「『ボクたちの午後』への前奏曲」

 




 ボクの名前は藤原彰久(ふじわら・あきひさ)。
 聖陵学院中学校の1年1組。
 管弦楽部でフルートを吹いてる。

 小学校4年の時に、TVで聞いたフルートの音が忘れられなくって、お父さんに頼んでフルートを買ってもらい、お母さんに頼んで、教えてくれる先生を探してもらった。

 お母さんは大喜びだった。
 だって、ボクはピアノを習ってるんだけど、ちっとも好きになれなくて、全然練習しなかったから。
 お母さんは、『何か一つでも楽器ができるといいわよ』って言うんだ。

 お母さんは、子供の頃には何にも習ってなくて、ボクが小学校1年生になったとき、一緒にピアノを習い始めた。

 ピアノを買ったとき、お母さんはちょっと泣いてた。
 小さい頃から憧れていたんだって。

 それからは、お母さんの方が一生懸命になっちゃって、ボクが学校から帰ってくると、いつもピアノを弾いていた。

 大人になってからピアノを始めるのは、大変らしい。
 でも、お母さんは少しづつ上手になっていった。
 よくつっかえるし、違う音も弾いちゃうけど、ボクはお母さんのピアノを聞くのが好き。

 でも、自分で弾くのはキライだった。
 だって、先生が怖かったんだもん。

 そんなボクが言い出したフルートだから、お母さんは大喜びだったんだ。

 だから、小学校6年の時、聖陵を受験してみないかって声がかかったときも、やっぱりお母さんは大喜びだった。
 一人息子を寮に入れてしまうことも、かまわないくらいに…。

 フルートがいっぱいできるのは嬉しいけど、寮へ入るのはちょっぴり嫌だったんだ、ボク。


 それでも受験をして、無事合格して…。

 春休み、ボクはコンクールを受けた。
 参加資格は小学校6年から中学3年まで。
 つまり、春からの新学年で、中1から高1までってことだ。

 地方の小さなコンクールだけど、ジュニア限定と言うこともあって、年々人気が出てきて、レベルも高い。
 当然参加人数も多いから、3回の予選を越えたらやっと本選っていう厳しさなんだ。

 1次はテープ審査。これで、3分の1まで絞られる。
 ボクはここは難なく乗り越えた。

 2次は課題曲。バッハのフルート・ソナタから選ぶんだ。
 ここもどうにか乗り越えた。人数は30人になった。

 3次も課題曲。プーランクのフルート・ソナタだった。
 ここで人数は5人なる。ボクは残念ながら、ここを越えられなかった。

 先生は『最年少、初参加でここまできたんだから、たいしたものよ』って誉めてくれたけど…。
 
 ボクは本選を、先生と2人で聴きに行った。
 お母さんも行きたがったんだけど、その日は聖陵の制服採寸日だったので、ボクの代わりに、制服を作りに行ってもらったんだ。




 ボクはあの時のことを絶対に忘れない。
 3月の暖かい午後。

 本選独特の、身を切られそうな緊張と、すべてを飲み込んでしまいそうな興奮の中で、一人、日溜まりのような暖かさで微笑んでいた人。

 ボクの憧れてやまない人。

 奈月葵先輩に、初めて会った日。




 本選に残った5人は、中学3年生が4人、2年が1人。

 奈月先輩と、2年の人以外は女の子だったけど、奈月先輩が一番可愛かった。

 本選の課題は、「任意のフルート・ソナタ:全楽章」。

 つまり、何でもいいわけなんだ。
 けれどその『選曲』が勝敗を大きく左右してしまう。

 先輩が選んだのは、『モーツァルトのフルート・ソナタ ヘ長調 K.13』。

 本選参加5人のうち、他の4人が技巧を凝らした華やかで難しい曲を選んだ中で、もっとも簡単な曲だった。

 ほとんどの人が、曲名を見た段階で、奈月先輩の勝ちはないと思っただろう。
 だって、2次の課題より簡単な曲なんだもん。

 けれど、結果は…。

 奈月先輩の圧勝だった。

 審査員全員が1位をつけたということだった。
 もちろんそれは、演奏を聴いたボクにもすぐわかった。

 先輩のフルートは、揺るぎのない自信に支えられた、完璧なまでの「奈月葵のモーツァルト」だったんだ。

 他の人たちが技巧を追った中で、奈月先輩だけが、確かに音を奏でていた。

 まるでそこに、吹き手の奈月先輩と、聞き手のボクしかいないんじゃないかと錯覚してしまうくらい、先輩の音は、ボクの胸に直接響いてきた。

 ああ、音を奏でるって、こんなにも楽しいことなんだ…。
 ボクは瞼がじんわりと熱くなるのを感じてしまった。
 
 

