7
「ほんと、手のかかる坊やだわ、相変わらず」 華の言葉にノンノンが吹き出した。 ちょうど訓練部に用事があり、やって来たついでにノンノンは華に『あのこと』を相談していた。 「華さんにかかったら、天下無敵のクラウンチーフパーサーも形無しですね」 「あら、そんなことないわよ? 都築教官のことは高く評価しているわ」 美しさにいたずらっ子の微笑みを乗せて、『あくまでも職業人としてはね』と付け加える。 「でもちょうど良かった。男子訓練生の相談役として、男性チーフパーサーとアシスタントパーサーに定期的に顔を出してもらえるように頼んでいたところでね、あと30分もすれば、打ち合わせに現れるから、ついでに説教しておいてあげる」 敬一郎から、そして雪哉とノンノンの話を総合して、さらに夫から仕入れた情報もあり、華は、側に居ないにもかかわらず、信隆のおおよそを把握してしまっていた。 華にとって弟のような存在でもある信隆は、ああ見えて心の動きは読みやすい。 案外分かり易い人間なのだが、恐らく本人の努力もあるのだろう、ほとんどの人はそれに気づいてはいないけれど。 「やっぱり形無しですよ」 「つまり、男はいつまで経っても甘えん坊ってことよ」 「それって、牛島キャプテンのことですか?」 笑いながら尋ねるノンノンに、華はふふ…と笑いを零す。 「うちの旦那サマもだけれど、来栖くんも大概よ。むしろ雪哉くんの方が精神的に大人じゃないかしら?」 「うわあ、あの来栖キャプテンを捕まえて、それを言えるのはほんと、華さんだけですよ〜」 「藤木くんとノンちゃんじゃ、言わずもがな…だけどね」 顔を見合わせて大笑いになった。 その頃太平洋上では。 「くしゃんっ」 「なんだ藤木、風邪か?」 「いえ、大丈夫です…」 |
「スケジュール的にはこんな感じで大丈夫ですか?」 「ええ、とにかく『相談できる機会がある』っていうだけで、精神的には随分楽になると思うから、節目節目で来てもらえれば十分よ。誰が来てくれるかは、事前に教えてもらわなくてもいいわ。どの子も優秀だってわかってるから」 「そう言ってもらえると嬉しいですね」 男子訓練生の相談役として現役の男性CPとAPを…と言う話をまとめ、華が『お茶淹れるわね』と立ち上がった。 信隆も、『私がやりますよ』と立ち上がったのだが、華は笑って『座ってて』と言い、その続きにとんでもないことを言った。 「これから『お説教タイム』だから、大人しくしてなさい」 「…はい?」 誰が誰に説教? …と、信隆が首を傾げる。 「あら、心当たり無いの?」 「ありませんよ。こんなに頑張ってるのに。華さんにだって、褒めてもらえると自負してますよ。畏れながら」 笑いながら言う信隆に、華は意味ありげな笑いを漏らす。 「確かに頑張ってるわね。仕事は」 『仕事は』…と強調されて、信隆はまたしても首を傾げる。 それ以外にいったい何があるというのだろうと。 プライベートでは、確かに問題山積で、かなり参っている。 香平が意図的に自分を避けているのはどうやら確実のようだし、感情にまかせてブレーキが利かなかった『3つの失敗』がその原因であろうこともおぼろげに見えてきた。 そして、それをどうやって解決していいのか、わからない状況なのだ。 このまま無理に会って、4つ目の失敗をやらかしたら、もう終わりだから。 けれど、それを華が知っているはずは…。 ――もしかして、来栖先輩から? 本音を晒したのはあれだけだ。 そして、敬一郎と華が、牛島を通じなくてもやりとりできる間柄だと知っている。 それでも、詳細は話してはいない。 相手が誰かすら、告げてはいない。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます」 よく冷えた緑茶を出して、華はまた、信隆の正面に座り、それはそれは綺麗に微笑んだ。 そう、信隆には良くわかっている、この完璧な笑みは、かなり言いたいことがある時の笑みだ。 信隆ともあろう者が、背中にひんやりと汗をかいた。 「のぶちゃんも、いつまでも物わかりの良い振りしてたら、目の前の獲物、逃がしちゃうよ?」 完全にプライベートの口調になって、華はすうっと目を細める。 「目の前の獲物って…」 「まあ、簡単に諦めつく程度なら、わざわざ追いかける事もないけどね」 今度は鼻先で笑われた。 これはもう、間違いなく香平のことだと思った。 話の出所は言うまでもないだろうが、今はそんなことを詮索している余裕はない。 「…そうは言っても、その辺りの判断って難しくないですか?」 だから、その余裕を無くしている思考が命じて口から出たのは完全に『でまかせ』の『言い逃れ』で。 「なんで? 簡単じゃないの。…って、自称『百戦錬磨』が今更なに? わかってるんじゃないの? 本当にわかってないなら説教する時間が無駄なんだけど」 それは、教官の誰もが訓練生に一度は口にしたことのある台詞――『やる気がないなら訓練する時間が無駄です』――と、同じトーンで、信隆は密かに深呼吸して上がって行く心拍数を必死で抑える。 そうだ。わかっているはずだ。 いつの間にか――いや、きっとかなり前からだ――香平の存在が自分の中に根付き、育ち、すでに心の中一杯になっている。 そして今は、その香平に会えなくなって、とてもとても、揺れていて、どうしていいのかわからない。 