第3幕「愛の挨拶」
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それから少しの間、僕は今までの緊張が嘘のように、悟先輩とうち解けて話していた。 先輩は入学して僅かの僕に、いろいろなことを教えてくれて、いろいろなことを聞いてくれた。 そして。 「さて、大切な用件を言っておこうか」 おもむろに言った先輩に、僕はハッとなった。 そうだ、用事があったんだ。 「ちょっと先の話だけれど、7月の終わり、夏休みに入る直前に演奏会がある。これはOBやPTAが中心になって作っている後援会主催の内々の会なんだけれど、いつもオーケストラの演奏の他にソロ演奏を数曲入れている。今年はその1人として、葵に出てもらうことに決まった」 …へ? 「決まった…んですか?」 「そう、すでに決定事項だ」 なら暴れてもしょうがないか…。 「選曲は葵に任せる。伴奏は僕だ」 …ひぇぇ〜、先輩の伴奏っ! 固まっている僕をそのままに、先輩は言葉を継いだ。 「それと、大学受験に備えてピアノのレッスンを始めよう。光安先生も、なるべく早く始めた方がいいとおっしゃっているし」 げげっ、怖れていたことがついに…! 栗山先生が僕を聖陵に入れたのは、何も『特待生』っていう制度だけが決め手だったんではないんだ。 普通科高校であるにもかかわらず、ここでは希望すれば音楽大学受験に備えたすべての科目が『補習』という形で受けられる。 個人でレッスンにつけば膨大にかかる費用も、ここなら心配がない。 「葵の都合はどう? あわせるようにするから」 悟先輩は、ピアノの上にあった上等そうな皮のシステム手帳を手に取り、めくり始めた。 …って? まさか『先生』は悟先輩とか…? パニクっている僕に、悟先輩は悪戯そうな顔をした。 「僕じゃ不足かな?」 め、めっそうもないぃぃーっ! 「と、とんでもないですっ!」 「じゃ、がんばろうね」 あっさり言い放って先輩は時間の調整を始めてしまった。 自慢じゃないが、僕はピアノなんて『猫ふんじゃった』しか弾けない。 小さいときから『和琴』専門で、『洋琴』を触った回数なんか両手で充分足りてしまう。 先輩を苛つかせるような生徒にならないようにしなくちゃ…と僕の心はどんより沈んでいた。 悟先輩は、そんな僕の心を知ってか知らずか、にっこりと微笑んだ。 いつもの優しい笑顔。 ヤバっ、またドキドキしてきた。 「大丈夫。僕は優しい先生だよ」 そう言ってそっと手を伸ばし、僕の前髪をふわっとかき上げ…。 たんぽぽの綿毛が触れたような、微かな感触が額に降ってきた。 初めて会った、あの時のような…。 悟先輩の唇がそっと離れた。 うーん、ガイジンってなんでこう表現がストレート…って、悟先輩は日本人だ…。 「午前中はパート練習だろう? また午後の合奏で会おう。」 ドアを開けて、そっと僕の背を押す。 ドアが閉まった。 僕の頭の中は、この部屋であったいろいろなことでぐちゃぐちゃになっていた。 「葵…」 「わあぁっ!」 どこからか、いきなりかかった声に、僕は飛び上がった。 声の主は祐介だ。 「遅いんで迎えに来た。パート練習始まるぞ」 なんだか、ものすごく機嫌が悪そう。 「佐伯先輩も、中学生もみんな集まってる。首席が来なけりゃ始まらんだろうが」 言い終わらないうちに、僕の腕を掴んで歩き出した。 「ご、ごめん」 祐介の機嫌の悪さの訳を理解して、僕は素直に謝った。 けれど、なぜ祐介が練習室を睨み付けたのかは、わからなかった…。 入学式から今日までの3週間足らず。 僕たちはひたすら基礎練習に励んできた訳なんだけど、合宿初日の今日からついに曲の練習に入る。 運動部で言うなら『レギュラー』に当たる、メインメンバーの曲は『ドヴォルザークの交響曲第8番』。 メインでない生徒は『モーツァルトの交響曲第40番』組と『同じく41番』組に別れる。