第4幕「ピアノレッスン」
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聖陵は生徒の約9割が寮生という男子校だ。 しかもそのほとんどが、中学から6年間に及ぶ寮生活を送る。 そのせいだと断言しよう。校内にカップルが多い。とても多い。 普通はそういうことは隠すんじゃないかと思うんだけど、ここはオープンだ。 教師が絡んだ噂まであるくらいだ。(これには正直ビビッた。それも、主に昇先輩ネタが多かったので、更にビビッた) 僕は花街生まれの花街育ちなおかげで、年の割にはマセていたと思う。 綺麗な舞妓ちゃんや芸妓のおねえさんたちに囲まれて育ち、恋の駆け引きや色恋沙汰のごたごたまで、結構知っている。 去っていく男に、残される女や子供たち。 そんな修羅場を見ちゃったことだってある。 そんなわけで、僕はここへ来てもそんなに驚かなかった。 たとえ一時の感情に流された『疑似恋愛』でも、その時が『本気』ならば、もうそれはそれでいいんじゃないかって。 だから、かえって子供ができてしまう心配がない分、共学の学校より安全なんじゃないかと思ってしまうくらい、僕は恋愛に関して、可愛げのない、冷めた考えの持ち主だったりした。 ただし! 僕がその当事者になってしまうかどうかは別問題だ。 生い立ちの事情で、僕は万事そつなく、誰からも嫌われないようにする術を身につけてしまっている。 笑顔の使い分けができるくらいだ。 だから誤解される時もある。 それがまずかったんだろうか? でも、僕は悟先輩の前ではいつもの僕じゃなかった。 その後の反応を計算して笑顔を向けるようなこと、できなかった。 一度も。 なのに、なぜ悟先輩は僕を好きになったんだろう。 僕のどこがよかったんだろう。 音楽だろうか? ううん、僕にはまだ、人を魅了するような音は奏でられない。 もしかして、外見だろうか? 僕は自分の顔は好きだ。大好きな母さんに似てるから。 見たこともない父親に似てなくてよかったと、つくづく思う。 男としては全然嬉しくない話だけど、この外見は、男子校・男子寮という閉鎖された社会の中では目立つのかも知れない。 …それならそれでもいいや。 きっと長くても、悟先輩が卒業するまでの2年間の疑似恋愛なんだから。 僕さえ溺れなければいい。 そうすれば悟先輩も、2年が過ぎたら全てを忘れてここを巣立っていけるはず。 『先輩の中の僕』がいったい何者なのかわからないけれど、僕は僕のすべてを隠していよう。 醜い傷も、その「理由(わけ)」も、歓迎されない生い立ちも、何もかもすべてを隠していよう。 ここには『可愛い奈月葵』さえいれば、いいんだから。 聖陵での毎日は瞬く間に過ぎていく。 平日は午後3時まで授業。 部活は基本的に4時から6時なんだけど、それはあくまでも『部活動』であって、個人の練習時間は含まれない。 夕食は6時から8時の間に摂ることになっているから、僕はとりあえず、部活終了と同時に寮へ戻ってさっさと食事を済ませ、6時40分頃には練習室に戻っている。 それから練習室が閉まる10時までが僕の練習タイムだ。 土・日は授業の時間が少ない分練習時間が増えるだけ。 当然勉強しているヒマなんかない。 この前の中間テストではなんとかトップをキープできた。 教科が増えたから、さすがに満点とはいかなかったけれど。 それでも総合点で次点の祐介とはたったの4点差。 祐介とその次が10点差だということ考えれば、この差はないに等しい。 この分だと期末で抜かれることは確実だと思う。 だって、中間テスト以降、僕は教室以外のところで一度も教科書を開いていないから。 それどころか教科書もノートも教室に置きっぱなし。 寮へは寝に帰るだけの毎日だから、いちいち持って歩かない。 僕が持って歩くのは、楽器と楽譜だけ、って状態なんだ。 で、そんなにまでして必死に練習しているわけは、『コンサートとレッスン』。 普段の部活でやっている交響曲なんかは、そんなに時間をかけてさらわなくっても大丈夫なんだ。 けれど、『コンサートとレッスン』はそうはいかない。 …でもほんとのところは『レッスン』だけだったりして。 