幕間「祐介クンの事情」
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忘れもしない、あれは3月最後の日曜日。 1週間前、聖陵学院中学校での3年間をトップで独走し続け、最後の一年は生徒会長まで勤め上げて卒業した浅井祐介は、私服で、同じ敷地にある聖陵学院高等学校の門をくぐっていた。 祐介は『聖陵の看板・管弦楽部』のフルート奏者。 とは言っても中学生の管楽器奏者のほとんどがそうであるように、2軍選手である。 それでも中学生だけでオーケストラが組まれたときは、立派に首席奏者をつとめるだけの実力はあったのだが。 聖陵の管弦楽部員は、学院生活の中で『勉強』以外のほぼすべてを部活動に捧げている。 ゴールデン・ウィークは校内新歓合宿、夏休みはコンクールと文化祭に向けての校内と校外での強化合宿、数年に一度は演奏旅行もある。 また冬はおきまりの定期演奏会と、一年中活動していて、休むヒマなどありはしない。 そんな中で唯一の息抜きが、学年の変わる春休みなのだ。 この期間は部活は休止されるが、しかし、生徒によっては個人練習に余念がない。 それは休み明け、新学年開始と同時に行われる『オーディション』のためだ。 すべてのパートにおいて、このオーディションの成績に基づき『序列』が決まる。 『年功序列』などという言葉は聖陵にはない。 すべては実力次第。 コンクールが『高校生のみ』と定められている以外は、中学生にももちろんチャンスがある。 祐介はフルートパートの中では4番目の奏者だった。 上の3人は高校生だ。 そう、なぜかこのパートは見事に『実力序列』=『年功序列』なのであった。 それはそれで、やりやすいことではあったが。 この3月までは、中1から高1までは各学年に一人ずつフルーティストがいた。 高2には一人もいなくて、高3に2人いた。 その2人が今年卒業したので、祐介が高校に上がっても、高等部のフルーティストは2人しかいない。 ならば今年の高校新入生には必ずフルーティストがいるはずだ。 そうでないとコンクールにでられない。 コンクールに出るには、最低でも3人のフルーティストが必要だから。 だがしかし、祐介は『序列』を上げるための努力はしていなかった。 中学と違い、高校の新入生は目的をはっきり持って入ってくる。 きっと新入生の実力は高いだろう。 でも自分は中学生に抜かれさえしなければいい。 一年上の佐伯先輩とまだ見ぬ新入生、自分はその次でいいのだ。 欲がない、というのとはちょっと違う。 要するに『どうでも』よかったのだった。 部活動もなく、個人練習に励む気もない春休み。 なのに2時間半もかけて、帰省している自宅から聖陵までやって来たのにはもちろん訳がある。 この日は新入生の制服の採寸日だった。 新入生と言っても祐介たちのことではない。 彼らの制服の採寸は、卒業式の後に済んでいる。 今年も各クラス5人・5クラス分の計25人が高校から入学する。 言うなれば、持ち上がりでない、『正真正銘』といわれる『本物の新入生』たちの制服採寸日だ。 中学校の校舎は賑やかだ。 175人の新入生が集まって、採寸や入学・入寮に必要なものを揃えているから。 だが高校の校舎はひっそりとしていた。 なにしろたったの25人だ。 しかし、この25人はただものではなかった。 本校の他、北海道、大阪、福岡で行われた入学試験の実に20倍をくぐり抜けてきた精鋭なのだから。 その上高校では、中学にはない『音楽推薦』や『スポーツ推薦』なるものがある。 これがまた特異なもので、普通『推薦』というと、入試の点数に下駄を履かせてもらえるとかの特典があるのだが、聖陵はちょっと違う。 入試に一切の手心は加えられないのだ。 そのかわり、部活動への参加と引き替えに、学費が安くなる。 こうした仕組みで、聖陵は、『成績がいい上に、一芸に秀でた奴ら』を集めてきたのだ。 しかしながら、祐介たちも一応その『入試』を受けている。同日同時刻に同じ問題にチャレンジしているのだ。 そして、その結果は4月の始業式後に発表される。 新1年生200人の全順位が、だ。 試験の結果で高校への進学が取り消されることは滅多にないのだが、なにしろ『新入り』との出来の差が明々白々となるから恐ろしい。 例年、『正真正銘』は全員上位30番以内に入る。 つまり『正真正銘』に太刀打ちできる『持ち上がり組』は175人中5人程度しかいないということだ。 しかもトップ10は、ほぼ全員『正真正銘』。 昨年はといえば、『聖陵の頭脳』とまで言われた桐生悟が『持ち上がり組』としては6年ぶりのトップ10入りを果たしたが、それでも5番という位置にとどまった。 だが今年の『持ち上がり組』は少し期待していた。 