「香平、帰着してるよね?」

 デスクでクルーの出退社を管理しているノンノンに、信隆が聞いた。

「定刻ですよ」

 と言う視線の先には、自社便すべての出発・到着がリアルタイムで表示されている掲示板。

 世界中の便をここで確認出来るが、なかでも当然発着数が一番多い羽田の掲示板を見て、信隆は小さくため息をついた。

 確かに『到着』『定刻』と表示されている。


 ――どこに行ったんだろう。もう帰ったのかな。それにしちゃ早いな。

 考え込んだ信隆に、ノンノンが追加情報をくれる。

「デブリの前に『ただいま』って、声掛けてくれましたよ。その後はちょっと急いでる風でしたけど」

 とすれば、退社してしまった可能性は大だ。

「ロッカールームじゃないですか?」 

「いや、いないんだ。もう、退社してる?」

「ん〜? デブリ終わったの、ついさっきですからね。…ええと、ちょっと待って下さいね」

 ノンノンは端末を操作して、香平のIDカードが退社ゲートを通過していないことを確かめる。

「まだターミナル内ですね」
「…そう」

「呼び出しますか?」
「いや、いいよ」

 業務でもないのに呼び出しを掛けるわけにはいかない。
 理由はただ、顔がみたい…それだけだ。

 そして、『いいよ』と言ったきり考え込んでしまった様子の信隆に、ノンノンが首を傾げた。

『都築さん、なに焦ってるんだろう』…と。

 そう、右腕たる上級チーフパーサーの目は節穴ではないのだ。

 ――何かあるな。

 そう感じ、ノンノンは、ちらりと視線を流して高速で考えた。

 どのタイミングで誰に相談するのが一番良いのか…を。


 そんなノンノンの視線を背中に受けているにも関わらず、クラウンチーフパーサーともあろうものがそれに気づくこともなく、取り敢えずもう一度ロッカールームでしばらく香平を待つ事にした。


 が、しばらく待ってみたものの、香平は結局戻っては来なかった。

 こうして、あの日以来、香平に接触出来なくなった信隆は、次第に煮詰まって行った。

 会えずにいる時間が長くなるにつれ、会って自分の気持ちを確かめたいと言う思いは強くなっていくのに、一向に香平は捕まらない。

 メールや電話と言う手段も頭を過ぎったが、顔を見ずに話すとまた、上手く伝えられない気がして、何が何でも顔を見てと思った。

 そう、こんなにも言葉に困ったのも初めてだ。
 いつも、その場にふさわしい言葉が考える前にスラスラと出てくるタイプの人間だったはずなのに。

 増えていくのは、ため息と、そして香平に会えないことでリセット出来なくなってしまった疲労ばかり…。




 信隆が煮詰まり始めていた頃、雪哉はホノルルに飛んでいた。

 ホノルル到着は現地時間の昼前。
 復路便は翌日の18時発で、羽田帰着は日本時間の22時過ぎになる。

 なので、ほとんどのクルーは到着後そのまま現地の時間に合わせて活発に活動して、翌日は昼前までしっかり眠り、ランチの辺りから活動を始めてそのまま乗務に突入し、羽田に帰ったらそのままバタンキュー…と言うパターンで過ごす。

 だが、今日の機長は到着したらすぐに夜まで寝て、夕食を食べてまた寝る…という人で、『晩ご飯になったら起こして』と言い置いて、さっさと部屋に籠もってしまった。

 夕食が全員一緒になるか、各自自由になるかは機長次第で、寝てしまった本日の機長は、『美味いところに連れてってやるから予約よろしく』と、ショップカードをクルーに渡していた。

 こういう場合は、『お支払い』も機長がかなり持ってくれるから、クルーは皆ホクホクだ。

 そうして、皆がラフな私服に着替えて、夕食までの間、それぞれのお楽しみに出かけようとしていたとき、同い年のアシスタントパーサーが雪哉に声を掛けてきた。

「ゆっきー、美味しいチョコアイス見つけてあるんだけど、行かない?」

 以前は敬一郎がひた隠しにしていた『雪哉のチョコ好き』も、今や全社的認識事項で、おかげでバレンタインデーの日には雪哉用特設箱――よりによって『コ・パイのゆっきーパイ』のダンボール箱だったが――まで開設されて、満杯のチョコに喜んだ雪哉が『チョコのお風呂で溺れたい』という名言を吐いてしまい、雪哉の入浴シーンを勝手に想像して『食べてもいないのに鼻血が出そう…』と呟いたクルーがいたとかいないとかで、暫くの間話題に事欠かない状態だった。

 敬一郎と信隆、そして香平は、雪哉が何の躊躇いもなく『溺れる』と言う言葉を使ったことに、雪哉の立ち直りを実感して密かに喜び合ったものだが。


 そして今日もまた『チョコ』と聞いて、雪哉の目が輝いた。

「えっ! 行く行く!」
「あ、俺も行く!」

 本日のチーパーは、『ゆっきーラブ』の三浦健太郎だ。

 香平同様、乗っている間はスマートな物腰で『私』という彼も、降りればあっという間にワイルド系で、1つ年下の雪哉は、寄せられている『ラブ』にはこれっぽっちも気づいていないで、単に『年の近いお兄ちゃん』としてすっかり懐いてしまっている。

 健太郎には『生殺し』状態だけれど。


「え? 香平にストーカー?」

 それぞれの好みのアイスを手にビーチの木陰に座り込み、始めた話がコレだった。

「ストーカーって言うには、ちょっと可哀相なんだけど」
「そうそう、ノーブルな紳士ですもん」
「でも、あれはかなりマジ入ってるよね」

 香平を追って、以前在籍していたエアラインのVIP客がかなりこちらへ流れているらしい…と言う話は雪哉も聞いてはいたが、中でもひとり、かなりご執心のお客がいると言う話に、雪哉は健太郎を見上げて尋ねた。