7月のコンサート用に、僕はプーランク作曲の『フルートソナタ』を選んだ。 夏に聞いても、そんなに暑苦しい曲じゃないしね。 それに、これはコンクールの予選で吹いているから、そんなに不安はないんだ。伴奏合わせも2回くらいでいいだろうって言われてるし。 問題はピアノのレッスンだった。 やっぱり高校生にもなってピアノを始めるのはキビシかった。 楽譜が読めているのに手が動かないのが、こんなに苦痛だとは思わなかった。 そして、それにも増して苦痛なのが、『悟先輩に呆れられたくない』という思いでがんじがらめになっている僕の心だった。 どんな誤解の上に成り立っているのかわからないけれど、先輩が僕を好きだと言ってくれるのなら、僕は先輩に誤解したままでいて欲しかったから。 僕は、悟先輩の望む『僕』でいたいんだ。 だから、がむしゃらにがんばった。 弾いて弾いて弾きまくった。 ☆ .。.:*・゜ 第1練習室の前。 今日で何回目になるんだろう。 僕は週1回のピアノのレッスンにやって来た。課題は全部仕上げてきたつもり。 意気込んでドアをノックしようとした時、ふいにドアが開いた。しかも乱暴に。 「僕は絶対嫌ですっ。認めませんからねっ」 そう叫んで出てきたのは、同級生でセカンド・ヴァイオリンの第10奏者、麻生隆也だった。 僕はこいつが苦手だ。 人のことをジッと睨み付けるから、『何?』って聞いてやるんだけど、全く無視するんだ。 無視するくらいなら、いちいち睨むなってんだ。 言いたいことがあるのなら、はっきり言えよ。男だろ。…って、麻生は結構可愛かったりするんだけどね。上級生の人気もかなりある…と祐介が言っていた。 叫んだ麻生は、ドアの前に佇む僕に気がついた。 …え? 麻生…泣いてる…。 麻生は僕の姿を見て、一瞬顔を強ばらせたが、次の瞬間とんでもないことを言ってくれた。 「お前のせいだっ!」 はいぃぃぃ〜? 麻生はそのまま走り去ってしまった。 そして、呆然と見送る僕の腕が、誰かに掴まれた。 そのまま部屋へ引っ張り込まれ、ドアが閉じる。 振り返った僕はそのままきつく抱きしめられた。 「ごめん、びっくりさせたね」 「あ、あの…」 悟先輩はゆっくりと僕を離した。 「麻生のレッスンを、外部から来られる先生に変えたんだ」 って言うことは、麻生も悟先輩のレッスンを受けていたってことか。 僕はドアの方を振り返った。 もちろん、麻生の姿はない。 「それが不服のようなんだ。僕としては麻生のためにそうしたことなんだけど…」 「麻生のため?」 「彼はかなり弾けるんだ。もう、僕が見るよりもっと上の先生についた方がいい。もっとも、それよりもヴァイオリンの方をもう少しがんばってもらわないと困るんだけどね」 悟先輩は疲れた様子でため息をついた。 自分のことでも充分大変なんだろうに、こうやって後輩の心配もして…。 せめて僕は心配をかけないようにしなくっちゃ。 しかし…何だって僕のせいなんだ。 「麻生は自分のレッスン時間を葵にとられたと思いこんでる」 声には出さなかった僕の疑問に、あっさりと悟先輩は答えをくれた。 「まさか」 「そう、まさか、だよ」 悟先輩はちょっとがっかりした様子だ。 「僕はそんなことはしない。麻生にまだ僕のレッスンが必要なら続けている。もう必要ないと判断したから…なのに」 ああ、そうか。 麻生は悟先輩が好きなんだ。側にいたかったんだ。だから悔しくって悲しくって。 たった週1回でも、二人きりになれる時間が…、先輩が自分だけに注意を向けてくれる時間がとても大切だったに違いない。 なんだかその気持ち、わかる…。 「麻生のレッスン、続けることは無理なんですか?」 「葵?」 悟先輩の怪訝そうな顔。 先輩は麻生の気持ちに気がついてないんだ。 「あ、ごめんなさい。先輩の決められたことなのに」 「葵が心配することは何もないんだ。麻生の誤解はきちんと僕が解くから」 ううん、麻生はきっと、僕がいるとかいないとか、そんなの二の次だ。 ただ、先輩との時間を無くしたくないだけなのに。 「それはそうと、葵、今なんていった?」 え? 何か言ったっけ…? 