特に『41番』組は中学生中心で、中学生のクセになんて難しい曲を…と思ったんだけど、高校に比べて規模の小さい中学の管弦楽部のために、その規模の小ささを逆手にとって、小編成の曲でアンサンブルを組み立てていく訓練をしているんだそうな。 午前中はパートごとの基礎練習と曲別の練習。 1時間の昼休みを取って、午後は2時間を管楽器・弦楽器に別れての練習をし、また1時間休憩して2時間全体合奏。 明日もほぼ同じスケジュールで、祐介が心待ち(?)にしている『個人レッスン』は3日目の午前中から3日間集中して行われる。 午前中の、フルートパートの基礎練習は佐伯先輩が仕切ってくれた。 何しろ僕は、首席とは言え初めてのオーケストラ。経験からいくと、中1の藤原くんと一緒なのだ。 ん? 待てよ、藤原くんは確か小学生選抜のブラバンにいたっていってたな…。ってことは、合奏初体験は僕だけ…。こんなので首席がつとまるんだろうか…。うっ、不安。 午前の部、終わりの1時間は祐介と二人だけで、メインメンバーとしての練習をした。 楽譜は1週間前に渡されているから、譜読みはばっちり。 …でも祐介、なんだか変。 「祐介、どうしたの?」 僕と目を合わせようとしない祐介に不安が募った。 僕なんか悪いこと言っただろうか? 「なんでもない」 とてつもなくぶっきらぼうな返事が返ってきた。 こんな祐介は初めてだ。 出会ってまだ3週間足らずだけど、ほとんど24時間一緒にいるんだから、祐介のことは、なんとなく把握できているような気になっていた。だけど…。 「僕、なんか気にさわること言ったかな…?」 わからないことは聞くに限る! そう思って僕は祐介にたずねたんだ。 祐介はハッと顔を上げた。 「葵が悪いんじゃないんだ!」 へ? じゃあなぜ? 「悪かった! ごめん! あやまるから機嫌なおしてくれっ」 機嫌が悪いのは祐介だろ。 「なんかあった…?」 たずねた僕の目をじっと見つめた祐介の手が、ふと上がった。 僕の前髪をふわっとかき上げ、親指が僕の額をゆっくりと撫でる。 ちょっと…目がこわいかも…。 「祐介…?」 「ごめん、なんでもない…。さっ! 練習練習!」 結局その後の祐介はいつもの祐介で、彼のご機嫌斜めの原因は解明されずに終わってしまった。 午後の練習も無事進み、いよいよ僕にとって初めての合奏の時間がやってきた。 音楽ホールの舞台の上。 初めてオーケストラの席に座る僕の胸は、ワクワクとドキドキがいっぺんにやって来て大忙しだ。 そこへさらに『ドキドキの素』、悟先輩がやって来た。 「午前中の練習はどうだった?」 相変わらずの優しい笑顔に僕の顔もゆるみまくり。 昨日までだとこうはいかなかったかも。 「はい。佐伯先輩にもいろいろ教えてもらえて、楽しかったです」 「そう、よかったね。僕はこれから『41番』組の合奏に行かなきゃいけなんだ。こっちが4楽章に入る頃には戻ってこれると思うから。葵の初合奏、楽しみにしてるよ」 悟先輩は、そう言って爽やかに去っていった。 ボーッと見送る僕に、祐介から険のある声がかかった。 「葵、チューニング始まるぞ」 あれっ? またご機嫌斜め? ☆ .。.:*・゜ 合奏が4楽章にさしかかった頃、ホール客席の一番後ろのドアが開いて、二人の人影が入ってきた。きっと一人は悟先輩だろう。 一瞬そんなことを考えたあと、僕の意識は再び曲に戻っていて、その後、練習終了まで人影に注意を払うことはなかった。 やがて曲は光安先生のエンドサインで華やかに締めくくられ、そこにいた全員が一日の疲れをどっと感じ、僕は初合奏の緊張を全身にひしひしと受け止めていた。 同時に、正直僕は面食らっていた。 『聖陵学院・管弦楽部』の演奏を聞いたのは今日が初めてなんだけど、こんなにレベルが高いとは思ってなかったんだ。 レベルって言うのは技術レベルのことじゃない。 技術レベルが高いのは当然だろうと思っていたから。 だって、学費を免除してまで生徒を集めてるんだもんね。 