「三浦さん、知ってました?」
「ううん、俺、当たったこと無いから知らないけど」

 答えつつ、雪哉に見つめられて心臓が破裂しそうで、もうアイスの味なんてわからない。

「そりゃそうですよ。向こうは中原CPの便を選んで乗ってるんですから、三浦CPは当たんないですよ。それに、711便限定みたいですし」

「あ、そうか。俺、フランクフルト便って乗らないからなあ」

 健太郎が納得している横で、雪哉は少し考えている。

 雪哉と香平の一件が片づいて以来、信隆が香平の話をすることはとても多くなっていて、これはもしかして…と、思い始めていたところへニコラがやってきて、一緒に飛んだ時に彼は雪哉にはっきりと言ったのだ。
 香平を追ってきたと。

 それ以来、信隆の様子がおかしいことに、雪哉も敬一郎も気づいていた。

 さらに、最近は信隆曰わく『奇妙なすれ違い』が頻繁しているらしく、香平にまったく会えない日々が続いているのだと愚痴られたことがある。

 その様子はちょっと子供っぽくて可愛くて、華やノンノンから『煮詰まると子供っぽくなるのよね〜』と聞かされていた通りで、やっぱり煮詰まっているんだろうなあと思うと、香平への特別な思いを感じ取らざるを得ない。


「でね、そのフランクフルト便のステイ中に食事に誘われて、香平くんってば、その人と2人で出掛けちゃったらしいのよ」

「えー、それ危なくないんですか?!」

「危ないってさ〜、可愛い顔してても香平も男子だよ? 女の子じゃあるまいし」

 健太郎のツッコミに、女性クルーが一斉に『チッチッチ』と人差し指を振った。

「相手がオーリックキャプテンのレベルだとどうです?」

「そうですよ、中原CP、細身だから押し倒されちゃいますってば」

 ちょっとそれを期待しているかのように雪哉には聞こえたのだが、勿論知らん振りだ。

 確かに男性であろうがなかろうが、体格差でいとも簡単に押し倒されてしまうのは、自身の身体で実証済みだし。

「で、その後も何度か誘われるままに…って感じらしいんだけど、少なくとも楽しそうにはしていない…って、目撃したクルーはみんな言ってるわけ」

「それって、VIPだから断れないってことですか?」

 不安そうに尋ねる国際線デビュー半年目のクルーに、健太郎が真剣に答える。

「いや、シップを降りた後の事は職務外なんだから、断るのはもちろん自由だからね。VIPだからって言いなりになることはないんだから、心配しなくて良いし、もし困った相手に誘われたら、必ずCPに相談するんだよ?」

 その力強い言葉に、尋ねたクルーは『はい!』と、嬉しそうに頷いた。

 そして。

「三浦さん、カッコ良い〜」

 雪哉に賞賛されて、健太郎の心臓が飛び出した。

「そ、そう、かな? へへっ」

「ふふっ。三浦CP、何照れてんですか〜」

 背中をバシバシ叩かれて大笑いされても健太郎は幸せいっぱいだ。

 そしてひとしきり笑った後…。

「あ、そう言えば私、中原CPのストーカー撃退法、聞いた事がありますよ」

「え、どんなの?」

「相手が女性だったら、『実はパイロットの恋人がいるんです』って、女性には興味がないと匂わせる!」

 かなり大胆な手口だ。

「うひゃ〜、それ一歩間違えたらヤバいけど、確かに女性相手だとかなり有効だし、実際ヤバくても香平くんなら許せるか」

「え〜、ただでさえ男性クルーは競争率高いのに、中原CPが戦線離脱とか、そりゃないですって〜」

「でも、男性相手だとどう撃退するんですか?」

 相手が顧客だと、変な断り方――特に相手のプライドを傷つけるようなことはできない。

「パイロットが好きなんです…って、特定個人じゃなく、パイロットって職業の人が好みだって言っちゃうんだって」

「ああ、それもしかして、特定個人だと相手に攻撃が行くかもしれないから?」

「でしょうねえ」

 チョコアイス――しかも三種のチョコのトリプル仕様――を幸せに舐めながら、雪哉はやり取りをジッと聞いている。 

 隣では健太郎がそんな雪哉をジッと見つめて…。

「お、俺もパイロットに好きな人いるし!」

 舞い上がったついでに、思わずカミングアウトしてしまった。

「えっ?! 三浦CPマジですかっ?!」
「三浦CPも戦線離脱する気ですか!?」

 辺りが騒然となった中、健太郎はガシッと雪哉の手を握り締め、『雪哉くん、好きだ!』と、更なる爆弾発言をかました。

 …のだが。

「やーん、もう驚かせないで下さいよ〜」

「そうよ〜、ビックリしちゃった〜」

「そんなの、私だって言っちゃいますよ。『ゆっきー、好きだ〜!』なんて〜」

「私も私も〜! ゆっきー、愛してる〜」

「ゆっきー、私のものになって〜」

 いきなり雪哉への愛の告白合戦が始まり、雪哉もまた、『僕も大好き〜』…なんて、ノリノリだ。

 しかも、『三浦さん、手、離して下さい。アイスが溶けちゃう』なんて、小首傾げで言われてしまい、一世一代の告白を十把一絡げの『冗談』と一緒にされてしまった健太郎は屍となるしかない。