ともかく、この心の中に一杯になっている想いを、どこへ持って行けば良いのかわからずに、毎日迷っている。 そう、素直に認めればいいのだけれど、認めただけでは何の解決にもならない。 傷つけてしまった香平の心を、自分は癒すことができるのか。 黙り込んでしまった信隆に、華は口調を変えた。 「ちなみに、聡くんからの情報だけど」 いつもの華だ。優しくて快活で。 「711便の紳士って、わかる?」 「あ、はい。先日急病人の手当をしてくれた人の事だと思います。牛島キャプテンが乗っておられましたね」 「それだけじゃないでしょ? 香平くんを追っかけて来たVIPって聞いたけど」 そんなことまでバレているんだと、信隆は、今さらながらに自分の職場の情報網に唖然としてしまう。 「香平くんを誘うの、やめたみたいね」 「えっ?」 気になっていたのだ、その後も香平の便の搭乗者名簿を確認してしまうくらい。 前島が乗るはずのない路線までも。 「でも、それをどうして牛島キャプテンが…」 追いかけて来たVIPとまでは知れていても、誘うのをやめたという話は信隆ですら知らない情報だ。 その疑問を、華が明かしてくれた。 「あの時雪哉くんも一緒だったでしょ? でね、雪哉くんがちょっとやってくれちゃったみたいなのよね」 「雪哉が?」 確かに雪哉は『香平が誘われて、断り切れなかった様子でついていった』と報告してきたが、何かをやらかしたなどとは一言も聞いていない。 「件の紳士の前で、『香平、僕を置いて何処に行ってたの?』って、あの可愛い顔と声で香平くんにしがみついたらしいのよ。それを聡くんも大橋キャプテンと一緒に目撃しちゃったわけ」 あははと笑って、『見たかったわ〜、眼福だったでしょうねえ』と、うっとりして見せる華は、冗談ではなく、本当に見たかったようで、はあ〜と、ため息までついている。 ちなみに聡くんは『なんで写メ撮ってないの』と、華ちゃんに言われて凹んでいたとかいないとか。 そして信隆はもう、何が何だか…だ。 「それは、雪哉が仕掛けた…と言うこと…ですか?」 問うと、『そりゃそうでしょ』と肩を竦めてみせる。 「以前からね、香平くんが誘われて困ってるようだ…って、チームの中では噂になってたらしくてね、それが雪哉くんの耳に入って、これは何とか助けないと…って思ったんだって。それで普段から香平くんが『お誘いを断る手段』に、『パイロットの恋人がいる』って言う手を使ってるって話で、それを利用したわけね」 まさか雪哉が香平のために一肌脱ぐような事をするとは…と、嬉しさがこみ上げてくる。 しかも『ダシ』にされていたこともわかった上で。 2人はついに、友人関係を作り上げたのだ。 それも、とても近くて温かい…。 「私もね、嬉しかった。雪哉くんはちゃんと自分の力で立ち直ったのよ。もう、きっと揺るがない」 雪哉が倒れた時、機長は牛島で、華は事の顛末を知っている――そもそも牛島夫妻は敬一郎より先に、雪哉の生い立ちを知っていた――から、喜びも一入だ。 「雪哉も香平も、本当に思いやりのある優しい子で、そして、どちらもとても、友達思いです」 信隆のその言葉に、華が意味深な笑いを漏らした。 「それには同意するけど、でも今回の件は、友達思いってだけじゃないでしょ」 「え?」 「雪哉くんはね、のぶちゃんに幸せになって欲しいのよ」 「…どういうこと…です?」 珍しく察しの悪い信隆に、華は『あらやだ。まだわかんないんだ』と、目を丸くする。 「のぶちゃんのためにも、香平くんを守ったのよ。つまり、バレバレってこと。キミの気持ちはね」 自分ですら計りかねて持て余した己の胸の内を、まるっきりわかられているとはどういうことなんだと、信隆は頭を抱えた。 そして、目の前で文字通り『頭を抱えて』しまった信隆に、華は少し水を向けた。 「ねえ、雪哉くんの時、彼が来栖くんの腕の中に収まる姿って、想像できた?」 「…ええ、まあ何となく」 確かにお似合いではあるな…と、割と早くから感じてもいたし、何よりも、2人の幸せを願ったから。 「じゃあ、香平くんがその紳士とか…そうそう、キャプテンも追っかけて来たそうだけど、そのキャプテンの腕の中に収まる姿は?」 そんなこと、想像したくもない。 馴れ馴れしく触られるだけでも身体のあちこちが焦げ付くのに。 何も言わず、ぶすくれた様子で黙り込んだ信隆に、今度こそ華は大笑いを始めた。 「やあねぇもう〜。答えなんてとっくに出てるんじゃないの。それでまだぐるぐるしてるなんて、ほんと、のぶちゃんってばオコサマなんだから〜」 まだ、人生たかが39年だが、少なくともハイティーンの頃からオコサマと言われたことは一度もない。 そして、憮然とする信隆に、華は今一番縺れていることを、あっさりと口にした。 「で? 香平くんに避けられてるって?」 「…そこまでバレてるんですか…」 その情けない事実に気づいたのはほんの少し前だ。 いや、今この瞬間も、間違いであって欲しいと思っている。 「…そうでなかったら良いなと思ってたんですが、どうやらそのようですね」 「そうね。香平くんがそう言ったようだから、確定でしょ」 華が繰り出した、さらに新しい情報に、信隆が目を見開いた。 「…え? 出所は来栖先輩じゃないんですか?」 