驚いたのは『芸術レベル』が高いってことだった。 一人一人の…じゃなくて、全員で音を出した時の…だ。 10代の人間ばかりのオーケストラだから、『青臭い』とか『優等生っぽい』演奏なんだろうと思っていたのは大間違いだった。 求められる冷静さと、若さ特有の情熱。 それが危ういバランスで緊張感のある『聖陵』の音楽を作り上げていた。 僕は改めて、指導している光安先生と、その片腕・悟先輩、そしてそれに応える奏者たちの才能に感嘆のため息をもらしていた。 僕もがんばらなくっちゃ。 これから3年間、楽しくなりそうだな。 やがて先生から短く注意があり、明日の練習内容の確認があり、解散の声がかかった。 …とその時、僕が客席に見たもの…。 悟先輩と、その隣の…。 「栗山先生!!」 とんでもない僕の大声に、楽器を片づけ始めていた舞台上のみんながギョッとした。 栗山先生が来てるなんて! どうして?! 僕は楽器を握ったまま、ヴァイオリンとヴィオラの間を抜け、舞台を飛び降り、栗山先生に飛びついた。 「先生っ、先生っ!!」 勝手に涙が溢れてくる。 「葵、元気だったか?」 先生がその胸に僕をしっかりと抱き留めてくれる。 ついこの間まで、僕の場所だったところ…。 |
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寮で夕食をとったあと、僕と祐介は光安先生のところに呼ばれていった。 栗山先生が待っているんだ。 本当は夕食の時も一緒にいたかったんだけど、聖陵に着いてすぐホールに入った先生は、院長先生や、その他のお偉い先生方に挨拶をすませてないからと言うことで、光安先生に伴われて行ってしまったのだった。 「興奮の坩堝だったよなぁ」 寮から教職員棟への道、祐介は思いだしたのか、うっとりと呟いた。 いつの間にか機嫌は本当に直っているようだ。 「何しろ『生・栗山』だもんなぁ」 な、なまくりやま…。なんだそりゃ。 「あの幻の天才フルーティストがいきなり現れて、しかも葵の師匠。とどめは泣きながらしがみつく葵。まるで映画のラストシーンだった」 は、恥ずかしいこと言うなっ。 ちっ、涙を見せたのは不覚だったな…。 「葵と先生は、ほんとに仲いいんだなぁ」 にっこりと僕を見る。 今日の祐介はほんとに変だ。わけわかんないや。 振り回された仕返し、とは言わないけど、ちょっと報復してやろうと、僕の中に悪戯心がむくっと起きあがった。 「僕たち一緒に住んでたんだ」 ニヤッと笑って言った僕に、祐介がギョッとした顔で答えた。 「えっ…?」 くくっ、おもしろいっ! 「嘘ぴょ〜ん」 嘘じゃないけどね。 一瞬呆気にとられた祐介だったけど、すぐに立ち直ってしまった。 「こいつっ!」 「きゃぁぁぁ…」 首を絞めるマネをする祐介ともつれあいながら、僕たちは栗山先生の元へ急いだ。 栗山先生がやって来た理由は、僕だけでなく、祐介も驚喜乱舞させた。 なんと、今年のフルートの個人レッスンは栗山先生が講師だったんだ! 毎年来ていた先生が、今年は演奏旅行で来られないから、っていうことらしいんだけど。 けれど、それで気がついた僕の疑問に対する先生の答えは、僕を愕然とさせた。 いくら連休中とは言え、公立中学の教師で担任を持っているような立場では、そうそう京都を離れるわけにいかないだろうし、第一、公務員が私立の学校で教えちゃまずいんじゃないか、と思ったんだけど、そんなことはまったく問題にならない事態になっていたんだ。 先生は学校を辞めていた。 そして再びプロの奏者として活動を始めていたんだ。 まるで僕の卒業を待っていたかのようだ。 そうじゃないと思いたかったけど、でも、きっとそうなんだろう。 だって、今までずっとずっと先生は側にいてくれたから。 僕はこの時初めて、心底、京都を離れて聖陵に来てよかったんだと思った。 先生が先生自身の道を歩み始める。 僕にとって、そして母さんにとってもこんなに嬉しいことはないんだから。 