幕間「祐介クンの憂鬱」





 その電話は、金曜日の夜、突然入った。

「どうして、そんなこと勝手に決めるんだよっ」

 握りしめた受話器に向かって珍しく激高する祐介に、電話の側を通りかかった同級生たちは、何事かと振り返る。



 夕食後、祐介は葵と二人で練習する約束をしていた。

 葵はここのところ忙しい。
 大学受験のために始めたピアノの練習や、夏のコンサートの練習にほとんどの時間を割いていて、寮へも寝に帰るだけの毎日。

 一緒にいて、話ができるのは、朝起きてから教室までの間だけ。

 昼休みも2日に一回は練習に行ってしまうし、部活へ行けば話すヒマなどない。

 放課後はもちろん、一人、消灯間際まで練習室に入り浸りだ。

 だから、練習とはいえ、二人だけになれるのは久しぶりだったから、祐介はかなりはしゃいでいた。

 そこへ電話がかかったのだ。
 葵は先に練習室へ向かってしまった。


 祐介は自宅からの電話を叩きつけるように切ると、音楽ホール目指して走り出した。


 ホールの入口横にはホワイトボードがある。
 練習室の番号の下に、使用中の生徒の名が書かれている。

 今は午後8時30分。練習室は8割ほど使用中だ。
 祐介は、「練習室15」に葵の名を見つけ、「練習室1」に悟の名を見つけてしまう。

 キュッと唇を噛みしめ、階段を駆け上がる。
 練習室は2階と3階。
 目指すのは2階の一番奥の部屋。

 葵がいるのは西側で、悟がいるのは東側。
 つまり向かい同士の部屋だ。

 どちらの部屋からも灯りが漏れている。
 西側のドアの小窓をそっと覗くと、葵が華奢な後ろ姿を見せていた。

 葵が一人でいることに、ホッとしまう自分が嫌でたまらない。


 そっと重いドアを開けると、静寂に包まれていた廊下に、葵の音が零れ出てくる。

 静かに身体を滑り込ませるが、葵は集中しているのか、ドアが開いたことに気づかないようだ。

 祐介は、開けたとき以上に慎重にドアを閉じる。
 部屋中に溢れているのは…。

(フォーレ…。「コンクール用小品」だ…)

 繊細で、それでいて深刻にならない、絹糸のように艶やかで柔らかな音が、葵の銀色の器から紡ぎ出されている。

 この曲は3年前、祐介が入学したときに、フルートパートのオーディション課題になった。
 その時点で、祐介もかなり良い演奏をした。
 この曲が好きなのだ、祐介は。

 けれど、今聴く葵の演奏は、あの時の祐介の演奏など木っ端微塵にしてしまう。

(こんなに…こんなに体中に満ちてくるなんて…)

 綺麗に吹けば良いと思っていた。
 美しければ、この曲は生きてくると。

 しかし、葵の演奏はどうだ。
 音の一つ一つが、輝きたいと主張して、静かに力をみなぎらせる。

 脆く、儚そうに見せかけて、実は脆くも儚くもない。

 触れさせる場所は繊細なのに、届かない高みには、揺るぎのない精神力。

(まるで葵…そのもの…)

 いつでも手を伸ばせば届きそうなのに。
 この腕に抱きしめたいと、体中が叫ぶ。

 そう…今でも、きっと抱きしめられる。
 葵はすぐそこにいるのに。二人だけでいるのに。
 

 …なのに、失うことが怖くて、何も言えない。
 向けられる、屈託のない笑顔を消したくなくて、何もできない。

 自分の想いは、このまま埋もれていくのだろうか。
『葵の親友』というスタンスのまま…。

 見つめることさえ辛くなって、目を伏せる。


「祐介?」

 意識の隙間を突かれた。
 目を上げると、葵が楽器を置いて、目の前に立っていた。
 どうしたの? と、可愛い口元が言っている。
 このまま…その柔らかい唇に…。

 祐介は、スッとあげた手を、ふんわりと葵の頬に添えた。
 親指でほんの少し、唇の輪郭をなぞり、その柔らかさを記憶に刷り込む。

「ゆ…ゆうすけ…」

 葵が目を見開いて、祐介の表情を読みとろうとしている。

 祐介はその手を頬から後頭部にまわし、葵の頭をグッと引き寄せた。
 上向き加減になった葵の顔が、ちょうど祐介の首筋に触れる。

 同時にその紅い唇も…首筋をかすめる。

 その唇が、かすかに『祐介』と呼んだ。
 身体中に満ちてくる、愛おしさ。
 この気持ちを葵にぶつけたら…。

 何度も思った。幾度も告げようとしたこの想い。
 しかし、その度に祐介の心にブレーキをかけるのは、『もし、受け入れてもらえなかったら…』という恐怖。

 もしも、そのために今の立場まで失ってしまったら…。

 今、自分がいる『葵にもっとも近い』といわれている、この位置だけは守りたい。

『恋人』になれるのなら、『親友』の立場などいくらでも捨てられるのだが、何も得られずにすべてを失ってしまうなど、絶対に耐えられない。 

「祐介…何かあった?」

 耳に優しく流れ込んできた葵の声は、祐介の内側の欲望などとは別の次元から湧いたかのように聞こえてくる。
 腕の中の華奢な身体は、きつく抱き寄せられているというのに、抗う気配がない。