「半分来栖くんで、半分雪哉くん。あと、ノンちゃんの証言。ちなみに香平くんからはっきり聞き出したのは、雪哉くん。のぶちゃんと鉢合わせしないように、とある場所で時間潰してるって」 その『証言複合技』は何なんだと脱力してしまうが、そんなことよりも、香平の口からはっきりと『避けている』と言われたのはさすがにショックで、これは立ち直れるかどうか――いや、もしかしたら無理かも知れない。 ついに地の底まで落ち込んだ様子の信隆に、華はちょっとくらい優しくしてやるか…と、柔らかい口調で諭す。 「どうして避けられるようになっちゃったのか、ちゃんと自分で聞いてらっしゃい」 「…聞かなくてもわかります」 重ねた失敗が香平の心を遠ざけてしまったのだと、痛いほどわかっていて、それの修復に、手も足も出ない状態なのだから。 けれど、華は少しおどけた調子でそれをひっくり返す。 「あら、そうかしら?」 「どういうことです?」 「私が来栖くんから聞いた『のぶちゃん曰く』の話と、雪哉くんから聞いた『香平くん曰く』の話はまったく違うんだけど?」 「…なんですって?」 次から次へと繰り出される話に信隆は振り回されっぱなしで、情報の処理が追いつかない。 「真逆と言っていいかなあ。あからさまに正反対って感じ?」 殊更のんびりとした口調で言われ、信隆は椅子から腰を浮かせた。 「その話、教えて下さい!」 「や〜よ」 「華さ〜ん」 泣きつく信隆に、華はピシッと言い渡す。 「何言ってんの、甘えた声出してもダメ。いい歳してまったくもう。ここまで教えて上げたんだから、後は自分で始末付けなさい。まずは香平くんとちゃんと話をすること」 そうだ、それができない限り、先へは進めない。 このまま終わるだけになってしまう。 けれど、対峙するのは怖かった。 もし、もう完全に香平の心が離れていたとしたら。 そう思うと、今までの己の所行に、後悔ばかりが募る。 「俺は、嫉妬に任せて、問い詰めるばかりで助けてやらなかった…」 視線を落とし、独り言のように零した信隆に、華は優しい目を向ける。 やっと『嫉妬』と認識したか…と。 「ん〜、まあ、そこはある程度は仕方ないんじゃないの? のぶちゃんの立場からすれば、出来ることは限られるし、クルーたちのように自由に動くわけにはいかないもの」 でしょ…と、言われ、信隆が視線を上げた。 「華さん…」 華は柔らかく微笑んだ。 「のぶちゃんが背負ってるものの重さは良くわかってるつもりよ。肩書きが重くなるにつれて、いつの間にか自分がそれを演じざるを得なくなることもね。でも、絶対離したくないって思うのなら、その時は肩書きなんて棄てちゃいなさいよ。それに縛られてるんじゃ、話にも何にもなりゃしないわ」 言われて初めて信隆は、自分が自分の立場に縛られて、いつの間にか及び腰になっていたことに気がついた。 クルーの頂点という、孤高の立ち位置からものを見ることに慣れて、物わかりの良い振りでやり過ごしてしまい、同じステージで気持ちを共有していただろうかと。 通常乗務ではなく、審査や査察に明け暮れていたことを言い訳にはしたくない。 いつだったか香平に言った、『ひとりじゃないということを忘れるな』と言う言葉は、そのまま自分に返ってきた。 「本当に欲しかったら、何もかも棄てる覚悟で掛かりなさいよ。そうでないと、あんなに良い子を腕に抱く資格なんてないからね」 って、マジで何もかも棄てられても困るけどね…と、華は可笑しそうに笑う。 信隆は、そんな華の前で、完全にホールドアップ…白旗を挙げた。 やっぱりこの人には敵わない。職歴のブランクなんて関係無い。 人として、この人は自分の遙か先を行っている。 もし、華が降りる事無くクルーを続けていれば、今頃このネームプレート――Rainbow Wing――をつけていたのはきっと華だっただろうと、素直に思える。 「さすが、伝説のチーフパーサーですね。やっぱり華さんには敵わないですよ」 この敗北は、いっそ清々しい。 だが華はその言葉を聞いて、『それ!』と、身を乗り出した 「なんでそんな話になってんの? 11年間も空いて、自分でも大丈夫かなって思いながら戻ってきてみればいつの間にか『レジェンド』になっててびっくりしたわよ、もう〜。それ、誰のことって感じよ。なんで伝説? いなかったから適当に持ち上げちゃえってこと?」 パイロットの夫を支え、子育てに励む毎日を『牛島さんの奥さん』とか『綾ちゃんのママ』と呼ばれて過ごしてきて、本当に久しぶりに戻ってみれば、何故か伝説になっていて、オペレーションセンターに用があって出向いてみれば、会ったことのない20代のクルーたちからは『神格化』されていて、拝まれる始末だ。 「華さんはそこにいるだけで『神』なんですよ」 「はい〜? 何それ、意味わかんないし〜!」 お賽銭くれなきゃ御利益ないわよっ…と、騒ぐ華は、やっぱりうっしーのヨメだ。 ユニークで可愛らしくて頼りになって。 そして信隆は、華と、そしていつの間にか見守っていてくれた、雪哉と敬一郎とノンノンに感謝しつつ、素直な気持ちで思いを致す。 中原香平と言う愛おしい存在を欲しているのは、教官でもクラウンチーフパーサーでもなく、都築信隆と言う、ひとりの人間なのだと。 勇気を出して、香平に会おうと決めた。 ゆっくり話をして、誠実に自分の気持ちを伝え、そして抱きしめて言おう。 愛していると。 |
