第1幕 「Prelude」





「ふ…富士山って、でかい…」

 東京へ向かう新幹線の中、快晴の春の空の下、車窓いっぱいに広がる日本の最高峰を見て、僕は思わず呟いた。
 しかもしっかりと窓に張り付いて…。

「ぷっ…」

 …後ろで吹いたのだーれだ。


 恐る恐る振り返ると、僕より先に乗っていたお隣さん、年の頃なら20代半ばか、上等そうなスーツを着こなし、薄目だけどしっかりメイクの、いかにもキャリアって感じがする、イケてるお姉さんが肩を震わせている。

(しまった…)

 はっきり言ってめちゃめちゃ恥ずかしい。
 これじゃ生まれて初めて富士山を見たってことがバレバレだ。

 なんてったって、生まれ育った土地からでるのはこれが3回目。
 初めては小学校の修学旅行で広島へ。
 2度目は中学校の修学旅行で長崎へ。
 自慢じゃないが東の方へ来たことなんか一度もない。

 きっと僕は情けないほど赤くなっていたんだろう。

「ご…ごめんなさい…、そんな…つ、つもりじゃ…くくくっ…」

 そんなつもりじゃないんだったら、そんなに笑わなくたって。

 僕はまっすぐ向き直り、シートに深く座り直した。
 別に怒ってるわけじゃない。どうしていいのかわからないだけ。

「ほんとにごめんね。あんまり可愛いもんだから、つい…」

 お姉さんはまだ涙を溜めている。

「いいです。別に怒ってません。」

 本当に怒ってるつもりはないんだけど、声は固かったかも知れない。
 きれいなお姉さんでも、見ず知らずの他人には違いないんだから。

 だって、生まれ育った街を出るときにさんざん言われたんだ。
『知らない人には気をつけるんだよ』って。
 まさかこのお姉さんに誘拐されるとは思わないけどね…。 

 第一、僕はもう(なりたてだけど)15歳だ。こうやって立派に一人旅(?)だってやっている。
 あの時みたいに弱くはない…はず。

「京都から乗ってきたわよね?」

 お姉さんは馴れ馴れしく話しかけてくる。
 僕はちょっと警戒しながらも返事をする。
 けど、美人には弱い。誰だってそうだろうけど、特に僕は年上のお姉さんに弱い。 

「そうです。京都から…」 
「私はね、大阪から乗ってたのよ。出張でね。今朝までこき使われちゃったわ」

 そうか、それで今までずっと寝てたのか。ぐっすりと。
 お姉さんは「はぁぁぁ…」と大げさにため息をついた。

「でね、これから東京へ帰るってわけ。ボクはどこへ行くの? 一人?」

 ボ、ボク…と来るか。
 子供じゃないんだぞ…って言えるはずもないけれど。

「東京です。…あ、一人です…」

 聞かれたことだけ答えると

「東京のどこ?」と切り替えされた。
 にっこり微笑まれると警戒心も溶けてくる。

 言っちゃっていいんだろうかと思いつつ、僕は行き先のおおよその場所を告げた。
 僕にとっては一度も行ったことのない見ず知らずの土地だけれど。

 すると、お姉さんの綺麗な目が一段と大きく開かれた。

「もしかして、それって聖陵学院のあるところ?」

 お姉さんの目は、「そこなら知ってる」と語っている。

 はい、確かにそのとおり。僕はそこを目指しているところ。


「そうです。そこです。」

 なんだかちょっとホッとしてる自分がいる。たったこれだけのことなのに。

 聖陵学院は東京ではかなり有名な学校らしいし、いくつかの部活動では全国的にも名が通っている。
 お姉さんが知っていても無理はないっていうのに。

「ボク、ひょっとして聖陵の生徒だったりするの?」

 お姉さんの目は好奇心なのか、なんなのか、わくわくキラキラしている。

「そ、そうですが…」

 嘘ではない。ただし、正式には明日の入学式を終えればの話だけれど。

 けど、お姉さんにはそんなことは関係なかった。
 いきなり抱きついて来たのである…。

「ちょっとー! 何年生よ!」

 めちゃめちゃ嬉しそうだ。
 僕はといえば、思いもかけない展開に完璧にうろたえている…。
 まわりの乗客も何事かとこちらを伺っているような…。

「ねぇねぇ、何年生?!」

 お姉さんは激しく僕の肩を揺さぶる。まわりのことなんかお構いなしだ。
 何なんだぁ、いったい…?

