第3幕への間奏曲「準備室の3悪人」





「いったいなんだって言うんだろうね」

 金髪碧眼、とてもその口から日本語が流れてくるとは思われない。が、聖陵の生徒は慣れている。

 彼、桐生昇は中学からここの生徒で、高2になった今、寮生活も5年目のベテランだ。

 3つの時からヴァイオリンを始めた彼は、管弦楽部では昨年からコンサートマスターをつとめ、今年もその位置を譲る気はない。

 見た目は完璧な異国人だが、国籍ではれっきとした日本人。
 高からず低からずの身長に華奢な体つき。
 性別は、男子校にいる以上言わずもがなだが、それも疑わしくなるほどの美少年ぶり。 
 まるでビスクドールのような肌とガラス細工のような瞳。

 同年代の少年たちには手に余るのか、噂のお相手はいつも、教師…。



「追いかけたけど、結局見失っちまったもんな」

 答える彼、桐生守は淡い茶色の髪と瞳、昇に比べると少しは東洋が混じっているように思われるが、それでも異国の雰囲気は全身にまとわりついている。

 彼も昇と同じく中学からここの生徒で、高2になった今、寮生活も5年目の当然ベテラン。

 3つの時からヴァイオリンを始め、8つの時からチェロも始めた彼は、管弦楽部では昨年から首席チェロ奏者をつとめ、やっぱり今年もその位置を譲る気はない。

 国籍はもちろん、日本。
 長身で黄金分割の完璧なスタイル。
 どこか人を食ったような笑顔と態度で次々と下級生を惑わせていく、聖陵ナンバー1のプレイボーイはいつも人気投票第1位だ。


「でも、冗談抜きで気になるな…」 
 昇は小さくため息をつく。
「そうだよな、あんな悟を見るのは初めてだ…」
 守は大げさにため息をつく。
 
 ここは管弦楽部専用のホールの中にある、生徒準備室。 
 通称『準備室』である。

 かなり広い室内には、管弦楽部員の個人ロッカーがあり、イスやソファーもたくさんあるので、練習の合間には大勢の生徒で賑わうところである。

 だが今は二人きり。

 他の部員はもうすでにホールに集合しているだろう。
 自分たちがいなければ始まらないと自覚している彼らは、誰かが呼びに来るまで、ここでふんぞり返っているつもりである。



「そろそろ行くぞ」

 いきなり入ってきたのは、どこから見ても完璧日本人の超男前、桐生悟。

 彼も、昇・守と同じく中学からここの生徒で、高2になった今、寮生活も5年目のもちろんベテラン。
 長身にしっかりとした体躯だが、無駄な筋肉はついていない。

 制服を着ているからどうにか高校生に見えるが、スーツでも着ようものなら完璧大学生に見えてしまうほど、大人びた容姿だ。

 中学では生徒会長を務め、『聖陵の頭脳』とか『聖陵のカリスマ』とか呼ばれていたのだが、管弦楽部には正式に所属していなかった。
 所謂、『オケ楽器』(オーケストラに必要な楽器)をやっていなかったからである。

 彼はやっぱり3つの時からピアノを始め、周囲からはピアニストの道を歩むものとばかり思われていたのだが、昇・守とともに聖陵に入り、二人にくっついて管弦楽部に出入りし、ピアノコンチェルトの練習ピアニストや、コンサートなどでソロを演奏する生徒の伴奏などをつとめているうちに、顧問の光安に認められるようになった。

 そして光安自身から指揮法を学び、高校に入ってすぐ、管弦楽部始まって以来の生徒指揮者になったのである。

 それ以来管弦楽部一筋、その他の校内活動には関係しないようになった。
 だが相変わらず学年トップの成績は維持し続けている。

 冷静沈着、いつも穏やかで誰にでも同じように優しい。

 指揮者という立場がより中立へと悟を追い込むのか、この1年でさらに、不干渉とも言えるほど、誰とも一定の距離を置くようになっていた。

 管弦楽部員はそれでも悟を心から信頼し慕っているのだが、やはり昇や守のように気軽に馬鹿を言い合ったりはできない。

 その悟が昨日はどうだったか。

 昨日のあまりにも『らしく』ない悟の様子が気になってしようがなかったのだが、しかし、入ってきた悟の『いつも』の顔を見て、昨日のは錯覚だったのかと思った昇と守だった。



 聖陵名物・桐生三兄弟。
 兄弟なのだが、全員同じ高校2年生である。

 だが、誰が見ても、3人が同じ父母から生まれたとは思わないだろう。

 長男は悟。4月生まれの、間もなく17歳。
 母は日本人ピアニスト。
 次男は昇。7月生まれの16歳。
 母はフランス人ハーピスト。
 三男は守。10月生まれの16歳。
 母はアメリカ人オペラ歌手。

