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コックピットではニコラと昌晴が、夜間飛行の中、視認とレーダーで積乱雲と闘っていた。 「キャプテン、エコーは真っ赤です。逃げ道、塞がれてます」 レーダーエコーは、画面一面が真っ赤に表示され、シップが取れるべき航路の全てが積乱雲に覆い尽くされていることを示している。 「突っ切るか」 「そうですね。これだけ逃げ道がないと、脇に逸れている時間が勿体ないです」 「だな」 キャビンブリーフィングの時には、『軽い揺れを長時間』か『激しい揺れを短時間』の選択と告げたが、状況は悪化していて、長時間であろうが短時間であろうが激しい揺れには変わりない状況になった。 そうなればもう、短時間を選ぶのが当たり前だ。 ニコラの指示で、昌晴がキャビンへ連絡し、その後、ニコラが自ら乗客に状況を説明した。 そして、シップは積乱雲の真っ只中へ入った。 それでも、ニコラと昌晴が必死で雲の切れ目を探した甲斐があり、激しいながらもどうにかなっていたのだが。 「…っ」 慣れているはずのパイロットでさえ、思わず声を漏らしかけるほどの一撃が来た。 パイロットのシートベルトは、通常の腹部のものに加えて太股を左右それぞれ固定するものがセットされた三点式で、巡航中はそれだけしか装着していないが、離着陸時と気流が悪いときなどはショルダーハーネスも装着する。 その、ショルダーハーネスが肩に食い込むほどの衝撃で、ほんの一瞬とは言え、シートベルトが無ければ大変な事になるのは容易に想像がつく。 そして、それを境に、徐々に揺れは収まる方向へと向かう様子を見せ始めた。 油断は出来ないが、レーダーを見る限りでは、ピークは越えたようだ。 ニコラがキャビンへと繋いだ。 「かなり激しく揺れたが、キャビンは大丈夫だったか?」 インターフォンを取ったのは、香平では無く、アシスタントパーサーだった。 『お客様は大丈夫なんですが、中原チーフパーサーが…』 「どうかしたのか?!」 ニコラの顔色が変わった。 『ベルトを外して動かれたお子様がいて、それを庇って、打撲を負われた様子です』 その音声を一緒にモニターしていた昌晴も、眉を寄せた。 「わかった。揺れが収まったら様子を見に行く」 そう言った瞬間。 『中原です。肩を少し打ちましたが、問題ありません。大丈夫です』 キャビンでは、香平がインターフォンを横から取り上げて、割り込んできた。 『キャビンにも問題ありませんので、ご安心下さい』 そう言って通話は切れたが、ニコラも昌晴も気がついていた。 香平の声が少し、震えていたことに。 ☆ .。.:*・゜ シップはようやく積乱雲を完全に抜け、穏やかな巡航が戻った。 キャビンもすでに、何事もなかったように、ほとんどの乗客が眠りについている。 コックピットから昌晴が出てきた。 「香平、大丈夫か?」 香平はコックピットの真後ろのギャレーの奥で、椅子に座っていた。 頭を壁に持たせかけている。 「昌晴…何? ラバ?」 ラバと言うのはラバトリー――つまり、化粧室のことだ。 通常、パイロットが使用する時には、まずキャビンに連絡してくることになっている。 コックピットを空ける時間を出来るだけ短縮するために、乗客が使用していない時に、空きを確保するためだ。 そして、コックピットドアの前のカーテンを引き、さらにその前にキャビンクルーが必ず立つことになっている。 「何言ってんだよ。お前の様子、見に来たんじゃないか」 そう言いつつも、昌晴の顔色が変わった。 香平の様子は明らかにおかしい。 「…香平。もしかしてこれ、折れてるんじゃないか?」 「大丈夫。これくらいの怪我、部活でも経験してるし、自分でわかる。降りたらちゃんと医務室行くし」 だが、間違い無く相当な痛みに堪えているだろうことは、昌晴にはわかった。 それこそ、部活で経験しているからだ。 「でも、その状態じゃ動くのは辛いだろ? レスト行って横になれよ」 「うん、辛くなったらそうする」 約束するから…と言う香平に、昌晴は後ろ髪を引かれながらコックピットへ戻った。 それから香平は、酷くなる一方の痛みに、痛み止めを飲んで対処していたが、徐々にめまいを感じ始めていた。 身体は痛いが頭はぼんやりしてきていて、心なしか吐き気もする。 急速に顔色が悪くなってきた香平に、アシスタントパーサーが気づいた。 「…もしかして…中で損傷してるんじゃありませんか…」 「ん…平気だから。少し休んだら…大丈夫」 そう言うが、座ったままの香平は一度も目を開けない。 アシスタントパーサーは、尋常でない様子を感じとり、躊躇うことなくコックピットを呼び出した。 「香平っ」 ジェットエンジンの音に紛れる程度に、それでも焦った声でニコラが香平を呼んだ。 「しっかりしろ。返事できるか?」 「キャプテン…」 香平が目を開けた。 「大丈夫です。戻って下さい」 息が上がっている。 シップは、8時間と少しのフライト時間の、中間点までまだ達していない。 太平洋上には、ダイバート出来る場所はない。 いや、軍用基地ならあるが、十分な手当のできないところへ降りでも仕方がない。 羽田からホノルルへは7時間程度のフライトだが、復路は同じ航路でも、気流の関係でフライト時間は8時間を超える。 今の段階なら、引き返した方が確実に早く降りられる。 「引き返そう」 ニコラが言った。 瞬間、香平が閉じられていた目を見開いた。 「キャプテンっ、何を言ってるんですか?! こんなことで引き返すなんてあり得ません! 絶対真っ直ぐ羽田に向かって下さいっ。私は大丈夫ですっ」 チーフパーサーが乗客を巻き込むなんて、あってはならない話だと、香平は必死で訴える。 そして、香平は痛みで散逸する意識の中でもハッキリと思った。 もしかしたら、信隆にまた、以前と同じように接してもらえるようになるかも知れないのに、こんなことでダメにしてしまいたくないと。 自分の負傷で引き返すなど、絶対にあり得ない。 これでまた信頼を失うくらいなら、死んだ方がマシだ…と。 「香平、いい? 良く聞いて。機長にとっては、クルーも乗客も同じだ。みんな等しく、守る義務がある」 跪いて静かに諭すニコラに、香平は小さな声で『それはわかります』と答える。 