本日、公開されている信隆のスケジュールは『公休日』だ。 本来なら、ここ――オペレーションセンターにその姿はないはずだから、香平は油断しているに違いない。 乗務前の不意打ちは本意ではないが、もう待てなかった。 ☆ .。.:*・゜ ホノルル便の出発は22時45分。ショウアップは21時05分。 それまでに着替えて、メールボックスの確認などをしなくてはいけない。 以前は、気象や航路の情報など、出社してからショウアップまでに確認しなくてはいけなかったが、今ではそれらの情報はすべてそれぞれに貸与されているタブレット端末で事前に確認できるので、出社時間は概ね遅めになってきている。 それでも香平は、いつもショウアップの30分前にはすべての用意を調えて、ブリーフィングに備えている。 クルーが来れば話をし、いなければタブレットで諸項目を再確認したりと、暇はない。 香平は今日も早めに出社した。20時を少し過ぎている。 男性キャビンクルーの定期採用が始まるまで、ロッカールームは、中で簡易に区切られてはいるものの、コ・パイと共用だった。 今は、増加の一途を辿る人数に合わせて新設された場所があり、今後を見越して広く取られているので今のところは結構閑散としている。 数列に別れていて、一番奥の列に、チーフパーサー以上――つまり、信隆と香平と健太郎――のロッカーがある。 信隆と香平たちの間の期の上級チーフパーサーたちはみな、今は他のベースにいて、現在この列を使うのは3人だけなので、香平は、早くここが埋まる日が来れば良いのになといつも思っている。 隣のアシスタントパーサーの列も、まだ一桁の人数だ。 その向こうはそれなりに賑わい始めていて、香平がロッカールームに来た時には、国内線乗務1年目のクルーが数人、挨拶をして帰っていった。 そのいずれもが香平を憧れの眼差しで見つめていたが、香平はそんな視線の『意味』に気づくこともなく、いつものように花が綻ぶような笑顔を見せて『お疲れさま』と見送った。 ここで制服に着替えると、いつも気持ちが引き締まる。 今日は白藍のシャツに鉄紺のネクタイ。 復路では灰桜のシャツにするつもりでいる。 真朱(まそお)のネクタイは、可愛らしすぎて少し苦手だ。 一度、上級チーフパーサーの小野香澄に真朱のネクタイを蝶結びにされてしまい、こっちの方が似合うと言われて鏡を見れば、確かにネクタイ結びよりもハマってる気がして、それ以来、真朱からは遠ざかり気味だ。 信隆くらい突き抜けた美形だと、何色であろうが見事に着こなしてしまうのだが。 ネクタイの仕上がりを確認し、上着を羽織る。 キャビンクルーのジャケットとボトムには、もちろん秋冬用と春夏用の2種類がある。 パイロットが夏場に上着を着用しないのはどうしてかなと思っていたら、実はパイロットには夏用上着がないのだと聞いて驚いたのは、クルーになって3年目くらいのことだった。 ただし、キャビンクルーも上着を着ているのは、乗客を出迎えて送り出す時だけだ。 離陸してベルトサインが消えたら速攻脱いで、次に着るのは着陸前。 フライト中は脱いでいる。もちろん仕事の邪魔だからだ。 香平は腕時計を確認した。ちょうどいい時間だ。 オーバーナイトバッグを手にロッカールームを出る。 その時、背後からポンと香平の肩を叩く手があった。 覚えのある触れ方と温もりに、香平の身体が強張る。 ――え…まさか…。 「久しぶりのホノルルだな」 まさかが的中した。 その声は、今日は公休日でいないはずの人。 怖くて振り返ることができない。 固まってしまった香平の肩を、やはり覚えのある触れ方で抱き寄せて、その人は歩き出した、香平を引きずりながら。 そして、誰も通らない、非常階段の入り口までやってきてしまった。 「どうして逃げてる? 何から逃げてる? 俺からか?」 口調は優しいが、今一番聞かれたくないことを聞かれ、聞いた事のない一人称に、香平は思わず首を竦めた。 「…逃げてなんか、いません」 震える声が嘘だと語ってしまう。 肩から手が離れた。けれど次の瞬間。 ――えっ? 香平の二の腕が両方とも掴まれて、そのまま力任せに引っ張られ、身体のすべてが抱き込まれてしまった。力強く。 ――な、なにっ?! 「…香平、頼むから、話を聞いてくれ」 予想外に弱々しい声がしたことに更に驚き、香平はやっと言葉を発した。 「教官…」 「すまなかった。香平の気持ちも考えずに、本能に任せて突っ走った。フォローも何も、ちゃんとしてやれずにいたままで…」 抱きしめられたままで信じられない言葉を聞いて、香平は返す言葉も取るべきリアクションもまったく吹き飛んでしまい、その腕の中で身体を強張らせるばかりだ。 その様子を当然察して、信隆は宥めるように頭を抱え、背中を撫でる。 「ごめんな。乗務前なのに」 こんな声や話し方を聞いたことがない。 抱きしめられたままで、そう言えば顔を一度も見ていないから、本当にこれは『都築教官』なのだろうかと不安になるくらいで。 「ホノルルから帰着したら、ゆっくり話そう。俺たちには誤解が多すぎるから」 やっぱり信隆は『俺』という。 もしかしてこれが、素の姿なのかな…と、香平は頭のどこか遠くでぼんやりと考える。 