第3幕「愛の挨拶」

【1】





 僕がここ、聖陵学院高等学校へ入学してから、2週間とちょっとが過ぎようとしていた。

 10日ほど前に行われた、管弦楽部のオーディションで、僕は(涼太や陽司に言わせると、『下馬評通り』に)首席奏者となり、僕と一緒に寝る間も惜しんで練習した祐介は、切望したとおりに2番手の位置をゲットした。

 中等部の3年間を、管弦楽部員でありながらトップの成績を保持し続け、しかも最後の一年は生徒会長までつとめあげたという祐介のことだから、『序列』を一つでも上げるために、こうやって寝る間を惜しむ努力はいつものことなんだろうと思っていた。 

 けれど、そうではなかったことを、オーディション後に佐伯先輩から聞かされたんだ。

 遊び人(初対面の印象通りであったことが、後日同級生の証言で明らかになった)の佐伯先輩は、それでもフルートの腕前は相当なもので、次は首席だと言われていたのに、僕が入学してきてすっぱり諦めたのだそうな。

 けれど、間違いなく次席は確保できると思っていたのに、祐介の猛チャージであえなく第3の位置に陥落してしまったのだと僕に語ってくれた。


『油断していた俺も悪いんだけどね、浅井のヤツが本気を出すとは思ってなかったんだ。あいつは年の割に落ち着いていて、どこか冷めたところがある。いつも一歩引いたところから傍観しているようなね。それがどうしてあんなに熱くなったんだろう。ねっ、葵』

 それは、僕の知らない祐介の一面だった。
 今は毎日、僕の隣で熱い演奏を繰り広げているから。

 そして佐伯先輩は新たな闘志に燃えているんだそうな。 

『来年は絶対に負けない。最高学年の意地だ。必ず次席をゲットしてみせる』

 そんなことを言うので、
『どうせなら首席を狙って下さい』と答えると、
『俺は葵の尻に敷かれたいんだよ』だって。

 お望みなら苛めてあげましょう。

『せんぱぁ〜い、音程悪いんじゃないですかぁ〜』なんてね。



                   ☆ .。.:*・゜



「412の葵く〜ん、電話でぇ〜す。外線3番を押してね〜」

 突然の脳天気な放送で、柔らかい話し声がさざめいていた談話室が、一気にざわめきだした。

 電話の呼び出しなんて初めてだ。栗山先生にはいつもこっちから『元気ですコ〜ル』を送っているし…。

 土曜日の午後、昼食も済み、部活もない。
 なぜ部活がないかというと、目前に迫っている「黄金週間耐久新入生歓迎合宿」に向けて、英気を養わせようとの配慮かららしい。それなら合宿を半分にして、残りを休みにしてくれればいいのに。


 のんびりと談話室でお茶をしていた僕たち同室の4人組。そこへ突然の電話はもたらされたんだ。

「外線3番って何?」

 初めてのことなので、システムがわからない。
 すると3人は、僕にひっついてもつれ合いながら、僕を談話室横の電話まで連れていってくれた。
 それはいいけど…どうして3人ともついてくるわけ?

「とにかく、最寄りの電話へ行って、放送で言われた番号の外線ボタンを押すわけ。そうしたらつながる」

 涼太はそう言いながら受話器を取り、僕に渡して『外線3番』を押すように促した。

 ボタンを押すと、待ち受けメロディーが解除になり、少しノイズが出たあと、外線につながった雰囲気がした。
 向こうからも緊張が伝わってくる…?

「もしもし…」

 僕はある時を境に、電話に出ても名乗らなくなっていた。
 そしてそれは相手も知っているようだった。

『葵…?』

 聞こえてきたのは、物心がついてから京都を離れた半月ほど前まで、ほとんど毎日聞いていた声!