 自分に向けられた絶対の信頼と、友情。

「電話…なにか良くないこと…だった…?」

 大切な親友を気遣う、慈愛に満ちた声。
 何もかもが祐介の心を掻きむしる。

 今だけ…今だけ、少しだけ、騙されて…。

「うん…。ちょっとね。……少しだけ、こうしてていい?」

 電話のせいにして、葵を抱きしめる。

「…いいよ」

 葵の甘い息が耳元を掠めていく。 
 離すことなど、どうしてできる…?
 今、こうして腕の中にあるのに。

 ふと、葵が身じろぐ。
 祐介は、自分の髪がやさしく撫でられるのを感じた。

「祐介は、がんばり屋さんだもんね」

 ふふ、と悪戯っぽい笑みを浮かべ、腕を伸ばし、葵はなおも祐介の髪を撫でる。

 邪気のない笑顔、言葉、仕種…。

(も…泣きたい…)

 祐介は、さらにきつく葵を拘束してしまう。
 その行為が、さらに自分を追いつめるというのに。                                         






 

「浅井、部活の前に、私のことろに寄ってくれ」

 週明けの月曜日、6限の後、終礼が終わったとき、光安が祐介に声をかけた。

「はい」


 クラス委員長も、その他の役もすべて辞退して、管弦楽部に専念することにした今年。
 祐介には、担任に呼ばれるということに、心当たりは全くない。

 ということは、光安は管弦楽部の顧問として、自分を呼んだのか。

 嫌な予感がした。

 父親が、光安に連絡を取ったのだ。
 それしか考えられない。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



「…どうした? 座っていいぞ」

 光安の部屋。
 祐介はそのまま練習へ行けるように、楽器ケースと楽譜を抱えている。

 初夏の放課後。
 差し込む日差しから顔を背けるように、ドアの前で突っ立ったままの祐介を、光安は視線でソファーへと促す。


「僕…嫌です」

 祐介の声は固く、冷たい。

 それが、着座を拒否した言葉でないくらいは、光安には当然わかっている。

「いいから座れ。立ったままじゃゆっくり話もできない」

 しかし、なおも動かない祐介に、光安は焦れたように、もう一度声をかける。

「心配するな。誰もお前を説得しようなんて思っていない」

「え?」

 祐介は弾かれたように顔をあげると、眉を寄せた。

「電話があったんじゃ…」

 怪訝そうな祐介に、光安は一つため息を吐き、祐介の腕を引き、強引に座らせた。

「電話どころじゃない。昨日、ここへ来られたよ」

 光安も向かいに腰掛ける。

「なんとか息子を説得して欲しい…とね」

(あの親父…っ!)

 祐介は唇を噛んで、拳を握る。

「向こうの教授と知り合いだそうじゃないか。さすがに浅井の父上は顔が広いな」

 光安は殊更のんきに言うと、緩慢に足を組み替えた。

「父が勝手に決めてきたことです! 僕の意志ではありませんっ」
「わかってるって」

 叫ぶように、縋るように吐き出された祐介の言葉に、即答されたのは何とも間延びした答え。

「ただな、チャンスだとは思うぞ。お前はここのところ伸びてきているし。去年までの演奏なら、私も…そうだな、きっと父上も留学なんてことは思いつかなかったかもしれないが…」

 祐介は握った拳にさらに力を入れた。
 血の気が失せて、白くなるほどに。

「行きたく…ありません」

 俯いた祐介から、ポタ…と雫が落ちた。
 膝の上、『Symphony No.8 』と書かれた楽譜に染み込んでいく。

 祐介が持つ楽譜には、タイトルの下に「Flute U」と書かれている。
 同じ曲の「Flute T」を持つのは…葵。
 この楽譜を手にするために、どれだけ練習したか…。  
 
 涙まで見せた祐介を、光安はほんの少し、唖然と見ていた。

『嫌だ』というのはわかりきったことだった。
 ただ、もっと怒りに任せた激しい抵抗を見せると思っていたのだ。
 物わかりがいいばかりの生徒ではないこともわかっていたから。

