第4幕への間奏曲「Sleeping Beauty」
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「藤原っ!」 それは悲鳴にもにた叫びだった。 屋上にいたほとんどの生徒が、何事かと階段の方を注視した。 そして、続けて聞こえてきた名前に尋常ではない事態を察知する。 「先輩っ! 奈月先輩っ!!」 耳に飛び込んできた悲愴な声に、悟と祐介はほとんど同時に走り出していた。 階段に踏み込んで二人が見たものは、一階下の踊り場に倒れる人間。 その時の二人に、葵の腕に抱き込まれる、もう一人の人間を認識できようはずはなかった。 「葵っ!」 どちらも同時に叫んでいたのだろう、その声は先ほどの下級生のものよりさらに悲愴なものだった。 呆然と立ちつくす下級生を押しのけ、もつれるように駆け下りていくと、葵が彰久をかかえ込んだたまま倒れていた。 彰久の頭をグッと押さえている右手からは、かなり出血している。 「先生を呼べっ!」 誰かが階下へ走る。 命じたのは悟だった。命じながら葵の腕を、腕の中のものからゆっくりと剥がしていく。 「浅井、藤原を」 「はいっ」 祐介は彰久の体をゆっくり起こし、抱きかかえた。 「き、急に藤原くんが倒れて、落ちそうになったところを奈月先輩が…」 背後から涙声で下級生が訴える。 「大丈夫だから、泣かなくていい」 悟は葵を抱え上げた。 「君もおいで」 事情を知っていそうな下級生に声を掛け、彰久を抱く祐介を促した。 「とりあえず斉藤先生のところだ」 「はいっ」 「1年1組の藤原彰久だ」 駆けつけた光安は、保健室の斉藤に告げた。 高校の寮長である斉藤には、中学生の個人情報はあまりない。 ましてや入学1ヶ月の足らずの一年生だ。 祐介の手で運ばれて来た彰久は、間もなく意識を取り戻したが、事態を把握するや否や、大好きな葵に怪我をさせてしまったことで酷く取り乱し、あまりに葵の名を呼んで泣くので、遅れて駆けつけた中学の寮長によって、寮へ連れ帰られてしまった。 「軽い脳貧血だな。もっとも意識のないまま一人で落ちていたら、恐らく救急車の世話になる羽目になっていたと思うが」 ヤレヤレというようにため息混じりにいった後、反対のベッドに横たわる葵を見て、斉藤は眉をひそめた。 「さてと、問題はこっちだ。見たところ大きな外傷はないし、頭を強打した様子もない、右手の出血は酷かったが、擦過傷が広範囲にわたっているだけのようだし…」 「では…」 不安げな表情を少し和らげ、顔を上げたのは、やはり光安共々駆けつけてきた栗山だ。 「いえ、骨折に至っていないまでも、ひびくらい入っている可能性はあります。一人で落ちたのならともかく、小柄とはいえ、中学坊主を一人抱えて落ちてるんですから。 まあ、聞いた状況から察するに、全身を緊張させて落ちているはずですから、今夜くらいから全身筋肉痛なんてこともありそうですしね。 ただ、打撲を甘く見てはいけませんから」 栗山は再び顔を落とし、葵の額にそっと手をやった。 「とりあえず学校指定の病院には連絡がとれています。午後7時にはレントゲンその他の用意を整えてくれるようなので、連れていきますから。 先生方は練習に戻って下さってかまいませんよ」 斉藤の言葉に光安が応えた。 「ではよろしく頼むな。生徒たちも動揺しているので、このあとはいつもと同じようにしてやらないと…」 言いながら、栗山の肩をポンポンと叩いた。 「…そうですね」 促されてのろのろと立ち上がった栗山は斉藤に頭を下げた。 「お願いします」 「お任せ下さい。ぼくにとっても大切な子供なんですから」 斉藤は安心させるように微笑んでみせた。 「僕、ここにいてはいけませんか」 祐介が初めて口をきいた。 「だめだ」 言下に否定したのは光安だった。 「首席奏者の穴は次席が責任を持って埋めろ。それがお前と奈月の信頼関係のはずだ。奈月の代理がつとまらないような奏者は隣にいてもらわなくていい」 栗山は光安を凝視した。 (なんて人だ、光安先輩は…。