「この口はいつまでたっても僕との約束が守れないんだね」 …しまったっ。…と思ったときにはもう遅かった。 僕の唇はしっかりお仕置きを受けていた。 しかも…いつもより長い。 舌と一緒に僕の吐息ごと絡め取られていく…。 抱きしめられる息苦しさも手伝って、少し目眩がした。体の力が抜けていく。 ……このままじゃダメだ! 僕はかなりもがいた。流されてはいけないという思いが、僕の体に少しだけ力を返した。 そしてようやく、悟先輩との間にわずかの隙間を作ることに成功した。 「葵は…僕のことが嫌い…?」 それでも抱きしめられたまま、先輩の胸で息をついていた僕の頭上に降ってきた言葉は、いったい誰のものかわからないほど、震えて、掠れた声だった。 僕は思わず顔を上げる。 そこにいるのは紛れもなく…ううん、違う、僕が見たのは、今まで見たこともない悟先輩の瞳だった。 知的で涼やかな真っ黒の瞳が、濡れている。 …ま、さ、か…。 まさかと思ったときには再び抱きしめられていて、もう一度その瞳を見ることはできなかった。 「嫌いにならないで…。僕はこんなに葵のことが…好きなのに」 悟先輩…どうしたの…? あ…あぁぁ、どうしよう…。僕が先輩を嫌いになれるはずがないのにっ。 でも、一度口にしてしまうと、僕はもう、自分に責任が持てなくなる。 絶対に流されまいと決めたのに。溺れないと決めたのに。 僕は悟先輩にしがみついていた。 言葉にできない分、思いを込めてしがみついた。 初めて抱き返した僕に、先輩の体がピクッと震えたのが伝わった。 「少しでも葵に好きになってもらえるように努力するよ、だから…」 耳元に熱い息がかかる。 …僕は先輩の言葉に一瞬自分を見失った。 冷静であろうとしていたのに! 「ち、がう…」 「葵…」 抱きしめられていた体が少し離されて、悟先輩の潤んだ瞳が僕を覗き込んだ。 「違う! そうじゃない! 僕は…僕は先輩に好きになってもらえるような人間じゃない!」 僕の声は悲鳴に近かった。涙は勝手に溢れ出た。 そして悟先輩の声はいつもの穏やかな柔らかい声だった。 「葵がどんな人間だってかまわない。葵でさえあれば。僕が好きなのは、葵。ここにいる葵。他の誰でもない」 悟先輩が微笑んだ。 僕はその微笑みの中に先輩の『本気』を見てしまった。 見てはいけなかったのに。 知ってはいけなかったのに。 でも…僕は知ってしまった。 僕は流されない。溺れない。そう決めていたのに…。 「悟が…好き…」 そう、僕は悟が好き。 誰よりも悟が好き。 誰にも渡したくないくらい悟が好き。 悟の気持ちが僕から離れても、それでもきっと、僕は悟が好き。 微かに震える悟の両手が僕の頬を包み、親指が僕の涙の跡をたどり、そのままじっと見つめ合う。 やがてコツンと額が合わされた。 「葵…僕の葵」 悟はうっとりと呟いた。 で、悲しいかな、このシチュエーションでもきちんとレッスンをしてしまうのが、僕と悟だった。 課題はもちろん全部合格。 レッスンはとても幸せで、僕は麻生のことを完全に忘れ去ってしまっていた。 そして、自分のすべてを悟にさらけ出すという覚悟のないまま、悟の気持ちを受け入れ、自分の気持ちを認めてしまった僕は、また新たな懊悩を抱えることになった。 |
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僕にとって祇園囃子が聞こえてこない初めての夏。 去年までは当たり前のように、鉾の上で笛を吹いていたのに。 TVで見る祇園祭のニュースはどこか遠い国のもののように、僕の目に映る。 7月も半ば。 発表された期末試験の結果は、僕の思ったとおりのものだった。 昼休みの廊下に張り出された紙の、一番最初の名前は祐介だった。次が僕。ついに追いつかれたんだ。 「ついにやられちゃったな」 張り紙を前にそう言った僕。 祐介は『はぁぁぁぁ…』と長いため息を吐いた。 「発表が50音順だったおかげだな」 「何言ってんの。ABC順でも生まれ月順でも祐介が一番だよ」 「追いついただけだよ。同点じゃないか」 「まあね」 今回はかなり上位が入れ替わっていた。 