第4幕「ピアノレッスン」
【1】
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僕が次に目を覚ましたのは、正真正銘の病院だった。 確か藤原くんを抱えて、派手に階段落ちを演じたはずなのに、この体の軽い浮遊感はいったいなんだろう? 真っ白な壁に取り囲まれていても、前のように押しつぶされるような圧迫感もない。 そう言えば、保健室で薬を飲まされたんだ。悟先輩に…。 その時の状況を思い出して、僕の体温は一気に上がった。 「う、わ…」 「目、覚めた?」 声のする方を見ると、栗山先生がいた。 僕は嬉しくなって声を上げてしまう。 「せんせっ!」 「こらっ、ここは病院や。静かにせんと」 そういいながらも、優しい笑顔を向けてくれる。 「痛くないか? 検査の結果、異常なしやったよ。ただし、今日は一晩お泊まりな」 いつものように、優しく前髪をかき上げてくれる。 「顔が赤いな。熱でも出たか?」 えっ?! 先生は僕の額に手のひらをつけて、しばし考える。 先生の手のひらの方が熱いってば。 「熱はないか」 僕の顔が赤いのは多分、別の理由…。 「さっきまで光安先生と浅井くんもいたんやけど…。何か飲むか? 葵」 なんだか京都に帰ったよう…。 思わず『うふっ』と漏らした僕に、先生は言ってくれた。 「なんや、気色の悪いやっちゃな」 「せんせってば、関西人〜。聖陵にいるときと違う人みたいや」 「お前かって同じや。めちゃめちゃ京都弁になってるで。聖陵では東京の子ぶってんな」 「そやかて、せんせと二人っきりなんやもん…」 あ、あれっ、目が濡れてきたっ、なんでっ。 先生は僕の涙に気がついて、頭をなで始めた。 「ん? どした?」 たったその一言に、なぜだか僕の涙腺はぶっ壊れてしまった。 張りつめていたものが切れたように、わんわん泣き出した僕を、先生はずっと抱きしめてくれていた。 聖陵での毎日はとても楽しいのに、僕はいったい何に対して、こんなにも脆くなってるんだろう。 自分で自分を問いつめても、答えなど見つかるわけでなく、漸く僕の涙が枯れてきた頃、先生は静かに口を開いた。 「葵、背中、誰かに見せたか?」 どうして? 「…ううん。誰にも見せてない。なんで? どしてそんなこと聞くん」 ふと嫌な予感がした。 まさか…眠ってる間に誰かに見られたとか…。 「せんせ、まさか…」 「お医者さんには説明したよ。訊ねられたからな」 …そりゃそうだろう。階段から落ちた患者の背中の傷に気がつかない医者なんて、ヤブ以下じゃないか。 でも本当にそれだけ? 「同室の浅井くんくらいには、ばれてるのかなと思ったから」 「…祐介、見たん?」 「いや、診察室に入ったのは僕だけや」 先生の言葉に、僕は心底ホッとした。こんなもの見せられたら、誰でも気分が悪くなっちゃう。 「大丈夫、気をつけてるから。同室のみんなにもバレてへん」 そりゃあ、こんな傷くらいで友達なくすとは思ってないけど、でも、理由を聞かれたら困る。 陰湿な話だから聞かされる方も災難だし、それで変に同情されたり、遠慮されたりしたらかなわない。 先生は寂しそうに笑った。 「今夜は僕がついてるから、葵はゆっくり休め」 そう言って毛布をかけ直してくれた。 「もう、ようけ寝た。寝過ぎやって。先生こそ早よ寝とかんと…」 急に僕は思いだしてしまった。 「練習はっ! あの後の合奏!」 先生は『ぷぷっ』と吹き出した。 「なんや、ちょっとはホームシックになってるかと思ったのに、すっかり聖陵の子やな。ま、葵がそんなにデリケートやとは思ってへんかったけどな」 「なんやそれ〜。