こんな夜は一晩中話をしていたかったんだけど、僕たちはきっちり消灯前に寮に返されてしまった。 ☆ .。.:*・゜ 合宿2日目。 栗山先生がいると思うと、ホールに向かう足も思いっきり軽くなる。 でもきっと、あんまり会えないんだろうな…。先生は『40番』組の練習を見るって言ってたからなぁ。 練習は順調に進んで午後の休憩に入った。 生徒準備室、通称ただの『準備室』は上級生でいっぱいだ。 僕と祐介はロビーの自販機で缶コーヒーを買って、ホールの屋上へ行った。 ここからは学校のほぼ全体が見渡せるので、校舎の位置を覚えるのにずいぶん役立った。 おまけにここにはベンチやテーブルがあって、なかなか快適に過ごせるようになっている。 ましてや今日は爽やかな晴天。 わずかに風が吹いていて、うっとりするほど気持ちがいい。 が、みんな考えることは一緒のようだ。 屋上はかなりの生徒で賑わっていた。 中でも一際賑やかな集団が3つ。 いずれの輪も中心人物は『桐生先輩』だ。 「珍しいな、あの先輩方が屋上にいらっしゃるとは…。いつもは準備室にベッタリなのにな。たまにはファンサービスってやつかな? 中学生にとっては、こういう時でもないとなかなか近づき難い人たちだからなぁ」 祐介がぶつぶつ言っている。 僕たちは隅っこの空いているベンチに腰掛けて、缶のプルを引いた。 「いい天気だなぁ」 僕はベンチの背もたれに体を預けて空を見る。 「ほんと、デート日和だよな。こんな日に防音室に立てこもって練習だなんて…」 『情けない』と祐介は泣き真似をした。 「祐介、彼女いるの?」 「ええっ!?」 な、何そんなに驚くのっ。もしかして…。 「図星?」 「ば、ばかっ! そんなもんいるわけないだろっ」 そんなもんって。 健全な男子高校生なら彼女の1人や2人くらいいたって不思議はないだろうに。…いや、2人はまずいか。 ましてや祐介はこんなにかっこいいんだから。 …ふと思った。悟先輩にも彼女がいるんだろうか? いるんだろうな…。 あんなに素敵な人、ふつーほっとかないよなぁ…。 僕の視線は、思わず悟先輩の姿を探してしまった。 そして見つけたのは、大勢の下級生に囲まれて、いつものように穏やかで優しい笑顔…。 ふん、たとえ彼女がいなくったって、不自由はないか…。 お、何だあいつ、ベタベタしやがって、あれっ、隣のクラスでヴァイオリン弾きの麻生隆也じゃないか。ちょっとひっつきすぎ。 「あ、葵だって彼女いるじゃないか。そりゃあ、遠距離で大変だろうけど…」 祐介に突然話を振られて、一瞬なんのことかわからなかった。けど、それって…。 「もしかして、由紀のこと?」 祐介は黙って頷く。なーに深刻な顔してるんだか…。 「由紀は僕にとっては『ねーちゃん』なの。近すぎてそんな対象にはならないよ」 それでも祐介の深刻な顔はそのままだ。 「…近すぎるとだめなのか…?」 「え?」 祐介が何を言いたいのか、僕にはさっぱりわからなかった。 祐介ってば昨日から絶対おかしい。 「どうしたの…? 何か…」 『あったの?』と言おうとした時、突然名前を呼ばれた。 「浅井先輩と奈月先輩だっ」 僕らはあっという間に中学生に囲まれていた。 管楽器の子は何となく見覚えがあるけれど、弦楽器の子は滅多にあわないし、人数も多いから見知らぬ顔がほとんどだ。 「浅井先輩がいなくて中学の寮が寂しくって…」 駆け寄ってきた可愛い子が僅かに頬を染めて言った。 そうかぁ、祐介も人気者なんだ…。 このルックスでしかも生徒会長様だったんだもんなぁ…。 近すぎて気がつかなかったよ。 近すぎて…近すぎて…? あれっ? 「あ、あのっ」 これまた頬を染めてモジモジしている中学生の声に、僕の思考は中断された。 「葵と話がしたいんだろ?」 祐介に言われて中学生たちは顔を見合わせた。そして頷く。 ぼ、ぼく? 「なんだか声が掛けづらくって」 どうしてっ。 「あんまりすごい人なんで、なんだか…」 誰のことだよぉ。 