そして、そのさらに隅っこの頭で、もしかして自分は信用されていないわけでは無いのかも知れない…と希望的観測を巡らせたが、すぐに思い込めるほど、おめでたくはできていない。 「あの…」 「ん?」 身体は離してもらえそうにないようだ。 「よく、わからないんです…が」 「俺が勝手に突っ走って香平を振り回したってことだ。そのことをちゃんと説明するから、な、帰ってきたら、時間をくれ」 説明する…と言われて、やっと少し気を緩めることができた。 そう、説明がなかったから、怖かったのだ。 「…ええと、はい」 承諾すると、拘束は漸く緩んだ。 少し見上げると、そこにはあったのはやっぱり、あの美しすぎると言われている信隆の顔。 だが今は、少し辛そうに眉が寄せられている。 「香平は何も心配しなくていい。ホノルルから戻ったらすべて解決するから、安心して飛んでおいで」 その言葉は、香平のかなりの部分を解放した。 少なくとも、何の不安もなく飛べる程度には。 あと、残ったのは…。 自分の想いを自覚してから初めて間近に見る信隆の顔に、香平の胸が甘く締め付けられる。 やっぱり好きだと改めて認識することになってしまった。 けれど、知られるわけにはいかない。 そう、この想いさえ隠し通せれば、自分はこれまで望んできた通り、信隆の背中を追いかけていける。 香平はそう信じた。 信隆は、そんな香平をもう一度抱きしめて、『ブリーフィングに行っておいで』と、背中を押した。 ホノルルから帰着すれば、すぐに全てが解決する。 疑いもなく、そう信じて。 |
往復とも10時間未満のフライトは基本的にシングル編成で、ホノルル便は機長と副操縦士の2人だけだ。 この日のホノルル便は、機長がニコラでコ・パイは昌晴だった。 ニコラは『とにかく国内線に慣れろ』ということで、移籍以来国際線乗務が月イチあるかないかで、香平となかなか会えなくて、若干悶々状態だったから、浮かれまくっている。 ホノルル線と欧米路線のもうひとつの違いは、ファーストクラスの設定がない『777』を使うと言う点だ。 ビジネスクラスまでしか設定がない機材なので、香平も久しぶりのビジネスクラス担当で、少しだけ肩の力が抜ける。 しかもリゾート路線だから、ビジネスクラスのシートも今流行のボックス独立タイプではなく、普及タイプの横並びシートのゆったり仕様で、客層も所謂『少し余裕のある一般人』というクラスが多く、往路の機内は開放感に溢れている。 ホノルル行きの166便は、順調にフライトして定刻に到着した。 ステイ先のホテルはちゃんと『新館』で、怖い話が大の苦手な香平はホッとしたのだが、ニコラと昌晴は平気な様子で、『なんだ、残念〜。会ってみたかったのに〜』なんて言っている。 到着日の夕食には、クルー全員で出かけた。 思った通り、気さくでユーモアに溢れた――その上、長身男前だ――ニコラはたった数ヶ月でしっかりと人気者になっていて、『こっちのクルーはみんな可愛くて素直で明るくて優しくて、前のエアラインと大違いで天国だよ〜』なんて、以前のエアラインのクルーたちに聞かれたらボコボコにされそうなことを言っている。 昌晴も、結婚指輪をしていようが、もうすぐパパになろうが、やはりクルーたちのウケは良くて、話が弾んでいる。 『うっしー2世』と言われ、『それだけは勘弁して』と言うと、『うっしーに言いつけてやる〜』と返されて笑われている。 香平はと言うと、乗務前のあの驚くべき展開がずっと頭から離れないのだが、それでも、もしかしたら自分は勝手に悪い方へ持って行っていたのかも知れないと、少しだけ希望が持てて、いつになく気分は解放されている。 ただ、帰ったらどんな話になるのかはやはりまだ少し不安で、でも、今度こそ逃げずに話をしようとは決めている。 このまま逃げ続けるわけにもいかないのだから。 食事を終えて解散になり、ニコラは香平に、少し散歩しよう…と、誘った。 暗いところには行きませんよと釘を刺すと、ニコラは『ステイ中にそんな不埒なことはしないよ』と、笑って見せる割りには手を繋ごうとするが。 世界屈指のリゾート地は、夜が更けても賑やかだ。 心地よい風に、椰子の木やハイビスカスが揺れるホテルへの道を、少し遠回りでゆっくりと歩く。 南国の風が含む香りは、他の地域では感じられない華やぎがあって、気分を少しばかり前向きにしてくれる。 ここしばらくの出来事を色々と思い返して、香平は、自分も助けられてばかりではなく、もう少ししっかりしないといけないな…と、思った。 「キャプテン」 「ん?」 見下ろしてくる笑顔は香平を安心させてはくれるが、ドキドキさせてはくれない。 それを感じることができるのは、あの人だけだともうわかっている。 このままずっと、片想いだけれど。 「あのですね、同じエアラインの仲間としてのお付き合いなら喜んでさせていただきますけれど、それ以上の関係は望まないで下さい。追っかけて来てもらったのに申し訳ないですけど」 きっぱり告げられて、それでもニコラは怯むことなくおどけた様子でホールドアップをしてみせる。 「了解。できるだけ香平の意志に添うようにするよ。でも、君に決まった人ができるまで、僕は諦めないよ。僕の気持ちは、僕のものだから」 「キャプテン…」 「でも、香平の負担にならないようにすることは約束するよ。