「君の心に触れてみたい」
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「待てってば…っ」 走って走って、やっと追いついた小柄な身体。 すぐに追いつけると高をくくっていたら、案外しぶとく逃げてくれた。 そう、どこにこんな体力が隠されているのかと思うほど、麻生隆也は走って走って走りまくった。 広大な学院の敷地の中。 隠れられそうなところはいくらでもあるのに、聖陵の生徒はなぜか皆、嫌なことがあると裏山へ逃げる。 それはきっと、学校が建つずっと前からここに佇むたくさんの木々が、傷ついた心を優しく包んでくれるから…。 誰もそんなことは口にしないけれど、でも、泣きたくなったときは、ここの緑が、葉の囁きが、梢の蔭がそっと自分を隠してくれると思っている。 隆也もその一人だ。 中学に入ってホームシックになったときも、成績を落として父の叱責を受けたときも、クラスメイトとケンカしたときも、必ずこの裏山のどこかで泣いていた。 そして今、ずっと憧れ続けた人の心が、もう、他の誰かのものになってしまったと思い知り、失恋の涙を流しにやって来た。 こんな時は一人で泣くものだ。 しかし、そんな隆也をここまで追ってきた人間がいた。 『桐生守』 長い間憧れてきた人の、弟。 荒い息をついて、一際大きな木の根本に座り込む隆也の隣に、それほど息を乱していない守が肩を抱くように寄り添った。 隆也の息が納まるのを待って、その手によく冷えた缶を握らせる。 「守先輩…」 走って追いかけてきたはずの守が、いつの間にこんなものを手に入れていたのか。 不思議に思い、その顔を見上げた隆也に、守は『おやっ』という顔を見せた。 「あ、リンゴジュース嫌いだった?」 自分の手にはしっかりコーヒーの缶を握っている。 隆也は小さく首を振る。 「そうじゃなくて…あの…これ、いつの間に…」 「ん?」 守はさっさと自分の缶のプルトップを引いている。 「ああ、お前を追っかけてる途中にホールのロビーで買った」 なんでもないように言って、一口喉に流し込む。 消灯まであとどれくらいか。 こんな時間にここへ来る生徒はまずいない。 裏山の森とはいえ校内。 安全や非常時のことを考慮して、ところどころ灯りがともされているから、表情くらいはかろうじてわかるのだが、それでも、その灯りから外れたところは漆黒の闇。 そんな中を追ってくるのに、途中で缶ジュースを買ってくる余裕はいったいどこから来るのか。 隆也は自分がなぜここにいるのか、一瞬失念してしまう。 ジッと見つめてくる隆也の視線に、守は優しい視線を返してから、大きな声で笑った。 「あははっ、寄り道してなきゃホールのすぐ外で追いついてるさ。俺、短距離も長距離も学年1番だぜ」 そう言って、缶の中身をグッと流し込む。 「隆也は?」 「え?」 何を聞かれたのかわからなかった。 しかも今、守は隆也を名前で呼んだ。 今までずっと『麻生』と呼んでいたのに。 「隆也は走るの得意か?」 もう一度聞かれても、困る。 隆也のタイムは下から数えた方が早いのだ。 仕方なく俯いて首を振る。 1学期の体力テストもかなり酷かった。 もともと運動は得意ではないのだから。 そんなことを考えると、ふと、苦しかった3km走を思い出す。 自分がかろうじて走り終えた距離を、浅井祐介は楽々と飛ばして、1位は逃したものの、確か上位5位には入っていた。 それは中等部からずっと見てきた光景。 祐介は何でもできる。勉強もスポーツも。 けれど、それを羨ましいと思ったことは、なぜか一度もなかった。 なのに、あいつが1桁の順位にくい込んだのを見たときは、どうしようもなく悔しかった。 あいつも何でもできる。 祐介よりももっと、たくさんの才能を一人で抱えこんだ嫌なヤツ。 あいつが憧れの人と話しているのを見るたびに、どうしようもなく悲しくなった。 ポロッと一つ、隆也の頬を涙が滑り落ちた。 「悟のヤツ…全部知ってたんだ…」 「え…っ?」 唐突に、静かに流れた言葉に、隆也は瞳を張りつめて、守を見返した。 