 冷静に考えれば、結果的にその方が幸せなのだが。

 そして雪哉は、いつものようにノリノリで返しながら――ノリノリでもないとやってられないのだ。アイドルは――頭の中では、『香平のやつ、もしかして僕をダシに使ってないか?』…としっかり気づいていた。

 けれど、信隆の気持ちがもし本当に香平に向いているのだとすれば、何が何でも香平を守りたいと思った。

 信隆のためにも。

 今自分が幸せなのも、信隆のおかげなのだから、出来る限りの後押しをしたい。

「あ、そう言えばゆっきー、さっきまた変なもの買ってたねえ」
「え? 何買ったんですか?」
「変なものってまさか…」

 問われて雪哉がニヤリと笑う。

「ふふっ、女王様から下僕への下賜の品」

 そう。香平への『チョコレートのお返し』だ。

「今度は何?」
「指の形の石鹸見つけたんだ。ほら」

 出てきたのはリアルな指。
 どうやら人差し指のようだが、付け根の部分から先が、ばっちり『しわ』まで再現されている。

「やだ〜、リアルすぎ〜」
「爪の先がメールボックスから覗いてたらビビるよねえ」
「実寸大ってのがまたキモい…」
「マニキュア塗るとかどう?」
「え、これ、絶対オジサンの指だよ〜」

 わいわい騒ぐ『女子+雪哉』の横で、『俺も、雪の女王様の下僕になりたい…』と、真剣に思う健太郎であった。


                    ☆ .。.:*・゜


 香平のことについて、どうしたものかと考えつつホノルルから帰着した雪哉に、もうひとつの情報が、特に仲良しで今やすっかりため口で話すようになったアシスタントパーサー太田遥花からもたらされた。

 彼女は身体を壊して以来、国内線に移っていたのだが、昨年末から国際線に復帰していて、現在は香平と同じ藤木チームのアシスタントパーサーを務めている。

『私、基本ガサツな人間だから、ファーストクラスとか向いてないんだけどなあ』と言いつつも、『都築教官から、遥花は遥花らしいおもてなしをすればいいって言ってもらったから、そのつもりでがんばる』と宣言したとおり、かなり優秀な成績でファーストクラス担当資格を取ったようで、現在はチーフパーサー昇格訓練中の身で、勉強の日々を送っている。

 その遥花が言うには、件の香平を追いかけて来たと言うVIP客が、『このエアラインに天才って言われてる副操縦士がいると聞いたんだけど』と、探りを入れてきたらしいのだ。

『ゆっきーのことだってすぐにわかったけどね、でも、うちのパイロットはみな優秀ですので、安心しておくつろぎ下さいって言っておいたよ』と、彼女は笑っていたが、これはもう、『ダシ決定』だろう。

 そうなれば、自分の存在は意外と有効に使えるかも知れないな…と、雪哉は頭をフル回転させてシミュレーションを開始した。

 その時々の現場の状況に合わせて瞬時に対応を変えるのは得意だ。

 いや、そうでないと、パイロットは務まらないが。


  


 そして、その機会は意外と早く訪れた。

 雪哉が久しぶりにフランクフルトへ飛ぶことになり、チーフパーサーは香平だ。

 これは来るな…と、雪哉は事前に搭乗者名簿に前島の名があるのを確認した。

 しかも運が良いことに、ファーストクラスのアシスタントパーサーは遥花で、協力を依頼するには持ってこいの仲間だ。

 ただし、懸念事項がひとつ。

 このフライトの長距離マルチ編成のダブル・キャプテンはなんと、大橋機長&うっしーと言う、『人類の敵は俺の友』コンビだ。

 この2人に万一作戦が露見すれば、当分ネタに遊ばれるであろうことは容易に想像がつくので、ここは隠密行動が原則だろう。

 というわけで、あとはどうやって接触を図るかだ。

 とにかく、打てる手はすべて打って、『その時』を待つことにした。



 フランクフルト行きは定刻に出発し、順調にオートパイロットに入った。

 往復とも指揮権(PIC)を持つのはセニョリティが上の大橋機長だが、主たる操縦者(Pilot Flying:PF)は往復で交代するように、ここ、ジャスカでは決められている

 もちろん機長の負担を減らすためだが、その担当を決めるのは、必ず指揮権を持つ機長と決まっている。

 今回のPFは往路が大橋機長、復路が牛島機長と、キャビン・ミーティングで全員に知らされている。


 そして、巡航に入って暫くして、作戦の最初の一手は、遥花が打った。

 ミールサービスの合間、香平がギャレーへ戻っている隙に、こっそりと『あるお知らせ』を前島の耳に入れた。

「前島様。以前お尋ねいただきましたパイロットなんですが」

「…ああ、あれは聞き方が悪かったね。ああ言う聞き方をすれば、君はあんな風に答えざるを得なかっただろう」

 気遣いを見せて笑む前島に、遥花もにっこりと極上の笑顔で応える。

「お気遣いいただきまして、ありがとうございます。実は…」

 遥花が声を潜め、ちらりと辺りに視線を流す。かなり演技派だ。

「訓練生から最速記録で副操縦士になり、また最速記録更新で機長になるのでは…と言われております副操縦士が本日乗務しております。彼は、特に優秀だと言われておりまして、弊社で彼の名を知らない者はおりません」