「あの方々じゃあるまいし」 向こうにできている3つの輪に目線を投げかけて、思わずついて出た僕の言葉に、みんな一瞬目を見開いて、そしてすぐに大笑いになった。 そうして雰囲気が和らいで、少し会話が弾み始めたとき、再び僕は呼ばれた。 今度は3年生の先輩だった。たしかコントラバスの人。 「奈月いる?!」 階段のドアのところから大声で呼ばれた。屋上のみんなが何事かと注目する。 先輩は僕を見つけると、「坂口が呼んでる!」 それだけ言うと階段を駆け下りていった。 坂口先輩って言うのは3年生でオーボエの首席奏者。つまり僕の左隣に座る人だ。 音色そのままの、丸くって柔らかい人柄。 ルックスは…森の熊さん…かな? 来年は海外の音楽院を目指すんじゃないかって言われている実力派だ。 ともかく急がなきゃと、僕は祐介とまわりのみんなに『ごめんね』と言って立ち上がった。 「用事すんだら戻ってきて下さいね」 おっ、さっきモジモジしてた割にはポジティブな発言じゃないか。 「うん、できるだけね」 「一緒に行こうか?」 祐介が不安な声を上げた。心配なんだろう。 首席奏者はそのパートの音楽的リーダーだから、次席奏者以下の不都合や不具合なんかも、すべて首席を通して伝えられる。 首席の僕が、首席である先輩に呼ばれた。ましてやオーボエとフルートというとても密接な間柄。 きっと祐介は、さっきの練習でやらかしたミスについての注意が、僕に言い渡されるんだと思ってるんだ。 「大丈夫だって」 たとえそうであっても、坂口先輩は適切なアドバイスをくれるだけだから。 祐介はチビたちのお守りだよ。 『じゃ』と殊更に明るく手を挙げて、僕は急いだ。 階段を最初の踊り場まで下りたとき、下から中1の藤原くんたちが上がってきた。 「奈月先輩!」 彼は嬉しそうに声を掛けてくれた。 あれ、ちょっと顔色悪い? 疲れてるのかな? 「お急ぎですか?」 「うん、ごめんね!」 そう言ってすれ違ってから数秒間あったろうか…。 「藤原っ!」 頭の上から突如聞こえた、悲鳴にもにた叫び。 思わず振り返った僕の目に飛び込んできたのは、…落ちてくる人間…! とっさに体が動いた。 抱き留めて、抱え込んで、全身に力を込めて…。 でも、人ひとりが落ちてくる勢いには勝てなかった。 僕の体も宙を舞った。 時間が止まったような、真っ白な浮遊感。 その後にやって来たのは…まとわりつくような鈍い音と鈍い衝撃。 腕の中の温もりを離さずにいたことに安堵して、僕の体はゆっくりと弛緩していった。 ……誰かが…呼んでる…。 ☆ .。.:*・゜ …背中が熱い…。 熱い…! 痛いよ…痛い…痛い! お願い! やめて…! 助けて!! 「葵、葵!」 …ここ…どこ…? …びょうい…ん…? それとも…。 「い、や…。かえ…る。うちにかえる…」 「葵!」 僕の頭を抱えてるのは…だれ? せんせい…? 「痛むか? 酷くうなされていた」 ……さとる…せんぱい…? 「薬、飲んでおこうな」 僕…、そうだ藤原くんと一緒に落ちた…。藤原くんと…。 「藤原くんはっ?」 僕の意識はいきなり覚醒した。 「大丈夫。葵のおかげでかすり傷一つない。脳貧血を起こして落ちたらしいんだ。もう寮へ戻って休んでいるよ」 あぁ、それならよかった…。 ホッと息をついた瞬間、体中に痛みが走った。 「っ!」 「大丈夫? …起きられるか」 悟先輩は僕の首の下に腕を通し、抱き起こそうとしてくれた。が、だめだった。 痛みで体が竦んでしまうのもあるけれど、まず全く力が入らない。 「だめか…」 そう言った悟先輩は、わずかに逡巡した表情を見せた後、僕ににっこり微笑んだ。 あまりに綺麗な笑顔だったので、僕の心臓はTPOもわきまえずにバクバク言い出した。 バクバクにあわせて、体のあちこちが疼く。 「薬のもうね、葵」 仰向きのままの僕の口に、悟先輩の指が錠剤を押し込んだ。 そして傍らにあったコップを手に取り、その中身を悟先輩自身があおった。 