 表彰式が終わった後、ボクは間近に先輩を見ることができた。

 ボクの先生がミーハーで、『栗山重紀がいるっ』と叫んで、サインをもらいに走ったからだ。

 そうだ、ボクはその時、栗山先生にも初めてあったんだ。

 第一印象は、若くてハンサムなお兄さんって感じだった。

 突然謎の引退をした幻のフルーティストだっていうのは、後になってボクの先生から聞いたこと。
 そして、奈月先輩はその人の、唯一の弟子だった。




「奈月くんは、音楽高校へ進むのかな?」

 訊ねた初老のおじさんは、これまた音楽界では有名な評論家のセンセイらしい。

「いえ、普通科へ行きます」

 初めて聞いた、奈月先輩の声は、顔と一緒でとっても可愛らしかった。

「聖陵に進学することになりまして…」

 横から答えたのは、栗山先生だ。

『聖陵』と聞こえて、ボクの耳は思いっきりダンボになった。

「聖陵? まさか推薦で行くのかい」
「はい」

 先輩が笑顔で答える。

『聖陵の音楽推薦』と聞こえて、ボクの心臓はドキドキ鳴り出した。

「しかし、君がいまさら聖陵へ行くことはないんじゃないか。推薦なら管弦楽部の活動で手一杯になるだろう? そんなことより、ソロの勉強をした方がいい。なんだったら、東京の有名音高に推薦してもいい」 

 こらっ、おじさんっ、余計なことを言わないでよ!!
 ボクが苛々しながら聞いていると、先輩はにっこりと微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、もう決めたことですから」

 まわりの人たちが、思わず顔を赤らめてしまうくらいに、綺麗で可愛い笑顔だった。


 話が途切れたところを狙って、うちのミーハー先生が、栗山先生にサインをお願いした。

 栗山先生は『僕はもう、演奏家ではないですから』と言われたけど、うちの先生に根負けして、照れながらサインをくれた。

 それを奈月先輩がニコニコと見ている。

 舞台ではとても大きく見えたけど、近くで見る奈月先輩はとても華奢な人だった。
 ボクはその顔を、知らず、ジッと見つめていた。

「?」 

 …目が、あった…。

 ニコッと笑った先輩に、ボクは思わず口走った。

「あ、あの! とっても素敵でした!!」

 奈月先輩は、目をぱちっと開いて、もう一度満開の笑顔を見せてくれた。

「ありがとう」

 口をきいてしまったという事実で金縛りにあったボクは、自分も聖陵へ行くのだと言うことができなかった…。


 でも…もう、寮へはいる不安も何もない。
 あの、素敵な人にまた逢えるんだもん。
 ボクは聖陵に入る日を、指折り数えて心待ちにしていた。 





 そして4月。
 入学式でボクは奈月先輩を探した。
 けれど、探すまでもなかった。

 先輩は、新入生総代で壇上にたったのだから。

 やっぱり舞台の上の先輩は大きく見えた…。
 ボクの憧れ。
 ボクの大好きな奈月先輩。
 
 次の日、初めてフルートパート6人が顔を合わせたとき、先輩はボクの顔を見て、『あれ?』という顔をした。

「きみ…コンクールの時に…」

 先輩の笑顔に、ボクはとろけてしまった。

 ボク、シアワセすぎる…。
 



3000Hits記念 「『ボクたちの午後』への前奏曲」 END


葵と彰久、おおいに語る
彰久:奈月先輩、今日は先輩のお薦めのCDを教えて下さい。
葵  :何の曲で?
彰久:決まってるじゃないですか、先輩が本選で演奏された曲ですよ。
葵  :『モーツァルトのフルート・ソナタ ヘ長調 K.13』だね。あれ、苦手だったな。
彰久:ええっ?! 苦手だったんですか?!
葵  :だって難しいんだもん。
彰久:簡単ですよ、あれ。ボクにも吹けるもん。
葵  :あのね、表現の問題だよ。ただ吹くだけなら簡単だけどね。
彰久:う……………っ。…・で、苦手なのにどうしてあの曲を?
葵  :栗山先生がやれって言うから…。
彰久:それだけ…ですか?
葵  :うん。それだけ。
彰久:がぁ〜ん。
葵  : お薦めCDはね、エラートの『ランパル/シランクス〜フルート名曲集』。もちろん僕もそれを聴いてたんだ。 予選で吹いた、「プーランクのフルート・ソナタ」も、「バッハのフルート・ソナタ ロ短調 BWV1030」も、入ってるし。
彰久:あのぉ…まさかとは思いますけど…。
葵  :あはは、藤原くんって結構カンが良いんだ。栗山先生がね、曲を探すの面倒だからって、そのCDに入ってる曲の中から、本選の曲を決めちゃったんだ。
彰久:(呆れている)………ところで、この番外編のタイトル、パロディだってわかってもらえました?
葵  :当たり前じゃない。これもフルート吹きだったら一度はやってみたい曲だよね。
彰久:奈月せんぱ〜い、吹いてみてもらえませんか?
葵  :じゃ、練習室に行こう。
彰久:わぁ〜い。
 
   …というわけで、聖陵学院の平和な午後でした。
   彰久くんが「吹いて」とねだったのは、「『牧神の午後」への前奏曲」。
   オーケストラの曲ですが、冒頭のフルートソロは大変有名です。

Variation:葵と祐介の仲は?中学生たちはハラハラ、ドキドキ…。
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