 そして父親が一人。
 世界的に活躍している『彼』、指揮者の赤坂良昭である。

 3人は父親の戸籍には入っていない。
 3人とも、唯一父親との婚姻歴がある悟の母、桐生香奈子の戸籍にいるのである。

 これらは秘密でも何でもなく、聖陵の誰もが知っている『事実』だ。
 そして、それを知って漏らす感想は、だいたいみんな同じである。

『節操のない親父だな』と。

 そこに、深く暗い大人の『事情』があることは、お子さまの考えの及ぶところではない。





「ほとんど集まってる。行くぞ」

 いつもと変わらない調子でそう告げ、いったん閉めた戸を、悟が再び開いた時、小さな声が聞こえた。

『桐生先輩』…と。

 聖陵の生徒は上級生下級生にかかわらず、3人を苗字ではなく名前で呼ぶ。
 もちろん紛らわしいからだ。

「何?」

 珍しく苗字で呼ばれて、奥の二人も同時に返事を返した。
 そして呼んだ声の主を確かめる。

「おおっ、新入生総代、500点満点、コンクール優勝の奈月葵クンじゃないか!」

 見事にハモった…。
 だが奈月葵は怯えているようだ。
 悟が葵を抱き寄せた。



 悟はふと、今朝の入学式を思い出していた。

 名前を呼ばれて壇上に上がる葵を見て、なぜか誇らしい気分になった。
 正直、昨日の儚げな様子から若干の危惧はあったが、そんなものは杞憂に終わった。

 この腕の中にスッポリと納まってしまうほど、可愛らしい子だったはずなのに、背筋を伸ばして歩む姿はとても大きく見え、さらに驚いたことに、挨拶文を読み上げる声は、決して大きくはないのになぜか凛と冴え渡り、心地よい響きを講堂に残した。

 その様子は、その場に居合わせたすべての者の記憶に、強烈な印象を残したに違いない。

 そう、この腕の中の可愛らしい子は、その華奢な体に不釣り合いなほど、大きな期待を背負わされている。

 成績の維持、部活動への貢献。

 見返りに用意されたものは大きいが、それでも背負っていくつらさは並ではないだろう。
 きっと芯の強い子に違いないが、それでも泣きたくなる日があるだろう。

 ならば、自分が側にいてやろう。
 いつも側にいてやろう…。  





「ごめん、びっくりさせたね」

 そう言って後ろの二人に向き直った。
 葵を抱いたまま。

「葵がびっくりしてるじゃないか。おどかすんじゃない」

 言葉の内容に反して、声は至って穏やかだ。

 しかし、生まれたときから一緒の3人だ。
 僅かな動揺だって見逃すものか。
 昇と守はこの時すでに、悟の変化の訳を確信していた。

「ちょっとまて、悟! なんだその親密な振る舞いは」 
「まるでもう、旧知の仲のようだね」

 恐らく昨日、悟と葵は出会っているのだろうということは想像に難くない。
 だとすれば、やっぱり顧問の光安に呼ばれていった時なんだろうと思った。

「旧知の仲だ。すでに昨日知り合っている」

(やっぱり…)

「桐生先輩…」

 葵の声はひどく心細げだ。
 マジで怯えさせたかと、焦る三人は、優しく返事を返した。

「何?」

(何でお前が返事をするんだ)
 3人ともそう思っていたのは確かだ。 

「葵が呼んだのは僕だ」
 悟はムッとして言う。
 悟がムッとすること自体がすでに珍しい。 

(こりゃおもしろい)
 守に黙っているつもりは毛頭ない。

「俺も桐生だ」
「僕だって桐生だ」

 昇も譲る気はないらしい。

「管弦楽部へようこそ、俺は桐生守」
「初めまして、僕は桐生昇」

 早い者勝ちだとばかりに両側から頬に口づけた。
 見れば葵は固まっている。

(うぶーっ!)