香平だって同じだ。 自分のチームのクルーたちはみな、乗客と同じ重さで大切だから。 「じゃあ、引き返すよ? いいね?」 そう言って立ち上がろうとしたニコラの腕を、香平は動く左手で、渾身の力で掴んだ。 「香平…」 「キャプテン、昨夜約束してくれましたよね。僕の乗務の邪魔はしないって」 見つめてくる瞳には、恐ろしいほどの決意が宿っていた。 「お願いします。羽田へ向かって下さい。それと、帰着したら自分でちゃんと申告しますから、カンパニーでの報告は…」 言って、香平は荒い息をついた。 「…わかった。その代わり、機長命令だ。乗務から離れてクルーレストで休みなさい。いいね」 「…はい。わかりました」 機長命令は絶対だ。 だが、それでなくても香平にはわかっていた。 この状態では、ここにいるだけでも足手まといになると。 ニコラはアシスタントパーサーに、交代で誰かひとりが必ず付くようにと言い置いて、コックピットへ戻っていった。 羽田まであと5時間と少し。 だが香平の状態は少しずつ悪くなっていった。 そして、着陸まで1時間を切った頃。 キャビンからコックピットにコールが入る。 「はい、コックピット、藤木です」 『R1、笹尾です。中原CPが呼びかけに応じません』 アシスタントパーサーの切羽詰まった声に、ニコラが唇をかみ締めた。 「キャプテン!」 「昌晴。カンパニーに救急車を要請してくれ」 「Roger!」 応える昌晴の声にも緊張が走る。 「笹尾さん、救急車を要請するから、できるだけ声を掛け続けて下さい」 『了解しました!』 カンパニーを呼び出しながら、昌晴は祈った。 頼むから、持ちこたえてくれ…と。 |
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香平が乗務する165便の到着まであと1時間。 午後9時を回ったところだ。 4時過ぎに国内線のOJT審査乗務を終えていた信隆は、一旦帰宅し、私服に着替えてからまたオペレーションセンターに来ていた。 もちろん、香平を迎えるためだ。 できれば今夜は返したくないと、そう思う端から、焦りは禁物だと自分に言い聞かせ、ともかく香平の帰着が待ち遠しくて仕方がない。 機長がニコラだと言うのも信隆にとっては不安要素で、ステイ中に何事もなかっただろうかと気になって仕方がなかったが、もちろんそれを追求するつもりはない。 同じ事を繰り返すような馬鹿な真似はしたくないし、もしニコラとの事を聞くのなら、自分の気持ちをはっきり伝えてからだ。 「あれ? 都築教官、どうされたんですか?」 一度帰ったはずの信隆の姿に、カンパニーラジオの遅番勤務の担当者が声を掛けてくる。 「ああ、中原CPと約束があるんだ。で、迎えに来た。165便は定刻?」 「ええ、定刻の予定ですが、途中かなりの乱気流に遭遇したと報告がありました」 「…やっぱり。気象情報に出てたから気になってたんだ。大丈夫そう?」 「ええ、今のところ、それ以上の情報は来ていません」 「そう、それなら良かった」 運航乗務に関わるオペレーションセンターは、広大な空間を背の低いパーテーションで仕切ってセクション分けをしている。 いざという時、情報の共有と各部署の連携をスムーズに進めるために、独立させていないのだ。そのため一日中騒がしい。 かつて、牛島機長と昌晴の便がエンジントラブルになった時も、雪哉の便にギアトラブルがあった時も、この広大な空間の中程にあるカンパニーラジオの送受信を担当するデスクに一報が入り、センター全体が緊急事態を一斉にとらえて騒然となった。 誰しもが、あんな事態に遭遇したくないと、常に願っているのだが…。 信隆の目の前で、カンパニーラジオのデスクが騒がしくなった。 「165便から救急車要請です!」 声が上がり、辺りに緊張が走った。 香平の便だと、信隆の顔色が変わる。 「乱気流で負傷者一名!」 それを受けて、すぐさま別のラインが空港内の消防署に救急車を要請する。 信隆は、シャツの胸元をグッと握りしめた。 乗客から負傷者を出して、香平は自分を責めているに違いない。 そう思うと、いてもたってもいられない。 「負傷の程度は?」 担当者が165便に問いかける。 通信が、ヘッドフォンからオープンになった。 これで周囲の人間も同時に情報を聞く事ができる。 『骨折、内部損傷の可能性。意識レベルが低下。呼びかけに応じません』 予想を超える切迫した事態に、辺りが騒然となる。 声の主は昌晴だ。 「負傷者の氏名年齢わかりますか?」 応答にほんの一瞬、不自然な間があった。 瞬間、信隆の脳裏を嫌な予感が過ぎった。 『チーフパーサー、中原香平です。乗客を庇って負傷しました』 あちらこちらから悲鳴が上がる。 ――香平が…? 確か、今、呼びかけに応じないと告げていた。 それが香平だというのか…と、信隆は頭の中が真っ白になった。 周囲の動きが慌ただしくなる中、信隆は動けずにいた。 今まで、どんなトラブルに遭遇しようとも、そこにいたのは必ず冷静な部分を残した自分で、一瞬にして判断して動くのは当たり前だったのに。 「都築さん!」 誰かが信隆の背を叩いた。 「いて下さって良かったです。中原CPの自宅にはこちらから連絡しますから、都築さんは到着スポットまで行って下さい。ブリッジの外階段から救急隊員に上がってもらいます。グランド用の出入り口からお願いします」 そう言われて漸く、自分が今何をするべきか、信隆は思い出した。 ――香平を迎えに行ってやらないと! オペレーションセンターがある第2ターミナルから国際線ターミナルはそれなりの距離がある。 信隆は、数人のスタッフと共に走った。 |