この状況でも生徒の深いところを掴んで離さない) 学生時代から『食えないやつ』とは思っていたが、その才能はここで教師になって花開いたという訳か。 確かに昨夜、数時間話しただけでも、祐介の葵に対する執着が感じ取れたくらいだから、当然そのあたりは光安にはお見通しだったのだろう。 (天下の聖陵学院管弦楽部を率いて8年。院長すら頭が上がらないって訳か) 見れば祐介は唇を噛んでいる。 「…わかりました」 (かわいそうに。『隣にいてもらわなくていい』なんて言われて平気でいられるわけないよな) 栗山は明日から教え子になる祐介の、同じくらいの体格の肩を抱いて、あやすようにポンポンと叩いてやった。 「僕が残っています」 冷静な声で悟が告げた。 その存外に冷たい声の中に、光安は悟の緊張を感じ取っていた。 「…わかった。頼んだぞ」 3人はそれぞれに思いを残したまま、ホールへ戻っていった。 ☆ .。.:*・゜ 「あ、つ…、あつ…い…せ…なか…あつ…」 再び静かになった保健室に小さなうめき声が聞こえた。 「葵?」 「奈月」 呼びかけてみたが、葵はそれっきり何も言わなくなった。 悟と斉藤は顔を見合わせ、表情を曇らせた。 「いま、背中と言ったな」 「そう聞こえました」 「見てみよう。悟、手伝ってくれ」 「はい」 2人は毛布を静かにはがし、葵のシャツのボタンをはずしていった。下にTシャツが見えた。 「悟、抱き起こしておいてくれ」 「はい」 悟は右手を葵の後頭部に当てて支え、左でシャツを脱がせながら肩を抱えて抱き起こした。 葵はぐったりしたままだ。 斉藤がそっとTシャツをまくった。 「…!」 瞬間、息を呑んだ斉藤に、悟はあわてた。 「先生、まさか…」 斉藤の表情に、そこに思いもかけなかったダメージを受けているのでは、と悟は不吉な予感を一気に募らせた。 葵の頭をしっかり抱えていたため、見ることができなかった背中を見ようと、悟がわずかに体をずらせる。 「こ、これ…」 信じられない光景だった。 白くてなめらかであろうはずの葵の背中は、一面の傷で覆われていた。 ひきつれて変色した皮膚、数十センチに渡って、まるで斬りつけられたような筋状のものから、小豆粒のようなものまで、大小さまざまな形の傷がそこにあった。 「先生…これは…」 呻くように、悟がようやく言葉を発した。 「…今日の怪我でないことだけは確かだな」 斉藤は一通り触って、新しい傷や腫れがないのを確かめてからシャツを元に戻した。 そしてゆっくりと上着のシャツも着せかけていった。 葵をすっかり元に戻すと、斉藤は薬棚へ行き、錠剤と水を持ってきた。 呼吸を落ち着けるかのように、わざと緩慢に動く。 そして手の物を枕元の机におくと、悟に向き直った。 そこにはもの問いたげな悟の瞳があった。 「恐らく熱傷のあとだ。ここ2,3年のものだろう」 斉藤の声も上擦っている。 「事故…なんかではなさそうだな」 規則性のない無数の傷跡。 それが故意につけられたものであろうことは、明らかだった。 悟の目から涙が一筋、落ちた。 目の前の大人びた生徒の涙に、斉藤は事態の深刻さを改めて感じた。 そして、悟に見せてしまったのはまずかったと、激しく後悔していた。 しかし、知ってしまった以上は悟の度量を信用するしかないだろう。 斉藤は悟の肩に手をおき、噛んで含めるように言った。 「栗山先生に事情を聞くよ。彼が知っていればの話だけれどな。…知らないのなら…知らせておかなければいかんだろう。彼は身元引受人だからな。 気になるのならお前も同席していい。ただし、他言無用だ」 悟は黙って頷いた。 「栗山先生を呼んでくる。もし、奈月が気がついたら、すぐにその薬を飲ませておいてくれ。すぐに、だ」 悟が机の上の錠剤に目をやった。 「精神安定剤みたいなものさ」 穏やかな笑顔を作って、斉藤はゆっくりと保健室を後にした。 二人きりになった保健室。 静けさが背中にのしかかり、自分の心臓の鼓動だけが、この世の音のような気さえしてくる。 (葵、君はいったい何を背負っているんだ) ただ身寄りがないだけなのだと思っていた。 