 雪哉との打ち合わせより随分『盛った』。
 嘘ではないからいいのだ。遥花的には。

「ほう…それは凄いね。いくつくらいの人?」

「本日チーフパーサーを務めさせていただいております中原と同級生で、今年度中に30歳になる学年だと聞いておりますが」

 固有名詞と『同級生』にちょっと力を入れてしまったが、それに気づくことなく、前島は少し目を瞠り、『ああ、それで…』と呟き、遥花に『ありがとう』と笑顔を向けた。

 香平がいつもにましてにこやかで張り切っている様子であることに、前島は気づいていた。

 香平の『ご機嫌』は、もちろん雪哉と一緒のフライトだからだ。

 そして、やはり『空の女神』が雪哉に味方をしてくれたようで、あと3時間ほどで到着という頃に、ちょっとしたトラブルが起こった。 


 その時、雪哉は休憩中で、クルーレストの横穴式ベッドで爆睡中だったのだが、コックピットからのインターフォンで起こされた。

「はい、レスト、来栖です」

 雪哉がパイロットに向いていることのひとつに、『寝付きの良さと寝起きの良さ』があり、3カウントで夢の国に旅立てて、呼び出し音の最初の一音ですぐ目が覚める。


『雪哉、休憩中に悪いが、戻ってくれ。体調不良の乗客が出た。キャビンに様子を見に行ってくれ』 

 声は、PICの大橋機長だ。

「はい! すぐ戻ります!」

 パイロットが呼ばれると言うことは、それなりに深刻な状態だ。
 つまり、最寄りの空港に降りると言う選択肢が生じたと言うことだ。

 急いでコックピットに戻れば、ライトシートにいる牛島機長が詳しい説明をくれた。

「意識が落ちたってことでドクターコールを掛けたんだが、ファーストクラスに医師免許を持つ人がいて、名乗り出てくれた。容態とダイバートの可能性を確認してくれ。こっちは空港に連絡取っておくから」

「了解です」

 ドクターがいるかいないかの差は大きい。
 取り敢えずいてくれて良かったと思いつつ、雪哉はコックピットを出た。

 コックピットの真後ろはファーストクラスで、遥花が『38Cよ』と、座席を教えてくれる。

 香平の姿はない。すでに駆けつけているのだろう。

 エコノミークラスへ急ぐが、客室内は『ドクターコール』と、現れたパイロットの姿にざわついている。

 香平の姿が見えた。

「具合、どう?」

 背中に手を回し、客席をのぞき込むと、高齢の女性が汗を流して目を閉じている。
 そして、傍らにはドクターらしき男性の姿。

「少し落ち着いてこられたようなんだけど…」

 雪哉の姿に、香平は少し緊張が解ける。
 パイロットの存在は、やはりクルーにとっての拠り所なのだ。

 ドクターは、脈や熱を確かめているが、女性は弱々しくも問い掛けには応じている。

 意識が戻ったということにひとまず安堵するが、予断は許さない。 
 
 辺りの乗客も、固唾を飲んで見守っている。


                    ☆ .。.:*・゜


 着陸まであと3時間ちょっと。

 仮眠から目覚めると、いつも香平が珈琲を運んで来てくれる…はずなのだが。

 ほんの少し、ギャレーがざわついている。

 何かあったのかなと思った時に、香平が出てきてそのまま急いだ様子で後方へ去っていく。
 その表情は珍しく固く、そこで前島は、何か起こったなと確信した。

 と、ほんの少しの後、女性クルーの声で急病人の発生と医者を探すアナウンスが入り、香平が固い表情で急いでいたわけがわかった。

 緩く掛けていたシートベルトを外し、立ち上がった前島は、遥花を呼ぶ。

「現在医業には就いていないが、医師免許を持っている。何か役に立てるだろうか」

 告げれば遥花は目を見開き、『ありがとうございます!』と一礼して後方へと先立って前島を案内した。

 急病人は高齢の女性だった。

「前島様…」

 現れた前島に香平は驚いたが、遥花から説明を受けると礼を述べ、隣に乗り合わせていた若い女性が教えてくれた、病人の情報を伝える。

 女性はドイツにいる娘一家の元へ遊びに行く予定のひとり旅で、初めての国際線らしい。 

 ともかくも…と、呼びかけてみると、弱々しいが応えがあった。

 持病の有無を尋ねると、高血圧があるとの事だが、それ以外は無さそうだ。

 機内には一通りの基本的な医療用具が揃っている。
 血圧を図り、脈をとり、発熱の有無を確かめる。 

 具合が悪くなる直前にワインを飲んでいたようだが、本人の申告では弱い方ではないらしい。

 だが、それが落とし穴になりやすい。

 機内の気圧は標高二千メートル級の山の頂上と同じくらいだ。
 つまり気圧が低いということで、酔いは回りやすい。
 自分は飲める質だからと、地上と同じペースで飲むと、確実に酔う。