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夜間だが、天候が良いのは幸いだった。 午後10時台は到着便が多いので気を揉んだが、救急車を要請している事は当然管制にも伝えられていて、ほぼ同時刻に飛んで来た4機の中で最優先で着陸が許可されて、165便は定刻より少し早く到着した。 ブリッジを架ける時間すらもどかしい。 乗客は全員後ろのブリッジから降ろすことになり、前方のドアからは救急隊員が入る。 シップの真下に付けている赤色灯を回す救急車に、乗客たちは何事かと驚いて足を止めるのだが、それらをさっさと追い出すのはクルーの役目だ。 クルー全員が、香平の容態が心配で気が焦っている。 アシスタントパーサーがコックピットドアのすぐ横にあるドアを開け、床面から下にあるレスト――通称カタコンベ――に救急隊員が降りていく。 乗務3年目のクルーがひとり、香平に付き添っていた。 「都築教官!」 救急隊の後ろに信隆の姿を見つけ、声を上げて駆け寄る。 「中原CP、返事をしてくれないんです」 言って、ボロボロと涙をこぼした。 今まで気丈に付き添っていたのだろう。 「大丈夫、落ち着いて。頑張ったね、よくやった。お疲れさま」 抱き寄せて背中を優しく叩く。 救急隊員は、香平に声を掛け続けている。 地下のクルーレストは大人が4人も立てる空間では無く、信隆たちは階段から覗く格好になっている。 「搬送します」 狭くてストレッチャーも通らないので、抱いていくと言う。 「どなたが同乗されますか?」 「私が行きます。直属の上司です」 「わかりました。どうぞ」 ひとりが香平を抱え上げた。 一目でわかった。 血の気が引いた顔色で、すでに意識が失われていると。 「信隆!」 ブリッジまで来たところで、ニコラがコックピットからでてきた。 最終点検をして整備に渡すまで、機長がコックピットを離れるわけにはいかないから、気を揉んだに違いないと、その焦った顔つきでわかる。 後ろから出てきた昌晴も、香平の姿を言葉もなく見送っている。 「ニコラ、報告を済ませてから来い。待ってるから」 「…わかった」 サイレンを鳴らして走る救急車の中で、処置を受ける香平をジッと見つめながら、信隆は心の中で繰り返す。 ――香平、頼むから目を開けてくれ。俺はまだ、お前に愛してると言っていない…っ。 |
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搬送先は第3次救急の病院で、すでに手術室の用意がされていた。 香平の自宅には連絡がついたが、父親は一昨日から海外出張中で、母親にはオペレーションセンターから迎えの車が向かっているとのことだった。 医師からは、骨折と脱臼で周辺の血管や組織が傷ついて腫れ上がり、それがさらに神経などを圧迫している可能性があり、緊急手術に入るとの説明を受けた。 程なくニコラがやってきた。 いつもお洒落に決めているニコラらしからぬ着乱れた様子は、必死で制服を着替えてきたのだろうと推測できる。 「香平は?」 「手術中だ」 医師から聞いたままを伝えてやると、『だから引き返そうと言ったんだ…』と、頭を抱えて信隆の隣に座り込んだ。 「何があったんだ? 乗客を庇ったと聞いたが…」 「5歳の男の子が、シートベルトを外して席から降りてしまったそうだ。それで香平は、その子を抱きかかえた。1番大きく揺れたのが、その瞬間だったんだ」 「親は?」 「眠っていたらしい」 舌打ちしたい気分だ。 「もし、香平が庇ってなかったら男の子は大怪我になっていただろう」 それは信隆にも容易に想像がついた。 乱気流にはそれこそ数え切れないほど遭遇していて、シートベルトが命綱であることを身を以て知っている。 「…褒めてやらなきゃいけないな」 「もちろんだ」 褒めてやりたい、今すぐにでも。 抱きしめて、良くやったと。 なのに香平は目を開けないままで…。 「さっき、引き返そうと言ったと聞いたが、どうして引き返さなかった? 引き返した方が早いタイミングだったんだろう?」 「ああ、1時間程度だったかもしれないけれど、それでもあの時点ではホノルルの方が近かった。だから引き返すと香平に言ったんだが、頑として拒まれた」 その香平の気持ちは、信隆には痛いほどわかる。 自分が同じ立場なら、同じ事を言っただろう。 絶対引き返さないでくれと。 「それでも香平を説得しようとしたんだ。けれど、ホノルルでした約束を逆手に取られた…」 「約束…?」 いったい何を約束したのかと、信隆が眉間に皺を寄せる。 この感情が嫉妬だとはもう嫌と言うほどわかっているから、事と場合によってははっきりと白黒つけるつもりで、ニコラの言葉を待った。 「香平に、同じエアラインの仲間以上のつき合いはできないって言われたんだ。でも、僕は想い続けたいと言って、香平の乗務の邪魔になるような真似はしないと約束してしまったんだ。そうしたら、香平は、痛みで脂汗が出てるって言うのに、『邪魔しないっていった』って、そりゃもう、凄い迫力でね」 あんな目をする香平は見たことが無い…と、ニコラは遠い目で言う。 そんなニコラを横目でチラリと確認し、信隆は安堵の息をついた。 これで、少なくともニコラはもうライバルではない。 香平がはっきりと言ったのだから。 あとは、どうやって自分の想いを伝えるか…だ。 「今夜、香平と待ち合わせていたんだ」 「…なんだって?」 「ここのところすれ違って、誤解が重なっていたようだから、それを解消して…」 信隆がニコラの視線を捉えた。 「愛していると言おうと思ってね」 「……信隆…」 目を見開くニコラに、信隆は哀しそうに笑った。 「でも、香平が目を開けてくれないと、話にならない……」 信隆が顔を両手で覆い、ニコラが言葉を無くす。 その時、香平の母親が到着した。 |
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何となく目が開いた。 視界は霞んでいてよく見えない。 頭も痛い。目を擦りたくても、手が動かない。 「中原さん、聞こえますか?」 聞き覚えのない声が、香平を呼んだ。 聞こえてはいるけれど、声が出ない。 仕方がないから頷こうと思ったけれど、やっぱり頭が痛くて動かない。 そう言えば、ジェットエンジンの音が聞こえない。 今もそれなりに周囲は機械音がしているけれど、全然静かだ。 確か、クルーレストにいたはずだ。 痛みがピークに達したあとは、良く覚えていない。 体中が痺れてきて、誰かが側で呼んでいるようなのだけれど、返事ができなくて、一生懸命考えようとしたけれど、どんどん混濁していって…。 そうだ…都築教官と会う約束をしていたのに…。 早く起きなきゃ…。 無理に身体を起こそうとしたら、また不意に真っ暗になった。 「…さん、中原さん」 また呼ばれている。目は開いてるのか開いてないのか、よくわからない。 「…っ」 不意に眩しくなった。光が目に入った。 「見えますか?」 知らない人がいる。 「私が見えますか?」 「…みえ…ます」 白い服を着ているのがわかった。でも誰かわからない。 「痛みますか?」 「…あたまが…」 「身体は?」 身体は…どうなんだろう。痛くないような気もする。 「身体は痛み止めが効いてるみたいだね。頭はね、麻酔がまだ残ってるんだと思う。もう少しの辛抱だからね」 麻酔? 麻酔って…なんで? ここ、どこ? シップじゃない…。 天井が高くて、白い。 「お母さん呼んでくるからね」 母さん…? どうして? |