もしかしたら祐介が…『聖陵の頭脳』同様に3年間ダントツですべての試験でトップを走り続けた祐介が、栄えある『新入生総代』を勝ち取ってくれるかも知れないと。 実は祐介もちょっとその気だった。 昨日までは。 帰省中の自宅に電話があったのは、昨夜の9時頃だった。 電話の主は、管弦楽部の顧問で音楽教諭の光安直人。 電話の内容は、『今回中学を卒業した管弦楽部員20人全員が高校の管弦楽部へ入るつもりがあるかどうかを調べておいてくれ』と言うものだった。 中学からの持ち上がり組には『推薦』がないから、入退部は自由だ。 光安は暗に『一人の脱落者も出すな』と言っているのだろう。 そんなもの、おやすいご用だ。 だが、肝心なのは最後だった。 光安は電話の切り際にこう言ったのだ。 『今度の総代は音楽推薦の子らしいぞ。なんでも大阪会場唯一の合格者らしい。今年の関西は低調だな。ははっ』 受話器を置いた手もそのままに、祐介はどんよりと沈んでいた。 (自分を含めて175人の期待を裏切ってしまった…) 管弦楽部の序列なんかどうでもよかったが、学力トップは譲りたくなかった。 しかも『そいつ』は音楽推薦だ。 必ず管弦楽部に入ってくる…。 そして翌朝、何故だかそいつの顔が無性に見たくなって、2時間半の道のりをやって来たのだった。 「浅井じゃないか、何やってるんだ」 制服の採寸会場あたりを、泥棒よろしくこそこそとうかがっていた祐介は、突然背後から声を掛けられて、思いっきりビビった。 声の主は、昨夜自分を『どんより』の底へ突き落とした張本人だ。 「み、光安先生…」 今一番会いたくないやつだったがしょうがない。 光安は整った顔を『ニヤッ』とゆがめて、祐介との間合いを詰めた。 年の割には落ち着いていて、長身で、学年ピカイチといわれる容姿と頭脳のせいか、どこか超然としたものを感じさせるこの生徒の、こんな様子は初めて見た。 仲間内では馬鹿もやったりするらしいのだが、大人の前ではスッと仮面を被ってしまい、なかなか本心を見せない。 常々それが歯がゆいと思っていたのだが…。 (昨夜のアレか…) 光安にはすっかりお見通しだった。 「総代は来ないよ」 「はぁっ!?」 いきなり核心をぶん殴られた祐介は、素っ頓狂な声を挙げた。 「総代は登校を免除されているよ」 そう言ってチラッと腕時計を見た。 「今頃は本選の真っ最中だろう」 「本選って…」 「明日の朝刊には載るだろうよ。『優勝・奈月葵』ってな」 (『奈月葵』…どんなやつだろう) 翌日の朝刊の文化欄。扱いは小さかったが、光安の予言は当たっていた。 しかも祐介と同じ、フルート奏者だ。 もとより『序列』は諦めていた。 コンクールの優勝者とあっては、恐らくパート最上級生の佐伯も抜かれてしまうだろう。 (くっそう…、こうなりゃ中間で抜き返してやる。管弦楽部の首席奏者なんかになっちゃあ、勉強してるヒマなんかないもんな!) 思わず新聞を握りしめる祐介に10歳上の姉、さやかが声を掛けた。 「何を煮詰まってんのよ」 年が離れているせいか、祐介はこだわりなく、なんでもさやかに話す。 祐介の話をにこやかに聞いていたさやかは、 『新しい目標ができたってことよ。がんばれ、祐介』と無責任に励まして、ウィンクして出勤していった。 そしてさやかは、10日ほどのちに、新幹線の中で一人の少年と出会う。 少年というよりは、少女といった面差しの、華奢で愛くるしい子。 最初は警戒していたようだったが、次第にうち解けて、綻ぶ花のような笑顔を見せた。 思わず『抱きしめたくなる』ような…。 別れ際には、その少年こそが弟・祐介の新しい目標なのだと気がついていた。 (これはちょっとアブナイかも。なんてったって男子校の寮生活だもんね。でも、あんな子が弟になるのも悪くないなぁ) さやかお姉さんは、アブナイ本の読み過ぎなのであった。 姉・さやかに遅れること数時間。 弟・祐介も葵との対面を果たしていた。 満開の桜並木の下、どことなく儚げな後ろ姿で、ただ一人私服で歩く少年。 制服の採寸に来ていなかったのだ。 彼が『奈月葵』だとすぐに気づいた。 誰かのヒソヒソ話が耳に入ったのだろうか、彼はふと振り返った。 そして、笑った。 綻ぶような笑顔。 桜の精が降りてきたのかと思った。 思わず声を掛けていた。 「同室…」 寮の部屋割りを見て、祐介は呆然としていた。 呆然の次にやって来た感動は、心の中にガッツポーズで表現された。 同じ部屋で寝起きし、同じ教室で学び、同じクラブで、しかも同じ楽器! あの、可愛らしい桜の精は、24時間いつも自分の傍にいる。 いつの間にか、入試で負けたことなど祐介にはもうどうでもいいことに成り下がっていた。 今、自分のやるべきことはただ一つ。 奈月葵の隣の席を確保するために、『佐伯先輩を抜く』こと。 オーディションまで1週間! 個人練習あるのみ! |
幕間:「祐介クンの事情」 END