「あ、あの一年…。一年生ですっ!」
「一年って、高校一年よねっ?!」

 …当たり前だろーーーーっ!僕がいくら小柄で華奢でも中学一年には見えないはずだっ! 失礼なっ!

 とは言え、聖陵は中高一貫教育が売りの名門進学校。一年生と言えば中学生もありだ。

 しかし、僕はこんなにもしっかりしている(と、自分では確信している)し、みかけだって充分大人…の、はず…。
 身長が170cmに届いていないのはこの際おいておくとして…。


「じゃ、浅井祐介って知ってる?! 一年よ!」

 お姉さんの目のキラキラは最高潮に達している。が、それもここまでだろう。個人名を出されても困る。
 僕が聖陵関係者で名前を知っているのはただ一人なのだから。

「ごめんなさい…。僕、新入生なので…。」

 お姉さんの期待に応えられずに思わず目を伏せた僕に、お姉さんの驚愕に満ちた声が返された。

「って、まさか正真正銘の新入生?」

 そんなに驚くことはないだろうに。


 聖陵は、中学では35人学級の5クラス。
 高校になると各クラス5人の新入りを迎えて、40人学級の5クラスとなる。

 つまり、お姉さんが言うところの『正真正銘の新入生』は5人×5クラスの25人だけで、僕はその内の一人なのであった。


「ちょっとぉー、ボクってすごいのねー」

 さっきの『キラキラお目目』は『好奇心丸出しです』に変わっている。
 まるで珍獣でも見るような…。

「祐介が言ってたわ。今年の『正真正銘』は20倍をくぐってくるんだって」

 へ?そんなの初耳だ。
『入れるから受けろ』と言われて、『はいそうですか』と受験して、明日の入学式に備えて東京へ向かっているところなんだから。

 そういえば試験は大阪で受けた。福岡と北海道でも試験をやってるって聞いた。
 大阪の試験場には80人くらいいたっけかな? 教室2つ分くらいだったから。
 …ってことは、単純計算であの中から4人か。
 覚えてる顔に出会える可能性は低いな。


「まさか知らなかったとか…?」

 お姉さんの目はますます『珍獣』に向けられるものになっていく…。
 う…。そんな目で見ないで…。

「はぁ、まぁ…」

 ため息が混じっちゃう。

「もしかして、京都からわざわざってことは、音楽かスポーツの推薦でも受けてるの?」

 ちょっと、お姉さん、何でそんなに詳しいの?

 そんな僕の『疑問』はきっと、顔に出ちゃったんだろう。
 お姉さんはペロッと舌を出して見せた。

「えへっ、実はね、その浅井祐介ってのは弟なの。もちろん中学からの持ち上がり組よ」

 は? …なんと! こんな所で知り合いに出会ったような気分!!
 見知らぬ所へ単身殴り込み(?)をかけるという緊張感が、少し払拭されたような気がする。

「で、どうなの?」
 ああ、推薦のことか…。
「そうです。音楽推薦です」

 聖陵は偏差値もすごいけれど、部活もすごいらしい。
 運動部はインターハイの常連っていうところがいくつもあるらしいし、文化部もコンクールなどでいい成績を上げている。

 なかでも特筆なのが「管弦楽部」。
 いわゆるオーケストラだ。

 コンクールで勝つのは当たり前。
 数年に一度は海外公演もこなすという超高校級の実力で、しかも、普通科高校でありながら、毎年何人もの音大合格者を出すという有様だ。
 当然世界的なプレーヤーも排出しているらしいけれど、僕はあんまり詳しくない。

 けれど僕が聖陵へ進学する事にしたのはそれが目的じゃない。
 確かに音楽推薦で入ったけど、オーケストラがやりたくて入ったんじゃないんだ。

 僕がここを選んだのはもっと消極的な理由だ。
 僕だって京都を離れるのは寂しかったんだから…。


「何を黄昏てるのよ。音楽推薦やスポーツ推薦があるからといって、試験の点数はまったく底上げされないっていうじゃないの。学力のない人間は入れないってことじゃないのぉ」

 お姉さんは慰めてくれたんだろうか…?
 僕が黄昏てたのはそんな理由じゃないんだけど…。

 それからお姉さんは僕のために、弟さん『浅井祐介くん』から聞いたという聖陵の『あれこれ』をおもしろ可笑しく聞かせてくれた。
 聞く限りでは明るく自由な校風のようだ。
 ちょっと気分が盛り上がる。


