第4幕「ピアノレッスン」
【3】
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「ごめんね、奈月くん。あんまりきみが優秀なもので、ちょっと調べさせてもらったんだ。僕の祖父はここの理事会のメンバーだからね」 麻生が綺麗な笑顔を浮かべた。 …何が…言いたいんだ。 「いくら優秀な生徒でも、ただ優秀なだけではA特待にはなれないものね。一番重要な条件は『親権者に収入がないこと』。これって普通は考えにくいよね」 「言いたいことがあるならはっきり言えよ」 そう言った僕の声は、掠れていたかも知れない。 「そういってもらえるとありがたいな。じゃ、遠慮なくいわせてもらう。 きみって誰の子かわかんないんだってね。…すっかり騙されちゃったよ。綺麗で頭がいいから、てっきりいいところのおぼっちゃまだとばかり思ってた」 僕は…何も言えなかった。 麻生の口から吐き出される、僕への憎悪に満ちた言葉を受け止めるのに精一杯で、まわりに悟たちがいることすら忘れていたのかも知れない。 麻生は『クスッ』と笑いを漏らした。 それは小さいけれど、僕には勝ち誇った笑いに聞こえた。 「まさか、芸者が産み落とした私生児だったとはね」 「な…っ!」 僕の冷えていた血液は、その一言で一気に沸騰した。 唇を噛みしめた口の中に鉄の味が広がってくる。 そうだ、以前もこんなことがあった。小学校の頃だ。 何が原因だったかもう忘れたけれど、上級生と言い争いになって僕が勝った。 その時の相手の言葉…。 『私生児のくせに、偉そうな顔するんじゃない!』 あの時僕は上級生に殴りかかり、僕も怪我をしたけれど相手にも多大なダメージを与えてしまったんだ。 母さんは相手の家に謝罪に行った。 『僕は悪くないのにどうして謝りになんか行ったんや!』となじる僕に、母さんは静かに言ったんだ。 『葵も友達も、誰も悪くなんかないんや。悪いのは母さんやから、母さんを叩いて。葵を辛い目に遭わせるのは母さんのせいやから、母さんを叩いて』 そして、母さんは教えてくれた。 『葵という宝物をくれたあの人を、今でも想い続けているんや…』と。 僕は一つ、大きく息をした。 「それで?」 出た声は、酷く冷めたものだった。 「それでって…。呆れた。開き直る気? さすがだね、雑草の強さってやつ?」 麻生の言葉はますます険を含んでいく。 『友達は悪くないの』 母さんの言葉がこだまする。 「麻生…。悪いけど、僕はその事を恥じてはいない。けれど、その事がきみを不愉快にさせるのなら…」 不愉快にさせるのなら…? そのあとは何? 謝る? …とんでもない! 母さんも僕も謝ることなんて何もないんだ! 「不愉快だよっ! お前みたいな汚らわしいヤツが悟先輩の側にいるなんて、許さないっ!」 汚らわしい…? 僕の中で、忘れていた何かが頭をもたげた。 僕は…汚れている…の? 「そこまでだ」 低い声で告げたのは悟だった。 「麻生、もう帰りなさい」 「悟先輩…」 麻生はすがるような瞳で悟を見上げた。 「今日は、帰りなさい」 その瞳から涙が溢れた。 けれど、麻生はその場に張り付いたように動かない。 「しょうがないなー、『婚外子友の会』でも創るか」 雰囲気ぶち壊し(?)の、めちゃめちゃ明るい声で言ったのは守先輩だった。 「それいいね。葵、仲良くやろう」 昇先輩が僕の肩を抱く。 蒼い瞳が近づいて来た…。 えっ? な、何っ。ちょっと! 昇先輩っ! …うわぁっ…! 「麻生、俺と昇も愛人の子だよ。俺たちといるのも不愉快かな?」 守先輩の言葉が、楽しげな色を含んで僕の耳元を通り過ぎていく。 「あ…っ」 弾けたように顔を上げた麻生が、そのまま部屋を飛び出していくのが目の端に映った。 