 内心でガッツポーズを作る2人に、悟の『らしく』ない声が飛んだ。

「何をするっ!」

(おおお〜、抱きしめてるぞぉぉ〜)

 久々に見る悟の悟『らしい』姿だった。
 




 悟はあの頃から変わってしまった、と昇と守は思う。

 2人は生まれてすぐに悟の母に引き取られ、ベビーベッドの中から3人一緒に育った。
 養母・香奈子は優しかったし、3人の扱いはいつも同じだった。

 しかし、中学に入って最初の夏だったか、寮から一人自宅へ呼び戻された悟が、10日ほど経って戻ってきてからのことだった。

 …いつも、一歩下がるようになったのである。

 いつしかあまり表情を変えないようになり、自分のことは話さず、いつも同じ、穏やかで優しい顔しか見せなくなった。



「ふ〜ん、昨日お前の様子がおかしかった訳がわかったぞ」
「葵くんを独り占めしようったって、そうはいかないからね」
「おいっ、ちょっとまて、お前は『受け』だろうが」
「葵くんが相手なら『攻め』でもいい」
「なんだよそれ! 節操のないヤツめ!」
「誰かれかまわずのヤツにいわれたくないね」


 悟がこの可愛い少年によって、昔の悟を取り戻すのなら、馬鹿だってやれる二人だった。

 もっとも会話のすべてが『馬鹿うそ』という訳でもなかったのだが…。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 葵をしっかり抱いたまま、悟が踏み込んだホールの中には、それこそ水を打ったような静けさが訪れた。

 誰もがあまりにも『らしく』ない悟に、呆然としていたのである。

 あの桐生悟が、親密に誰かの肩を抱いたりするなんて、考えられないことであった。 


「おっと、フリーズしてるぜ」
「『らしく』ないことやるからだよ」
「ねっ、悟・に・い・さ・ん」

 二人を追ってホールに入った昇と守は、場の雰囲気を敏感に察知していた。そして無意識に悟の後押しをしていたのだった。

 悟が悟らしさを取り戻すために、この子が必要だと言うのなら、全面バックアップも惜しまない。
 ちょっと未練もあるけれど。

 しかし、思わぬ伏兵があった。

「葵! こっちへ!」

 呼んだのは浅井祐介。葵と同じフルーティスト。

 守は昨夜の寮での出来事を思い出していた。
(そうだ、あのとき浅井が抱いていたのは、奈月葵だったんだ)

「まずいぞ、あいつら同室だ」
 守は昇の耳に囁いた。
「マジ?」

 葵は差し伸べられた手に、躊躇することなく飛び込んでいった。

 その時の悟の表情…。
 心の中をそのまま反映させている…。


「こういうのも、ありかもよ」
 今度は昇が守の耳元に呟いた。

「ああ、ライバルあってこそ、ってか」
「なにさ、僕らじゃライバルになんないって?」
「俺ならなれるぜ」
「僕だって」
「お前、いつから宗旨替えしたんだ」
「葵くん相手ならOKだっていったろ?」

 まだやっている二人であった。

「さあ始めるぞ! さっさと席に着け!」

 沈黙を破ったのは、顧問の光安直人の満足そうな声だった。
 


                    ☆ .。.:*・゜



 オリエンテーションの後、光安の部屋で悟は楽譜のチェックをしていた。

「来週のオーディション、見ものはフルートだな」

 珈琲を一口含み、ソファーに深々と体を沈めて、楽しげに光安が言う。

「フルートの課題はバッハのパルティータでしたね」

 悟の問いに、光安は短く答え、そして言った。

「今年の課題はハードだと思ってるんだろう? 例年なら小品どまりだからな」
「…無伴奏の曲は、実力がそのまま見えてしまいますからね。でも…」
「葵の実力にあわせたわけじゃない」

 光安は、ぬかりなく悟の先手をとっていた。

「葵はパルティータをやったことがない」
「え?」

 悟は、課題をパルティータにすることで、葵がより優位に勝ち抜けると踏んでいたのだ。

 コンクールを獲るような実力があるなら、当然パルティータは経験済みだろうし、佐伯と浅井は『吹きこなす』だけで精一杯で、自分の音楽を作るに至らないだろうと思われたからだ。

「わざわざ栗山に確かめたさ。葵がパルティータを経験していないことをね。さっき配られた楽譜が、葵が見る初めてのパルティータだ。もっとも曲を聞いたこともない、とは言わせないがね」