そやかて、合奏2日目にして脱落やなんて……かっこわるぅ」 「不可抗力なんやから…。それに葵には頼りになる次席奏者がついてるやろ?」 「…うん」 「彼、立派に役目果たしたみたいやで」 そうか、明日、祐介にお礼言わなくちゃ。 いつも側にいてくれる、頼りになる大切な大切な親友。 次席奏者は大変なんだ。 首席に万一のことがあった場合は、すぐに代役ができるように、練習しておかなければいけないから。 …そうだ、祐介と言えば…。 「せんせっ、明日は朝から個人レッスン…!」 「奈月葵くんの分はキャンセルです」 「どーして!」 「明日は一日、寮で安静。浅井祐介くんのレッスンは、奈月葵くんのキャンセル分もあわせて2時間みっちりさせていただきます」 げ。 「明日は8時に光安先生が迎えにきてくれるからな。一緒に帰ろう」 優しく微笑む先生。34歳、花の独身。かなりハンサム。身長は179cm。スリムな体型。 今はベタベタの関西人だけど、ウィーンに何年もいたから、身のこなしなんかもかっこいい…時もある。 中学でもバレンタインのチョコ獲得枚数はダントツだった。僕はちょっと及ばなかったけどね。 これから演奏家の世界に戻ろうとしている先生。 僕は先生の後をいつまでも追っていきたい…。 あれっ? また眠くなってきた…何で? あんなに寝たのに…。 そういや、祐介に言い忘れてた。 栗山先生って楽器持つと人が変わるぞ〜。容赦ないんだ〜。 がんばれ〜ゆうすけ〜…。 翌朝、僕はあっちこっちの打撲と、昨日はなかった筋肉痛に悩まされていた。 じっとしてると大丈夫なんだけどな。 412号室に帰り着いたときは、みんな部活に行った後だった。 帰るなり、寮長の斉藤先生に『今日一日は起きちゃダメ』と釘を刺されてベッドに押し込まれてしまった。 ただし、祐介のベッド。 上の段は危ないからということで、昨夜のうちに祐介の了解も取ってあると言っていた。 ほらみろ、やっぱり上の段の方がアブナイんじゃないか。 それにしても、昨日あれだけ眠っていたのに、僕はまたうつらうつらしていた。薬に何か入ってるに違いない。 どれくらい経ったんだろう、遠くで鳴るチャイムの音に気づいて、僕はぼんやりと目を開けた。 お昼だろうか? …と、それからほどなく、廊下の方が騒がしくなってきた。 それは、だんだんと、しかもすごい勢いで近づいてくる。 …な、何? 「葵っ!」 突然ドアが開いた。 祐介に陽司に涼太に……あ、藤原くんもいる。よかった、元気そう。 後ろにはまだまだ人がいる。 クラスメイトに管弦楽部のみんな…。 「奈月先輩! ごめんなさいっ!」 いきなり藤原くんがしがみついてきた。 元気になりすぎだぁっ。 「僕の、僕のせいでっ!」 そ、そんなに泣かないで、頼むからっ。 「僕、先輩の言うこと何でも聞きます! なんでも言いつけて下さい!」 ううっ、苦しい。わかった、わかったからっ! 「じゃ、お願い」 「はいっ!」 藤原くんは元気に顔を上げた。 「重いから降りて」 「は?」 部屋は笑い声に包まれた。藤原くんは真っ赤な顔をしている。 「こいつっ、心配させやがって! それだけ冗談言えたらもう大丈夫だな」 陽司が僕の頭をかき乱す。 頭はもう痛くないから平気。 「昨日、戻ってきたら葵が入院したっていうから…もう、心臓つぶれそうだったぜ」 涼太も負けじとかき回してくる。 「ごめん、みんな、ありがと…」 こんなに心配してくれちゃって…ほんとに、もう…。 しんみりとしかけたとき、廊下から大きな声が聞こえた。 「こらっ、何やってんだ! 