(参ったな…) 

 光安は、祐介にわからないように、緩くため息をついた。


 なぜ、今年の祐介が、去年と違う演奏をするのか。
 その理由は父親にはわかるまい。
 今、ここから引き離しても恐らく何のメリットもないであろうことも。

 メリットどころか、前より悪い状態になるであろうことも、光安には容易に想像がつくが、祐介を溺愛する父親にはわからないだろう。

(自分の夢を、我が子に託そうとする親ほど厄介なものはないからな…)

 光安は、自身が教職に向いているとは思っているが、親が絡むと、とたんにこの職が鬱陶しくなる。

(やれやれ…今度は親の説得か…)

 一応、保護者からの要請は聞き入れた。
 たった一言だが、『留学はチャンスだ』と言ったのだから、約束を破ったことにはなるまい。

 わざと疲れた表情を作ってから、今度は祐介に耳に届くようにため息をつく。

「わかったから…。泣くな、お前らしくない。浅井が泣いたなんて知ったら、みんな喜んで見に来るぞ」

 腐った発言に、祐介が恨みがましそうに顔をあげる。

「ただし、一つだけ言っておく。来年は佐伯も必死になる。卒業までこのポジションのままでいたいのなら、サマースクールにだけは行ってこい。8月の合宿は免除してやるから」

 サマースクールとは、夏期休暇の間だけ行われる特別レッスンのことだ。
 本格的な留学とは違い、1ヶ月程度の短期留学になる。 

「先生っ」

 それでも、夏休みの間、日本を離れなければならない。8月末の合宿にも出られない。

 今、離れたら…。
 今、葵と離れてしまったら、取り返しがつかないことになるのではないか…。

 意味をなさない、あまりにも漠然とした不安が祐介を襲う。

『親友』なら1ヶ月くらい離れていても、きっと何も揺るぎはしないだろう。
 だが、祐介が欲しいのはそんなものではないから。

(こんなあやふやな状態のまま離れたら…おかしくなる…)
 

 再び俯いてしまった祐介に、光安は、らしくない作った声色で声をかけた。

「浅井…お前、何のために吹いてるんだ?」

(え…?)

 唐突に突きつけられた命題に、祐介は返す言葉を失う。
 そして、返事に窮する祐介を見て、光安はフッと口の端で笑う。

「葵の隣にいたいんだろう?」

 平静に告げられた、自分の核心をつく言葉に、祐介の体温が一気に上昇する。

 そんなこと、きっと不純な動機だと怒られるに決まっている。
 普通の大人は皆、言うのだ。

『音楽とは崇高な物だから、もっと純粋な気持ちで芸術を創り上げろ』…と。

 音を奏でるのに、ただ『好きな人といたいから』と言う理由はきっと許されない。

 だが。

「私はそれで良いと思っている」

 耳に届いたその言葉に、思わず顔をあげ、光安を凝視した祐介は、そこに優しい微笑みを湛えた大人を見た。

「誰かが心の中に住んでいるとき、音は勝手に溢れ出てくる。練習とは、それをコントロールする手段に過ぎないんだ。 嬉しい、悲しい、悔しい…それに愛おしい…。自分の中から沸き上がってくる想いを、音に託して人に伝えるために練習する。それだけだ」

 祐介は、こんなにも柔らかい表情をする光安を初めて見た。
 いや、こんなに柔らかい表情で音楽を語る大人を初めて見たのだ。

「お前に足りなかったのは、それだよ」

 茶化すでもなく、真剣に告げる瞳を見て、祐介は頬がさらに上気するのを自覚していた。

「音が溢れてきたのなら、もっと練習してこい。それができたら、もっと音を溢れ出させろ。音楽に携わっていく限り、ずっとそのことの繰り返しだ」

 光安が静かに立ち上がる。
 祐介は瞳を潤ませたまま、その姿を追う。
 光安の目は、遠くに向いているようだ。

「葵はもう、それを…無自覚なまま身につけている。それを天才と呼ぶ人間もいるが、私はそうは言いたくない。ただ、人より資質があるというまでのことだ。 葵も同じことの繰り返しを続けていくだろう。
 ……浅井、ずっと葵の隣でやっていきたいのなら、勉強してこい。この夏の1ヶ月を惜しんで、この先を棒に振るような真似をするな。この時期に吸収できる物を、すべて自分のものにしてこい」