けど、僕は…。 「ん…んんっ…!」 悟っ、何とかしてっ。 「あーーーーーーーっ! 昇! 何してるんだ!!」 やっとの事で悟が、僕から昇先輩を引き剥がしてくれた。 め、目が回る…。 悟にだってされたことのないような…されたことがないとは言わないけど…ディープなキスに、足もふらついて、思わず悟にもたれかかってしまった。 「お前ちょとやり過ぎじゃないか」 守先輩が呆れたように昇先輩のおでこを小突く。 「だってー、悟も守もキスしたクセに、僕だけなしってことはないだろー。僕だって葵のことは気に入ってるんだ」 …ちょっと待った。 悟も? も? …って、何で知ってるわけ? 「なんかこう、葵を見てると僕の中の何かが目覚めて来るって言うか…」 「おい、お前それはヤバイぞ」 「ヤバイかなぁ」 何の話をしてるんだぁぁーーー!! …と、悟は僕をギュッと抱きしめたままだ。 「だめだ、悟のヤツ、自分の世界を作ってやがる」 「ほんと。やだなぁもう」 「オレ、麻生の様子見てこよっと」 「あん、待ってよ、僕も行く」 「悟、片づけ頼んだぜ」 「あ、悟、葵の口の中、ちゃんと見てやってよ。噛みしめてたんだろ、血の味がしたからね」 『クセになりそう』とか何とか言いながら、お二人さんはバタバタと出ていってしまった。 で、すでに悟は僕のお口の中を確認してくれているようだ…。 下唇の裏にできた噛み傷を探り当てて、悟の舌がそっとなぞっていく。 そのまま深く口づけて、僕はやっと解放された。 「葵、僕はきみのお母さんに会ってみたかったよ」 「さ、とる…」 「葵をこんなに強く、優しく育てた素敵なお母さんに、会ってみたかった」 悟はギュッと僕を抱きしめた。 悟は、僕の母さんがもういないことも知っているんだ…。 「悟は僕の何を知っているの?」 僕は悟の体をほんの少し押し戻して、顔を見上げた。 その時、悟の表情にほんの僅か、逡巡の色が見えた。 「A特待のこと、肉親と呼べる人がもういないこと…それだけだ」 それだけ? 本当に? 「僕のこと、可哀相だと思った…?」 僕の声は酷くうつろだった。 僕は今までずっと考えていた。 悟が僕のどこを好きになったのかを。 僕に思い当たることと言えば、僕のプラス要因ばかりだった。 それならそれで、誤解されたままでいようと決めていた。悟が創り上げている僕の虚像をそのまま大事にしていこうと。 それがまさか、僕のマイナス要因が同情を呼んでいたんだなんて…。 「可哀相で、思わず同情しちゃったんだね…」 僕は力無く呟いた。 そして、すでに引き返せなくなっている僕の心を、力でねじ伏せようとした。 「…好きになんか…なるんじゃ…なかっ…」 絞り出すように言った瞬間、視界がグラリと揺れて、僕の目には練習室の天井が映った。 背中に悟の腕と固い床、そして体の上には悟の重みを感じていた。 「何の話?」 聞こえたのは、低く抑揚のない声。 そして目の前にあるのは、射抜くような悟の瞳。 情けないのと、悲しいのと、怖いのと、息苦しいのから逃れようと、僕は必死でもがいた。 「は…なしてっ」 「離さない」 悟の拘束はますますきつくなり、僕は声を上げることもままならなくなっていった。 「僕が同情したって? 可哀相な葵に惹かれたって?」 そう言った唇が僕の首にかかった。 左の首から耳にかけて吐息と共にゆっくりとはい上がってくる…。 「酷いこと言うんだね…」 低く掠れた声、ほとんど息のような声が僕の耳に囁かれ、通り抜けていった。 「どんな葵もみんな一人の葵…。僕の大好きな葵。僕の心を開いてくれた…」 悟の心…? 少し緩められた拘束から、僕は大きく息を吸って悟を見た。 