〜花かんざし、揺れて〜





「しげちゃん…。見て見て。新しいかんざし、作ってもろた。なぁ、似合うやろか…」

 綾乃が艶やかな黄色の花かんざしを、そっと自分の髪に当てる。
 三月、綾乃が中学を卒業してすぐに舞妓になってから一年が過ぎた。

 舞妓は毎月かんざしを変える。
 四月は桜、五月は藤、六月は柳…。
 それはそれは華やかな、愛らしいかんざしだ。

 四月に舞妓になった綾乃は、ちょうど一年、十二個目に当たる『三月・菜の花』のかんざしを手に、うきうきとはしゃいでいる。

「うちなぁ、三月のかんざしが一番好きなん。去年の三月、おねえさんたちがしてはったんが、羨ましかったわぁ…」

 それは絹で作った黄色い花に、所々ピンクの花と銀色の花が混ざっていて、そっと触れなければ儚げに散ってしまいそうな風情を持つ。

 そして花かんざし特有なのが、六本下がった花の房。
 これがいっそう舞妓の艶やかさを引き立てるのだが、確かに『菜の花』の淡い黄色は綾乃の白い肌によく映える。

「よう似合ってる…綺麗やで、綾乃」
「ほんまに? しげちゃんに誉めてもらうのが一番嬉しいっ」

 祇園の舞妓『綾菊』も、僕と二人の時は、たとえその姿が舞妓であっても、いつも『綾乃』という一人の女の子だ。



 この時、僕、栗山重紀は高校二年になる直前だった。
 地元の高校に通う僕の、放課後の日課は、フルートの練習と…幼なじみの奈月綾乃と過ごす、このひととき…。

 僕たちは小さい頃からの仲良しで、幼稚園も小学校も中学校も、ずっと一緒だった。

 二人の世界が別れたのは、中学を卒業した春。
 花街育ちの綾乃は、予定通り舞妓に、僕はごく当たり前に高校へ進学した。

 この時の僕は、すでにフルーティストを目指していて、高校卒業と同時に留学して、一人前になったら戻ってきて綾乃にプロポーズする…という人生設計を勝手に立てていた。

 それはもちろん、自分自身のフルートに対する情熱もあったからこそなのだが、とにかく、早く一人前になることを第一に考えていた。
 なぜなら、祇園の舞妓を落籍(ひ)かせると言うことは、それは大変なことなのだから。


 舞妓の毎日は修行の連続。教育費もバカにならない。
 その上、毎夜身に纏う艶やかな衣装、帯留めなどの小物…。
 今、綾乃が手にしている布製の花かんざし一つ取っても数万円。
 彼女も、この小さな身体に、時には全身で1000万円近いものを纏うのだから。

 そして、それらを用意するのはすべて、彼女たちが暮らす、置屋(おきや)の仕事。
 だから、舞妓は芸妓として独り立ちするにしても、落籍くにしても、それなりのものを置屋に残していかなければならない。
 つまり、かけてもらった費用は返さねばならないのだ。

 ただ、綾乃は売れっ妓だから、稼ぎもすごい。
 だからたぶん、費用面ではさほど心配はいらないと思う。
 しようと思えば、自力で独り立ち出来るかもしれない。
 となると、問題は一つ。

 僕が、祇園一の名妓になるであろう綾乃を迎えるために用意しなければならないのは、僕自身がそれにふさわしい男になること。
 だから、僕は一人前になるための近道に、留学を選んだ。
 必ず、世界中に名を知られる音楽家になってみせる。
 そして、綾乃を迎えに来る…。

 それは、険しいけれど、とても、楽しい夢だった…。 






 五年ぶりの京都。
 僕は半月前に留学から帰国して、東京でソロリサイタルを開いた。

 留学二年目でヨーロッパでのデビューを果たした僕は、いくつもの録音やステージをこなし、すでに第一級のフルーティストとして認められていた。
 あとは、綾乃を迎えに行く…。それだけだったはずなのだが…。



 懐かしい格子戸の前に立つ。
 昨夜遅く京都に戻った僕は、まだ綾乃には連絡を取っていなかった。

 うちの母親の話によると、綾乃はすでに自力で襟替えをし、芸妓として一本立ちしていた。
 たぶんそうなるだろうとは思っていたが、『自力で』ということに、僕は心底安堵していた。