涼太によると、『正真正銘』の上位五人以外がみんな順位を下げたらしい。…と言うよりは『持ち上がり組』が、がんばった結果じゃないかと思うんだけど。 涼太は順位を1ケタに乗せ、陽司は10番台に上がり、祐介様々と手を合わせていた。 がんばる祐介に刺激を受けた結果なんだそうだ。 そう言えば3人とも夜中までがんばってたみたいだったな。 僕は消灯1時間後には夢の国の住人だったからな…。 2学期はもうちょっとがんばらなきゃまずいだろう。 このまま順位を下げるのも悔しいし、何より奨学生って立場があるし…。 そんなことを考えながらふと視線を泳がせた先に、食い入るように順位表を見つめる、唇を噛んだ横顔があった。 麻生だった。 そう言えばあの件はどうなったんだろう。 悟が考え直してくれているといいんだけど、あれっきり何も聞いてない。 僕の視線の先に気づいたのか、陽司がそっと耳打ちしてきた。 「あいつ、高校になってからさっぱりなんだ」 え、そうなの? 「中学時代は20番台をキープしてたし、たまに10番台もあったと思うんだけどね」 「よく知ってるね」 人の成績まで覚えてるか?普通。 「ま、あいつもアイドルの一人だったからね」 ああ、そういうことか。確かに可愛いもんな。 「今回なんと82番。ちょっとあんまりかもな」 なんだか変な感じがした。こう、胸を塞ぐような。 まさかとは思うけど、あのことが原因なんてことないよね。 「おっ、一年はダブルトップか! 相変わらず仲がいいな、お前たちは」 背後からいきなり、腰砕けになりそうな美声が降りかかってきた。と、同時に…。 うわっ。いきなり後ろから羽交い締めなんて。 声の主は管弦楽部の3年生、コントラバス奏者の本山先輩だった。 いかにも「弦バス」ってガタイの人で、開けっぴろげで面倒見がいいから下級生の人気も高い。 楽器が奏でる低音の魅力と、そのガタイからは想像もつかないテノールの美声が売りのお茶目な先輩だ。 「先輩、葵は僕のものですから気安く触らないで下さい」 おいっ、何を言い出す、祐介っ! 「ケチケチすんな、浅井。奈月は管弦楽部全員のペットだ」 ぺ、ペットぉぉぉ? ……こいつら……腐ってる。 「しかし、やったな。3学年完全制覇だ」 先輩は僕を抱き込んだまま嬉しそうに言う。 「ということは…」 祐介が僕を引き剥がそうとしながらも、嬉しそうに先輩の顔を見る。 「ついに3年も坂口がやってくれたぞ。2年は悟が万年トップだし、1年はお前たちがいるから心配はしてなかったがな」 要は3学年とも管弦楽部が1番を占めたということらしい。 そうか、悟は万年トップなのか。 あんなに忙しい毎日を送っていて、いったいいつ勉強してるんだろう。 …うわっ! いきなり僕を突き飛ばすようにぶつかって、走り去るヤツがいた。 やっぱり、麻生だ…。 今の会話が耳に入ったんだろうか。 「大丈夫か、葵」 祐介が肩を抱き留めてくれた。 「あいつ、最近煮詰まってんな。弾いてるときも上の空だし」 本山先輩の言葉に、僕は思わず顔を上げてその表情を見た。 先輩はにっこり笑って僕の頭をくしゃっと撫でた。 「奈月が気にすることじゃないさ。どうせ原因は悟だ」 僕の体が微妙に揺れた。 …気づかれなかっただろうか。 僕の肩にある祐介の指に力が入った。 その日の夜、僕と悟は第1練習室にいた。 『プーランクのソナタ』の伴奏合わせのためだ。 1時間後には昇先輩と守先輩も来る。 今度のコンサートでは、『桐生三兄弟』の夢のトリオが実現することになっているんだ。 祐介によると、彼らが中学2年の時以来、3年ぶりの顔合わせらしい。 いつでも見られそうで、実は滅多にお目にかかれない豪華なピアノ・トリオとあって、今から管弦楽部の生徒はワクワクしているそうだ。 で、今夜僕は、その練習のお供をすることになっている。 悟の楽譜をめくる役目、つまり『譜めくり』を仰せつかったんだ。 見た目はただ楽譜をめくればいいだけに見えるけど、実はこれって結構難しい、神経を使う作業なんだ。 音楽の邪魔になってはいけないのはもちろん、ピアニストの目の動きに合わせてめくらなきゃいけないし、ピアニストの好みもある。 早めにめくるとか、ゆっくりとめくるとかね。 