「由紀? 由紀だよね?!」

 ちょっと興奮したりして。
 なぜだか急に、僕の背後がやかましくなる。
 うるさいっ。

『よかったー、葵やー。どきどきしてたんやでー。ほんまに葵がでてくれるんやろかって』

「どうしたん? びっくりするやんか。なんかあったん?」

『…うん、どうしても話しておきたいことがあったんや。で、栗山センセに頼んだら、寮の電話番号を教えてやるから、自分で報告しなさいって…。あ、あのクラスのみんなも、元気にやってるみたいやで』


『クラスのみんな』と聞いて、急に胸がキュンとなった。卒業式から1ヶ月とちょっとしかたっていないのに。

「そっか、みんな学校バラバラやもんな。なかなか会えへんなぁ」

 でも、京都にさえいれば、電話一本ですぐ会える。
 そんな気持ちが伝わったのか、電話の向こうの幼なじみ・由紀は遠慮がちに言った。

『ゴールデンウィークに集まるんやって』
「あ、ゴールデンウィークは帰れへんのや」

 言葉を続けようとした僕に、由紀の言葉が被さった。

『う、うん、栗山センセから聞いてる。葵の学校はたいへんなところやから、夏休みになっても帰ってくるかどうかわからへんって…』
「そう…。堪忍な。由紀、寂しい?」

 少し静かになっていた僕の後ろが、またやかましくなる。
 うるさいってば!

『何言うてんの! 大丈夫やって。それに、私ももう、お休みはあらへんし…』
「え、なんで?」

 由紀は高校へは進学しなかった。…と言うことは。

「もしかして、由紀、決まったん?」
 僕の声にはちょっと期待の色。

『うん…』
 はにかむように答えが返った。

「おめでとう! いつ?」
 期待通りの答えに僕も喜びが隠せない。

『ゴールデンウィーク明け…』
「よかった〜、がんばった甲斐があったなぁ、由紀。…で、なんて名前になるん?」

 …ん? 後ろの殺気だった雰囲気が消えているぞ。

『…菊千代……。やー! もうっ! 恥ずかしいやん!』
「菊千代、かぁ…。やっぱり『菊』がつくんやな」

 また後ろがざわつき出す。あー! もうっ。

『そう…』
「由紀らしい綺麗な名前やな。ほんまにおめでとう」
『おおきに…。どうしても葵に報告したかってん』
「うん。うれしいよ」


 由紀が、幼い頃からの夢だった、舞妓になる。 
 由紀の喜びようは、よくわかった。

 だって、僕たちは生まれたときから中学1年の秋まで、同じ家に住んでいたんだ。姉弟のように。

 同い年だというのに、悔しいかな、由紀が4月生まれ、僕が3月生まれなので、ずっと『姉貴面』されていたんだけど、本当の姉弟以上に仲のよい僕たちだった。

 その、由紀は、それこそしきたり通り、6歳の6月から日舞を始め(ぼくも1年遅れであとに続いたけど)、茶道・華道・三味線・琴・鼓に行儀作法…と、今度の晴れの日のためにがんばってきたんだ。
 つきあわされた僕は、たまったものじゃなかったけど。


「そうや、写真送ってーな。『店だし』の日の晴れ姿」

『いやー! 恥ずかしいやんっ』

「何言うてんの、由紀ならきっと綺麗な舞妓ちゃんになるんやろうな」

『えへ、葵に綺麗なんて言ってもらうの初めてやね』

「まだ見てないから、何とも言えへんけどな」

『いけずっ!』

「ごめんごめん。…でも、がんばりや。目指せ! 祇園ナンバー1!」

『うん。うちの目標は一生、綾菊姉さんや』

「…おおきに…」



『綾菊』 
 その名を聞いて、僕の胸はキュッと縮んだ。
 何年ぶりだろう、その名を聞くのは…。

『葵は大丈夫? …あの、その…男の人ばっかりの中で怖くない?』
「うん、大丈夫やって」

 そう言って、僕はくるっと振り向いた。

 …な、なに…。黒山の人だかりとは、このことか。
 人の電話を立ち聞きするなんて、趣味悪いぞーーーー!