 舞妓が芸妓になる『襟替え』。
 それには数千万という費用がかかるため、自力で『襟替え』できる舞妓は少ない。
 となると、必要になるのはスポンサー…つまり『旦那』の存在だ。

 もちろん、たとえ綾乃に『旦那』がついていたとしても、僕はそんなものには負けない。
 必ず奪い取る自信があった。
 ただ、面倒なことは綾乃の為にも避けたかったから…。


 さらに綺麗になっているであろう綾乃の姿を楽しみに、格子戸に手をかけた…その時…。

「何かご用ですか?」

 かわいいけれど、やけにしっかりした声が聞こえた。
 振り向いたけれど、そこには誰もいない。
 クイッとジャケットの裾が引かれる。

「こんにちは」

 声のする方を見おろすと…僕のジャケットの裾を掴んでいる正体が…。

「あ、こんにちは」

 僕は慌てて腰を落とす。
 目線を会わせると、その子はにっこりと笑った。
 幼稚園児だ。
 僕と綾乃が通った幼稚園の制服を、その子は着ていた。

「あの、君はここのうちの子なの?」
「うん。そうだよ」

 名札がついている。

『ひよこぐみ:なづき あおい』

 なづき…、奈月…?

「君…あおいちゃんって言うの?」
「はい。僕は、なづきあおいです」 

 やけに礼儀正しい子…え? 僕…? お…男の子か…。
 そういえば、半ズボンだ。
 それにしても、奈月って…。綾乃…まさか…。

「君…綾乃さんって知ってる?」
「あやのさん…? それ、僕のお母さんのこと?」

 お…かあ…さ…ん………。
 呆然としゃみこんだ僕の手を、あおいくんが引っ張った。

「お兄ちゃんは、お母さんのお客さんだね。お母さん、まだいると思うよ」

 そう言うと、勢いよく格子を開ける。

「ただいまー! おかあさーん!! お客さんだよーー!」

 そう言うや否や、奥座敷から声がした。

「お帰り、葵」

 出てきたのは…もう、舞妓の髪型ではなく、芸妓の艶やかさを体中に湛えた…。

「綾乃…」
「…しげちゃん…?」

 一瞬目を丸くした綾乃は、それこそ大輪の花のような笑みを見せてくれた。

「おかえり! いつ? いつ帰って来たん? 連絡してくれたらええのにー」 
「ごめん。昨夜遅かったから…」

 綾乃は、本当に、本当に綺麗になっていた。

 まだ化粧をしていないのに、ゆるりと下ろした髪と、清潔な浴衣姿、それだけでもあたりを霞ませてしまうほどの艶やかさ。

 そして、ボーッと見つめる僕のジャケットを、また引っ張るものが…。

「こんなところで立ち話もなんだから、どうぞお上がりください」

 そう言ったのは、小さな紳士。
 そう、ひよこ組のなづきあおいくんだった。

 ひよこ組と言えば、年中の組のはず…。
 あおいくんの体格は3歳児並だが、お口の方は一人前のようだ。

「君…あおいくん、いくつ?」

 そう聞くと、あおいくんは嬉しそうに紅葉のような指を4本見せた。
 その仕種は可愛い…が。

「4歳です」

 キッパリと答えてくれる。
 ま…ませたガキだ…。

「はよ、上がって、しげちゃん」

 綾乃は小さなあおいくんを抱き上げ、僕に上がれと促した。
 勝手知ったる綾乃の住む置屋。
 僕はさっそく上がり込み、そして…。


「この子は葵。もちろん、『葵祭』の葵…な。うちの自慢の一人息子なんや」

 葵くん…はじっとこっちを見ていたが、目が合うとすぐにニコッと笑う。

「葵、今日幼稚園であったこと、お母さんに話して」

 綾乃が柔らかい声でそう言うと、葵くんは嬉しそうに綾乃の首に手をまわし、ぺったりと頬をつけて甘えた声で答える。
 そんな仕種はまだ赤ん坊が抜けていないのだが。

「あのね、妙子先生がね、ご本を読んでくれたの」
「よかったねー。葵は妙子先生が大好きやもんね。何のご本を読んでもろたん?」
「んっとね。かぐや姫」
「おもしろかった?」
「んー、お月様に帰って行くところがちょっと唐突だよねって、妙子先生とお話ししたの」
「そう」

 …そう…じゃないだろ、綾乃。
 なんか教育間違えてないか…?