本日の412号室は病室だぞ。奈月は今日一日絶対安静だっ。お前たちも早く行かないと昼飯食いっぱぐれるぞ!」 『昼飯食いっぱぐれる』と聞いて、平常心でいられる男子高校生はまずいないだろう。 みんな口々に『お大事に』とか『早く出て来いよ』とか言って去っていく。 声の主、斉藤先生は食堂でいつも使っているトレイを持って、僕たちの部屋、病室にされてしまった412号室へ入ってきた。 「言っておくが、ルームサービスは奈月の分だけだ。お前たちは自力で食いに行けよ」 そう言われて涼太も陽司も、クラスメイトに引っ張られて渋々出ていった。 僕は寝てるばっかりであんまりお腹はすいてなかったけど、せっかく先生が持ってきてくれたから、ありがたく昼ご飯にありつくために、よっこいしょ、と起きあがろうとした。 けれど…。 「ってー!」 むちゃくちゃ痛いぞー! ううっ、体中が軋むぅ…。 顔をしかめた僕を、あわてて祐介が抱き起こしてくれた。 「あ、ありがと」 「ゆっくり起きないとだめじゃないか」 「うん…。祐介も行かないと、食べ損ねるよ」 「浅井も行ってこい」 斉藤先生がここはいいから、と言うように手をひらひらさせた。 と、その時放送が入った。 『斉藤先生、至急保健室へお戻り下さい』 「うわ、何だよ。昨日みたいのなのはごめんだぞ」 そう言って笑いながら立ち上がった。どーせ、昨日も笑ってたんだろ。 「すまない、行ってくる」 僕は部屋を出ようとする先生を、呼び止めた。 「先生、ありがと」 とっておきの感謝の笑顔を向けた。 「あ、あぁ、気にするなって」 そう言って先生は出ていったけど、なんで赤くなるわけ。 言っておくけど、今のは『感謝の笑顔』だからね。 「祐介、ご飯行っといでよ。僕は大丈夫だから」 祐介を見ると、こっちも赤い。不気味な。 「食欲ないんだ…」 え? 熱でもあるの? だから赤いんだ。 「祐介、具合悪いの?」 僕は祐介の額に手を当てた。熱はなさそう…。 「めちゃめちゃハードなレッスンだったぁ〜」 言うなり祐介はベッドに突っ伏した。 もしかして…。 僕はにんまり笑った。 鼻で笑ったのが聞こえたのか、祐介はガバッと飛び起きた。 「あ〜お〜い〜。知ってて黙ってたなぁぁ〜」 うわっ、目がマジっ。僕は慌てて首を横に振る。 「違う違う。忘れてただけだってば。そりゃ、昨夜病院で、『僕の時間の分もみっちり』って聞かされたときは、お気の毒〜って思ったけど」 祐介は『はぁぁ〜』と大げさにため息をついた。 「も、立ち直れない」 「先生、そんな酷いこと言わないだろ」 栗山センセは絶対声を荒げたりはしない。 …けど、痛いところをグッサリってことは…あるかも。 「静かに急所を一撃だよ。それを30発くらい浴びたかな…あ〜あ」 あ、やっぱり。 「僕も毎回『痛恨の一撃』を受けまくったよ」 「葵が?」 「もちろん」 僕はにっこり笑って続ける。 「栗山先生ってさ、最初は『うーん、結構いけてるんじゃない』とか言うクセに、楽譜をパラパラってめくりながら、『でも、ここのところの音がさぁ…いただけない音だったよね』って、ニコッと笑うんだ。 それが一カ所や二カ所じゃない。 注意を聞いてると、結局ほとんど『いただけない音』なんだよ。でさ、『悔しかったら、少しはまともな音で吹いてみれば?』となるわけ。 僕はこれに2年間耐えたんだ」 「2年…」 祐介は目を丸くしている。 「でも、僕は他の先生を知らないから、比べようがないけどね」 そう、僕をもとの世界に戻してくれたのは、栗山先生のフルートだった。 