 そして新幹線が東京駅に滑り込んだとき、お姉さんは一枚の名刺をくれた。
 名刺には僕でも知ってる有名企業の名前と、お姉さんの名前。

『浅井さやか』とある。

「これ、祐介に渡して」 

 さやかさんは名刺にササッと裏書きをして渡してくれた。

「ボク、名前教えてくれる?」

 あ、これは失礼いたしました。

「あ、あの僕は『なづきあおい』です」

 男としてはかなり変わった名前かも知れない。
 さやかさんは綺麗で大きな瞳をさらに輝かせて言った。

「ロマンチックな名前よね。名前通りの可愛いボクだったから嬉しくなっちゃったわ」

 さやかさんはお茶目にウィンクをくれた。
 可愛いと言われても…。

 名刺の裏書きには、『祐介へ、私の大切な友達、奈月葵くんです。仲良くしてあげてね』と書いてある。

 うるうる…、美人でやさしいなんて…こんなお姉さんを持った『ゆうすけくん』が羨ましい。

「また会いましょ。そうだ、秋の聖陵祭に行くわ。私のこと忘れちゃいやよ」

 忘れるもんですか。京都を出て最初の友達だ。
 最初からこんなにいい出会いがあるなんて、これからの3年間も捨てたもんじゃないかも。

 大切にしまう前に、もう一度名刺の裏を見た。
 あれ? …僕、名前の『漢字』を説明したっけ…?



 僕とさやかさんは東京駅で別れた。再会を約束して。

 そして僕が目指したのは『私立聖陵学院高等学校』。

 右手にはボストンバッグ、背中のリュックには大切な楽器と楽譜、そして中学のクラスメイトの写真と大切な大切な母さんの写真。

 電車は2つ乗り換え。
 京都と違って東京は広いよなぁ。 



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 駅前は男子高校生の大売り出しだった。
 1125人の生徒の9割が今日集まるのだから無理もないか。

 駅から学校までは徒歩約15分。
 美しい桜並木に僕はちょっと感動していた。

 桜なんか京都で見慣れているし、京都の桜の方が絶対風情があるのだけれど、ビルの林しか想像していなかった東京の、思わぬ自然に少し嬉しくなっていたんだ。

 学校への道のりも迷わずにすみそうだ。この制服の群についていけばいいのだから。
 

 それにしても、みんな大きな荷物を抱えている。
 今日この道を歩いているのは全員寮生なんだ。

 聖陵は全寮制ではない。ただ、寮に入らなくていい生徒は限られているんだ。

『自宅からの通学が1時間以内』の生徒に限り通学が認められているんだそうだ。
 この東京の住宅事情で、そんなヤツがたくさんいるわけない。
 しかも全国3カ所で地方受験を行う学校だ。僕みたいなのも多いだろう。


 親しげに挨拶を交わす声が飛び交っている。
 春休みが明けて数週間ぶりに合う級友と休み中のあれこれを報告しあう声も聞こえる。 

 緊張して歩いているのはきっと『正真正銘の一年生』。
 そう、中学一年生と、僕を含めた25人の高校一年生くらいなのだろう。

 それにしても視線を感じる…。
 まさか中学生と思われてるとか。
 …考え過ぎか。

 よく見ると中学生と高校生はブレザーの色が微妙に違う。

 体格のいい生徒たちのそれは明らかに濃紺だけれど、主に子供っぽい連中が着ているのは少し緑がかっているようだ。

 襟にローマ数字のバッジが付いている。
 濃紺の制服には緑、緑がかった方には赤、数字がきっと学年なんだろう。
 …とすると、濃紺のブレザーに緑の『T』のバッジが僕の同級生になるんだろうか。

 なんとなく観察していてふと気がついた。
 僕が視線を集めているわけ…。

 僕だけ私服なんだ。

 制服が間に合わないから私服で登校するようにと連絡を受けたのは3日前。

 本来なら3月末に一度登校する決まりになっている。
 制服の採寸と備品の購入や入寮の準備のためだ。 
 けれど僕は東京に来ることができなかった。

 中学の担任で、音楽教師の栗山先生に騙されて、地方で行われるジュニアの音楽コンクールに行っていたからだ。

 僕は全然興味なかったんだけど、先生が『高校へ殴り込むのに一つくらいみやげを持ってけ』とかなんとか訳のわかんないことを言いだして、無理矢理つれて行かれてしまったのだ。

