第5幕への間奏曲「祇園囃子の終わる頃」





「せんせー、こんにちはー」

 少女が格子戸を開ける。
 すっきりと結い上げた日本髪に、涼やかな紺と白の浴衣姿。
 化粧はしていないのに、ほんのり色づく唇が幼い色香を漂わせている。

 京都は祇園祭のまっただ中。
 山鉾巡行が終わり、観光客も減ったが、町衆の祭は月末まで続く。

(去年までは葵が笛を吹いていて、私がちまきを売っていて…)

 葵とじゃれていた日常が、嘘のように去ってしまった。
 電話も手紙も一度きり。
 どちらも忙しい。それはわかっているけれど…。


「よっ、相変わらず綺麗やな、菊千代」

 栗山が奥から出てきた。

「そう言うヨイショはお座敷に来て、ゆうておくれやす」

 ぷっとふくれる由紀に栗山は目を細めた。

「あっという間に一人前になったなぁ」



 今年の3月に卒業した、栗山の教員生活最後の教え子になった3年1組の子供たち28人。

 そのうち27人は高校へ進学し、ただ一人社会へ出たのが、この、大野由紀だった。

 祖母も母親も祇園育ちの芸妓。当然のようにこの道を選んだのだが、きっと、どの社会へ出るよりも過酷な世界。
 それでもあうたびに美しく、しかも聡明さを増していく教え子に栗山は誇りを感じていた。

「せんせ、明日から東京いかはるて聞いて」
「3年1組の情報網はすごいなぁ」
「FBIも真っ青どす」

 しれっと言い放ったその言葉に、二人はプッと吹きだした。

「それで、お忙しいとこ申し訳ないのどすけど…」
「由紀、いつものとおりでええよ」 

 言葉を遮った恩師に向かって、由紀はぺろっと舌を出した。

「おおきに。せんせーやったらそう言うてくれはると思うてた」

 栗山は、くつろいだ笑顔を見せる教え子を満足そうに見る。

「暑かったやろ? 何か飲むか」
「おおきに。でも時間があらへんし…。お稽古の合間に抜けて来てしもて…」

 少しうつむいた由紀に、栗山は話を促した。

「…ってことは、急ぎの用事か。どうした?」

 由紀は顔を上げて話し出した。

「実は…うちのおばあちゃん、だいぶ弱ってきはったんです」
「え? …弥生さんが…」

 由紀の祖母、弥生は現役の芸妓は退いたものの、つい数年前までは、後輩の舞妓や芸妓を厳しく指導する立場にあった祇園の重鎮である。

 3年前のあの忌まわしい出来事――生まれたときから世話をし、孫同然に慈しんできた葵の、あの誘拐事件のショックから体調を崩していたのだが、今年始めに綾乃を失ったことでさらに体力を落としてしまっていた。 

「今年、綾菊姉さんの初盆ですやろ? …うちのおばあちゃんがどうしても、もう一度綾菊を見たいて言わはって…」
「綾菊を見るったって…」
「写真が欲しいのんです」

 思い詰めた目で由紀が栗山を見上げた。

「写真…」

「綾菊姉さんは、祇園を落籍かはるとき、写真も全部処分してしまわはって、うちには一枚も残ってへんの。おばあちゃんは、もしかしたら重紀さんか葵が持ってはるのと違うやろかて…」

「そういえば、僕の手元にある写真は全部、祇園を落籍いた後のばっかりや…」

 由紀はがっかりしたようにため息をついた。

「…そうや、由紀。一つだけ、整理せんとそのままになってる箪笥がある」
「え?」
「綾乃が子供の頃から大切にしていたものやけど、あれには僕も葵もほとんど手を着けてない。…見てみよか、由紀」
「でも…勝手に開けたら」
「聞いてみるよ。弥生さんのためや。葵かてうんと言うやろ。ただ、これと言ったものは入ってなかったと思うんやけどな」

 時刻は昼の2時過ぎ。

「終業式は終わってるはずやから…」

 栗山はすぐに寮へ電話を入れた。




「…そうですか。はい。いえ、結構です。ありがとうございました」
「せんせ?」
「葵、外出してるそうや」
「どないしよう…」
「…開けてみよ。二人で」

 二人は頷きあい、奥の座敷へ入っていった。


「これ、からくり箪笥やわ…」

 由紀が綾乃の形見をみて呟いた。
 奥座敷の隅にひっそりと小さな箪笥があった。箪笥と言ってもその外見は茶箪笥に近い。

「からくり箪笥?」

 栗山も祇園育ちだが、初めて聞く言葉だった。

「舞妓は置屋で一緒に生活しますやろ。今でこそ、みんなそれぞれの部屋をもらうけど、昔はそんなことあらへんかった。一間に何人かで暮らしたりしてたから、プライベートなんてあらへんかって。
 でも自分の大切なものや秘密にしておきたいものはあるし…。それでこんなんができたんやて…」