フルートを持つことで光を取り戻した僕を、先生は毎日一生懸命に教えてくれたんだ。 「そっかー、葵でもそうなんだったら、僕なんかズタズタでもしょうがないか」 そう言いながら、なぜか祐介はベッドに潜り込んできた。 お、おいっ、ちょっと! そりゃ、ここは祐介のベッドだけどっ! 「ごめん、一休みさせて。心身共に疲れ果てた…」 「じゃ、僕が上へいくから…」 僕は、痛む体で祐介を押し戻した。 とりあえず僕が出なきゃいけない。 「いい、このままで」 そう言うと、祐介は僕の体を抱き込んで、そのまま倒れ込んだ。 「ゆ、祐介っ」 もう、こうなったら痛いも何も言ってられない。 僕はもがいた。 「ごめん、じっとしてて…」 ギュッと抱きしめられて、僕は身動きがとれなくなる。 ちょっとぉ〜、痛いんですけどぉ〜。 「……」 そのうち祐介が規則正しい呼吸を始めた。 「ほんとに寝ちゃった…」 よっぽど疲れたんだね、祐介。 祐介の腕の中はほんのりと暖かくて、なんだかとても居心地がよかった。 そして、まずいことに、僕も再び眠りに落ちてしまったのである。 |
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『コンコン』 ん…? 『コンコン』って…? 僕はぼんやりと目を開けた。いまいちよく見えない。なんだか靄がかかってる。 ふぁ? 僕が顔を埋めているのは…。 そうだ、祐介の腕の中で寝ちゃったんだ。 祐介の右手は僕の頭をしっかり抱いたままだ。 左手は…うそっ、腰なんか抱いてやがるっ。 こらっ、離せってばっ、変態っ。 僕がもがくと、祐介はわずかに身じろいだ。 「ん…? あ? …あっ…ごめんっ」 覚醒した祐介が、状況を把握するなり飛び起きた。 放り出される格好になった僕の体は悲鳴を上げた。 「いってーっ!」 「わあっ! ごめん!」 慌てた祐介は僕を抱き起こそうとした。 …と、その時。 『葵、入るよ』 外からの声に、僕と祐介は顔を見合わせた。 (…悟先輩っ?!) 僕たちは同時に心の中で叫んでいたに違いない。 祐介がベッドから飛び降りた瞬間…。 ドアが開・い・た。 「…浅井」 異常に気まずい空気が渦巻く。 ベッドと鼓動は乱れまくり、祐介の髪には…寝ぐせが…。 「何やってるんだ。佐伯が探してた。練習始まってるぞ」 穏やかな声…。かえってコワイ…かも…。 「えぇっ!」 祐介があわてて時計を見た。 集合時間30分オーバー。思いっきり寝過ごし。 あーあ。 「すいませんっ」 そう言って祐介は飛び出していった。 ……おい、ちょっと待てってば。 この状況で残された僕は、……どうなる? 「葵…」 「は、はいっ!」 恐ろしさのあまり、必要以上に張り切った返事をしてしまう僕。 いて〜、体に響くぅ。 「元気そうだね」 にっこり微笑む悟先輩。…怖すぎる…。 先輩はゆっくり近づいて来て、ベッドに腰をおろした。 僕はと言えば、起きあがろうにも、痛みと怖さで体が動かない。 「せ、先輩、練習は?」 僕はたまらず話題を探す。 「今日の午後は『葵当番』」 は? 何それ? 「浅井と何してたの?」 き、きたぁぁぁっ…。先輩、目が笑ってないっ。 「べ、別に、な、何も…」 こらっ、葵っ、なに焦ってんだぁっ。落ち着け、落ち着けってばっ。 「は、話をしてるうちに、なんだか眠くなっちゃって、そ、それでっ」 「…二人で寝てたの?」 うっ、確かに二人で寝てたんだけど。 「浅井と、二人で、一緒に、寝てたの?」 ……うあ、だめだ。涙腺が壊れた。 「どうして泣くの?」 どうしてだろ? 悟先輩は両腕を回して僕をそっと抱き起こした。 