「葵はね、大事なものから目をそらしていた僕を、呼び戻してくれたんだ」 「大事なもの…?」 悟は『フーッ』と息をつくと、僕を抱いたまま体を反転させ、今度は僕が悟の体の上に乗る格好になった。 「家から近い、幼稚園から大学までエスカレーターの私立に通っていた僕たち兄弟が、わざわざ寮生になってまでここへ入ったのはなぜだと思う?」 え? それはやっぱり…。 「管弦楽部があるからじゃないの?」 「はずれ。僕はオケ楽器はやってないよ」 …そうだった。 悟は僕の髪を梳きながらゆっくり体を起こした。 僕を横抱きになるような形で抱え直し、立てた片方の膝に僕をもたれさせるようにさせると、両腕でスッポリと包んでくれる。 心臓の音が…近い…。 悟の鼓動も、少し落ち着きをなくしている…? 「母が僕たちを家から逃がしたんだ」 「…え!?」 「正確には、昇と守を逃がした…だな」 全く予想外の展開に僕の思考はフリーズ寸前になった。 「僕らが異母兄弟なのは知ってるだろう」 僕は仕方なく頷く。 悟は柔らかい微笑みを浮かべた。 「遠慮しなくていいよ。別に秘密にしているわけじゃないし、第一、見ればわかるからね」 声のトーンを少し落として、悟の話は続いた。 「母は僕たちが小学校6年になる頃、正式に離婚して実家に帰った。もちろん僕たち3人を連れてね。 本当は実家に帰らずに、そのまま親子4人で暮らしたかったんだと言っていたけど、大学で教え、離婚と同時に演奏活動を再開した母にとって、実家は安心して僕らを残していける場所だった。 その頃は祖父母もいたし、身の回りの世話をしてくれる人も何人かいたからね。ところが…」 悟は僕を抱く腕に少し力を込めた。 「そうじゃなかったんだ」 辛そうに俯く悟。 僕は思わずその頬に指を触れていた。悟はその指に微かにキスを残し、言った。 「実家は昇と守にとって、安全なところではなかった」 僕は嫌な予感に、唇を噛んでいた。 「祖母の…虐待があったんだ」 「……!」 瞬間、その言葉にシンクロした、僕自身の過去の感覚が背中を焼いた。 思わず身を竦ませた僕の背中を、悟の手がゆっくりたどる。 「二人は何にも言わなかった。黙って耐えていたんだ。 母がおかしいと気づいたのは何ヶ月も経ってからだった。気づいた母は、とりあえず二人を光安先生に預け、春になって僕らをここへ入れた。 家を出るときに母は僕に言った。『あなたはお兄ちゃんなんだから、昇と守のことをしっかりと守っていくのよ』って。…けれど、僕は何もわかっていなかった。 昇と守が受けた心と身体の傷に、全く気がついていなかったんだ。誰よりも近くに、いつも側にいたのに」 悟の手は、ずっと僕の背中を柔らかくさすっている。 「知ったのは、ここへ入って最初の夏。祖父が倒れて、僕だけが呼び返された。その時に、僕は祖母の中の闇を知ったんだ。 …僕はもう、聖陵へは戻れないと思った。昇と守の前にどんな顔をして戻ればいいか、わからなかった」 僕の手のひらは、いつの間にかまた、悟の頬に触れていた。その手の上に悟がまた、手を重ねる。 「なかなか戻ろうとしない僕に、二人は電話をくれた。『早く帰ってきて。悟がいないと寂しい』ってね…」 悟の瞳からわずかに零れたもので、僕の手が濡れた。 「その言葉に励まされて帰ってきたけれど、僕は二人に対する罪悪感から、以前のように振る舞うことができなくなっていった。 嬉しいとか悲しいとか、それが欲しいとか、あれはいらないとか…、そんな感情を全部閉じこめてしまった。 それが余計に二人を傷つけることは、わかっていたのに…。それでも僕は、僕の心に鍵をかけた」 僕の手をゆっくりはずし、微笑んだ悟は本当に綺麗だった。 