 結果、制服の採寸は行われていない…。

 今日してもらえるそうだけど、明日の入学式に間に合うんだろうか?
 目立つのはごめんだぞ。今だって充分目立ってるんだから。

 私服とは言え、ちゃんとカッターシャツにネクタイしてるんだけどな。
 よく見るとミッキーマウスの透かしが入ってるネクタイだったりするけど。



「おい、『正真正銘』だぜ」

 なにやらひそひそと聞こえてくる。
 きっと僕のことだ……どうしよう。

 こんな場合の選択肢は3つ。

 その1、無視する。
 その2、睨む。
 その3、にこやかに微笑み返す。

 悲しいかな、育った環境のせいで僕は、この3つの選択肢のうちの『その3』が体に染みついていたりする。

 とりあえず声のする方をうかがってみると…。

 声の主らしき一団と目があった。
 硬直した彼らに僕の取った行動は当然……。
 

 やりすぎたかな…。
 そんなに照れないでよぉ。こっちまで恥ずかしくなっちゃう。

 ちょっと間をおいていた彼らは、誰ともなく間合いを詰めて僕に近づいてきた。

「高校の新入生だよね?」

 僕より軽く10cmは高い、目鼻立ちの整ったヤツが声を掛けてきた。

 東京のヤツってやっぱり垢抜けてるんだろうか? 大人っぽくてかっこいい…。

「うん…。」

 頷きながら襟のバッジを盗み見ると、どうやら同じ1年生のようだ。3年生くらいに見えたぞ。

「どこから来たの?」
「京都から」

 『京都』と聞いただけでまわりがざわめく。
 ふふっ。なんてったって千年の都だ。東京とは格が違うのさ。
 ……と、思ってるのは実は京都人だけだったりするんだけど。


「修学旅行で行ったな」

 別のヤツがそう言った。まわりが頷く。

 そうか、聖陵の中学は京都へ来てるのか。知らなかった。

 僕はバリバリの観光名所に住んでたけど、この制服に見覚えはない。
 ま、ありがちな制服だから。


「もしかして大阪で受験した?」
「うん」

 何でそんなこと聞かれるんだろうって顔をしていたに違いない。
 またしてもまわりがざわめく。

「君だけだよ。大阪受験で合格したの」
「へ?」

 ああ、我ながら間抜けな声…。
 けれど、いったいどういうことだ。
 だいたい何でそんなことを生徒が知ってるんだ。

「ごめん。びっくりしたろ。みんな『正真正銘』には興味津々でね。受験に絡んだ情報なんかはどこからともなく入ってきて、あっという間に飛びかっちまう」

 ハンサムなこいつは気障にウィンクして見せた。
 そんなものにいちいち反応するほど初な僕ではないんだけど、しかし、こいつが同い年とは信じがたい。

 二の句が継げない僕に、彼はさらに言葉を続けた。

「明日の入学式のあと、すぐに始業式だ。そのあとに席次が発表になるんだ」
「何の席次?」

 疑問はすぐに口をついて出た。だって中間でも期末でもないのに。

「入学試験のさ」

 げっ! それってまさか『正真正銘』の25人の席次ってこと?
 25番だったりしたらどうしよう…。

「そんなに青くなるなって」

 そ…そんなに動揺した?

「新1年生200人全員の席次だよ」
「はぁ?」

 ああ、またしても間抜けな声を…。

「君たちが受験していた同じ時間に、僕たちも全く同じ試験を受けてるんだよ」

 こいつは心なしか嬉しそうだ。
 新入りなんかに負けてないぞってことかな。

 けど、正直驚いた。中高一貫教育のメリットって『無試験入学』にあると思ってたもんな。 
 こんな苦労するなら、中学から高い授業料払わなくたっていいだろうに。


「そうか…。君がね…」

 少し目を伏せてそう言ったハンサムくんに『何が』と問いかけようとしたとき、前方から声がかかった。

「やっと現れたな」

 話してる間に正門前に着いていたらしい。
 桜並木の終点、ひときわ大きな桜の下に佇む目の前の大人は、僕の大好きな栗山先生にはちょっと負けるけど、かなりいい線いってる素敵な男性だった。

 三つ揃いの上着なし。
 かなり渋めの色合いのスーツだけど、若いからかえっておかしくない。

 モテるな、この人は。

 僕は育った環境の特殊さゆえに、その人の服装で、ある程度のことを判断してしまう癖がある。自分でもかわいげがないと思うけどしようがない。

 けど、しっかり観察していたクセに、この大人が声を掛けたのが自分だとはまだ気づいてなかった。

 そういえば、こう言うところが危なっかしくて心配なんだと栗山先生は言っていた。
『大人ぶった子供』ってことらしい。


「光安先生!」

 まわりの生徒たちが集まってくる。
 やっぱり人気者なんだ。

 …って感心している場合じゃない。
 学院に着いたらまず、光安直人(みつやす・なおと)先生に会いなさいと言われてたんだ。
 ここで出会えてラッキー! 探す手間が省けた。

「待ってたよ。奈月くん」

 え? 待っててくれたの? 