 由紀は箪笥に近寄り、一番下の小さな扉を開けた。

「多分、ここの底板がはずれるはず。……綾菊ねえさん、堪忍な」

 そう言って、由紀はそっと板をはがした。

「…せんせっ、ビンゴっ!」

 現代っ子らしい言葉と共に出てきたのは、数枚の写真。

「綾乃…」

 舞妓になり立ての頃。
 舞妓姿のまま、乳飲み子の葵を抱いているもの。
 襟替えをして芸妓になった頃。
 ほんの5,6枚だったが、まさしく探していたそれだった。

「よかったな、由紀」
「ほんまに…せんせ、おおきに」
「葵には明日僕から言っておくよ」

 由紀は両手で大切に写真を取った。何気なくもう一度箪笥を見る。

「……? ……あ、下にまだ何かある…」

 由紀が手を入れて、一番底にあるものを取りだした。

「せんせ、通帳や」
「通帳?」

 受け取ったそれは、まさしく『預金通帳』そのもの。

「綾乃がもっていた通帳は全部、葵が20歳になるまで預かってくれと言う遺言やったけど…。まだあったんか」

 見慣れないそれは、京都の地方銀行のものではなく、市内に支店の少ない都市銀行のものだった。

 名義は『奈月葵』。

 それを開いた栗山の目は驚愕に見開かれた。 

『残高2530万』

 忘れもしない、葵の身代金の額。


「せんせ…これ…」

 当時葵と同じ家に住み、事情を知っている由紀の目も大きく開かれた。

 何年もに渡って、毎月一定額が振り込まれている。
 しかし、一度も引き出されていない。
 振り込みはあの事件の直前の夏で止まっている。

 振り込み人の名は、
『寺崎修二』。

「もしかして、これ、養育費…」
 由紀の声が震えている。


「…由紀、葵が帰ってきても黙っててくれ」
「せんせっ」
「僕が調べる。不安にさせたくない。やっと本当に立ち直りかけているんやから」
「…それ、どういうこと…?」
「…来月、東京から来るお客にも言わないでくれ」

 栗山は視線をはずした。

「せんせ…お願いやから、教えて」

 由紀に肩を揺さぶられ、栗山はもう一度由紀に視線を戻した。

「葵は、大切な人を見つけたんだよ」



                   ☆ .。.:*・゜



 気がつくと、うるさいほどに蝉が鳴いている。

「……お稽古さぼってしもた…」

 水を打った坪庭の前で、由紀が呟いた。

「落ち着いたか?」

 栗山が由紀の肩をポンポンと軽く叩く。

「せんせ、お願いがあります」

 何も答えない栗山に、由紀は真摯な眼差しを向けた。

「その人…桐生悟さんと二人で話せる時間…下さい」
「そうやな、そうしよう」

 優しい微笑みを向けて、栗山は頷いた。





「じゃあ、明日。夜更かしするなよ…。おやすみ」

 その夜、葵から電話があった。
 栗山は昼間の写真の話だけを伝えた。




(『寺崎修二』…。まずこいつからだな。CMをみて動くかどうか…)

 由紀が帰った後、栗山はすぐに銀行へ問い合わせた。
 しかし、そこから得られるものは何もなかった。
 あの事件の直後に口座は解約されていて、この通帳も今はただの紙切れに過ぎなくなっていたのだ。

 それでも、これは、葵と父親を結ぶ唯一の手がかり。

 預金通帳を、その存在をもう一度確かめるようにしっかりと引き出しにしまい、栗山は再び受話器を取った。


「もしもし…神崎さん? …栗山です」 

 葵の未来から、得体の知れない父親の影を取り除くために、ここは闇雲にでも動くしかなかった。

「ええ…、例の条件、のみますよ。葵を連れていきます」




第5幕への間奏曲「祇園囃子の終わる頃」 END


何を企む…栗山先生…。

Variation:あれは、三月、菜の花の艶やかな黄色…。→*「花かんざし、揺れて」へ*

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