 しかし、ここでひるんではいられない。
 僕はことさら大きな声ではっきりと言った。

「大丈夫。みんな親切でやさしいよ。ケダモノなんか、一人もいないよ」

 くくっ、おかしい、みんなビビッてる。
 僕は電話に向き直った。

『うん。わかった。でもなんかあったらすぐに帰っておいでよ。我慢したらあかんで』
「ありがと、由紀。大好きだよ」

 この一言で、バックの盛り上がりは最高潮。
 まったく何考えてんだか。

『もうっ、何言うてるん! えーかっこしてっ』
「あはは、ちょっと言うてみたかっただけ。おかあさんやおねえさんたちも元気にしてる?」

 後ろが急に静かになった。

 その後、お互いの近況をもう少し報告しあい、僕は電話を切り際にこう言った。

「じゃ、がんばれよ、由紀ねえちゃん」

 由紀は茶化すなと笑っていたけど、こうでも言っておかないと、あとの質問責めが怖い。


 そして受話器を置いて、振り返った。
 さっきより人が増えているような…。

「おい、葵のねーさんって舞妓さんなのか?」
 陽司がズズッと詰め寄ってきた。 

「まあね」
 曖昧にそう言って、僕は部屋へ向かって駈けだした。






 ずいぶん経ってから戻ってきた3人によると、僕が電話をとってすぐ、『葵に京都の彼女から電話』という誤報が流れ、寮中から生徒があつまってきたらしい。

 その中に寮長の斉藤先生もいたらしいが、事実かどうか確認していないとも言っていた。

 結局、その後の電話の内容から、
『葵の実家は祇園で、母は芸妓で姉は舞妓』と言うことで全員一致を見たらしい。


「謎の美少年、葵くんの正体は、少しでも劇的な方がいいからな」

 陽司が真面目くさって言う。
 勝手に人の経歴を作るなっての。 
 ま、全部間違いでもないけどね。
 とりあえず、『親なしっ子』なんて言う、同情票を集めちゃいそうな状況がバレなかったんだからいいとしよう。


「けど、あの『ケダモノ』ってのは何?」

 祐介が深刻そうに聞いてくる。
 やだな、冗談だってのに。

「あれね、あれは…由紀ねえが心配してるから」
「心配って?」

 もう、涼太まで。
 そんなに心配なら、僕も真面目にお答えいたしましょう。

「『こんなに可愛い弟を、男子校の寮なんかに入れてしまって心配だわ』ってこと」

 3人は視線を逸らして、ノートや掌でパタパタと自分の顔を扇いでいる。
 こらっ、マジに受けるなっ! 祐介まで!


「し、しかしなんだ。京都弁の葵ってのも新鮮でよかったぞ」

 陽司が取り繕うように言った。
 あれっ、そうだったっけ?

「そうそう、な、祐介」

 涼太の問いに祐介が真顔で答えた。

「ああ、めちゃくちゃ可愛かった」

 ……もうっ。

 
 そしてその夜、僕にはなかなか眠りが訪れなかった。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 その夜、僕がなかなか寝つけなかったのは、昼間の電話のせいなんだろうか。

 僕のベッドは部屋に入って右の上。二段ベッドの上の方。
 最後に入寮した僕のベッドは、最初から3人によってそう決められていた。

 その理由は『葵は軽いから』と言うのと、もう一つ『下に寝かせておくのはアブナイから』。

 前者の理由はよくわかる。
 理にかなってると思うし、なにしろ初日、祐介に軽々と抱き上げられてしまうと言う情けない思いもした。

 けれど、後者の理由は納得できない。
 第一、アブナイと言うなら上段の方が危険が多いだろう。
 何がいったいアブナイのか、いつかちゃんと聞いてやろうと思うんだけど、聞かない方がよかったとかいう羽目になるんじゃないかという、一抹の不安もある。