 話しながら、綾乃は座って葵くんを膝に乗せ、その口元にまんじゅうを持っていった。

「はい、あーん」

 そう言うと、葵くんは身を捩って綾乃を見た。

「おかあさん、いつも僕に言うてるやん。お客さんの前で膝に乗ったり、物食べたりしたらあかんて…」

 口を尖らせる様子なんかはたまらなく可愛らしいのだが…。

「ふふ。えーのよ。しげちゃんはお客さんと違うから」
「え? お客さんと違うの?」
「そう、お母さんのお兄ちゃんみたいなもんやから」

 そう言われて、葵くんは不思議そうに僕を見た。

 そして僕は、その光景を呆然と見ていた。

 葵……自慢の一人息子…。

「綾乃…結婚したんか…?」

 僕は恐る恐る口にした。
 けれど、綾乃はその言葉に『きゃらきゃら』と華やかな笑い声を響かせた。

「嫌やわぁ…。うち、芸妓え。結婚してるはずあらへんやろ?」

 確かにそうだ。現役の芸妓は独身に決まっている。少なくとも、法律上では。

「じゃ、その子、誰の子…?」

 そう言うと、綾乃は表情を曇らせた。

「…好きになった人の…子」

 小さく言うと、綾乃は葵くんを膝から降ろした。


「葵、今日は鼓のお稽古の日やろ? 由紀ちゃん、はよ帰ってきて二階でお昼寝してるさかい、起こして二人でいっといで」

 そう言われた葵くんは、いつの間にか、まんじゅうを小さな口いっぱいに頬張っていた。
 返事が出来ずに、頷くだけで精一杯だ。

「これ、いっぺんに食べたらあかんて言うたやろ。はい、お茶飲んで」

 甲斐甲斐しく世話を焼く綾乃の姿は、母と言うよりは、歳の離れた姉だ。
 そう言えば、そんな歌もあったっけ…。 
 タイトルは確か――『花街の……』。
 ……まんまだな…。


 やがて一息ついたのか、葵くんが僕を見た。

「ごゆっくり」

 にっこり笑顔でそう言うと、ペコッとお辞儀をして『ゆきー!』と言いながら階段を駆け上がっていった。

「随分と…礼儀正しいんだな…」

 その言葉に、綾乃が苦笑を漏らした。

「可愛げない…?」
「まあね…」

 正直にそう言うと、綾乃はゆったりと言葉を継いだ。

「けどなぁ、この狭い祇園で生きていく以上は、礼儀だけはつけとかんとあかんしね…」

 それは事実だ。
 この世界はどこよりも上下関係が激しい。音楽の世界も相当な物だが、ここにはかなわないだろう。世界が狭い分だけ、よりややこしい。

 そして、僕が次の言葉に詰まっているうちに、葵くんが駆け下りてきた。
 今度は一回り大きい女の子に手を引かれている。

「行ってきます!」

 二人してそう言うと、土間へ降りて靴をはき始める。
 ふと、女の子が顔を上げた。

「ごゆっくり」 

 …葵くんにそっくりの口調だった。



 そして、小さな嵐が去ったあと…。

「今の子は…?」
「竜千代ねえさんの子で、由紀ちゃんって言うん。葵と同い年なんや」

 同じ年?

「え? 随分と女の子の方が大きかったみたいやけど…」

 その差はかなりあるように見えた。

「由紀ちゃんは4月生で、葵は3月生まれやからね。同い年て言うてもほとんど1年違うし」

 綾乃は僕のお茶を入れ直しながら、のんびりと答える。

「てっきり五月生まれかと思ったよ」
「え?」

 綾乃は急須を傾ける手を止めて、顔を上げた。

「『葵』っていうくらいだから、五月生まれかなって…」

 そう、京都の三大祭りのひとつ、『葵祭』は五月の行事だ。 
 何の気なしにそう言った僕の言葉に、綾乃は何とも言えない表情をした。

「うん…ちょっとね…」

 そう言ったきり、黙ってしまう。
 僕自身、綾乃に何を言っていいのかわからなかったが、それでも続く沈黙に耐えかねて聞いてしまう。

「葵くんの父親は…」
「知らん」

 僕の言葉は最後まで聞いてもらえずに、綾乃の言葉で遮られた。

「もう、四年…ううん、五年も前の話や。うちがもう忘れてるんやから、聞かんといて」

 有無を言わせない口調に、一瞬腰が引けた。
 綾乃はこんなに強い物言いをする子だったろうか?