「こんな風に心のまま振る舞えるようになったのは、葵のおかげなんだ」 どうして僕…? 「初めて会ったときに思った。『この子の側にいたい』『この子が欲しい』ってね。でも、心を開いて全力でぶつからなければ、葵の気持ちが手にはいるわけない。僕は必死だった。 そして、僕の変化に気づいた昇と守は…」 悟はおかしそうにクスクスと笑い声を漏らした。 「おおはしゃぎだったよ」 「悟…」 僕の視界が霞んでくる。 「葵は僕たち兄弟を、救ってくれたんだ」 「悟!」 僕は悟の首にしがみついた。 僕が、『溺れまい、流されまい』と勝手にあがいていたときにも、悟は全力で僕を求めていてくれたんだ。 わかったような顔をして、何にもわかっちゃいなかったんだ、愚かな僕は。 自分が傷つかない為に、精一杯壁を作って…。 「僕は葵の全てが好きだ。何もかもだ」 言葉の内容とは裏腹に、急に悟の声が硬質なものに変わった。 僕はあわてて悟の首から手をはずした。 微笑んでいない悟は、また射抜くような目で僕を見ていて…。 「僕を信じてくれる?」 悟の目は、僕を信じていると語っていた。 迷うことは何もない…。 僕は静かに、けれどしっかりと頷いた。 けれど、悟は微笑まない。 変わりにその手が僕の背中を再びたどった。 「もう一度言うよ。…僕は葵の全てが好きだ」 背中の手に力がこもった。 僕の全ての感覚がそこへ集中する。 悟の暖かくて大きな掌が、傷跡を伝っていく…。 悟…まさか…知ってる…? 「ど、うし、て」 声が、出ない…。 「階段から落ちたとき、うなされていた。『背中が熱い』って」 「あっ……!」 とっさに僕は両手で口を押さえ、溢れ出る嗚咽を押しとどめようとした。 けれど、その手は悟に剥がされた。 「葵、泣いていいから…、泣きたいだけ泣いたらいい。僕の腕の中ならいくらでも泣いていい。けれど…」 ぶつかるように唇が合わされた。嗚咽も涙も丸ごと絡め取られていく。 「もう、絶対に一人で泣かないで」 きつく抱きしめられた僕の心から、何かが剥がれ落ちていく。 音を立てて…。 どれくらいそうしていたんだろう。 どっぷり自分の世界に浸っていた僕たちを、いつもの世界に引きずり戻したのは、消灯10分前を告げる放送だった。 「えっ!? もうそんな時間?!」 あと5分で点呼だ。点呼の時間に部屋にいないと大変なことになるっ。 「葵! 急ごう、ここの片づけなんて、明日でいいから」 そう言うと、悟は僕の手を取り、駈けだした。 乱暴に防音扉を閉め、階段を駆け下りる。 ここから寮までは距離的には3分。 けど、上り坂のおかげで、歩くと実質5分…。 「葵、短距離は学年何位だった?」 走りながら悟が聞く。 「んっと、9位」 「早いんだな」 「悟は?」 「12位」 「変わらないじゃない」 喋りながら上り坂を上がるという暴挙をやった僕たちは、それでも点呼ぎりぎりに3階までたどり着いた。 「葵、おやすみ」 悟は僕の頬にかすめるようなキスを残して、部屋へ走っていった。 「葵! 早くっ」 頭上からいきなり降ってきたのは祐介の声だった。 僕はもう1階分を駆け上がり、祐介に引っ張られて部屋へ向かった。 この日、僕の心の壁はすっかり剥がれ落ちていたんだけれど、剥がれた下に、何か置き去りにしていたような気がして、僕はなかなか寝付けなかった。 疲れてようやくうとうとし始めた明け方、僕は夢を見た。 そう、僕の中で何かがゆっくりと起きあがってくる…。 僕は、まだ何かを、忘れている…? 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第4幕「ピアノレッスン」 END
Variation:自分にもあの笑顔を向けて欲しいから。→*「君の心に触れてみたい」へ*