 ともかく、その『アブナイ』はずのところには今、祐介が眠っている。


 微かにベッドのきしむ音がした。

「どうしたの? 眠れない?」

 いつの間にか、僕のベッドを祐介が覗き込んでいる。
 祐介の身長だったら、ほんの1、2段登っただけで、楽に覗けるんだろう。
 気がつかなかった。

「ごめん、起こした?」

 僕が何度も寝返りをうったから…。

「ううん、そんなことない。…眠れないんだったら、外へ出る?」

 返事を待たずに祐介は、僕の枕元に丸めてあったカーディガンを取り上げ、僕の肩に羽織らせた。

「行こう」



 消灯後の寮の廊下はまるで病院のようだ。
 そう思った瞬間、背中を痛みが突き抜けた。

「…っ!」

 もうあるはずのない痛み。
 断片的にしか残っていないはずの病院の記憶が、まるで僕の記憶のすべてであるかのように、この頭の中に居座ってしまう…。
 そんな感覚は、ここしばらくは忘れていられたのに。


「葵、どうした? 気分悪い?」

 祐介が肩を抱えてくれた。

 そうだ、ここは病院なんかじゃない。
 たくさんの友達と楽しく過ごしている寮…。

 祐介の温もりにホッとした僕は、思わず祐介に寄りかかっていた。

「ごめん、なんでもない」

 祐介は僕の肩に回した手にさらに力を入れた。

「落ち着けるところ、知ってるんだ」

 二人で階段を下りていった。

「談話室じゃないの?」
 そう聞いた僕に、祐介はいたずらそうにウィンクしていった。

「消灯後の談話室は人気が高い」
「へ?」
「みんな、二人きりになれるところを探すのに必死だよ」
「ゆ…祐介…」

 僕は思わず肩に回された手を引き剥がしにかかっていた。

「ぷぷっ。心配するなよ、何にもしないってば」

 ……さらに強く抱き寄せられてしまった。
 



 僕たちは足音を殺しつつ、地下へ向かった。

 地下にはまだ来たことがなかった。
 大浴場があるんだけど、僕は使ったことがない。部屋に24時間OKのシャワールームがあるから。


「実はここ、穴場なんだ」

 祐介が『穴場』と言ったのはひろ〜い脱衣場だった。

「中学の寮も同じ造りだから、もしやと思ってたら、案の定だった。ここの鍵が実はかかってないってことは意外と知られてないんだ。広いし、床には座れるし、何となく暖かいし。夏はおすすめしないけどね」

「なんでこんなとこ知ってんの?」

 まさか、誰か連れ込んだりしてるんじゃないだろうな。

「僕だって一人になりたいときはあるよ」

 ふぅ〜ん。

「もしかして、誰か連れ込んでるんじゃないかとか思ってる?」

 ぎくっ。

「べ、別に」

 祐介は僕を壁際に座らせて、隣に腰を下ろして壁にもたれた。

「誰かを連れ込んだのは今日が初めてだよ」

 や、やっぱり僕は連れ込まれたのかっ!
 ズズッと後ずさろうにも背後は壁で、焦る僕を見て祐介はクスクス笑ってる。

「だから、何にもしないってば」

 そう言いながら、ちゃっかり肩を抱いてくる。

「…今日の電話、あれ、本当のお姉さんじゃないだろう?」

 囁くような声。

「祐介…どうして…?」
「友達だろう? それと『おかあさんとおねえさん』って言ってたのも、『その友達の、おかあさんとおねえさん』のことだろう?」

 尋ねる口調ではあるが、祐介は確信しているようだった。

「どうしてわかった?」
「うーん…葵の声が甘えてなかったから…かな?」

 普通そんなとこまで聞いてる?