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手術は無事に終わった。かなり時間が掛かったので気を揉んだけれど。 術後、『あのまま、あと数時間が経過していたら、命の危険もあった』と聞かされて、信隆は背筋が冷たくなった。 そんなことになっていたらと思うと、恐ろしくて、身体が震える。 ただ、手術は成功したものの、神経などが相当圧迫を受けていたので、機能障害が残らないようにリハビリを重ねることが重要だと説明を受けた。 乗務への復帰は、リハビリ次第ということで、明言は避けられた。 けれど、生きていてくれるだけで、十分だ。 生きてさえいてくれれば、あとの事は何とでもなる。 何があっても自分が生涯掛けて支えてやろうと、信隆は決めていた。 搬送されてからほぼ24時間が経った頃、目が醒めたと、母親がICUに呼ばれていった。 思わず、ニコラと抱き合った。 ☆ .。.:*・゜ 「丸1日眠ったままだったのよ。痛い思いしたわね。でももう大丈夫よ」 母が呼ばれてやってきた頃、香平は漸く自分の『今』を理解した。 クルーレストのベッドに横になったまま、気を失ったのだと。 「165便は?」 「香平が乗ってた便のこと?」 「うん」 「無事到着したから、あなたがこうして病院に運ばれてるんじゃないの」 そう言って母は、小さく笑った。 怪我の状況と、その後の処置と、搬送されてきてから24時間ほど経っていることを、母を待つ間に主治医から説明を受けた。 そんな大けがになっているとは夢にも思わなくて――いや、これは拙いな…とは、頭のどこかで感じてはいたが――最初に出たのはため息だった。 丸1日経ってしまったと言うことは、信隆との約束を破ってしまったということだ。 もう、ため息以外に出るものがない。 主治医は『仕事の事は、今は忘れて、治療に専念しようね』と言って、どれくらいで復帰できるかは教えてくれなかった。 もしかしたら、復帰できないのかもしれないと思い、何もかも終わったのかと思うと、やっぱりため息だけが出た。 だが…。 「都築さんが、救急車で空港からずっとついていて下さったのよ」 「…教官が?」 「機長さんも、一晩中いて下さってるの。それと、藤木さんも今朝からついさっきまでいて下さったのよ」 乗務後で疲れているはずなのに…と、申し訳なくなる。 「お父さん、ニューヨークに出張行ってるでしょ? もう向こうは発ってるんだけど着くのはまだ先だから、都築さんがずっと、お母さんと一緒に先生の説明を聞いて下さったり、入院手続きして下さったり、本当に色々お世話になってるの」 「教官…は?」 「ここはICUだから、待合室で待ってて下さってるわ」 近くに信隆がいてくれるという事実に、ただ嬉しさだけがこみ上げてきた。 何となくまだ頭がちゃんと動いてくれなくて、それ以外考えられない。 「がんばったわね」 そう言ってそっと頭を撫でられて、ふと思い出した。 「母さん…仕事は?」 「あのね、息子の一大事でも休みをくれないほど酷いところじゃないのよ、官庁は」 国会会期中には2、3日帰ってこないこともあった母親が、笑って言った。 「お父さんもね、出張を切り上げたんだけど飛行機が満席で取れなくてね、あなたの会社の成田までの便で、ええと、何て言ったかしら、乗務員用の…」 「…デッドヘッド?」 「そうそう、その怖い名前の席を空けて下さったのよ」 そう言われて香平は、改めて大騒ぎになってしまっているのだと認識した。 そもそも救急車での搬送だと聞いて、それだけでオペレーションセンターでの騒ぎが想像できて、頭が更に痛くなる。 「香平?」 「ああ、いきなりたくさん話過ぎちゃいましたね。中原さん、少し休もうね」 主治医に言われて、素直に目を閉じた。 というよりは、開けていられなくなった。やっぱり少し辛くて。 「あと24時間程度、こちらで様子を見てから一般病棟へと考えています」 そう言っているのが聞こえたのを最後に、香平はまた眠りについた。 |
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客室ゼネラルマネージャーの進言で、信隆は長期休暇を前倒しで取ることになった。 香平はもちろん労災だ。 乗客を守っての負傷と言うことで、社長から何か届くらしい。 『ここのところ、ちょっとハードだったものね。少しゆっくり休みなさい』 そう言って笑ったマネージャー――信隆の前任のクラウンチーフパーサーだ――は、続けてとんでもないことをさらりと言った。 『中原くんが心配で、何にも手に着かないでしょ』…と。 その言葉に、『ひとりのクルーに肩入れしているつもりはないんですが』…と、取りあえず言ってみたが、返ってきたのは『別にクルーだとか肩書きなんかは言ってないわよ? 中原くん…って個人名を言っただけなんだけど』と言う言葉とかみ殺した笑いで、いったいどこから漏れてるんだ…と思ったが、そう言えばこの人と華はツーカーだったなと諦めて、ありがたく長期休暇に入らせてもらうことにした。 休暇を取らなくてはいけないほど疲れてはいなかったが、確かに何も手に着かないから。 病院で香平の母から、『都築さんが空港からずっとついていて下さったのよと話しましたら、嬉しそうに笑いました』…と、聞いて、目が熱くなった。 目覚めたものの、ICUには近親者しか入れないことになっていて、一般病棟に移るまで香平とは会えないのだが、それでも側に居たことが伝わって、信隆はホッとして、父親の到着を待ってから一旦帰宅した。 丸1日半、ずっと病院に詰めていて、それなりにむさ苦しい状態にもなっていたので――そんな信隆でもきっと、クルーたちは『ワイルドな教官も素敵』と騒いだだろうけれど――一度帰宅してさっぱりしてから、オペレーションセンターに改めて報告と手続きや事後処理のために出向いていたわけだ。 オペレーションセンターは案の定、香平のことで持ちきりで、信隆は質問攻めにあった。 シンガポールの雪哉からも、パリの敬一郎からもメールが着信していて、それらに返信をして、これから2週間ずっと付き添う気で、また病院へ向かった。 |