当然、乗務の邪魔にもならないよ。それは、空で全員の命を預かるものとして、誓うから」 やっぱりフランス人には敵わないなあ…と、またしてもフランス人が聞いたら怒りそうなことをつらつらと考えて、香平はこっそりため息をついた。 この調子ではなかなか折れてはもらえそうにないけれど、前島のように、こちらが対等にものを言い難い状況で引きずられてしまうよりはずっとマシだ。 あれ以来、まだ711便には乗っていない。 そろそろ…のはずだったのだが、スケジュールチェンジがあって、こうして夜のワイキキビーチの心地よい風に吹かれている…というわけだ。 「キャプテンは、ジャスカに来る前に、ホノルル便って飛んでました?」 「いや、なかったな。東へ行くのはシャルル・ド・ゴールから成田行きだけだったし、西へ行くのはアメリカ本土だけだった。ホノルル線ももちろん楽しいけれど、僕は日本の空が好きだな。島と海が絶妙に入り組んでいて、何度眺めても美しい」 確かにそうかもしれないな…と、香平は思う。 羽田から西へは大陸ばかり、東へは海ばかりだ。 「香平は初日の出フライトって知ってる?」 「聞いた事あります。お正月のでしょ?」 「そうそれ、飛んでみたいなあ。今度リクエストしようかな。飛ばせてって」 「雪哉は1回飛んで懲りたって言ってましたよ?」 「え、なんで?」 「航路が激混みで、気流も悪くて気が抜けないって」 「…んじゃ、やめだ」 顔を見合わせて、笑った。 ホテルの部屋に帰り着いた頃、メールが着信した。 信隆だった。 『お疲れさま。昨晩は乗務前なのに驚かせてすまなかった。帰ってくるのを心待ちにしているから』 短い文面だったが、気持ちが軽く、温かくなった。 本当に、今度こそちゃんと話をしようと。 日本は今、午後4時頃。 タブレットで信隆のスケジュールを開けてみると、明日も明後日も国内線のOJT審査だ。 『お疲れさまです。166便、問題無く定刻に到着しました。165便は天候の悪化が懸念されていますが、しっかり務めたいと思います』 帰着して、信隆と会うのが少し楽しみになってきた。 ――帰着まで、あと何時間かな。 時計をみて、28時間後くらいには会えると信じて微笑んだ。 |
ホノルル線ほど、往復で乗客の様子がまるで違う便も珍しい。 行きは、現地午前中着になることもあり、はしゃいだ雰囲気が満ちているが、帰りは夕方発の便ということもあり、乗客はみな遊び疲れてぐったりしている。 巡航高度に入ってすぐに行われる、夕食にあたるミールサービスが終わるとほとんどの乗客が眠りにつく。 ただ、ここで寝てしまっては、着いてからが辛いのだ。 羽田に着くのは午後10時半頃。 8時間少しのフライト時間を寝てしまうと、これから夜中になろうというタイミングで、おめめぱっちりになってしまうからだ。 ミールサービスが終わり、静まりかえった機内で、香平はひとりの男の子に目を留めた。 搭乗者名簿によると、確か年齢は5歳。 だが恐らく、なりたての5歳ではないかと思われる幼さだ。 チャイルドミール――今月のメニューは雪哉が泣いて喜びそうなチョコプリンつきだ――を、小さな手で一生懸命食べていて、可愛いなと思っていたところだ。 最近ではビジネスクラスで幼児を見かけることも少なくない。 もちろん一人前にシートを使う限りはそれなりの運賃が掛かってくるから、かなり余裕のある家庭なのだろうけれど。 見れば両親も疲れ果てているのだろう、熟睡状態だが、男の子は暇を持て余している様子で、今にもぐずり始めそうだ。 「飛行機、好きかな?」 低い目線に合うよう腰を落とし、香平はにこ…と微笑んで優しく声を掛けた。 「うん」 「じゃあ、これで遊んでみる?」 手渡したのは、小さな絵本と7本の色鉛筆のセット。 飛行機と空と虹の塗り絵になっている。 広げて用意をして上げると、嬉しそうに塗り始めた。 これでしばらくは持ってくれるだろうと、香平は小さな頭を撫でて立ち上がり、ギャレーへ戻る。 今は静かな機内だが、香平は腕時計に目をやり、あと30分くらいだろうかと考えた。 その様子を見て、アシスタントパーサーが声を掛けてくる。 「嵐の前の静けさ…でしょうか」 「でなきゃいいんだけどね」 「そうですね」 「とにかく、こまめにテーブルやベルトの確認して下さい」 「了解です」 復路便は、キャビンブリーフィングの時にニコラからあらかじめ伝えられていた。 相当に雲の状況が厳しいと。 かなりの乱気流に巻き込まれる可能性があるから、気を抜かないようにとのことだった。 8年も乗っていると、乱気流にはそれなりに遭遇している。 機内から悲鳴が上がることも少なくない。 けれど、適切にシートベルトが使われていれば、怖がることはない。 怖いのは、トイレだのなんだのと、勝手にシートベルトを外して離席しようとする乗客だ。 クルーの忠告や静止を振り切って怪我を負った場合、航空会社に責任は生じないが、それでも機内から怪我人は出したくない。絶対に。 予告されていたおおよその時間より10分ほど早く、昌晴から連絡がきた。 「5分後にベルトサイン。短時間ですが、相当の揺れが不可避です。キャビンの安全確認を徹底して下さい。クルーも早めの着席を。