甘える相手がいないのなら、自分が甘えさせてあげようと思っていた。 寂しいのなら慰めてあげよう、いつでも、いつまでも抱きしめていてあげようと思っていた。 けれど思いもかけず知ってしまった、葵の後ろに潜む闇に、悟は酷く戸惑っていた。 (どうしたら、きみを守れる…?) 悟は葵の頬にそっと手を添えた。 (絶対に一人にはしないから) ゆっくり顔を近づけた時、葵の顔がわずかに歪んだ。 「…せな…あ……つ……い…たい……おね…い…やめ……!助けて!!」 「葵、葵!」 ゆっくりと葵が目を開けた。が、瞳は像を結んでいないように見える。 「い、や…。かえ…る。うちにかえる…」 「葵!」 (頼む! こっちを向いてくれ!) 悟は葵の頭を抱いた。 葵の焦点が徐々に定まってくる。 目の前の人間を、意識に取り込んだ様子だった。 「痛むか? 酷くうなされていた」 悟は笑顔を向けた。 激しく打つ自分の鼓動と正反対に、精一杯静かに、穏やかに。 『さとる…せんぱい…』 葵の唇がかすかに、そう動いた。 (葵…。僕を呼んでくれた…) 悟は安堵のため息を吐いた。 「薬、飲んでおこうな」 「藤原くんはっ?」 それはいきなりの覚醒だった。 「大丈夫。葵のおかげでかすり傷一つない。脳貧血を起こして落ちたらしいんだ」 葵はホッと息をついた瞬間に、体中に痛みを感じたようだった。 「っ!」 「大丈夫? …起きられるか」 悟は慎重に葵を起こそうとしたが、葵の体は全く本人の意思についてこないように見える。 「だめか…」 (どうしよう。すぐに薬を飲ませないと……) 悟は『あれしかない』と思い立ち、葵を怯えさせないように、柔らかく微笑んだ。 それだけで葵は頬を染めた。 「薬のもうね、葵」 仰向いたままの葵の口に、悟は錠剤を押し込んだ。 そして傍らにあったコップを手に取り、その中身を悟自身があおる。 右手を葵の首の下に差し入れ、しっかりと唇を密着させると、ゆっくり液体を送り込んだ。 葵の体がビクッと跳ねる。 促すように首を少しだけ持ち上げると、コクッと飲み下す音がした。 唇を離すと、葵がぱっちりした目をさらに見開き、その瞳の中心には、自分の姿がはっきりと映っている。 「ごめん、気がついたらすぐ飲ませなさいと言われてたから」 とりあえず飲んでくれたことに安堵していた悟だったが、完璧に固まってしまった葵を見て、急に不安が襲ってきた。 「ごめん、嫌だった…?」 不安そうに訊ねる悟に、葵はあわてて首を横に振った。振って、その衝撃に顔をしかめた。 「だめだよ、そんなに頭を動かしちゃ」 悟は両手で葵の頭をそっと掴んで安静を促し、そしてゆっくりと撫でた。 あやすように、慈しむように。 手の中のものに、たまらなく愛しさが募ってくる。 「もうすぐ今日の練習が終わる。先生方も来られるから。それと、夜になったら校医の先生の病院で精密検査を受けられるようになってるから」 精密検査と聞いて葵の顔色が変わった。 「そ、そんなおおげさなっ」 「打撲を侮っちゃいけない。それと、これ」 悟は毛布の下から葵の右手を引っぱり出した。甲に巻かれた包帯に微かに血が滲んでいる。 「藤原の頭をその手がかばっていたらしい。段差で擦ったんだろう、酷い擦り傷になってた」 葵はそれを不思議そうに見た。 「手は、早くなおしてもらわないと困るよ」 (手だけじゃない、体も、それから心も、早く元気になれ) 『ちゅっ』と包帯にキスをして悟先は、葵を見つめた。 葵も悟を見つめていたが、やがてぼんやりと焦点が溶け始める。 「おやすみ、葵」 その声を聞いて、葵は安らぎを掃いた表情で目を閉じた。 「あおい…」 悟はそっと口づけた。 |