「先生…」

 悟は光安の意図を見失っていた。

 そんな悟の様子に、光安は楽しげに笑いを漏らした。

「くくっ、そんな顔するなって。心配はいらない。それでも葵はダントツ首席だ。そして次席には浅井が入るだろう」

「浅井、ですか?」

 悟の顔には『佐伯ではないのですか』と書かれている。


「中学の時から浅井には苛々してたんだ。何でこいつ、こうなんだってね。悟は思わなかったか?」

「確かに、実力を出し切れているとは思いませんでしたが」

「冷め過ぎなんだよ。若いクセに」

 悟は瞬間、緊張した。自分のことを言われたのかと思ったのだ。

「この程度でいいや、なんて思ってもらっちゃ困るんだ。私は全力でぶつかって来ないヤツと演る気はない」

 むろん悟には全力でやっていると言う自負はある。

「浅井には佐伯以上の資質がある。だから浅井をけしかけた。ガソリンをぶっかけてやったのさ。もっとも火をつけたのは本人だけれどね」

 光安はこれ以上はない、と言うくらい幸福そうな顔をした。

「今頃、やったことのない楽譜を見て焦ってるヤツと、何が何でも次席につけてやろうと思ってるヤツが、二人仲良く密室で練習してるさ」

 悟は光安を見据えた。
 それを正面から見返して光安が告げる。

「同室にした効果が、たった一日で出るとはね」
「先生…」

 悟の表情は、まるで幽霊にでも遭遇したかのようだ。


(悟のこんな顔、入学したての頃が見納めだったよな)

 もうこうなったらやめられない。
 せっかくだから『だめ押し』をしておくか…と思ったわけでもないのだが、余計な言葉まですらすらと出てくる。

「教室も一緒、部活も一緒、食事も一緒、寝るもの一緒、…おっと、風呂も一緒かな? まるで新婚さんだな、こりゃ」

 ガタンッとイスが鳴った。

「すみません、準備室にやり残したことがあるので失礼します」

 選んで放った言葉が、震えていた。



                   ☆ .。.:*・゜



 そうだった。あの時葵は、ためらうことなく浅井のもとへ駆け寄った。

(浅井…!)

 彼のことはよく知っている。誰とも一定の距離を置いてきた悟にしては、つきあいは深い方だろう。

 中学入学当初から管弦楽部に出入りしていた悟が2年に上がったとき、入学してきた1年坊主に音楽理論やオーケストラの常識などを教えたのが出会いだった。

 浅井祐介はとりわけ出来のいい生徒だった。

 入試も一番だった(悟もそうだったが)と聞いていたし、すべての学力テストで常に1番(やっぱり悟もそうだった)をキープしていた。

 年の割に落ち着いていると言う評判も自分と似通っていたし、身長も体つきも何となくよく似ていた。

 周囲の人間が、『悟はブラック珈琲で、祐介は少々の砂糖入り』、と評するのは、何度か耳にしたが…。


 それに、なんと言っても二人は、中学の生徒会長を引き継いだ間柄だった。
 祐介になら安心してすべてを託すことができた。

 今日張り出された新1年生の『入試順位表』の中に、祐介の名を見たときも、親しい先輩として誇らしく思ったくらいだった。
 自身が昨年、5位という位置に甘んじてしまったことを思うと、2位という順位は驚異的だったから。
 もっとも悟は中間試験で再びトップにたち、その後もキープし続けているのだが。



(浅井が…)

 考えがまとまらなかった。

 第一、 自分はなぜこんなにも焦っているのか。

『葵を守る』のが目的ならば、ガーディアンは一人でも多い方がいい。
 何も自分一人で守らねばならないと言うことはないのだから。

 なのにこの焦燥感はいったいどこから沸き上がってくるのか。

 この腕から抜け出た者の行き着く先は…。



 悟の自覚は突然やって来た。

 この心はすでに、昨日、あの瞳に絡め取られてしまったのだと…。



                   ☆ .。.:*・゜



「ガソリンぶっかけすぎたかな?」

 悟が出ていった光安の部屋。呟いた光安の言葉に返事があった。

「ぶっかけすぎだよ。浅井と違って、もう火はついてるってのに」

 光安の部屋には、もう一つドアがある。
 プライベートに使用するその部屋とのドアを開けて入ってきたのは昇だった。

「第一、これじゃあ悟に分が悪すぎる。酷いことするね、せんせ」

 言いながら、昇は光安の横に腰掛けた。
 肩に頭を持たせかけながら続ける。

「悟が泣くのなんか見たくない」

 自分の言葉にムッとして、頭を離す。
 その頭を優しく引き戻しながら光安が答える。

「どちらかが泣くことになる。もしかしたらどちらも泣くことになるかもしれない。それでもいいんだ。泣いたり笑ったりできるヤツにしか、いい音は奏でられない。嫉妬に狂ったことのないヤツの音楽なんて、カスみたいなもんさ」

「直人…」

 何かを言おうとする昇の唇を、光安はそっと塞いだ。
 しばらくの後、唇を這わせて耳元で囁く。

「だから、昇の音楽は最高さ」
「もうっ」

 ソファーでじゃれ合う二人。

 お互いの瞳に翳りがあっても、見つめあうことはないから、気づくこともない…。




第3幕への間奏曲「準備室の3悪人」  END


Variation:葵と彰久のコンクール秘話→*「『ボクたちの午後』への前奏曲」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*