「おいで、こっちだ」

 光安先生は右手で僕のボストンバッグを取り上げ、左で僕の腕を掴むと、まわりにかまうことなく校舎の奥を目指して進んでいった。

 後ろから呆然と見送る生徒たちの視線が刺さってくるような気が…する。

 そうだ、さっきのハンサムくん。名前を聞いてなかった。寮生なんだから後で探せば会えるだろうか。




 通された光安先生の部屋はまるで社長室のようだった。
 応接セットもホテルのみたいだ。

 いくら『聖陵の看板・管弦楽部』を率いているとは言え、この待遇じゃ、まるで学院長じゃないか。

 キョトキョトと辺りを見回して落ち着かない僕に、先生は珈琲を淹れてくれた。

「栗山は元気でやってるようだね」

 そう、栗山先生と光安先生は音楽院の先輩後輩の間柄らしい。
 栗山先生が『光安サン』と呼び、光安先生が『栗山』と呼び捨てにするところを見ると、光安先生が先輩なんだろう。

 どっちにしても二人ともまだ若いはずだ。
 栗山先生が僕の母さんと同級生なんだから。


「はい。…あの栗山先生がくれぐれもよろしくっておっしゃってました」
「うん。昨夜も電話をもらったよ。君のことが心配で仕方ないらしい」

 あ〜、もうっ、過保護なんだからー! 大丈夫だっていってんのに!
 思わず握りしめた拳を見て、光安先生がプッと吹き出す。

「まあまあ。ヤツは君のことを我が子のように思ってるみたいだからね」

 …そうなんだ。栗山先生はずっと僕たち母子を守っていてくれて…。

「最初に言っておくけど、僕は君の事情はほとんど聞いている。栗山がそういうことを僕に話したのは、『奈月葵を守ってやってくれ』というメッセージだと思っている。僕を栗山のかわりだと思ってくれてかまわない」

 真剣に、けれど優しい目で話す先生に、僕は思わず目を伏せてしまった。

 嬉しくて、なんて言っていいのかわからなかったと言うのもあるんだけれど、反面15歳にもなって守ってもらわなくてもいいんだ!…っていうちっぽけなプライドも、ちらちらしてたりして。

 それにしても、『事情』ってどこまで話したんだろう…?


 ふと頭に温もりを感じて目を上げた。
 先生の手が僕の後頭部を捉えていて、え?…っと思ったときにはもう、コツンとおでこが合わされていた。

 優しい息が頬をかすめる。

「栗山が、『葵は素直でやさしい子だ』と言っていた。何にも心配しないでそのまま大きくなれ」

 両腕が肩から背中にまわった。
 壊れ物を包み込むような抱擁…。

 栗山先生によく似た温もりに、ここまでずっと張りつめていた緊張が、少し、緩んだような気になった。

 僕は栗山先生の膝の上で育ったようなものだったから。


「先生…」

 何か続ける言葉を探さなければと思ったとき、唐突にドアがノックされた。

「どうぞ」

 ど、どうぞって先生っ! 腕を放してから言って!!
 けれどドアは、僕が腕を突っ張るより早く開いてしまった。

「……。すみません。お呼びだと聞いてきたのですが、お邪魔でしたでしょうか」

 し、信じられない…。この状況を見て、この冷静な声。
 僕は怖くて振り向くことができなかった。

「ああ、悟か。すまないな、入寮早々に呼び出して」

 先生はことさらゆっくりした動作で立ち上がった。
 そして机の上の大きな封筒を取り上げて差し出す。

 ちょうどその時、電話が鳴った。
 先生は軽く片方の眉を上げ、ため息をついてから受話器を取った。

「はい。ああどうもすみません。ええ、すぐに向かわせます。用事が済んだらすぐに返して下さいね。………わかってますってば」

 先生はちょっと乱暴に受話器を置くと、改めて封筒を僕の後ろに立つ人物に差し出した。
 僕の頭上を封筒が行く。

「中身はオーディションの楽譜だ。明日のオリエンテーションで配布するから準備を頼む。現部員と新入部予定者の名簿も中に入っているから、それで人数確認をしておいてくれ。
 それと、悪いがこの子を院長室まで連れていってやってくれないか。来ているのなら早くよこせとおかんむりだ。…ったく、どこで情報を仕入れたのやら」

 先生は不機嫌そうに電話を一瞥した。

 もしかして今の電話って院長? 
 だったらあのぞんざいな話しぶりって…。

 この先生ってもしかしてコワイ?