「葵の生い立ちがどうであろうと、あいつには関係ないんだよ…」 手にしていた缶が滑り落ちる。 湿った音が、柔らかい地面に染み込んだ。 「あ…」 では自分のしたことは何だったのだ。 隆也は体中から、熱が去っていくのを感じていた。 「俺たちも端から見ればそう言う風に見えるのかなぁ…」 ふと漏らした、守のそれは、本当に独り言だった。 しかし、今の隆也には責める言葉に聞こえてしまう。 「…ご、ごめんなさい……」 言って、嗚咽になりそうなのを必死で堪える。 肩を震わせる隆也に、守が慌てた。 「あ…あっと、悪いっ。そんなつもりじゃなくってさ」 弁解しながら、とりあえず背中をさすってみる。 その暖かい掌に、安心したのか、少し隆也が落ち着いたのを見て、守はまた、独り言のように話を始めた。 「俺たちは、それこそゆりかごの中から3人一緒に育ったから、母親が違うっていう意識がほとんどないんだ。かえって周りが変に気を遣ってくれて、うんざりしたこともあったくらいだし」 言葉を切って、黙って俯く隆也の頭をそっと抱き寄せてみる。 隆也はほとんど抗わずに頭を寄せてきた。 そんな仕種に、守は小さく笑みを漏らす。 「…ほんの一時期、嫌な目にあったことがある」 言葉の内容と裏腹な優しい声に、隆也が思わず顔を上げた。 守は真っ直ぐに前を見据えたまま続ける。 「けどさ、そんな時でも俺、生まれてきてよかったと思ってたし、親父や産んでくれた人のこと恨みもしなかったし…」 少しはにかんだように言う守の横顔を、隆也はジッと見つめた。 守は、正面から時折吹き付ける風を避けるように、涼やかな目をスウッと細めると、ふいに隆也の方を見た。 「葵だって、望まれて生まれてきたんだ。そりゃ、葵の親父は望まなかったのかもしれないけど、少なくとも葵のお袋さんは、葵のことを愛してた」 隆也は、唇を噛みしめて僅かに俯く。 「葵が綺麗なのは、外見だけじゃない…。隆也だって、ホントは気づいてるんだろ…?」 静かに問われて、隆也はまた浮かんできた涙をグッと堪えた。 そうだ。それが素直に認められるのなら、あんな事はしなかったのだ。 綺麗なだけ子なら、聖陵にはたくさんいる。 頭がいいだけの子もたくさんいる。 なのに、葵は何もかも持ちすぎていたのだ。 それが、どうしようもなく隆也を苛つかせた。 綺麗で、頭が良くて、才能に溢れて、優しい…。 そんな奇跡のような子がいきなり現れて、自分の憧れの人の心を奪ってしまった。 だから、必死になって葵の欠点を探した。 そして見つけたものは…。 あまりにも大きなものだった。 葵にとっては致命的な秘密…。 思わず有頂天になった。これで、悟の興味は削がれていくはずだった。 なのに、悟はすべてを知っていたのだという…。 「悟先輩は…奈月のこと、好きなんですよね…」 訊ねているというよりは、自身に確かめるように言う。 「そうだな…。最初からおもしろいほど夢中になってたな。悟のヤツ」 「やっぱり…」 守はひとつ息をして、慎重に言葉を紡いだ。 「学校のみんな…特に俺たちより下級生は知らないことだけれど、悟はもともとあんなに冷静で大人っぽいヤツじゃなかったんだ。もっともっと熱くて、負けん気の強いヤツだった」 その言葉を聞いて、隆也が不思議そうな顔を向ける。 隆也の知る悟は、いつも穏やかに微笑んでいる落ち着いた大人だ。 どんなときでも熱くならないし、いつでも輪の中心にいるのに、決して交わろうとしない孤高の人。 「これからどんどん悟は変わっていく…。いや、もとの明るくて活発な悟に戻っていく。それができるのは…」 その後を隆也が継いだ。 「奈月…なんですね」 悟がどうして『大人』になってしまったのか、隆也は知らない。 並大抵ではない事情があったに違いないのだろうが、今となっては知ろうとも思えない。 けれど、葵が、そんな悟を変えてしまうほど深く、悟の心に住み着いたことだけは嫌と言うほど、よく、わかる。 そして、それを成したのは、葵の綺麗な気持ち故…。 葵がどういう生い立ちをしていようが、その中身はどんなときでも一人の葵。 隆也は今になってようやく当たり前のことに気がついた。 …そうなのだ、これは葵が望んだことではないのだ。 葵だって、きっと、両親に守られて育ちたかったに違いない。 それが叶わなかったのは、葵のせいではない。 「守先輩…」 「ん?」 守は隆也の髪をそっと撫でる。 隆也は少し落ち着いたのか、されるがままに頭を寄せている。 「悟先輩は、奈月に同情したんですか…?」 同情と愛情の勘違い…。よくあることだ。 「諦めきれないか?」 呆れた風ではなく、真剣に訊ねてくれる守に、隆也は慌てて首を振る。 「違うんです。その…あんな事をした僕が言うのは、おかしいんですけど…。その…、同情はかえって奈月に失礼なんじゃないか…って」 守はまた俯いてしまった隆也の小さな身体をジッと見つめた。 さっき、憎悪の限りをぶちまけたあの隆也と、今の隆也…。 「隆也…お前って、可愛いなぁ」 思わずギュッと抱きしめる。 「せ、せんぱいっ」 「いいから、じっとしてろ」 抱きしめられた腕の中、守の声が胸から耳に、直に伝わって来る。 「悟の心の中は、俺にもわからない。だから、葵に対する悟の感情が同情なのか愛情なのか、それだってわからない。けどな…」 守は身体を離し、隆也の瞳をジッと見つめた。 「ひとつだけはっきりしてること…それは、悟は本気だ…ってことだ」 隆也の瞳から、一粒だけ、涙がこぼれ落ちた。 そして、ひとつ頷く。 『悟の本気』…それは自分にも痛いほどよくわかったから。 「悟のこと、好きならさぁ、正面からぶつかれよ」 親指で涙の筋をそっと拭い、おどけるように元気づけてくれる守に、隆也は首を振った。 ちょっと微笑みもつけてみた。 「僕、こう見えてもプライド高いんです」 わざわざ明るい声で言う。 「知ってるって」 守もふざけて返す。 隆也がクスッと笑った。 綻んだ花のような笑顔は、薄闇の中でも可憐な空気を漂わせ、その空気に、守の意識が引きつけられる。 「負けるとわかってる勝負にわざわざ出かけていくような真似、できません」 「そうでもないんじゃない?」 「え?」 守がニッと笑って、隆也の頭をクシャとかき混ぜる。 「今のお前の笑顔、葵に負けてなかったぜ」 そう言われて、隆也はふと思い至る。 そう言えば、葵の笑顔をまともに見つめたことはないのだ。 いつもいつも、あの笑顔を避けていた。 見てしまうと、自分が負けてしまうような気がして、見ることが出来なかった。 それほどに、見る人を魅了して止まないあの笑顔。 あれはどこから湧いてくるのだろうか。 葵の心の中はいったいどんなのだろうか。 人を羨んだり、憎んだりすることもあるのだろうか。 あるのだとしたら、今憎まれているのはきっと、自分だ。 ではもう、あの笑顔はこちらを向かないのだろうか。 そんなのは、嫌だ…。 葵の心に触れてみたい。 隆也は、心底願った。 そのために、そう、少しだけ時間が欲しい。 3年間思い続けてきた淡い感情を綺麗に流すために。 そうしたらまた、自分はきっと、一歩を踏み出せるはず。 自分にもあの笑顔を向けてほしいから…。 「行こうか」 守が立ち上がり、左手を隆也に差し出す。 その手をそっと掴むと、守が優しく引っ張り起こしてくれた。 隆也はその手の感触に、僅かに表情を変えた。 「どうした?」 守の長く綺麗な指先は、その外見から想像もつかないほど固く、分厚く皮が張っていた。 (これが…弦楽器奏者の指…) 弦を押さえる左の指先は、柔らかさなど微塵も残っていない。 ヴァイオリン奏者もそうなのだが、さらに太い弦を押さえるチェロ奏者の指先はもっと強靱なものに変化している。 隆也はそっと自分の左の指先を頬に当てた。 (柔らかい…) その感触は、練習が足りていないことを雄弁に語っていた。 「隆也?」 何も言わない隆也に、守が心配げに声をかける。 「守先輩…。僕…少しでも近づいてみたい…」 葵の笑顔に、葵の音楽に、葵の気持ちに…。 守はそんな隆也を見て、『誰に』とも『何に』とも聞かなかった。 ただ、微笑んでいるだけ。 君の心に触れてみたい…。 誰もが、そう、願う…。 |
40000HIT記念番外「君の心に触れてみたい」 END