キャビンへは、キャプテンからアナウンスがあります」 機長からアナウンスがあると言うことは、かなり厳しい揺れになりそうだと、クルー全員が気を引き締めて、キャビン内を手早く確認して回る。 程なくニコラのアナウンスが始まった。 積乱雲の中にいて、揺れが激しくなる可能性があることや、シートベルトを今一度確認して欲しいことなどが、日本語と英語で伝えられる。 その落ち着いた口調が与える安心感は、以前と変わらないなと、香平は思う。 しかも、声だけだととても外国人には聞こえない。 英語になると、さすがに日本人キャプテンとの発音の差は歴然になるが。 香平は、ビジネスクラスを担当クルーたちに任せ、エコノミークラスを確認に向かう。 ひとり当たりが担当する乗客数は、当然エコノミーの方が多いから、こういう事態での手助けは必須だ。 トイレに行ってもいいかと尋ねてきた中年男性に、国際線乗務1年目の若いクルーが、『今暫くご辛抱をお願いいたします。狭いお手洗いの中で揺れますと、怪我につながりますので』と説明し、男性は納得したようだ。 その様子に香平もホッとして、テーブルの上の飲み物などを回収し、テーブルを戻し、シートベルトを確認して回るクルーたちに、『出来るだけ早く座って』と声を掛け、自身も満席の座席を最後尾からくまなく視線を巡らせて、ビジネスクラスへと戻る。 途中、先ほどの男の子と目が合った。 両親はまだ眠っているようだ。 不安そうな目を向けてくるその子の足元にひざまずいて、香平は笑ってみせる。 「大丈夫だよ。ちょっとジェットコースターみたいになっちゃうけど、ジッとしていれば怖くないよ」 男の子は頷いたが、瞳は少し、揺れている。 その様子は、どことなく幼い頃の雪哉の雰囲気によく似ていて、香平はシートベルトを確認すると、その小さな頭をまた優しく撫でて、自分のジャンプシートに着いた。 それから僅かの後、予告通り、機体は揺れ始めた。 最初は小刻みに、やがて大きく揺れ始める。 揺れに気づく乗客も出始めて、機内には緊張感が満ちてくる。 あまりに酷いようなら、アナウンスも必要だが、今のところは様子を見るつもりで、香平はシートに着きながらも、見える範囲の客席に目をこらし続けた。 一度、軽いエアポケットに入ったが、この程度なら酔う乗客はいない。 キャビンブリーフィングの時に、『軽い揺れを長時間』か『激しい揺れを短時間』の選択になるかもしれないと聞いていたが、先ほどの連絡やアナウンスからして、コックピットは恐らく『激しくても短時間』で済ます方を選んだのだろうと、香平は思った。 そして、思った通り、1番酷いあたりは過ぎたような気がした。 その時。 乗客のシートで何かが動くのが見えた。 ――え?! 小さな足が見えた。 ――ちょっと待った! よいしょ…と席を降り、通路に出たクリンとした可愛い瞳が、香平をとらえた途端に安堵の色に変わった。 その瞬間、香平はもう何も考えられず、咄嗟にシートベルトを外して立ち上がり、男の子の所へ走った。 そして、その小さな身体を全身で抱きかかえた瞬間。 「きゃあ!」 音がするほど機体が横揺れして、機内に悲鳴が飛び交う。 「…うっ」 男の子を抱きかかえた香平の右肩に、身体を突き抜けるほどの激痛が走った。 シートのフレーム部分に激突してしまったようだ。 「中原さん!」 慌てた声に振り返り、立ち上がろうとシートベルトに手をかけたアシスタントパーサーを、『動かないで!』と一喝して押し止め、香平は腕の中の存在を確かめた。 驚きはしているが、どうやら怪我はないようだ。 「大丈夫?」 優しく声を掛けると、小さく『うん』と頷いた。 「優希!? いつの間に…!」 母親が気づき、驚きの声を上げる。 香平は、激痛が走り、動こうとしない右腕を無理やり動かして、男の子をシートに戻し、ベルトを掛けた。 「目を離さないで上げて下さいね」 見上げると、母親は不安そうに眉を寄せている。 「本当にごめんなさい。あなたは大丈夫?」 「はい、私は大丈夫ですから、ご心配なく」 無理に笑顔を作ると、汗が噴き出した。 「何やってんだ! 勝手に動いちゃダメだって言っただろう!」 起きたらしい父親の叱責が飛んだのを、香平は静かに制した。 「叱らないで上げて下さい。ひとりで心細かったんですよ」 言外に、再度目を離さないで欲しいと伝えると、父親はバツが悪そうに、小さな声で『申し訳ない』と答えた。 「もう怖くないからね、大丈夫」 そう言って左手で頭を撫でると、『ありがとう』と返ってきて、香平は心底、この小さな坊やが無事で良かったと胸をなで下ろす。 自分ですら、あの状態だったのだから、この小さな身体では間違いなく吹き飛んでいただろう。 そして、その様子をハラハラしながらジャンプシートから見守っていたアシスタントパーサーは、自分のジャンプシートに戻ってきた香平を見て、一件落着だとホッとしたのだが…。 「大丈夫ですか?」 「うん、平気だよ」 「でも…」 尋常ではない汗を流し、どう見ても具合の悪そうな様子に、不安を募らせる。 「平気平気、ちょっと肩を打っただけだから」 笑ってみせるが、顔の筋肉を動かしただけでも、痛みが走る。 やがて、揺れはほぼ感じられなくなってきた。 「少し、収まってきたね」 そう言う声は、掠れている。 アシスタントパーサーは、心配そうに眉を寄せた。 このままで良いのだろうかと。 |
【8】へ |