先輩が飲んでどうするんだぁぁぁ〜、と心の中で突っ込みを入れた瞬間。 僕の口の中に冷たい水が入ってきた。 訳も分からず、錠剤ごと飲み下す。 僕が事態を把握したのは、悟先輩の唇が離れてからだった。 「ごめん、気がついたらすぐ飲ませなさいと言われてたから」 …僕は痛み以外の理由でも、固まる羽目になってしまった。 そして僕は、僕のセカンドキスが、ファーストキスと同じ状況で奪われた(?)ことに気がついた。 学校の保健室と病院、悟先輩と栗山先生、その違いだけだ。 ただし、薬を飲ませてもらったんじゃない。 水すら受け付けなかった僕に、栗山先生が無理矢理飲ませた。 ただそれだけなんだけど…。 …ま、これを『キス』とは言わないか。 「ごめん、嫌だった…?」 悟先輩の顔がすぐ側にあった。とても不安そうな瞳…。 僕はあわてて首を横に振った。…いってぇ〜。 「だめだよ、そんなに頭を動かしちゃ」 悟先輩は、両手で僕の頭をそっと掴んで、そしてゆっくりと撫でてくれた。 …大きな手、温かい手。 「もうすぐ今日の練習が終わる。先生方も来られるから。それと、夜になったら校医の先生の病院で精密検査を受けられるようになってるから」 「そ、そんなおおげさなっ」 精密検査だなんて! 階段から落ちただけなのにっ。 「打撲を侮っちゃいけない。それと、これ」 悟先輩は毛布の下から僕の右手を引っぱり出した。甲に包帯が巻かれてる。 「藤原の頭をその手がかばっていたらしい。段差で擦ったんだろう、酷い擦り傷になってた」 気がつかなかった。 体中、特に背中の痛みに気を取られていて、擦り傷にまで気が回ってなかったんだ。 「手は、早くなおしてもらわないと困るよ」 そう言って『ちゅっ』と包帯にキスをした悟先輩を、僕は溶けていきそうな意識の中で見つめていた。 キスになれてる悟先輩…もしかして、やっぱりガイジンとか…。 あれ…何考えて、ん、の。僕ってば…。 「おやすみ、葵」 促されて僕は目を閉じた。なんだかとっても気持ちいい…。 「あおい…」 悟先輩の、声が…、すぐ…近く…で聞こえ…る…。 せんぱい…。もう一度…。 ぼくの…ホントの…ファースト……キ、ス…? 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第3幕「愛の挨拶」 END
お楽しみ、葵くんの『名曲おすすめの一枚』のコーナーです。 |
いよいよ始まった、交響曲の練習。僕は初めてのオーケストラにちょっと緊張してるんだけど、この曲ができるなんて、すごく嬉しい。 だって、かっこいいんだ、『ドヴォルザーク作曲:交響曲第8番』は。 で、僕の一押しは、EMIから出てる『ジョージ・セル指揮/クリーヴランド管弦楽団』のもの。情熱的で、思わず背中がゾクッとしちゃうんだ。 あ、グラムフォンの『クーベリック指揮/ベルリン・フィル』もすごくいい。 こっちも『イケイケ』で、「やっぱ、8番はこうでなくっちゃねー」って感じかな? 「ちょっと待て、葵」 あれ? 「どうしたんですか?守先輩」 「この曲にはオレも思い入れがある」 「そうなんですか?どうして?」 「かっこいいから」 「それだけ?」 「いいじゃんか。別に」 「そりゃいいですけど…。で、守先輩のお薦めは?」 「お前なぁ、ドヴォルザークといえば、『ノイマン指揮/チェコ・フィル』だろうが」 「スプラフォンからリリースされてるやつですね」 「そう言うことだ」 そう言うことだそうです。 「そういや、さっき悟がぶつぶつ言ってたぞ。『小澤征爾指揮/ウィーンフィルも悪くない』ってさ」 …それ…聞いてみよう。 あ、そうそう副題に「イギリス」ってついてる場合があるけど、それはこの曲が最初に出版されたのが「イギリス」だったから…ってだけで、内容とはな〜んにも関係ないんだ。だから、気にしない♪ 4楽章が始まって、2分くらい経過したところで始まるフルートのソロは必聴だよ! |