 不安をありありと顔色に出しているだろう僕に、先生は極上の笑みを浮かべて見せてくれた。

「院長の用事が済んだらとっとと戻っておいで。制服ができているからね」

「え? 制服って…。今日採寸だと聞いてましたけど」

 何がどうなってるんだ。

「栗山が中学の制服を送ってよこしたよ。サイズは変わってないって言うからね」

 ど、どうせ成長してませんよっ!

「そうそう、君を見つけやすいようにと写真まで入ってたな」

 写真?
 先生がポケットから出してひらひらさせる。

 ぶっ! 中学2年の時に栗山先生とプロレスごっこをしてじゃれているところを、母さんが撮ったものだ! よりによってこんなものを…!

「じゃ、頼むよ、悟」

 笑いをかみ殺しながら後ろの人物に声を掛ける。

 『悟』と呼ばれた生徒が僕を呼んだ。

「行こうか」

 …うっ、つ、冷たい声…。

 僕はしょうがなく立ち上がり、声の主を見る。

 目が合った。
 なぜか合ったまま固まった。
 僕も、彼も。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



『さっさと行ってこい』という先生の言葉に押されて、僕らはようやく廊下に出て歩き始めた。

 恐る恐る見た襟章は…『U』。やっぱり上級生だ!

 でも、1年先輩なだけ? もっと大人びて見えたと思うんだけど。
 そのせいなのか緊張で顔が上げられない。

 先生の部屋で見てしまったこの上級生の顔は、恐ろしいほど整っていて、ちょっと見上げてしまうほど背が高かった。
 真っ黒な髪に真っ黒な瞳。
 日本人なら当たり前なんだけれど、どれもが吸い込まれそうに漆黒だった。

 桜並木で出会った同級生も思いっきりハンサムだったけれど、こっちはケタが違う…。

「綺麗」と表現してもいいくらいに。

 そして、ほんの僅かの時だったんだろうけれど、永遠にも思えた沈黙を破ったのは、もちろん僕じゃない。

「新入生…だよね。」

 僕はうつむいたまま答える。

「あ…はい」

「光安先生のところにいたってことは、音楽推薦ってことなのかな」

 声のトーンはさほど変わらない。

「そうです」

 返事をすると、上級生の歩みが止まった。
 僕ももちろん立ち止まる。
 そして恐る恐る顔を上げる。

 予想に反して彼は微笑んでいた。
 包み込むように、嬉しそうに。

「じゃ、君は僕の可愛い後輩になるわけだ。僕は管弦楽部の2年、桐生悟。君は?」

 そう、実は音楽推薦とは『管弦楽部』に入ることを条件に『学費の減免』が認められると言うありがたい推薦枠なのだ。
 試験の点数なんかをもらうよりこっちの方がよっぽどいい。
 
「あの…、な、奈月葵です」

 初めて出会うクラブの先輩に、僕の緊張はまだ解けない。
 綺麗な先輩の笑顔がキュッと引き締まった。

「もしかして、フルートの?」

 な、何で知ってるんですかっ!

 僕は怯えた顔をしたに違いない。
 先輩はさらに詰め寄って顔を近づけてきた。

「先月のジュニアコンクールを獲った奈月葵くん?」
「そ、そうです…」

 なんだ、そういうことか…と思ったが、どうしてあんな地方の小さいコンクールのことまで知ってるんだ。

「そうか、君が…。なんてったって、あの栗山重紀の弟子だもんな」

 唐突に出た栗山先生の名前に僕は驚きを隠せない。
 今日は驚いてばっかりだ。

「栗山先生をご存じなんですか?」
「ん? もちろん直接は知らないよ。けれど突然引退してしまった若き天才フルーティストの名は、今でもみんな覚えている」

 上級生、桐生先輩は僕の肩に手を回し、促すように歩き始めた。
 僕はまるで子供のように、スッポリと彼の腕の中に納まってしまう。

 そう、栗山先生は天才と言われていた…らしい。

 でも僕はその頃の先生を知らない。
 母さんは知っていたんだろうか?