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いったん戻った練習室から再び呼び出された栗山は、とりあえず残りの練習を上級生たちに任せて練習室から出てきた。 廊下で待つ斉藤を見て、葵に何かあったかと顔色を変える。 「悪いんですか?」 『ちょっときて欲しい』と言うだけで、何も言わなくなった斉藤に、栗山は蒼白な表情で説明を求めた。 斉藤は栗山を見ずに答える。 「お聞きしたいことがあります」 歩みを止めようとはしない。 「何でしょうか」 その言葉の最後に、斉藤の言葉が被さった。遠回しに聞く気はない。 「奈月の背中の傷です」 栗山が立ち止まった。 斉藤も立ち止まる。 ホールから保健室への最短距離。 講堂横を通り抜けようとしたところだった。 遠くに運動部のかけ声が聞こえている。 いつもの学校生活の中なのに、そこだけが切り取られたように取り残されていた。 「…ご覧になったんですね」 「背中が熱いと、うわごとを言ったものですから」 栗山が弾かれたように顔を上げた。 「うわごと…ですか?」 「行きましょう」 立ちつくす栗山を促して、斉藤は保健室を目指した。 栗山の足取りは更に重くなっていく。 「奈月は?」 戻ってきた斉藤は、葵の枕元に座り、その髪を梳いている悟に声を掛けた。 「気がつきました」 「と言うことは薬のおかげか」 斉藤は、飲ませた薬の効果を見て取った。 先ほどまでの苦しげな表情のない、安心を掃いた寝顔だった。 「栗山先生はご存じだったよ」 その言葉に、悟は顔を上げ、栗山を凝視した。 「きみ…悟くんも見たんだね」 悟が頷くと、栗山は側にあったイスを引き寄せ、心底だるそうに腰を落とした。 「どこまで話せばいいんでしょうか」 先ほどと違い、少し怒りを含んだ声に、悟と斉藤は思わず顔を見合わせた。 心臓の鼓動すら聞こえてこない、完全な沈黙。 ややあって斉藤が深く息を吸い、口を開いた。 「私たちはこれから卒業までの間、奈月と生活を共にします。私にとって奈月は大切な子供、そして…悟にとっては…」 斉藤は悟を見つめた。 少年期を抜け、青年期を迎えようとしているこの生徒は、何事にも瞳を逸らさない。 そのまっすぐな瞳の奥には深い悲しみ…。 栗山もまた、その悲しみを見て取った。 そしてその奥に潜む、恋慕と言う名の執着。 自身、覚えのある影に、栗山は僅かな目眩を覚えた。 「悟にとっては…」 何をいえばいいのだろう。 しかし、不用意な言葉は吐けない。 教師の立場で、生徒の足に枷をかけるような言葉を吐く訳にはいかなかった。 (それは悟自身が出す答えだ) 斉藤は言葉を切って、栗山を見た。 栗山は斉藤に柔らかく頷いて見せた。 そして悟を見る。 自分から先に視線を逸らすわけにはいかなかった。 (わかった。きみを信用してみよう) 栗山の瞳が語った言葉が伝わったのか、悟はわずかに緊張を緩めた。 「葵は中学1年の秋に誘拐されているんです」 二人が息を詰めた。 与える衝撃の大きさは予測がついたが、栗山はそんな反応にいちいちかまうつもりはなかった。 葵を見つめたまま、淡々と語る。 まるで記憶の糸を紡ぐように。 ☆ .。.:*・゜ あれは文化祭のすぐ後だった。 勤め先の中学校から帰宅した僕に、葵の母・綾乃から『葵が帰らない』と電話が入った。すでに夜8時を回っていた。 当時、僕は葵の担任ではなかったが、綾乃とは幼なじみ、葵もごく小さいときから懐いていたから、綾乃が僕に連絡を入れるのは自然な成り行きだった。 葵はもちろん、問題行動を起こす子ではなかったので、僕はあわてて綾乃のもとへ駆けつけた。 直後に電話が鳴った。 綾乃が取ったその内容は『身代金2530万』の要求だった。 額の中途半端さも不自然だったが、『通報するな』という常套句がなかったことも、後から考えればやはり不自然なことだった。 通報しようと言う僕に、綾乃はガンとしてそれを拒んだ。 すぐに2度目の電話が鳴った。 その時綾乃は電話に向かって叫んだ。 『二度と人前にでるようなことはしません! だから葵を返して! 二人で一生、身を隠して生きていきますから! お願いだから返して!』と。 血を吐くような叫びだった。 その時僕は、綾乃には犯人の心当たりがあるんだと確信した。 3日後の明け方、葵は家の前に放置されるという形で、帰ってきた。 ☆ .。.:*・゜ 「その時付けられた傷です。 