「そう、だった、かな…」
「うん、そうだった」

 祐介は僕を抱く手に力を込めた。

「葵のおかあさんって、今何してるの? 主婦…それとも働いてる?」

 その口調はまったくの『世間話』だったんだけれど。

「ぼ、僕の母さんは…」

 正直にもういない、とは言えなかった。
 そんなことで、同情されたくなかったんだ。
 かわいそうなヤツ、なんて思われたくない。

『かわいそうに』『怖かったでしょ』『辛かったわね』なんて言葉はもう聞きたくないんだ。

 あの時は母さんと栗山先生が癒してくれたけど、もう、母さんはいない。
 栗山先生もここにはいない。

 僕は一人で生きて行かなきゃいけないんだ。
 だから…。

 涙は突然溢れた。

「葵? …ごめん、ごめん、葵…」

 祐介は僕をきつく抱きしめた。
 そして、もう何も言わず、ただ僕の涙が止まるまで、抱きしめて、抱きしめて、温もりをわけてくれていた。



                   ☆ .。.:*・゜



 ついにゴールデンウィークがやって来た。
「黄金週間耐久新入生歓迎合宿」の始まりだ。

 合宿をやるのは管弦楽部だけではないらしい。
 文化部の中では『放送部』や『写真部』などの全国コンクール常連の部が、運動部では涼太の『バスケ部』、陽司の『テニス部』など全国大会を狙えるレベルの部が合宿をするらしい。

 合宿と言っても校内、いつもの暮らしと変わらない。
 どこが違うと言えば、起床がいつもより1時間遅いこと、制服を着なくていいこと、教室には行かず朝から晩まで音楽ホールにいること、くらいかな。

 初日の朝、1時間遅いと言うことを除いてはいつもと同じ朝。
 僕たちは朝食を済ませ、『がんばろー!』とお互いを励まし合って、それぞれの部活へと向かった。
 もちろん僕は祐介と一緒に、楽器と楽譜を抱えてホールへ向かう。

 寮からホールまでは徒歩3分。と言っても、行きは下り坂なのでかなり楽。帰り道は部活でよれよれの身にはちょっときつい。ちなみに帰り道は徒歩5分だ。

 坂の途中で中学の寮から来る子たちが合流してきた。

 合宿は一部、中学と合同らしい。
 普段は週に数回しか顔を合わせない中学生たち。

 祐介にとっては馴染みの顔なんだけど、僕はまだほとんどの子の顔が覚えられていない。
 フルートパートの3人はさすがにしっかりと覚えているけど…。

 それにしても、こっちが覚えきれていないのに、むこうはみんな、僕のことをしっかり覚えていてくれるので、ばつが悪いことこの上ない。
 それもこれも初日の悪目立ちのせいだっ!


「浅井先輩、奈月先輩おはようございます!」

 みんな元気いっぱいで挨拶してくれる。覚えきれないとは言え、いきなり大勢のかわいい後輩をもった僕はけっこう喜んでいたりする。

『奈月先輩』……うーん、いい響き…。


 ホールに着くと、ロビーに一週間の予定が張り出されていた。
 どれどれ…。

「げっ、しまった。忘れてた…」

 いきなり祐介が潰れた声を上げた。

「なに? どうしたの」

 僕の目は、予定表から祐介に移った。
 祐介は弱り切った声を絞り出した。

「個人レッスンだよぉ」
「個人レッスン?」

 見れば予定表の中に、確かに『個人レッスン』の文字。
 その上を見ると…。
『首席・次席奏者』とある。

 横に目を移すと…。
 なるほど、それ以外の奏者はグループレッスンなんだ。
 祐介は今年初めてメインメンバーになったって言ってたから、個人レッスンも初めてなんだな。

「第3位をゲットできてればいいやと思ってたから、こんなこと忘れてたよ」

 祐介は心底情けないと言った感じだ。
 祐介ってこんな顔もするんだ…。ちょっと可愛かったりする。

「どして? そんなにいや? 個人レッスンって」
「先生がめちゃめちゃ怖い…」
「え…っ」

 マジ…?