ついこの間ピアノを始めたばかりの僕には酷だと思うんだけど、悟は『これも勉強だから』って言うんだ。 ま、本番の日は違う人がやるんだからいいか。 「始めようか」 悟がピアノの鍵盤でAの音を鳴らす。 僕はフルートの歌口をゆっくり唇に当て、お腹の底からスピードをつけて息をたっぷり送り込む。 悟のAと僕のAがぴたっと波長を合わせたのを確認して、僕は頷く。そして、音の世界に身を投げる。 僕が吹く5つ目の音にピッタリと合わせて、悟の指先から心地よい音色が紡ぎ出される…。 僕はその上に身を委ねる。 初めて合わせたとは思えないほど、僕の音に悟の音はぴったりより沿って、触れあったり囁き合ったりしながら昇り詰めていく。 しばらくはその感覚に任せたままにしていたんだけど…。 ん? 悟…遅れてる? 今まで寸分違わず寄り添っていた音が、ふとした弾みに後を追う形になる。 僕は不審に思いながらも、まさか自分からやめるわけにもいかず、そのまま第1楽章を吹き終わった。 楽器をおろした僕は、悟を見た。 悟はじっとしたまま動かない。 やがて絞り出すように声を出した。 「…ごめん、葵。ついていけなかった…」 え、それって、どういう…。 「僕の練習不足だ。今の演奏では完全に葵の足手まといになる」 悟の言葉の意味がよくわからなかった。 どうして悟が僕の足手まといになるんだ。反対ならわかるけど。 「もう一度、一から練習し直しておく。次には葵の負担にならないようにするから…」 そう言って悟はピアノの蓋を閉じた。 立ち上がって僕の側に来ると、そっとフルートを取り上げてピアノの上に置いた。 「ほんとにごめん。…しっかりしなきゃ、葵に愛想をつかされるな」 な、なにをっ…! 「どうして、どうしてそんなこと言うのっ」 冗談でもいってほしくない。僕が悟に愛想を尽かすだなんて。 悟が僕に愛想を尽かすことはあっても、逆はないっ。 涙声になった僕を、悟はギュッと抱きしめてくれた。 「今日のは本当に僕が悪い。譜面が簡単だから、甘く見ていたんだ。葵は全力でやっているのに」 悟…そんなに真剣になってくれているんだ。 「でも、こんなに忙しくちゃ、僕の伴奏にまで時間をとってもらうわけにいかないから」 僕は悟の背中に手を回しながら言った。 「だいたい、いつ勉強してるんだろうって不思議に思ってたんだ。毎日後輩の面倒までみてるのに、万年トップだって聞いたから」 『クスッ』っと笑って悟は僕の鼻先にキスを落とした。 「時間は作るものなんだ。その気になればいくらでもできる。そう言う葵こそ、いつ勉強してるんだ? テスト1週間前でも消灯まで練習室にいたのは葵だけだって、警備員の人が言ってたよ。フルートじゃなくて、ピアノ弾いてるってことも」 げ。ばれてる。 「しかも、寮へ戻ったらそのまま朝まで熟睡してるって」 ちょ、ちょっと待ったぁ〜! 「…どうして悟がそんなこと知ってるの?」 「葵のことはみんな知ってる。教室に教科書置きっぱなしっていうこともね」 が〜ん。そんなことまでばれていたとは…。 「だから、いつ勉強してるのかなって」 クスクス笑いながら、悟は僕を抱き締め直した。 こんな感じで、あの日から僕たちはいろいろなことを話し、感じ、どんどん距離を縮め、どんどん想いを深めていた。 けれど、悟の行為はキス以上に進むことはなかったし、特にあやしい雰囲気にもならなかったから、僕は抱えている不安めいたものはとりあえず全て、心の奥底へしまい込んで考えないようにしていた。 「でも、羨ましいな」 壁際のイスに二人並んで腰掛けて、僕は肩を抱いてくれている悟に頭を持たせかけて言った。 「何が?」 「兄弟で合奏ができるなんて」 「そうか、葵は一人っ子だったね」 「そんなことまで知ってるの?!」 本当にびっくりした。だって、そう言う類の話は誰にもしてないから。 祐介にだって自分から話したことは何もない。 悟はどこまで知ってるんだろう…。 急に不安になった。 もしかしたら悟の情報源は光安先生かも知れない。 光安先生が『僕の事情』をどこまで知っているかもわからないけど。 