 案の定、血圧の数値は高血圧とは思えない低さだった。
 血管が広がって急激に血圧が下がったのだろう。

 おそらく、フルフラットに寝かせる事が出来れば回復するのでは…と思われた。

 大事に至る様子ではないことに、前島は安堵した。
 香平が責任を持つ客室内で『万が一』は起こって欲しくない。

 座席の変更が可能かどうか、香平に尋ねようと振り返った時、その隣にパイロットの姿を見つけた。

 肩に三本線を付けた、副操縦士だ。
 どう見ても、可愛らしい高校生だが。

「副操縦士の来栖と申します。ご協力ありがとうございます」

「ああ、どうも」

 やはり本物の副操縦士のようだ。

「容態はどうですか? コックピットでは緊急着陸の準備も進めていますが」

「いや、その必要はないでしょう。ただ、頭を下にしてあげたいのですが、フルフラットで横になれる環境にするのは可能ですか?」

 即座に香平が反応した。

「ビジネスクラスのお客様にファーストクラスに移っていただきます。そうすれば、ビジネスクラスを開けることが可能です」

「では、それで」

 前島が頷くと、香平はすぐに手配に移る。

 雪哉は側に居た別のクルーに、『キャプテンに、ダイバートなしって伝えて』と、小声で伝言する。

 そして、再び尋ねた。

「到着空港での救急車の要請は必要ですか?」

 問われて前島は少し考えて答えを出す。

「到着まであと…」

「あと2時間45分程度です」

「このまま少し様子を見ての判断で構いませんか?」

「もちろんです。必要だと判断されましたら、お手数ですがクルーにお知らせいただけますでしょうか」

「了解です」

「ありがとうございます。本当に助かりました」

 香平が戻ってきた。
 座席の手配が出来たので、様子を見ながら移動をしてもらうことになった。

 周囲も、大事に至らなかったことにホッとしている様子で、客室内は落ち着きを取り戻す。

 移動した女性にはクルーがひとりつくことになり、様子を随時報告するよう頼んで前島は自分の席に戻った。

 すかさず香平がやってくる。

「前島様。本当にありがとうございました」

 トレイには、ほどよい暖かさのおしぼりと、好みの香りを放つ珈琲が乗っている。

「いや、君の役に立てて嬉しいよ」

 ストレートに言うと、香平はほんの少し、困ったように目を伏せる。

「あとわずかですが、ごゆっくりおくつろぎ下さい」

 それだけ言うと、立ち上がり、ギャレーへと消えていった。

 意識されているのはわかるが、それが良い方へなのか、そうではないのか、まだ掴むことはできなくて、それでも焦る気持ちはなかったのだが、思わぬ事態で『それらしき副操縦士』に遭遇してしまった。

 だが、ふと思う。
 遠距離路線にはパイロットが3名乗務していると聞いているが、副操縦士が2人いるのかな…と。

 それは絶対に無いのだが。

 すると、後ろで状況の最終確認をしていたらしき、件の副操縦士がやって来た。

「汗も引いて、呼吸も楽になってきたようです」

「ああ。それは良かった。ともかく着陸まで気をつけていますから」

「ありがとうございます。後ほど機長がご挨拶にと申しておりますので、おくつろぎのところを申し訳ありませんが…」

「いや、そんな気を遣ってもらわなくていいですよ。私もお役に立てて幸いでしたから」

 柔らかくそう言うと、可愛い副操縦士は、それは嬉しそうにニコッと笑った。

 まるで、天使が祝福のために微笑んだように。

「前島様にご搭乗いただいて、クルー一同、本当に幸せです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

 さらに幸せそうに微笑まれ、それはとんでもない破壊力を持って前島が持つ『パイロットの概念』を根底から覆した。


 ――これをパイロットにしてコックピットに閉じ込めておくのは勿体なくないか?

 彼はキャビンクルーになった方が絶対に世界のために有益だ…と、前島だけではなく、雪哉のパイロットとしての能力を知らない人間はみんな思うことだが、もし雪哉がキャビンクルーになったら、蹴躓いて乗客の頭からシャンパン・シャワーを浴びせまくって3日でクビだろうな…と、一緒に暮らしている敬一郎はだけは確信しているが。

 ともかく、『本当にこれが、中原くんが思いを寄せているパイロット…か?』と、大いに疑問を持ち、『いや、絶対何かの間違いに違いない』と、勝手に結論づけて、『あ、ああ、いや、こちらこそいつも気持ちよく乗せてもらっているのでね』…と、それだけを漸く返すと、副操縦士はぺこりと頭を下げて、コックピットへと向かった。

 もちろん、コックピットのドアはカーテンの向こうで直接は見えない。

 その前にもギャレーのカーテンがあるのだが、そのカーテンの向こうから少し、声が聞こえた。

『雪哉、寝癖がついてる』
『えっ、うそっ』

『ジッとして、すぐ直るから。…もしかして、休憩中だった?』
『まあね』

『ごめんね、起こして』

『何言ってんだよ。これはシップ全体の問題だろ? 全員で対応に当たるのは当然じゃん。香平こそ、ひとりで背負い込むなよ』

『そうだね。ありがと』


 僅かに漏れ聞こえたその会話は、ファーストネームで呼び合う、確かに『同級生らしい』ものだったが…。


                    ☆ .。.:*・゜


『来栖です。戻ります』

 インターフォンで連絡があり、規定の回数のノックを確かめて、牛島機長がコックピットのドアロックを解除する。

「遅くなってすみません」

 騒ぎの間に雪哉の休憩時間は終わっていて、雪哉はそのまま乗務に戻ることになる。

「おお、お疲れだったな。さっき太田さんが報告に来た。大事に至らなくて良かったよ」

 大橋機長の言葉に、雪哉も牛島機長も『本当に』と頷く。

「ってことで、牛島」
「はい?」

「ドクターコールに応えてくれたお客のとこに礼に行ってくれ」
「大橋さ〜ん、それはPICのお仕事じゃないんですか〜」

「何言ってんだ。誰が行くかを決めるのが、PICのお仕事だ。どうせ雪哉と交代するのはお前なんだから、四の五の言わずに行ってこいってば」

 ほれ、さっさと行け…と急かされ、牛島機長は『やれやれ』とばかりに大橋機長に『You have ATC』と声を掛け、『I have ATC』との応答を聞いてからシートベルトを外して立ち上がり、ライトシートを雪哉に譲る。