だからぁ、痛いってばぁ〜。 僕がわずかに身を竦ませると、今度はきゅうっとゆっくり抱きしめて、穏やかな、穏やかな声で耳元に囁いた。 「浅井に何かされたの?」 ととととととんでもないっ。僕はあわてて首を振った。 この際、痛いなんて言ってられない。 「じゃ、泣かなくっていい」 悟先輩の手が、ゆっくりと僕の背中をたどる。 あやすように、さするように、ゆっくりと何度も、何度も。 他人の手が背中に触れるなんて、絶対嫌だったのに、なのに僕は今、うっとりとこの状況に身を任せている。どうして…。 「あおい…」 呟くような呼びかけだった。 「さとるせんぱい…」 僕も呟くように呼び返す。 「さとる…って呼んでごらん」 それは、ついこの前に言われたことの繰り返しだった。 でもあの時は…。 「あおい、僕のこと、さとるって呼ぶんだ」 それははっきりと『命令』だった。 背中はずっと優しく包まれている。 なんだか、溶けていってしまいそうだ…。 「さとるって呼ぶんだ」 何度も耳元で囁かれて、僕は催眠術にかかってしまったに違いないんだ。 でなければそんなこと…。 「さ、と、る…」 「そうだ、葵、いい子だね」 「さとる…」 「そう…もう一度」 「悟…」 「もう一度」 次の返事は、悟先輩の唇に吸い取られていた。 深く深く、言葉だけでなく、僕の心の中まで吸い取られていくように。 抱きしめられたまま、その暖かさの中、僕の意識は闇に溶けていった。 『葵、大好きだよ』 そう聞いたのは、夢の中だったんだと思う。 ☆ .。.:*・゜ 翌日、僕は若さを武器に、驚異の回復力を見せつけて合宿に復帰した。 打ち身はまだ痛かったけど、筋肉痛もほとんどとれて、右手の傷も塞がり始めていた。 祐介も昨日のダメージから立ち直っていて、さすがに元生徒会長様の図太さを見せつけていた。 朝から栗山先生のレッスンに耐え(?)、午後は午後でのハードスケジュール。 悟先輩と会ったらどんな顔をすればいいのかと、戸惑っていた僕だったけど、管弦楽部員全員がそうであるように、そんな個人的なことを考えている間もなく時は過ぎていった。 そしてふと、僕は丸2日悟先輩の顔を見ていないことに気がついた。 先輩が部活に顔を出してないってことだ。 何でだろう…? …その疑問に祐介が返してくれた答えを聞いて、僕は正直、泣きそうだった。 悟先輩は、僕につきそっていた時間に仕上げるはずだった大切なこと――編曲や自分の総譜の譜読みを、光安先生の私室にこもってやっているというのだ。 僕はますます、先輩にどんな顔をして会えばいいのかわからなくなった。 けど、そんなこと言ってられないんだよね。 きちんと迷惑をかけたことを謝って、うん、例の恥ずかしい件はなかったことにして、知らん振りしよう。 そうそう、それがいい。 そうしないと、明後日から始まるピアノレッスンに耐えられない…。 ☆ .。.:*・゜ 第一練習室。放課後、午後4時。 ついにこの時がやって来てしまった。 だいたい15歳からピアノを始めようってのが、間違いなんだよな〜。 たった3年で、音大を受験できるところまでいけるんだろうか? うーん、著しく不安…。 しかも、悟先輩にはあれっきり会ってないし…。 いやっ、今日は先輩と後輩ではない。先生と生徒だ。余計なことは考えずに、レッスンに打ち込むのみっ。 僕は意を決してドアをノックした。防音室のドアは分厚くて重いから思いっきり。 すぐに悟先輩が迎え入れてくれた。 うっ、さっきの決意はどこへやら…。 僕の心臓は、早くも踊り始めている。 だって、ものすごく綺麗な笑顔だから…。 