ってくる。それを思えば楽勝だ。

『飛行機の中はうるちゃいでしゅね〜。ねんねできないでちゅね〜』

 慣れてしまえばなんとも思わないのだが、実のところジェットエンジンの騒音は赤ん坊にはとてもよくないのではないかと信隆は考えている。
 気圧の変化が宜しくないのはすでに知られているけれど。

 だから、乳飲み子を乗せることにはあまり賛成ではないのだ。
 出来ることなら避けて欲しいと。

 小さく軽く、リズムよく背中を叩きながらあやしていると、赤ん坊は程なく泣き止み、眠った。

『ありがとうございます。助かりました』

『いえ、お役に立てまして幸いです』

『それにしても、あやすのお上手ですね』

 若い母親にそう言われ、ついうっかり、笑顔で言ってしまった。

『私も家に帰れば8ヶ月の双子がおりますので』

『そうだったんですか。優しくてカッコ良いパパさんで、お子さんたち、幸せですね』

 にこやかに、完璧に、誤解されてしまったが、原則として、安全運航に関わる事ではなくて、またお客様の不利益にならない誤解は、いちいち解かない事になっている。

 つまり、不必要な反論は避けると言うことだ。

 だが。

『赤ん坊を見事に、しかも赤ちゃん言葉であやす都築CCP』という、この世の物とは思えないものを目の当たりにした挙げ句、『家に帰れば赤ん坊、しかも双子がいる』というぶっ飛び発言を聞いてしまったクルーたちは、軽くパニックに陥っていた。

 お客様にはわからないように。


『ちょっとぉぉぉ、都築教官、いつ結婚したってぇぇ〜?』

『してないってばっ。3日前に独身のコ・パイたちとシングルの身軽さについて語り合って盛り上がりまくってたもん!』

『でも、あの赤ちゃん言葉と絶妙のあやし方は、絶対慣れてるってっ。家に赤ちゃんがいるのは事実だよ、きっと〜』

『抱き方、堂に入ってたよ…』

『もしかして…隠し子…?』

『やだ〜! 都築CCPがいつの間にかパパだなんて、絶対ヤだ〜!』


 そして、そんな機内のプチパニックが、今頃巨大パニックになってオペセンを席巻しているとは夢にも思わず、信隆は怪獣2匹を身体に乗せて、うなされているのであった。

 いや、この怪獣たちが二足歩行を始めたら、もうのんびり昼寝をすることすら出来ないはず…。


                  ☆ .。.:*・゜

 そして。

 それから数日間、信隆は『都築教官、隠し子発覚! しかも双子! すでに認知済みかっ?!』と言う、見に覚えの無い――しかも尾ひれまでついた――ウルトラスキャンダルを払拭するのに奔走する羽目になった。

 事情を知っているはずの雪哉と敬一郎は、面白がって一緒に盛り上がっていてちっとも援護射撃をしてくれる様子がなく、信隆は『誰のおかげで幸せになれたと思ってるんだ〜!』と、2人が乗るシップに向かって吠えたのであった。


 38歳、花の独身なのに、何故か絶賛子育て中の毎日だが、がんばれ、チーパー! 運命の出会いはすぐそこだ!

 本日の格言。
『這えば立て、立てば寝てろの親心』
 
 
おそまつ。
ベビーバシネット:機内用のベビーベッド
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