*Novels TOP*
*HOME*
☆ .。.:*・゜
おまけSS
事態切迫中につき、ゆっきーがのんびり語ります。ゆっきーの『アイドルは辛いよ』
パイロットは、本当に小さい頃からの僕の夢だった。 無理だとずっと思っていたけれど、かすかな道が拓けてから、僕は必死でがんばって、ついに操縦桿を握ることができた。 夢を叶えて、空を飛べる毎日に、僕は幸せなんだけど。 アイドルになろうって夢は一度も持ったことがない。 中学の頃、下校時に1、2回と、大学時代には何度もスカウトされたけれど――高校時代は学校の敷地からほとんど出なくて外の世界から隔絶されていたから平和だった――芸能界とかそんなものは僕の人生設計のどこにも微塵もなくて、興味を持つことすらこれっぽっちもなかった。 だいたい、歌も踊りもできないし。 なのに。 何故かパイロットになってから、僕は『アイドル』と呼ばれるようになってしまった。 最初の頃はまだ良かった。 一部のクルーからそんな風に可愛がってもらって嬉しかったし、単なる『身内のノリ』に過ぎなかったんだ。 仲間とわいわい騒ぐのは面白かったし、そう言うシチュエーションを楽しんでいただけで。 どこで間違ったかというと、やっぱりアレがマズかった。 『コ・パイのゆっきー』の商品化だ。 あのあたりから少し様相が変わってきて、僕は、僕の知らない人たちからもそんな風に呼ばれるようになってしまった。 そうしたら、近しい人たちは更に盛り上がっちゃって、僕の行動はかなり『遊ばれてしまう』ようになった。 まず、『ゆっきーは日焼けしちゃダメ』。 アイドルは色白でないとダメなんだそうだ。 僕的には、男はちょっとくらい日焼けしてる方がカッコ良いと思うんだけど。 ちなみに『日焼け防止当番』なんてのがある。 チーム内で争いが起きないように、アサイン*されるのはちゃんとセニョリティ順らしい。呆れたことに。 それに似たことで『お肌カサカサはダメ』ってのがある。 機内は凄く乾燥してて、油断をすると肌荒れが起こる。 脱水にはキャプテンたちも気を遣ってて、こまめに水分補給するんだけれど、『お肌』の事なんて男は普通気にしちゃいない。 僕だってそうだったんだけど、一度ステイ先で『ゆっきー、お肌かさついてるよ』と言われて以来、キャビンブリーフィングの前に保湿クリームを塗られてしまうようになってしまった。 アイドルのお肌はすべすべでないといけないらしい。 あ、若手の男性キャビンクルーにはそう言うことに気を遣ってる子も多いけど。 そうそう、『ゆっきーは下ネタに乗っちゃダメ』ってのもあったな。 高校3年間を、ほぼ全寮制の男子校で過ごした僕にとって、正直そんなものは日常茶飯事で、男子高校生の挨拶代わり…みたいなもんだったんだけど。 って言うか、女性クルーの前でそんな話になったことないと思う。 だって、ヘタしたらセクハラになりかねないから、コックピット、キャビン問わず、男性クルーはみんな気をつけてる。 例えばコックピットでそれなりにそんなネタで盛り上がってたとしても、女性クルーが来たら、キャプテンたちはまるで何事もなかったかのように紳士のフリするし。 …って、もしかして女性クルーのそう言う話に巻き込まれたんじゃなかったっけ…。 あと、香平のことを『中原』って呼んでた頃、いつの間にか『ゆっきーは苗字の呼び捨てしちゃダメ』って事になってた。 意味わかんなかったけど。 あ、お酒も飲めない設定になってるみたいだ。 パイロットって職業柄、普段からそんなに飲まないのは、ほとんどのキャプテンやコ・パイに共通で、飲んでも缶ビール1、2本程度。 規定では乗務の12時間前から飲酒禁止なんだけど、僕の周囲はほとんどが24時間を切ったら飲まないって言ってる。 だから、飲みに行こう…なんてのは、まず公休日の前夜くらい。 いずれにしても、がっつり飲むのは長期休暇の時だけって人がほとんどだから、キャビンのみんなも当然それはわかってるのに、『ゆっきー、飲めないもんね』って、僕だけデフォルトで下戸ってことになってる。 いや、別に底なしじゃないけど、普通には飲めるんだけどな。 まあ、特に海外のステイだと、必ずパスポートの提示を求められる――もちろん年齢確認のためだ――という屈辱を味わうから、飲まないようにしてるけど。 それと、『チョコ好き』と『チャイルドミール』のせいで、僕は味覚がオコサマだと思われているらしい。 そんなことはないんだ。 好き嫌い全然無いし。 辛いものだって平気だし、多少なら『ゲテモノ』カテゴリでも行けると思う。多少…だけど。 だいたい、みんな僕がジュースしか飲めないと思い込んでいる。 珈琲だってちゃんと飲める。好きか嫌いかと言われたら、好きな方だ。 しかもブラック派だ。 あ、ミルクはあってもいいけど、でも砂糖はいらない。 でも『ゆっきーはお子ちゃまだから、ジュースね』ってノリだ。 最近は、何も聞かれないうちに『路線限定ジュース』が出てくる。 まあ、確かに好きだし、美味しいからいいけど。 でも、眠気覚ましに珈琲を飲みたいこともあるんだ。たまには。 だから、機長になったら絶対言ってやろうと思っている。 『珈琲。ブラックでね』って。 |
おしまい。 |
*アサイン…割り当てる、任命すること。 |
*Novels TOP*
*HOME*