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あ、またあのお客様だ。 ここのところ、ビジネスクラスでよく見かける、嘘みたいに綺麗な人。 背も高くて、スタイルも抜群。 少しフランス語も出来るみたいで、時々先輩FA(フライトアテンダント)と言葉を交わして笑っている。 僕も、何度かお世話をしたけれど、さり気なく気を使って下さる、優しくて素敵な人。 あ、目が合った。 嬉しくなって、思わず笑顔になってしまったら、あちらからも笑顔が返ってきて、小さな仕草で僕を呼ばれた。 行ってみたら、小さな封筒を渡された。 成田に着くまでに、返事が欲しいと仰った。 何だろう。 僕は、機内でお客様から誘われることはよくあるけれど、あの綺麗な人もそんな事をするとは思えなくて、取りあえずクルーレストでひとりになったときに開けてみた。 そこには、驚くべきものが入っていた。 名刺とメッセージ。 名刺はなんと、雪哉がいる航空会社のもので、あの綺麗な人の肩書きは、クラウンチーフパーサーで教官。 …もしかして、客室乗務員で一番偉い人じゃないかな。 そんな人が、どうして僕に。 メッセージには、君と話がしたい。成田で少し時間を貰えないかなって書いてあった。 ちゃんと名刺までいただいたから、僕は成田のラウンジで待ち合わせる約束をした。 『やあ、来てくれたね』 眩しい笑顔に、僕は初めてその人の名を呼んだ。 |
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信隆が病院へ戻ると、香平はICUを出て一般病棟の個室へ移って眠っていた。 漸く香平の顔を見ることができて、そこで初めて信隆は、自分の全身に力が入っていたことに気がついた。 そしてやっと、腹の底から息が吸えた様な気がした。 救急搬送された時に比べると、頬にも血の気が戻っている。 入院の用意を調えるために帰宅した両親に代わり、枕元に付き添って、初めて見る無防備で可愛い寝顔を堪能していたら、不意に目を覚ました。 「香平。会いたかったよ」 香平は、きょとんとしている。 「…都築さん?」 それは、出会ってから入社までの間に、香平が信隆を呼んでいた、呼び方。 もちろんキャビンでは今でもそう呼ぶが、ここしばらく同じシップに乗っていないから、久しぶりにそう呼ばれて、信隆が笑顔を見せる。 「どうした? 夢でも見ていたか?」 言われて香平は目を瞬かせた。 「…教官」 掠れている声に、どれだけ辛かったことだろうと胸が痛くなったが、それを見せずに信隆は精一杯穏やかに笑んで見せた。 「香平…よくやった。がんばったな、偉いぞ」 会いたかった人が、目の前にいる。 香平の目が急に熱くなって、涙が溢れて綺麗な顔が見えなくなった。 「何時間も我慢して辛かったな。もう大丈夫だからな」 そう言われて、嬉しさと申し訳なさが同時にこみ上げる。 「ご迷惑おかけして…すみません…」 最初の言葉がこれだとは、香平らしくてなんとも複雑な気分になる。 「こら、なんの迷惑だ? お客様を庇って負った怪我なんだ。堂々としていなさい」 溢れる涙を指先で拭いながらそう言うと、やっぱりまた、香平らしい言葉が返ってくる。 「でも…心配かけて…」 信隆はそっと頭を撫で、苦笑いをこぼした。 「ああ、もう死ぬほど心配したぞ。生まれて初めて、パニックで頭が真っ白になったからな」 「…教官、が?」 いついかなる時も冷静沈着で、瞬時に最も的確な判断を下すと評されている、キャビンクルーで一度偉い人がパニックとはどう言うことだと、香平が目を見開いて信隆を見つめる。 そんな視線が照れくさくて、信隆は話題を変えた。 「そうそう。165便のやんちゃ坊主の両親から慰謝料の申し出があったそうなんだが」 どうやら、父親と、そのまた父親は共に弁護士らしく、訴訟になる前に手を打とうとしたのでは…と、信隆はみている。 何しろ救急車の要請があったので、事は公になっており、警察の事情聴取も行われて、非の所在はすでに明らかになっているから。 だが、香平から返ってきたのは予想通りの言葉だった。 「冗談じゃない、です。これは、職務の範囲内、です。あちらに、過失があったわけでもない…ですし」 少し途切れがちに、そしていつものような、明るく分かりやすい声はまだ出ないが、それでも香平は言い切った。 「香平らしいな。そう言うと思ったよ。子供から目を離したと言う過失は存在するんだがな。まあ、故意ではないし」 おそらく香平は、職務でなくても、小さな子供を守るためにとっさに行動に出るのだろう。 そう思った時に返ってきた言葉はやはり香平らしいものだった。 「あの坊やは、心細かっただけ…なんですよ。躾は…きちんとされてると思い…ます。ちゃんと、ひとりでご飯…食べたり、ぬり絵…したり、本当にいい子…でした。僕の心配より、今後も、ジャスカに乗って下さいって…伝えて下さい。僕は、それが1番、嬉しいです…から」 言って微笑む香平は、とんでもない可愛らしさで、信隆は改めてこの愛おしい存在をなくさずに済んだ事への感謝と、腕に抱きたいと言う願いを強くする。 あの後、信隆はニコラからあることを聞いていた。 『がんばった香平へのご褒美代わりに、ひとつ誤解を解いて上げるよ』と。 『理由はわからない。けれど香平は言ってた。自分は教官の信用をなくしているんだ…ってね』 その言葉に、どうしてそんな話になっているんだと思ったが、自分のしでかしたことを思い返すに、その誤解は極めてネガティブだけれど可能性は十分だと悟った。 悪いのは何もかも自分だ。 だから、これからは何事もちゃんと言葉にして丁寧に伝えようと決めた。 