「栗山氏が個人レッスンをしているのは君だけなんだってね」
「あ…でも僕にとっては中学の担任の先生で…」
「え?」 

 …その一言は衝撃的だったらしい。

「栗山氏って中学の教師になってるの? どこかの私立? 音楽コースがあるとか」

「いえ、違います。公立の、普通の中学ですが…」

 そうか、そうなんだ。
 天才と呼ばれた音楽家が公立中学で教師をしているっていうのは普通では考えにくいことなんだ。
 吹けなくなったのならともかく…。

 今までそんなこと気にもとめてなかった…。

 桐生先輩はなんだか考え込んでいたが、やがて『院長室前』に到着してしまった。

「院長に呼ばれているってことは、明日の入学式は君が新入生総代なのかな?」

 またしても訳のわかんない質問が浴びせられる。

 呼ばれたとしたらきっと『特待生』の話だろう。
 僕は音楽推薦だけでなく、『特待生A種』というありがたくも、もの悲しい立場なのであった。

『A種』は、学費の全額免除、寮費その他諸経費の全額免除、しかも月々奨学金まで出る。
 こんなにおいしい話はそうそうないんだけれど、条件が厳しい。

 一定以上の成績をあげていなければいけないのはもちろん、推薦を受けたクラブを卒業まで全うすること、そして極め付きがこれ。

『親権者に収入がないこと』

 僕は普通の人間には最後の条件が一番厳しいんじゃないかと思ってる。
 けど、僕は楽々クリアしてしまった。

 収入もへったくれも、親がいないんだから…。



「いえ。そんなこと一言も聞いていません…」

 『特待生』の身の上話をここでする気もないし。

「…そう」

 呟いた先輩はそのまま動くでもなく立ちつくしていた。

 やがてその手が上がり、僕の頬をそっとなでる。

 びっくりして顔をあげた僕に、先輩は綺麗な綺麗な笑顔を向け、そしてゆっくりとその顔を近づけてきた。

 頬にあった手が僕の前髪をあげ、晒された額に、たんぽぽの綿毛が触れたような、本当に微かで暖かい感触が降ってきた…。


 そして呆然と目を見開いたままの僕をそのままに、先輩は院長室のドアをノックし、『どうぞ』の応答に『1年生の奈月葵君を連れてきました』と告げて走り去った。

 そこから僕の記憶は一部欠落している。
 覚えているのは院長室が『大統領執務室』みたいだったことと、『君には期待している』とかなんとか言われて、たたんだ紙切れを渡されたことだけ…。

 どうやって光安先生のところへ帰ったかも定かじゃない。


 やっと正気に戻ったのは、どうやってたどり着いたかも定かじゃない、光安先生の部屋の前。

 大きく深呼吸してドアをノックした…つもりだったのに、あろうことか僕が叩いたのは、いきなり開いたドアの向こうにいた、あの綺麗な先輩の胸。

「あっ…! ご、ごめんなさい!」

 思い返すに、これがこの日の赤面ナンバー1の出来事だった。

 先輩も一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにはにかんだような笑顔になった。
 そして僕の拳をぎゅっと握るとそのまま引き寄せ、耳元で囁いた。