 どんなに短時間でも、席を立つ時には自分の担当を必ず着席しているパイロットに一旦預ける決まりだ。

 雪哉は牛島機長に『お願いします』と声を掛け、ライトシートに着き、座席を自分に合わせるとシートベルトを留めてヘッドセットを装着する。

 それを待って、大橋機長が雪哉に声を掛ける。

「You have ATC」
「I have ATC」

 これから着陸まで、雪哉が交信を担当する。

 牛島機長がコックピットを出るのを待って、大橋機長が笑いながら言った。

「ああいうのはな、見た目がカッコ良いやつが行く方が絶対良いんだ」
「大橋機長もカッコ良いですよ?」

 ヨイショではない。
 確かに見た目も言うこともやることも普通のおじさんだが、実は大橋機長は、敬一郎が更新するまでの『機長最速昇格記録』の保持者だったのだ。

 敬一郎は、『俺のはたまたま運が良かっただけだから、実質大橋機長の方が早いはずだよ』と、雪哉に話してくれたことがある。

 当の大橋機長はそんなことは一言も言わなくて、そう言うところがカッコ良いなと雪哉は思っている。

 一度その話をしたら、『あんな記録は重くてかなわんかったから、来栖に持ってってもらってホッとしたんだ』と返ってきて、大橋機長らしいなあと、また嬉しくなったものだ。

 ちなみに、敬一郎の前にうっしーが記録を更新するはずだったのだが、昇格審査直前にインフルエンザに罹ってしまい、2週間の乗務停止になった所為で、わずか3日の差で記録更新とならなかったのだ。

 当時、『お前、わざとだろ〜!』と言った大橋機長にうっしーは、『40度の熱にわざわざ罹るバカがどこにいるって言うんですか〜!』と応戦し、それをネタに半年くらいバトっていたのは――周囲からは、じゃれているようにしか見えなかったのだが――今や『伝説の笑い話』になっている。


 雪哉に『カッコ良い』と言われて、声を上げて大橋機長が笑う。

「あはは、パイロットの制服を着て操縦桿握ってたら、どんなオヤジでも2割増しで格好良くなるさ」

 そうかなあ…と、雪哉は思う。

 自分は一度も、制服姿がカッコ良いと言われたことがない。
『似合わないなあ』とか『コスプレ?』と言われるのがオチで。

「そう思うと、雪哉のパパはズルいよな。ただでさえムカつくほどイケメンで足まで長いのに、この上制服を着た日にはどうすんだってんだ。なあ?」

「や、カッコ良いのは認めますけど、パパってのやめて下さいよ〜」

「んじゃ、雪哉のオヤジ」

「うわ〜! 絶対ヤですっ、それっ」

 確かに『養父』で『パパ』には違いないが、それだけは嫌だ。
 第一まったく似合わない。

「いやいや、この前一緒に出社してきた姿見て、みんな言ってたぞ、『中学生と父親参観の若いパパみたいだ』って」

 何しろ、全社的アイドルの雪哉をかっさらった『人類の敵』だ。
 ネタにして遊ばないと気が済まないというものだ。大橋機長としては。

「それ絶対本人に言わないで下さいよ〜」
「なんで?」

「40過ぎてから、やたらと年齢とか見た目に敏感で、ちょっとしたことですぐ凹んじゃって、宥めるの大変なんですから」

「来栖がっ? マジかっ?」
「マジですよ」

「ふっふっふ。天下無敵のイケメンにも弱点はあるってことか」
「だ〜か〜ら〜、キャプテン、絶対本人に言わないで下さいよ」

「ああ、言わないって。本人にはな」
「え…」

「うっしーには言っちゃおう」
「うわ〜! それ絶対ダメですってば〜!」

 さらに話をややこしくしてどうするんですか…と、言ったところで、香平から『牛島キャプテンが戻られます』と、連絡が入り、ノックがあった。



「な、あれってもしかして、中原を追って来たとか言う超VIPか?」

 ドアを閉めるなり、牛島機長が言った。

「えっ、きゃ、キャプテン、なんでそれをっ」

 どうしてバレてるんだと慌ててみれば、今さら何をとばかりに、牛島機長は肩を竦めた。

「なんでって、藤木チームとか小野チームのクルーたちはみんな噂してるぞ。誘い出されて口説かれてるとかなんとか。…ね、大橋さん」

「ああ、俺も聞いてるけど。そうか、噂のVIPだったのか、今日の立役者は。そういや、ニコラも中原を追っかけてきたって言ってたな。ったく、何が悲しくてイケメンがイケメンを追いかけてんだ? あ?」

 オーリック機長の話までダダ漏れで、雪哉は激しく脱力してしまう。

「いや、そこは『恋愛の自由』ってやつですよ。それに、恋は盲目って言うじゃないですか」

 今でも華ちゃんにべた惚れのキャプテンは、うんうんと、自分の言葉に激しく納得している。

「まあ、本気だってんなら、俺だって止めやしないけどさ。訳もなく遊び歩くよりはずっといいからな」

 社内ナンバーワンの恐妻家も、自分の言葉に納得している。

「それにしても、中原はモテますよね」

「ああ、確かに可愛い顔してるし、素直で優しいからな。 …そういや、この前のバンクーバーのフライトで、久しぶりに都築が通常乗務で乗ってたんだけどな、あいつがまたやたらと中原のことを気にしててな、何かあったのかな」