愛も、嫉妬も、慈しみも、悲しみも、喜びも、何もかも。 「香平は、本当にいい子だな」 「そんなこと…ない、です」 本当にいい人間なら、友達を傷つけたりなんかしない。 雪哉を傷つけ、守りきれなかった後悔は、香平の真ん中に今も居座る。 消え入りそうに否定すると、不意に信隆が、顔を近づけてきた。 「目を閉じて」 間近で言われて香平が目を瞠る。 「ええと、あの…それは…」 どうしてなのかわからなくて、近すぎる顔に思わず目を泳がせてしまうと、その視線を捕まえて、信隆は教官の声で言った。 「これは『お願い』じゃない。命令だ。もう一度言う。香平、目を閉じて」 緊急時の統制を保つため、キャビン内の命令系統はこれ以上無くはっきりしていて、当然その頂点にいるクラウンチーフパーサーに命令だと言われ、香平は、目を閉じた。 キャビンの中でもないのに。 華には『肩書きを棄てろ』と言われたが、『こういう場合には有効に使えるんですよ』…と、信隆は内心で小さく笑う。 「動くなよ? 傷に障るからな」 耳元で声がして、大きくて温かい手のひらが香平の額をそっと押さえ、ふわりと優しいコロンを感じ、香平の気分が浮上する。 身体はまだかなり辛いけれど、何だかとても幸せな気分だ。 そう思った瞬間、唇がしっとりと柔らかく包まれた。 何が起こったのか、わからない。 ただでさえ、頭が回らない状態だから。 そして信隆はと言えば、抵抗されるかと思っていたのに香平はされるがままで、これはもしかしてよくわかってないかな…と、少し可笑しくなったが、せっかくなので少しばかり長く重ねて、その柔らかい唇を堪能する。 そして最後に少しだけ、ちゅっ…と、音を立ててついばんで、名残惜しいけれどそっと離れた。 これが、『これから』の最初のキスになりますようにと願いながら。 唇を離したものの、温もりからは離れがたくて、手を離した額にもう一度優しく口づけた。 「…きょっ、教官っ?」 やっと発した言葉は驚きのあまりひっくり返ってしまい、香平は目を見開き硬直している。 「愛しているんだ。香平」 額に額をつけて、信隆が熱を帯びた声で言う。 「…え?」 「そう言おうと思って、あの時待っていた。すれ違った誤解を解消して、香平に受け入れてもらえるように頑張ろうって…。でも、香平は目を開けてくれなくて…」 頭がおかしくなりそうだった…と呟かれ、香平の心拍数が跳ね上がった。 その時。 枕元にある心電計のアラームがなり始めた。 血圧計と心電計は念のため、あと1日つけておきますと言われていたのだ。 その音に、顔を上げた信隆と香平が顔を見合わせたとき。 「中原さん! 大丈夫ですか?」 看護師が飛び込んで来た。 「すみません。ちょっとドキドキしちゃったらしいです」 信隆が、一撃必殺の最上級の笑みを繰り出してそう言うと、若くて可愛い看護師は真っ赤になった。 そして、ドキドキの原因を身を以て知ったのか、『だ、大丈夫なら、いい、です。な、何かあったら呼んで下さい、ね』と言って、ぎこちなく出て行った。 「ごめんな。まだそんなにドキドキさせちゃダメだったな」 笑いながら言われ、感情の揺れを、これでもかというくらい心電計に感知されてしまった香平は、身の置き所がない。 「あ、あの…っ」 「ん?」 「い、今の…は」 今のは何ですか? …と、聞こうとしたのだが、なんだがとてもマヌケな質問な気がして、思わず口をつぐんでしまった。 「明日から、何度でも言うし、するよ」 何を言って何をするのか主語はない。 「また心電計を鳴らしちゃまずいもんな」 謎の――香平的には――上機嫌で信隆は、香平の頬をそっと撫でる。 「まあ、明日からずっとこんな感じだから、早く慣れような、香平」 「明日から?」 何のことだろうと思ったら。 「明日から2週間、長期休暇を取ったんだ。香平のご両親は特に忙しい時期のようだし、俺が香平の付き添いをする事になったから。あ、心配しなくてもご両親は了解済みだから。それに、仕事が終わったら必ず寄りますって」 信隆の申し出に、両親からはそれはもう恐縮されまくったのだが、労災でもあるし、社の責任が…だとか、上司としてだとか、ちょうど長期休暇の時期なのでとか、取りあえず思い付くことを全部並べたて、持ち前の『瞬時に適切な言葉が出る』と言う才能を遺憾なく発揮して丸め込んだ。 キャリア官僚2人を、見事に。 だが、当然香平はすぐには納得しない。 「…え? せっかく休暇なのに? どうして、ですか?」 忙しい人がやっと長期休暇だというのに、どうして自分の付き添いなんかに…と、香平はやっぱりまだよく回らない頭ながら、信隆に尋ねる。 「せっかくの休暇だからじゃないか。ゼネラルマネージャーからも、『気の済むまで中原くんの付き添いしてらっしゃい』って言われたよ?」 「はい?」 どうしてここに、ゼネラルマネージャーが出てくるのかさっぱりわからない。 「で、香平の気持ちは心電計が教えてくれたから、言葉での返事は、これからゆっくり貰うことにするよ」 そう言って、また額にキスが落ちてきた。 香平は、頭を打った覚えはないのだけれど、もしかして知らずにぶつけていて、打ち所でも悪くて実は未だに意識不明で夢でも見ているのではないだろうかと思ってしまう。 『愛してる』と言われたような気がして、キスをされたような気がしたけれど、それが現実なのか違うのか、今以てぼんやりしている。 ついうっとりと身を任せてしまったのだけれど。 |
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おまけSS
『ちょっと一息。クルーの内緒話:落とし物編』