「さっきはごめん」

 そうしてあっという間に、いなくなった。 



                   ☆ .。.:*・゜



 光安先生の部屋で制服に着替えた僕は、わざわざ迎えに来てくれた寮長先生に連れられて寮へ向かった。

 光安先生と院長先生に会っていたせいで、僕の入寮はすっかり遅れていたらしい。
 寮は校舎からは徒歩5分。
 学院の敷地の一番奥でちょっとした坂の上にあるようだ。

 先生と話をしながら歩いていくと、やがて木立の中に大きな2つの建物が現れた。

「左が中学生の寮、右が高校生の寮だよ」

 道々校内の案内をしてくれた寮長先生は、やっと見えてきた自分のテリトリーに心なしか満足そうだ。

 しかし、ここの先生はなぜだかみんな若い。
 この先生…斉藤先生は保健の先生なんだそうだけど、どう見てもやっぱり30そこそこだ。

「中学生と高1は4人部屋。高2高3は2人部屋だ。高1の部屋は4階だから体力がつくぞ」

 先生は思いっきり嬉しそう。

「どうした? 緊張してるのか」

 あまりリアクションのない僕の顔を、先生が覗き込む。

「…ちょっとしてます。」

 だって団体生活なんて初めてなんだから。 

「そうかそうか。ま、心配しなくていい。奈月のルームメイトは3人とも中学から上がってきている。寮生活には慣れているからなんでも教えてくれるさ」

 斉藤先生は、ポフポフと僕の頭を叩く。

「そういえば中学の元生徒会長もいたな」

 げっ、そんなお偉方と一緒ですか…。
 かえって心配だってば。


 そして僕は、寮への一歩を踏み込んだ。

 …なんだ、こりゃ。
 高校の男子寮なんて、絶対むさ苦しいところだと思っていたのに、まるでマンションだ。

 けど普通のマンションと違うところは男子高校生ばかりが大勢いったり来たりしていること…。

「新学年の入寮日の夕食前。1年で1番騒がしい時間だな」

 誰にともなく呟く先生に連れられて、あたりを珍しそうに見回す僕を、行き交う生徒は一様に足を止め、何かしら囁きながら見ている。

「注目の的だな」

 この先生ってば、何でそんなに嬉しそうなの。

「今度は僕だけが制服なんですよ」

 そう言った僕に、先生はきょとんとした顔を見せた。

「昼に登校したときは制服のみんなの中で僕一人だけ私服だったんです。でも今は…」

 今はみんな私服だ。しかもラフな…。
 それにしてもみんないいもの着てるな。センスのいいヤツも多いぞ…。
 どうも、『むさ苦しい』とはかけ離れた雰囲気だ。

「ぷぷっ」

 は? 今の音は何?…と思ったら、先生が吹き出したの!?

「ははは、ごめんごめん。別にそう言う意味じゃなかったんだけどね」

 だったら何なんだ。

 訳がわからんと思っている内に、しっかり体力を使って4階まで上がった。
 坂をあがってきた上に4階とは…確かにけっこうキツイかも…。

 そういえば4階にはあの『桜並木のハンサムくん』と、さやかさんの弟『浅井祐介くん』がいるはずだ。
 …まてよ、『浅井くん』は寮生とは限らないか。

「奈月の部屋は412だ。鍵は部屋にある。一人一つづつあるからな。自分が最後になるときは必ず施錠するように」

 先生はやっと先生らしい口調になった。
 4階も賑やかだ。

「おまえら、何を溜まってる」

 先生が言葉をかけた方を見ると…。

 廊下中人だらけ…。
 先生が僕の耳に呟いた。

「412の前だ」


「ご到着だぞ!」

 誰かの声に、一斉に歓声が上がる。

「歓迎・奈月葵様ってやつだな。よかったな、奈月」

 せ、先生ってば、何をご冗談…。
 先生はいきなり僕の肩を抱くと、大きな声を張り上げた。

「ほら、通してやってくれ! 奈月は緊張してるんだからな、あんまり取り囲むんじゃないぞ」

 ほら、どいたどいた、と言いながら先生は、生徒をかき分け僕を412の中へ押し込んでくれた。

「浅井、後は頼んだぞ。じゃ、奈月、夕食まで少し休めよ」

 ポンポンと僕の肩を叩いて、先生は去っていった。


 呆然としている僕の後ろで声がした。
 誰かがドアの外に向かって怒鳴っている。

「はいはい、葵くんとのご対面は夕食後! それまでは面会謝絶です!」

 閉じられようとしたドアの隙間から怒号が聞こえる。
 しかし、それがバタンと閉じられた瞬間、部屋は静けさを取り戻した。

 明るい室内。
 綺麗に整頓された部屋。
 私服の3人の男子高校生。

「待ってたよ」

 一番背の高いヤツが気障にウィンクする。

「き、君は…!」

 桜並木のハンサムくん!!

「あの時はまさか同室だとは知らなかったんだ。君と一緒になれて嬉しいよ。奈月葵くん」

 何でも様になる彼は、これまた粋に手を差し出した。
 僕は差し出されたその手をそっと握る。
 柔らかくてひんやりした手…。

「よろしく。えっと…」
「僕は浅井祐介」

 ……驚いてばかりの一日のとどめはこれか…。

 うーん、僕ばっかりが驚いているのは割に合わない! 
 ……よし、驚かせてやろう。

「今日、さやかさんとデートしたよ」

 僕は持っている中で一番いい笑顔を繰り出した。

「えっ…?!」

 ハンサムくんは目をまん丸に見開いた。
 やったね。

 僕は心の中で、高く『Vサイン』を上げた。



                  


                  

第1幕 「Prelude」 END


*幕間:祐介クンの事情へ*

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