焼けた火箸やたばこの火によるものでしたが、傷の具合から見て、殺さない程度に傷を付けるのが目的だったのではないかという医師の所見でした。 ただ、体の傷は時間と共に癒えましたが、心に負った傷は…」 栗山は葵の寝顔を見たまま、息を継いだ。 「恐怖に心を閉ざした葵は、半年の間、人形のようでした。時折、思い出したように視線を上げましたが、その時はすぐに錯乱してしまって……。 水すら受け付けてくれないことも何度もありました。」 『助けて』と叫んだ葵の声が、悟の脳裏によみがえった。 今まで経験したことのない『胸の潰れる』感覚が悟を襲う。 「すべてを忘れてくれればよかったのですが…、葵は、あの3日間と、錯乱している間のことは…覚えているようです」 沈黙が室内を支配した。 そして、その、永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのは葵だった。 「ん…」 身じろいだ葵を、とっさに悟がかばうようにその頭を包み込む。 葵は再び安らかな寝息を立て始めた。 「それで、もう奈月が狙われることはなかったんですか?」 斉藤が疑問を投げた。 今の話では、根本的な解決を見ていないからだ。 「ええ。…綾乃は祇園を落籍(ひ)いて、葵を連れて身を隠しました。犯人の本当の要求はそれだったからです」 斉藤も悟も、眉をひそめた。 何か言おうとするのを、栗山は片手で制する。 「綾乃…綾菊は祇園の芸妓でした。 葵を産んだのは18歳の時、当時はまだ舞妓でした。父親は、わかりません。 …いえ、綾乃にはわかっているんですが、私はもちろん、葵も知らされていません。むろん、認知もされていません。 だが……誘拐には、父親が関係しているはずなんです。」 忌々しそうに、そう言いきった栗山の声は確信に満ちているように聞こえた。 「まさか!」 初めて悟が口を開いた。 実の父が我が子を傷つけるなど、普通の生い立ちを持つ子供には理解の範疇外だ。 「あぁ、言い方が悪かった。父親に関する誰か…、と言うべきだった」 (どっちにしても同じだ!) 悟は心中で毒づく。 「花街の私生児は、大物の子であることが多いんだよ」 栗山はつとめて冷静に言い放ったが、それは大嫌いな言葉だった。 高校生に聞かせる言葉でもない。 そして何より、自分自身、我が子のように慈しんだ葵を、そんな言葉で表現したくなかった。 幾度、葵が自分と綾乃の子であればと願ったことか…。 栗山は斉藤に向き直った。 「父親側の何らかのトラブルが原因だと思います。 葵がいては都合が悪い。だから身を隠して出てくるなと脅した。 相続問題でも絡んだか、もしくは感情的なもつれか…。結局綾乃は何も言わずに亡くなってしまいましたが」 「ではもう、奈月は安全だと思って言いのですか?」 『少なくとも校内は安全だ』と思う斉藤だったが。 「一応は。 しかし、相手が誰かわからないのでは、葵は永遠に爆弾を抱えたままです。 僕はその後も、葵の父親に関することを探しているのですが、なかなか進みません。 だから…とりあえず葵を京都から離したんです。ここはあらゆる面で今の葵にはうってつけでしたから」 「あ…」 今の葵にとって、ここが一番の安住の場所。 悟はやっと、それでもほんの少し、全身の緊張を解いた。 何かが潰れた心をくすぐったような気がする。 ☆ .。.:*・゜ 『葵をよろしくお願いします』 そう言って深々と頭を下げた栗山の姿が脳裏に焼き付いている。 寮の302号室、悟はベッドの上で身じろぎもせず天井を見つめていた。 同室者は部活がないため帰省していて、今は悟一人の部屋である。 あの後、葵は眠ったまま栗山に抱かれて、光安の車で病院へ向かった。 祐介は今度はどうしてもついていくと言い張り、同行を許された。 車を出す直前に、光安は悟に呟いた。 『もう、後には引けないな』 やはり光安は知っていたのだろう。 そして、お前も知ってしまったのなら覚悟を決めろと言う意味だろうと思った。 言われなくたって、そんなものとうに決まっている。 