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みなさん、またしてもこんにちは。 国際線APの太田遥花です。 今日はクルーのみんなに『機内で見つけた変なもの』を教えてもらおうと思います。 お客様が降機された後、キャビンクルーは座席や棚を見回って、お客様のお忘れ物がないかをチェックしますが、機内には色んな物が忘れられていたり、落ちていたりします。 やはりナンバーワンは携帯電話。 座席のポケットの下に落ち込んでいることが多いので、みなさまも座席の前ポケットに携帯電話を入れられるのは、避けられた方がよろしいかと存じます。 携帯のゲーム機も多いですね。 メガネもよくある忘れ物のひとつです。 サングラスと老眼鏡がほとんどです。 視力矯正用なら忘れませんものね。 あ、お客様には『老眼鏡』と言わずに『シニアグラス』…なんて言うんですよ。 『はあ?』って言われることも多いんですが。 カメラもコンパクトになればなるほど、お忘れになることが多いように感じます。 季節的には…夏コミとか冬コミのあとは、同人誌のお忘れ物も多いです。 ただ、先輩クルーから聞くところによりますと、『あれは忘れ物じゃなくて、読み捨てよ』ってことらしいのですが、それでも一応遺失物としてお預かりしております。 そうそう、表紙の『絡み』が明らかに『♂×♂』の同人誌が発見された時の先輩の一言が忘れられません。 『何これ。うちの男性クルー同士の方がよっぽど萌えるわ』 ……確かにそう思います。 ただし、カップリングによりますが。 さて、かつて私が見つけた珍しい物と言えば…。 国内線に乗っていた頃、座席の上に黒い毛玉を見つけたことがあります。 何だろうとよく見てみると…。 ヅラ…あ、いえ、鬘だったんです。 恐らく男性用かと思われたのですが、多分頭頂部用だったと…。 え? もちろん遺失物としてお預かりしましたが、どこで気づかれるかなあと…。 ってか、あれってお高いですよねえ…。 お高いといえば、新千歳からの便で毛ガニを拾ったこともあります。 どうして剥き出しで一匹だけいたのか、未だに謎です。 と言うわけで、クルーたちにも体験談を聞いてみましょう! まずは、今や小野チームにとってなくてはならない存在。 みんなが頼りにしている三浦CPです。 4月生まれの彼と翌年2月生まれの私は同じ学年なので、チームは違えど仲良くしています。 てっきりネタかと思っていた『ゆっきーラブ』はどうやらマジのようなんですが、ま、こればっかりはどうしようもないってことで…。 「機内の忘れ物って言えば、あの思い出がダントツだなあ」 おっと、いきなり凄い物が出てきそうです。 「あのさ、アメリカのエアラインにいたときの事なんだけどさ、凄いことがあったんだ」 「…うん」 ドキドキ。何だろ。 「金の延べ棒が落ちてたんだ」 「……は?」 それは…。 「ええと、おもちゃとか…じゃなくて?」 「そうなんだよ。まるっと本物。重さ1kgでさ、当時で時価40万ドルくらいしたわけ」 「40万ドルって…ご、5000万?!」 「あ〜、だいたいそんなとこだな」 「そそそ、それって、本当に落ちてたのっ?」 「落ちてたんだよ、座席の下に。ま、国内線だったから持ち出しや持ち込みに制限があるわけじゃないし、手荷物の重さもクリアだからさ、問題は無いわけだけど」 「そう言う問題じゃない気が…」 「でさ、大騒ぎになったんだけど、その座席の乗客の名前はわかってるけど、金塊に名前が書いてあるわけじゃないし、名乗り出てもらえるのを待つしかないじゃん?」 「だよねえ。で、名乗り出てきたの?」 「いや、まったく」 「え〜!?」 「ただ、そっから先は知らないんだ。後は上が処理することだし」 「でも、気になるねえ」 「だよなあ。でもさ、なんかいかにもアメリカ的って感じがしない?」 「する〜」 はあ、いきなり大物でした。 アメリカはやることがデカイです。 続きまして同じく小野チームから、チームのマスコット的存在の岡田悠理APです。 彼は生え抜き男性クルーの中では出世頭なんですが、可愛い見た目に反して実は『肉食系』だと言われています。 しかも男性限定。 本人が割とあっさりカムアウトしているので、観察するのはかなり面白いです。 彼もどうやらゆっきーに恋破れた様子なんですが、ほんと、ゆっきーはモテモテです。 「忘れ物…ですか? あ〜、忘れ物って言えば…。」 おや、いきなり遠い目です。これは余程の忘れ物が…。 「ちょうどアシスタントパーサー審査の最中だったんですけど、窓の下あたりに布の塊が落ちてたんですよ」 「うん」 ハンカチか何かでしょうか。 衣類や服飾雑貨の中では、『ハンカチ』『スカーフ』『マフラー』あたりが3大落とし物ってところなんですが。 「なんかレースとか見えたんで、ハンカチかなって思ってよく見てみたら…」 違ったのかな? 「所謂『ブラジャー』ってやつが落ちてたわけですよ」 「へ?」 なんだそりゃ。なんで機内にブラ? 「それがまた総レースのスケスケでセクシーなヤツなんです。ほら『勝負下着』とかあるじゃないですか? あんな感じかなあ」 …男性限定肉食獣なのに、よく知ってるね、岡田くん…。 「…変なこと聞くけど」 「はい?」 「それって新品だったわけ?」 「やだなあ、太田さん、そんなの、匂いでも嗅がないとわかんないですよ〜、あははっ」 あはは…って、岡田くん…。 「…嗅いだらわかるんだ?」 「ま、洗い立てだったらわかんないですけど」 …私はキミがわかんないよ…。 「で、やっぱり拾ったんだよね、それ」 「や、拾う分には別にどうって事無いんですが、なんか触っただけでも先輩クルーたちから『ヤだ、岡田くんったら』とか言われそうな気がして、すぐにCP呼びました」 それが賢明かとは思うけど…。 「CP、誰だったの?」 「岡林さんだったんですけど…」 おお、国内線の女帝CP! 本当に頼りになる大先輩なんです。 ちなみに国際線の女帝は言うまでもなく小野CPです。 「岡林さんがまた可笑しくて〜」 なんだろ? 確かに岡林CPは面白い人なんだけど。 「『何これ、裾のレースが紫とかあり得ないわ〜。勝負下着ならピンクよね、岡田くん!』って」 …岡林さん…。 「ま、僕的にはどんなにスケスケでどんな色でもブラでは萌えないわけですけど、まあ確かに紫よりはピンクの方が好みかなあとか、中原CPだったらどんな色が可愛いかなあとか妄想しちゃったり…」 …なんで勝負ブラからそっちの妄想に行けるわけ…? 「…岡田くん、もしかして香平くんにターゲットロックオン?」 「ええ、マジ狙いです」 「競争率高すぎだろ」 「そんなの承知の上です!」 …って、なんの話してたっけ…。 あ、忘れ物だ。忘れるところだった…。 ま、がんばれ岡田くん。私はその香平くんに話を聞きに行くよ。 