「そう言えば、うちの奥さんもそれ言ってました。都築がここのところ中原の顔を見て話をしてないって、煮詰まっているようだって心配してましたね」

「なにっ。華ちゃんが心配してるだとっ? それはもう、都築と中原にはお仕置き決定だな。俺の華ちゃんに心配をかけるとは、いい度胸してやがる」

「大橋さん、華ちゃんは俺の奥さんですってば」
「あ? 人類の敵、なんか言ったか?」

 お約束の展開で、しかも話がだんだん怪しい方向へ動いてきたのを感じて、雪哉は慌てて牛島機長に声を掛けた。

「牛島機長、どうぞ休憩行って下さい」

「いや、もうあとちょっとだし、ここにいるよ。休憩してる間に面白い話を聞き逃しそうだし」

 そう言って、コックピット後部のジャンプシートに着いて、シートベルトを付ける。

「なんですか、それ〜」
「あ、そうだ! あのな、牛島、雪哉のパパがな…」

 面白い話と聞いて、思い出したとばかりに大橋機長が声を上げた。

「わ〜! ダメですってば!」
「えっ、なになに?」

 結局、着陸準備に入るまでこの騒ぎで、雪哉はドッと疲れたのであった。


 その後、女性は体調を回復し、救急車を要請することもなく、711便は定刻に無事フランクフルトに到着した。

 だが、笑顔で乗客を見送った後、香平は少しばかり塞いだ顔をしていた。

 雪哉と遥花は顔を見合わせる。
 これは絶対、誘われて断り切れなかった顔だ…と。

 確かに今日のタイミングでは断りづらいには違いない。

 だが、その騒ぎの所為で、雪哉は直接前島と接触することが出来た。

 つまり、香平がダシに使っているパイロットの存在を認識させることは出来たはずだ。

 となると、次のチャンスは香平が出かける前後…だ。


 雪哉と遥花はまた顔を見合わせて、頷き合う。
 その後ろでは、ダブル・キャプテンも顔を見合わせていたが。 


【6】へ


指揮権(PIC)を持つのは、
主たる操縦者(Pilot Flying:PF)と決めているエアラインも多いそうです。
つまり、『指揮権=主たる操縦者』という場合と、
指揮権と主たる操縦者は別というパターンがあるみたいです。


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☆ .。.:*・゜

おまけSS

『三浦健太郎のささやかな欲望』



 三浦健太郎、4月生まれの31歳。

 日本の大学を卒業後、客室乗務員を目指して渡米した。
 日本での採用がなかったからだ。

 欧米人に混じっても見劣りのしない体格と容姿を持ち、思いやりのある性格をしているので友人も多く、ハイティーンの頃から、何処へ行ってもモテた。
 もちろんアメリカでもモテた。
 
 だが。

 中学の終わり頃から自覚はしていたが、女性も男性も守備範囲の所謂バイセクシャルで、今まで男女問わず、想う人には想われず、想わぬ人には想われる…と言う、不遇の恋愛事情を抱えて生きてきた。

 いくらモテても、好きな人に好きになってもらえなければ意味が無いのだ。

 そして、渡米の半年後。
 アメリカのエアラインに就職することができ、仕事はそれなりに充実していて、フライトアテンダントという仕事には誇りを持っていたが、それでもやはり、日本のエアラインは憧れだった。


 そんな彼の転機になったのは、ある時、ある人から掛けられた、『ある言葉』だった。

 それは、アシスタントパーサーになって暫く経った頃の事…。


                   ☆ .。.:*・゜


 健太郎は、ここ暫く、成田―ニューヨーク間のビジネスクラスでよく見かける乗客が気になっていた。

 圧倒的な美貌と申し分ない比率のスタイルを兼ね備えた『彼』は、年の頃は恐らく30台半ばから後半辺り。

 もう少し若いかもしれないが、その落ち着き振りは、彼を幾つか大人に見せている。

 旅慣れて、旅客機にもかなり乗り慣れている様子を見せる彼は、大概読書をしているか、タブレットを操作しているか…で、あまり眠っている所は見たことが無い。

 いつも、くだけすぎない絶妙のラフさでお洒落に決めているから、ビジネスマン…と言うには少し柔らかい感じがして、職業は想像し難かった。

 何度か目が合ったが、こちらが微笑むとあちらも柔らかく笑ってくれて、そんな時には必ず、何らかの声が掛かった。

『珈琲頼んでいい?』とか、『この先1週間のNYの天気ってわかる?』とか。

 食事の時には、2度ほどワインについての質問があった。

 質問の内容からして、かなり詳しいなと思ったが、それをこれ見よがしにしないところに好感が持てた。

 つまり、上質の客だと言うことだ。


 そんな彼の『正体』を知ったのは、幾度目かの搭乗で、成田到着直前に『成田にステイでしょう?』と聞かれ、『そうです』と答えると、『もし予定がないのなら、降りてから少しだけ、時間もらえないかな?』と、言われたあの時だ。

 もしかして、彼も自分と同じセクシャリティなのかなと思ったが、自分の好みは男女問わず『キュートなベイビー』で、こんなに『美しすぎる男』、しかも年上は完全に守備範囲外なので、どうしたものかと思ったのだが、それにしても、ここで断ってしまうには惜しい気がして――セクシャルな意味では無く――少し話をするのも悪くないだろうなと感じ、承諾した。

 降りるまでに、念のために搭乗者名簿を確認した。
 彼の名は『Nobutaka Tsuzuki』、年齢は37歳。

 どんな話になるのか、警戒心よりも好奇心が先に立った。


                   ☆ .。.:*・゜


 道理でフライト慣れしているはずだ。

 彼はなんと、健太郎が憧れたものの、採用がなくて入社が叶わなかったエアラインの客室乗務員で、しかも現役クルーの中で1番偉い人だった。

 話の内容は、健太郎が飛び上がるようなものだった。

 彼は言ったのだ。『うちへ来る気、ない?』と。


 こうして健太郎は、憧れのエアラインでクルーになる夢を叶えた。

 健太郎と同じように他社から引き抜かれた男性クルーは合計5人。

 みなそれぞれに見栄えのいい顔立ちとスタイルと能力を備えていたが、中でも同じ羽田に配属になった中原香平は、身長175cmと、男性クルーの中では小さい方だが、とんでもなく綺麗な顔立ちをしていて、笑うとこれまたとんでもなくキュートで、これはもしかして運命の出会いだろうか…と思ったところで、本物の『運命の出会い』をしてしまった。