「今年卒業した先輩たち、去年の合宿で泣かされてたんだ、マジで」
「う…うそ…」

 人のこと『可愛い』とかいってる場合じゃなかった…。

 その時、怯える僕に声がかかった。

「葵、第1練習室へ来いってさ」
「あ、は〜い」


 第1練習室と言うと、グランドピアノがある部屋だな。
 けっこう複雑な練習室の配置に、僕はこの頃やっと慣れてきたところだった。




 祐介と別れ、やって来た第1練習室の前。

 分厚い防音扉には2重ガラスの小窓がついていて、中の様子が分かるようになっている。

 僕を呼んだのは誰なのか…そっと覗いてみた。


 …ピアノを弾く悟先輩…。


 悟先輩は本当はピアニストなんだと聞いていたけど、弾いている姿は初めて見た。

 穏やかなんだけれど張りつめる空気。
 綺麗な瞳に、知的にしまった唇…。

 長い指から奏でられる音を聴きたいのに、分厚い扉が邪魔をする。

 何を弾いているんだろう。
 あぁ、でも悟先輩を見つめていると、その音まで聞こえてくるようだ。

 指揮をする悟先輩も超絶かっこいいけど、目の前のピアニストも、なんてかっこいい…。
 かっこよすぎる…。

 どうしてだか、僕の心拍数はうなぎ登り。



 …実はいつもそうなんだ。

 初めて会った日から1ヶ月足らず。
 寮では住んでる階が違うので、あんまりあわないけど、今のところ部活では毎日顔をあわせるし、挨拶だってもちろん交わす。

 たまに思わぬところでばったり出会ったときも必ず声をかけてくれる。
 そんな時、何故だかいつもドキドキが止まらなくなる。

 昇先輩だって守先輩だって滅茶苦茶かっこいいし、妖しい雰囲気っていうなら佐伯先輩の右に出る人はいない。

 どちらかというと悟先輩は穏やかで優しい雰囲気なのに、なのになぜか悟先輩には、他の先輩みたいに気楽に声が掛けられない…。

 いろんな話がしてみたいと思うのに…。
 ドアの前で僕はうつむいてしまった。

 …と、ドアが開いた。

「どうしたの? 葵。声をかけてくれればいいのに」

 優しい笑顔…。なのに僕のドキドキはますます激しくなっていく。

「ご、ごめんなさい」
 ああっ、顔が上げられないっ。

「入って」

 促されて僕は中に入った。
 そうだ、呼ばれてきたんだった。おたおたしてる場合じゃないんだ。
『ドキドキ』に氷水をぶっかけて、僕はようやく顔を上げることに成功した。

「あの、お呼びだと聞いて…」

 うー、なんて情けない声。

「うん、大切な用件が2つ」

 悟先輩の声はいつもと同じように穏やかで優しいけれど、『大切な用件』と聞かされて僕は唇を引き締めた。

『くすっ』と悟先輩が笑った。僕はまた、僅かに俯く。

「葵は、いつも僕の前では酷く緊張しているね」

 ええっ!? バレてる…。

「僕が怖い?」

 とっ、とんでもないっ!
 僕はあわてて首を振る。こんなに優しい先輩なのに!

「…僕は葵が大好きだよ」

 え…。

「せ、先輩…?」

 僕は思わず、微笑んでいる顔を見上げた。
 悟先輩の顔がスッと近づいて、耳元で囁いた。

「さとる…って呼んでごらん」

 瞬間、僕は何をいわれたのかわからなかった。…が。


 えーーーーーーーっ! 先輩を呼び捨てにっ?!

 何が何だかわからない僕は、きっと間抜けな顔をしていたんだろう。
 先輩は僕をそっと抱きしめると、また『クスッ』と笑った。

 ……からかわれたんだ…。

 ほんのちょっとだけ『むっ』としたけど、そんな気持ちもすぐ消えた。

 悟先輩もこんなことするんだと思うと、なんだか急に可笑しくなって、僕も『くすっ』っと笑っていた。

「やっと笑ってくれた」

 悟先輩は僕を離すと、それこそ嬉しそうに笑ってくれた。
 僕もつられて笑い返す。

「その顔が見たかったんだ」

 そうだ、僕はいつも先輩の前では緊張してて、もしかしたら笑ったことなんかなかったかも知れない。

「他の連中の前ではいつも楽しそうに笑っているのに、僕の前ではちっとも笑ってくれない。…正直、少し傷ついていたんだ」

 先輩が…傷つく!?
 僕はびっくりして、そして申し訳なくなった。

「ああ、またそんな顔をする」

 そう言って先輩は、僕の頬をつついた。

『ぶっ』
 僕は…吹き出していた。



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