「久しぶり。体はどう?」 僕は自分の顔が赤くなっていないことを祈った。 だって、これからレッスンなんだ。真剣勝負なんだっ。こんなことでうろたえている場合ではない。 「は、はいっ、おかげさまでもうすっかり」 「そう、よかった」 そう言って悟先輩は僕の右手を取った。 傷はかさぶたの剥がれた後がピンク色になっているだけだ。 「手の方も大丈夫そうだね。安心したよ」 手を取られて一瞬僕はボーッとなった。…がっ、ここは理性で踏みとどまらなくてはっ。 …うー、つくづく自分が情けない。 しっかりしろってばもう。 先に言っておかなくちゃいけないことがあるだろう。 「あ、あの…」 「ん? 何?」 「先日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。悟先輩の大切な時間をいっぱい無駄にしてしまって…」 よし、しっかり言えたぞ。 僕はちょっと自信を取り戻して、先輩に取られた手をそっと引いた。 「僕はいつも、自分の最優先事項を忠実に守っているつもりだけど」 うわ、なんて大人な切り返し。 やっぱり悟先輩って優しい。 絶対親切の押し売りなんかしないんだ。 きっと僕の負担にならないようにしてくれてるんだ。 感動でウルッときたとき、唐突に一撃がやって来た。 「葵はどうして僕との約束を守ってくれないの?」 へ? 約束…何それ。 僕の頭は、記憶の中の『約束』を探してフル回転になった。 ピアノのレッスンは手ぶらで来ていいって言われたし、7月のコンサートの曲は中間試験が済んでからでいいって聞いてるし…。 まずい、何の約束だっけ、思い出せない…。 「僕の名前呼んでみて」 先輩の名前って…。 「悟せんぱ…」 ちょ、ちょっと待った。 まさか、あの、僕がわざわざ記憶から消そうとしている『あのこと』とか言わないよね。 固まっている僕を、ふわっと抱き寄せて、先輩は言った。 いつものように耳元でなく、目を見てはっきりと。 「頼むから。二人きりの時だけでいいから」 今度は『命令』ではなく『お願い』だった。 どうして? 先輩、どうしてそんなに。 僕はきっと疑問を顔に書いていたんだろう。 悟先輩は僕の目を捉えたままで答えてくれた。 「葵のことが、大好きなんだ。誰にも渡したくない」 …誰が誰のことを大好きでどうしたいって? 「葵を自分だけのものにしたいんだ」 …もしかして…。 「子供じみた独占欲だってわかってる。でも、止められない」 …これって…。 「葵が好きだ」 …告白ってやつ…? 僕は悟先輩の目を見つめたまま、言葉を…。 「さとる…」 …え? 僕、今なんて言った? 「葵!」 自問自答の答えを見つける前に、僕の唇は悟先輩のそれに塞がれていた。 これで何度目だろう、悟先輩の柔らかくてしっとりした感じ。 …でも今日は少し違う…もっともっと深く入り込んでくるキス。 「…んっ…」 ゆったりと口の中を愛される感覚に、僕の脳みそは、やっと事実を確認した。 『僕は受け入れてしまったのだ』…と。 『ありがとう』と、悟先輩は僕に言った。 その後、驚くべきと言うか当たり前というか、ともかくレッスンが始まった。 みっちり1時間30分。 後から考えると、あの熱烈な告白のあとに、平然とピアノ教師の顔になれる悟先輩って、やっぱり『らしい』なって思っちゃったりするんだ。 こうしてピアノレッスンの初日、思わぬ展開で僕と悟先輩は、なんだか恋人同士になってしまったようなんだけど…。 |
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