 コ・パイの彼と初めて会ったのは、国際線OJTの終わり頃のこと。

 次の乗務が審査で、もちろん落ちる気なんてさらさらなかったし、早く正式クルーになって、都築教官に期待されているとおりにアシスタントパーサーからチーフパーサーに昇格するつもりで頑張っていた時だ。

『今日のコ・パイはゆっきーだよ』と、アシスタントパーサーが教えてくれた。

 キャラクターはもちろん知っていた。
 現に自分のシャツのポケットに差しているボールペンはゆっきーボールペンの最新作だし、ボトムのポケットのメモ帳もゆっきーが飛行機に乗っかっているデザインだ。

 けれど、まさかモデルがいるとは知らなくて、あんなに可愛いキャラのモデルだなんて、もしも全然イメージが違っていたら『俺、暴れるぞ』なんて、内心で面白がっていたのだが。


『副操縦士、来栖です』

 キャビンブリーフィングで、彼がそう言って微笑んだ途端、健太郎の頭の周りで天使がラッパを吹いて回り始めた。

 モデル? いや、絶対本物の方が軽く一千倍は可愛い。

 華奢で、頭も顔も小さくて、おめめはキラキラ睫毛バサバサで、タブレットを抱える手はもみじのようで、パイロットシャツが全然似合わなくて。

 コレが本当の『運命の出会い』だと、健太郎は脳天から雷の直撃を受けた。

 たった1学年違いだと聞いて驚いてしまった彼――『雪哉くん』は、最初のステイから『三浦さんって、頼れるお兄さんって感じ』と、とんでもなく懐いてくれて、健太郎は舞い上がりまくった。


 だが、彼には秘密があった。

 後から聞くところによると、あまりにも公然過ぎて秘密でも何でもなかったのだが、聞くより前に健太郎は気づいてしまったのだ。

 OJT審査の時の来栖キャプテンが、愛する雪哉くんのパートナーであると。

 だが、その来栖キャプテンがまた男気に溢れたイケメンで、自分の好みの方向性が違えば間違いなく惚れていただろうなと思える程の男で、やっぱり自分の恋愛事情は不幸の連続だ…と、健太郎はがっくり肩を落としたのであった。



 さて、健太郎は現在チーフパーサーとなり、チームを纏めて北米路線を中心に活躍しているが、そんな彼には叶えたいささやかな欲望がある。

 それは、『ゆっきー、日焼け防止当番』になることだ。

 雪哉が乗務する『777』は、ホノルル、シンガポールなどの日差しが強いところへも飛んでいて、そんな路線には必ず日焼け防止当番がいて、現地へ着いた時に雪哉にUVカットジェルを塗るのだ。 

 もちろん雪哉は、『女の人じゃないんだし、別に日焼けしたって…。や、むしろした方が男として…』と、ごにょごにょ言うのだが、女性クルーたちはみな、『ゆっきーに日焼けなんて絶対させられない』と、念入りに日焼け止めを塗っているのだ。

 そして、その当番はと言えば、当然セニョリティ順で立候補できるから、健太郎が同じシップに乗れれば間違いなく健太郎の特典となるはずなのに、健太郎がホノルル便に雪哉と一緒に乗る時に限って、キャプテンが牛島機長だったり杉野機長だったりして、キャプテンに『特典』を取られてしまうのだ。

 特に杉野機長などは、雪哉のパイロットシャツの第二ボタンまで外して、鎖骨のあたりまで手を突っ込んで塗っていると言う噂で、キャプテンが独身――バツイチらしいが――なだけに、ヤキモキしっぱなしなのだ。

 どのみち、雪哉は来栖キャプテンのものなのだが。


 そしてついに、ホノルル便で、牛島機長でも杉野機長でもなく、普通に雪哉を可愛がっているキャプテンのシップに当たり、今日こそ俺が日焼け止めを塗ってやる!…と意気込んでいたら。

「あ、三浦くん。ゆっきーの日焼け止め、私が塗っておくから!」

 そう、いったいどういう巡り合わせなのか、今日は健太郎が属するチームのチームリーダー、上級チーフパーサーの小野香澄が乗務しているのであった。

「この前、信隆に取られちゃったのよね〜」

 小野CPが前回雪哉とホノルル便に乗った時には、審査のために乗っていた都築教官に、役目を取られたらしい。

 同期の2人は、端から見ていると、まるで『男同士のマブだち』だ。
 小野CPの見た目は、とても女性らしい美人なのだが。


 こうして、今日もささやかな欲望を叶えられなかった健太郎は、もしかしてこれは、自分がクルーのてっぺんにならない限り、叶えられないのだろうかと肩を落とす。

 クラウンチーフパーサーになれるのは、だいたい7年から10年にひとり。

 もしも自分の辺りで回ってくるとすれば、間違いなく香平だろうな…と、健太郎はぼんやり思っている。

 いや、とりあえず、そんな遙か先のことよりも、いかにして雪哉に触るか…だ。

 そう言えば、『保湿クリームを塗る係』と言うのがあると、小耳に挟んだことがある。
 少し調べてみる必要がありそうだ。


「ゆっきー、美味しいチョコアイス見つけてあるんだけど、行かない?」
「えっ! 行く行く!」
「あ、俺も行く!」

 ともかく、いずれにしても、ついて回らないことには話にならないとばかり、今日も健太郎は雪哉の後ろをついて回るのであった。


おしまい。


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