「葵のことは何でも知ってるんだって」 そう言いながら悟が僕の耳に唇を寄せた時、重い防音扉をノックする鈍い音がした。 ドアの小窓からは死角になっているとは言うものの、僕はあわてて悟から離れた。 悟は余裕で笑ってる。…もうっ。 「よ、お邪魔」 元気に入ってきたのは守先輩。 チェロを持つ姿も見とれてしまうほどかっこいい。 180cmある悟よりもまだ少し背が高い守先輩は、さすがにハーフというべきか、モデルも真っ青のルックスとスタイルで聖陵一のプレイボーイの名を欲しいままにしている(らしい)。 「まったくもう、守ったら時間だってのに下級生とどっかにしけこんじゃってさー。どれだけ探したと思ってんのさ」 後ろをついてきたのは、ふくれた顔も美しい昇先輩。 僕は未だに、この人の口から日本語が出てくることを不思議に思ってしまう。 しかも、結構口が悪かったりするんだ。 僕よりほんの少し背が高いんだけど、とっても華奢で、思わず守ってあげたくなっちゃうって感じかな。 しかし、三人揃うと壮観…。 全然タイプの違う超美形の三兄弟が、揃いも揃って頭脳明晰(守先輩はいつも10番以内で、昇先輩も落としても20番台はキープしてるんだそうだ)で音楽の才能に溢れてるなんて、そんなのあり?って思っちゃうよ。 ま、三人のお父さんは世界的な指揮者だし、それぞれのお母さんも名の通った音楽家だからしょうがないか。 「葵、そんなに見つめると誤解しちゃうよ」 ハッと気づけば目の前に守先輩のアップ。 うわっと思っている間もなく、唇が塞がれていた。 …う・そ。 さすがというか、なんというか…。 「守…覚えてろよ」 トーンを落とした声で、守先輩の首根っこを掴んで僕から引き剥がしたのは、当然というか、悟だった。 「いいじゃんかー、減るもんじゃなし」 「減るっ!」 この人たちってー。なんとかしてくれー。 ……まてよ。守先輩って、僕たちのこと知ってるわけ? 「入ってもいいですか?」 ん? まだ誰かいた。ドアのほうを見れば…。 あ、麻生! 「ぜひ見学したいって言うから連れてきたんだ。いいだろ」 昇先輩はそう言いながら、麻生を中へ引き入れた。 「すみません。お邪魔にならないようにしますから」 そう言って麻生はにっこりと微笑んだ。 なるほど、可愛い。 「ごめんね、奈月くん。お邪魔して」 おいっ、『お邪魔』の部分がやけに強調されてたぞ。 だいたいさっきの態度とエライ違いじゃないか。 なんだか嫌な予感がしないでもないけど、仲良くなれるならそれに越したことないからな。うん。 「じゃ、始めようか」 さすがコンサートマスター。 昇先輩は絶妙のタイミングで促して、チューニングに取りかかる。 曲はブラームスのピアノ三重奏曲。難曲だ。 しかし…、なんだこりゃ。 ピアノ譜はまるで抽象画のようだ。音符が入り乱れて何がなんだかわかんない。 全部読んでちゃ間に合わないから、大事な音を見落とさないようにっと…。 練習は、練習と思えないほど熱の入った演奏だった。 このまま明日本番でも大丈夫なんじゃないだろうか。 いくら血がつながってるとは言え、これはもう…羨ましいったら…。 悟は、ページの変わり目をほぼ暗譜をしているようで、僕の譜めくりでも難なく乗り切れた。ホッとした。 最後の一回を通し終えたところで、大きく拍手が贈られた。もちろん麻生だ。 「僕、感動しちゃいました」 そうだろう、そうだろう。僕だってそうだ。 三人のアーティストはそれぞれに『ありがとう』と応えていたんだけれど、悟だけは返事だけで、麻生の方を見ようとしない。 それはまずいんじゃ…と思ったとき、麻生が僕に向き直った。 笑っている。 けれど、ゾッとするようなよくない笑い…。 「奈月くんもたいしたものだね。一人前にピアノ譜が読めるようになったわけ?」 「おかげさまで」 おあいにく様、僕はちょっとやそっとの皮肉じゃ動じないぞ。 「そりゃそうだね。なにしろ悟先輩がつきっきりだもの」 やっぱりそう来るか。 「さすが、A特待の生徒は出来が違うよね」 え…。 僕は全身の血液が冷えていく感じを覚えていた。 |
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