というわけで、各方面から『ターゲットロックオン中』の香平くんの登場です! 実は、香平くんの忘れ物ネタは、国際線クルーの間では有名な話があります。 あれは、香平くんがチーフパーサー昇格訓練中のことでした。 到着地のパリで、私たちクルーが降機しましたら、降りられたはずのビジネスクラスのお客様がいらして、『忘れ物をしてしまった』と仰ったんです。 私も香平くんも、そのビジネスクラスの担当だったので、ちゃんと確認したはずなのに…と、慌てました。 幸い、まだ整備と清掃のスタッフが入っていなかったので、機内に戻るつもりで、何をお忘れになったのかお伺いしたんですが…。 そのお客様――ロマンスグレーの欧州紳士でした――が、香平くんの両手をギュッと握ってこう仰ったんです。 『君に愛を告白するのを忘れていた』 その瞬間、辺りに走った衝撃は、今でもその場に居合わせた全員が覚えているんですが、肝心の香平くんと言えば…。 『ありがとうございます』 ニコッと笑ってそう言って、『で、お忘れ物は何でしょうか?』って。 ちなみに、はぐらかしたのではなくて、マジです。天然です。 ロマンスグレーの欧州紳士には申し訳ないのですが、クルー一同、笑いを堪えるのに必死でした。 と言うわけで。 「機内の忘れ物?」 「うん、『こんなの拾っちゃった』みたいなの、ある?」 「ええと、前の職場の時に、右足のビーチサンダルと、左足の革靴が置いてあったことがあるんだ」 「片方ずつ?」 「そう。ほら、長距離だと機内でスリッパに履き替えたりする人多いじゃない?」 確かに。足がむくんだりするから、楽な履き物に変える人は多いんです。 「それで、スリッパやサンダルから履き替えるの忘れてそのまま降りようとするお客様は結構いらっしゃるし、そう云う場合は靴が置きっぱなしってことになるんだけど、その時は、ビーチサンダルと革靴が片方ずつ置いてあったんだよ」 「それって、歩けないんじゃ…」 「だよねえ。ほんと、訳わかんないよね」 謎の落とし物に、2人して遠い目になっちゃいました。 「そうそう、こっちへ来てからはちょっと不思議なことがあったよ」 「不思議なこと?」 「そう。国内線OJT中だったときなんだけど、季節でもないのに桜の花びらがいくつか落ちてたんだ」 「え、それって生で?」 「うん、今散ったばかり…みたいな瑞々しい花びらでね、一緒に乗ってたみんなで不思議だなあって」 「…なんかちょっとメルヘンチックだね」 「だよね。あとは変な落とし物と言えば、『ちくわ』とか『ゆで卵』とか『こんにゃく』とかがあったっけ」 「それ…おでんの具じゃん」 「あ! ほんとだ!」 なんで機内でおでんの具…。ここ、コンビニじゃないし…。 ちなみに香平くんが好きなおでんの具は『大根』だそうです。 さらにちなみにゆっきーは『たまご』。私は『はんぺん』です。 それにしても、予想以上に可笑しな物が落ちている機内ですが…。 お待たせいたしました! 本日の締めはこの人! キャビンクルーのてっぺん、都築教官です! 乗務歴の長い教官のことですから、さぞ、可笑しな落とし物に遭遇されているのでは…と期待しちゃうところですが…。 「忘れ物にまつわる怖い話?」 いえ、誰もコワい話をして欲しいとは言ってないんですが…。 「あれはねえ、私がまだクルーになって1年目で国内線に乗ってた時のことだったなあ…」 …え、ちょっと待って教官。マジでコワい話なんですかっ? 教官の『乗務ピチピチ1年目』の話はぜひ聞きたいですが、コワい話はちょっと…。 「最後尾にね、藁人形が落ちてたんだ」 「え゛…。わ、藁人形って…あの…?」 「そう。人を呪うために作られる、あの藁人形だよ」 「ご、五寸釘とか打ち込むアレ、ですよね?」 何でそんな物が機内に〜! 「ま、さすがに釘はついてなかったんだ。まあ、釘がついてたら保安検査で引っかかるはずだし、金槌も持ち込めないしね」 や、そう言う問題じゃ…。 「そ、それ一応遺失物…ですか?」 「もちろんお客様の忘れ物はみんな遺失物扱いだよ。ものの価値は人それぞれだし」 確かにそうですけど〜。 「でも、拾うの怖くなかったですか?」 「いや、その時はなんとも思わなかったんだ。これはまた、大変な物が落ちてるなあって思っただけで」 …さすが男性クルー…。 女性クルーなら、大騒ぎですよ…。 「でもさ、その後があってね」 「え〜! 続きがあるんですかっ?!」 やだ〜もう〜! 「そのフライトのキャプテンが、浦沢キャプテンだったんだ。コ・パイから昇格されて2年目くらいだった頃かなあ…。で、降機したときにクルーたちに聞かれたんだよ。『最後尾に立ってた、白い着物に長い黒髪の女性に気づいた子いる?』って」 …教官…遥花、もうギブアップですうううう。 「さすがに私もそれは見てなくてね。他の先輩クルーたちもまったく見てないってことで、『あ、いない? ならいいんだ』…で、話が終わっちゃってさ」 キャプテ〜ン! 『いいんだ』じゃなくて、説明して下さいっ。 だいたい旅客機で立ってるお客さんいないんですからっ! 「結局藁人形も引き取り手がないまま数年が経ってね。いつ頃だったか、航空神社でお祓いしてもらった…って、後から聞いたんだけど、割と最近になって、浦沢キャプテンにあの時の話を聞いてみたんだ。『あれ、なんだったんですか?』って」 ううう、それ、聞きたくないですうううう…。 「そしたら、『いや、本当に何でもなかったんだ。どうやら、ただ乗り合わせてしまっただけのようだったから』って」 うう、怖いよう〜。そんなの聞いたら、今度のフライトで最後尾の方が見られなくなっちゃう…。 どうしよう、エコノミーの責任者にアサインされちゃったら…。 「ああ、遥花、泣かないで。大丈夫、機内は気圧の関係で実体化するのは難しいって話だから」 びえぇぇぇ〜! …とんでもない話になってしまいました。 私は面白い話を集めていただけのはずなのに〜。 もう、こうなったらゆっきーが福岡から帰着するの捕まえて、飲みに行っちゃおうっと。 来栖キャプテン、昨日からパリだから。 と言うわけで、結局飲みに行ってしまうAPなのでありました。 |
おしまい。 |
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