初めてあった時、あの瞳に絡め取られてしまった時、もうすでに決まっていた。 絶対に離さないと決めていた。 それがたとえどんなに困難なことであろうと。 悟はギュッと目を閉じる。 昨日、メインメンバーの合奏で見た葵が浮かんだ。 ソロの能力が高いことはすでに知れている。 コンクール優勝という実績を持ち、新年度のオーディションでは管弦楽部員たちが、その演奏に息を呑んだのだから。 しかし、その音が、他人のそれと交わった時どうなるのか? 『聖陵学院管弦楽部』という一つの枠からはみ出てしまっては、いくら個人の能力が高くとも、葵がここにいる意味は無くなってしまう。 葵はピアノ以外の楽器とセッションをしたことがないと言った。 ブラスバンドの経験もない。 それがいきなりオーケストラの舞台に上げられたら、どうなってしまうのか…。 特に管楽器奏者は、難しい位置に立たなければならなくなる時がある。 70人のメンバーの中で、完全に歯車の一つとなる時と、そのオーケストラの中で『絶対無二』の存在を要求される瞬間と…。 葵のそれは、とんでもない才能だった。 経験もないのに、すでに、合奏という溢れる音の中での自分のスタンスを完全に把握している。 自分のソロになったとき、他の楽器とかけあうとき、誰かのソロを支えるとき…。 その時々に、自分のなすべきとことを、瞬時に的確に把握して完璧にやってみせる。 (ずっと…葵と、葵の奏でる音の側にいたい…) 何かを欲する…。 それは、自分の心に鍵をかけたあの日以来、ずっと忘れていた感情だった。 その甘やかな疼きを自覚したとき、ふいにしたノックの音で、浮遊していたところから引き戻された。 『悟先輩、いらっしゃいますか』 (浅井…?) 祐介が戻ったと言うことは、葵も戻ってきたのかと、悟は慌ててベッドから跳ね起きた。 「葵は?」 開けるなり訊ねた。落ち着いた様子の祐介に、安堵する。 「入って」 中へはいると、勧められるままイスに腰を下ろし、祐介が説明を始めた。 「骨に異常はありませんでした。外傷も手の甲以外にはなかったそうです。内蔵もまったく異常なしでした。ただ、今日はもう遅いので、一晩だけ入院と言うことで栗山先生が付き添っていらっしゃいます…ホッとしました」 そう言って俯いた祐介は、少し泣いているようにも見える。 悟は何も言わず、祐介の肩に手をやり、なだめるようにさすった。 こんな祐介を見るのは初めてだった。 絶対に弱みなど見せなかったこの下級生は、どこか自分に似ていて、いつも憎らしいほど冷静だったから。 「…ホッと、したな」 きっと自分も同じなのだろうと思った。 葵の瞳に出会った瞬間、冷静という名のマントをはぎ取られてしまった。 祐介と同じように…。 祐介はなかなか顔を上げなかった。 (浅井は知らないのだろうか) ふと疑問が浮かんだ。 ほとんど24時間一緒にいる二人だ。 目の前で着替えることだって当然ある。 知らずにいると言うことがあるだろうか? (そういえば…) 悟は地下の大浴場で一度も葵を見かけたことがないのに気がついた。祐介とは何度も会っているのに。 (葵は一緒じゃなかった……部屋のシャワーか) 部屋にシャワーがある以上、わざわざ人目に晒すようなことはしないだろう。 (知らないほうがいいのかもしれない…。知らない人間も側にいてやらなくてはいけないんだ) 「浅井…」 呼ばれてやっと祐介が顔を上げた。やはり目は赤い。 「葵のこと、守ってやろうな」 祐介の前には、いつもの穏やかで優しい先輩がいた。 祐介は、はっきりと頷いた。 ただし、どちらも (最後に勝つのは自分だ)と、確信していたが。 |
第4幕への間奏曲「Sleeping Beauty」 END
「君の愛を奏でて」…ついに序章が終わりました。 なんて長い序章でしょうか(笑)。 明らかになった葵の過去。 知ってしまった悟は、これからどうするのか。 祐介が事実を知る日は来るのか。 葵と深く繋がる栗山は? そして、葵の気持ちの行き着く先は…? 第4幕「ピアノレッスン」へどうぞ! |