 言葉の最後に、光安の眼は祐介を捉えた。
 祐介も立ち上がる。
 座ったときのような、弱々しさはもう、ない。

「父上には話をつけておいてやるから」
「…いえ、自分で電話します」

 その言葉の持つ力に、いつもの祐介を感じ、安堵する。
 …と、同時に『いつも』の光安がムクムクッと顔を出す。

「父上に感謝しろよ」
「はい。…ありがとうございました」

 練習に向かうため、退室しようとドアノブに手をかけた祐介に、背後から楽しげな声がかかった。

「葵はな、苦しいも悲しいも知っている。あとは、どこかの誰かさんに『身を焼くような恋』でもすれば完璧かな♪」

 祐介が下唇を噛みしめたことくらい、見なくてもわかる。

 やっぱり、光安は…こうなのだ。





 祐介が去った光安の部屋。
 静寂と、自らが吐いた重いため息が満ちている。

 そろそろ部活の時間だ。
 自分もホールへ向かわねばならない。

 3階から見おろす窓の外、ホールへ向かう並木道を管弦楽部員たちが行く。

(溢れ出る想いを閉じこめてしまったとき…。人は…どうなる…)

 カーテンを握りしめ、見つめる並木道。
 目を細めてしまうのは、強い日差しのせいばかりではない。

 そこに一人の生徒の姿を認めたから。

 陽に輝く金色の髪。
 大勢の生徒に囲まれて、華やかな笑顔を振りまいている。

(叶うことなら…)

 …そうしてまた一つ、重いため息を吐く…。  



                   ☆ .。.:*・゜



「うん…。サマースクールだけ」

『向こうの音楽院へ入学するのは、どうしても嫌か…』

 その夜祐介は、わざわざ校門の外の公衆電話へ行った。
 閉門まであと10分。

「嫌なんじゃないんだ。ただ、今はここで勉強したい。ここでやるべきことが、まだまだたくさん残ってるんだ」

『そうか…。なら仕方がないな』

「ごめん。せっかく準備してくれたのに」

『気にするな。卒業したら、また考えればいいことだ。私も少しせっかちだったと反省してるよ』 

 祐介の父は、もともと強引な質ではない。
 姉から10年離れて生まれた長男だっただけに、溺愛はされていたが、命令や無理強いを受けた覚えはない。

 それでもこういう行動にでたのは、きっと自分の果たせなかった夢を託したいから…。

『いい友達がいるんだな…』

(へ?)

 今、父親は何を言ったのだろうか?

「…友達…って?」

『いや…さやかが…』

 そこで急に耳元に不快な音が走った。
 向こうの受話器が、何かにぶつかったようだ。 

『ちょっと、祐介っ!葵くんは元気?!』

 姉のさやかだった。
 春から今まで、さやかは何回か祐介に電話を入れていた。

 目的は葵。
 二言三言話すと、すぐに『葵くんに代わって』と言うのだ。
 今日もそうに決まっている。

『ね、葵くんに代わってよ』

 ほら、やっぱり。

「残念でした。今、学校の外。葵はいないよ」

『なんだー、つまんないの』

「それより、親父に変なこと言うなよ」

 誰にも聞かれないために、わざわざ校外の電話までやって来たのに、それでもまだ、祐介は声を潜めていった 

『変なことって何よ』

 向こうは大きな声だ。側にまだ父親がいるだろうに。

「何…って…。あることないことだよっ」





(まったくもう…何考えてんだか…)

 電話ボックスを出て、祐介は校門へ向かって走る。
 まもなく閉門時間だ。

「あおい…」

 祐介は足を止めた。
 門を入ってすぐのところに、葵がいたからだ。

「どうして…?」

 問いかけられて、葵はちょっと俯いて、上目遣いに祐介を見上げた。

「ん…ごめん。気になって…」

 ばつが悪そうに、小さな声で告げる。

「あとをつけた訳じゃないんだ…けど。ただ…祐介なんだか元気なかったし…」

 …心配で…、と小さく小さく続けられた言葉に、たまらなくなって、祐介は思わず葵を腕の中に抱き込んだ。

「ゆっ…ゆうすけ…」

 葵がビックリして身を竦める。

「ありがと…葵。…もう、大丈夫だから」

 その言葉に、葵が身体の力を抜いたのが伝わった。

「…ホントに?」

 訊ねられて、力強く頷く。

「ホント…」
「…よかった…」

 安堵の吐息をついた葵に、思わず抱く力を強めてしまう。

『どこかの誰かさんに『身を焼くような恋』でもすれば完璧かな』

 ふと、昼間の光安の言葉がよぎった。

 身を焼くような恋をしているのは自分だけのはずだ。
 葵が、身を焼くような恋をしてしまうのはいつなのか…。

 いや…もうすでに…?。
 そして、その相手は…。 


 葵は最近、瞳で誰かの姿を捜すようになったから…。




幕間「祐介クンの憂鬱」 END


*第5幕への間奏曲「祇園囃子の終わる頃」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*