「うちは、葵と二人で生きていくつもりや。誰にも迷惑かけへんさかい…」

 語尾が急に潤んだ。
 綾乃が涙をためている。
 その涙一つで、僕ははっきりと悟ってしまった。

『綾乃はその男を今でも想っている』と。




 綾乃が誰かを愛して、子供を産んだ…。 
 それは僕にとって、人生設計のすべてをひっくり返してしまう大誤算だった。

 僕は…本当なら取り乱して暴れたいところだったのだけれど、それが出来なかったのはきっと、あの、やたらとしっかりした…いや、しっかりせざるを得ない、あの可愛い子…葵の存在があったからではないかと思う。

 綾乃にそっくりの、葵…。




 祇園という花街は、口が堅い。
 お客のプライバシーは絶対だ。
 だから、当然、葵の父親についてもいくら調べてもわからなかった。

 しかし、やがてそれは『祇園の口が堅いから』という理由からではないことがわかってきた。

 皆が知っていて口を閉ざしているのではないのだ。
 誰も、本当に誰も、葵の父親を知らなかったのだ。

 綾乃がそうまでして葵の父親を隠さなければならない理由…。

 僕は、それを掴めないままに、フルーティストとしての自分を捨て、『二人で生きていく』と言い切る綾乃の側にいる決意をした。

 真剣に葵の父親になりたいと申し入れたこともあったが、綾乃は『うん』と言わなかった。
 それは、綾乃が今でも葵の本当の父親を思い続けているから…。

 それでも僕は、綾乃と葵の傍を離れなかった。






雪がちらつく寒い午後。

『葵のこと…お願い…』

 そう言い残して、綾乃が逝った。
 まだ、33歳の若さだった。

 葵が、例の忌まわしい事件によって閉ざされてしまった世界から解放され、綾乃が発病するまでの間は僅かに半年。
 その半年は僕にとって、それはそれは幸せな日々だった。

 学校へ行く僕と葵を、毎日綾乃が見送ってくれる。
 学校から帰る僕と葵を、毎日綾乃が迎えてくれる。

『これっ、しげちゃんも葵も、ニンジン残したらあかんやろ』

 祇園を落籍いた綾乃は、生まれて初めての主婦業…いや、母親業を楽しんでいた。

 たとえ一緒に暮らしても、僕は綾乃にとって『大きな息子』で、葵と同列の扱いだったが、それでも毎日が希望に溢れていた。

『しげちゃん、葵のお弁当箱にお箸入れるの忘れてしもた〜。持ってって〜』

 華やかな夜の世界から、暖かい家の温もりの中へ…。

『あ、わさび切らしてしもた。二人で買うて来てくれへん?』

 毎日、綾乃と葵の笑顔があった。

 ただそれだけ…。
 なんでもない、そんな平凡でささやかな幸せだったのに、たった半年で、取り上げられてしまった。
 





「う…っ」
 僕の胸にくぐもる葵の嗚咽。

 しがみつくその腕は、痛いほどに僕の心を絞める。
 弔問客の前では涙一つ見せなかった葵だったが、綾乃の棺を納めた鉄の扉が閉じたとき、初めて自分を解放した。



 白い煙になって、天高く登っていく綾乃…。
 君の想いは、僕の見知らぬ男の元へと行くのだろうか?

 願わくば、その男が、今でも君を想っていてくれますように…。





『な、しげちゃん。うちは日本一の舞妓になる。しげちゃんは、世界一のフルーティストになってな』

 綾乃は、僕がウィーンに旅立つ前にこう言った。
 そして僕はその言葉に、心の中で誓った。

『必ず』…と。
『必ずそうなって、綾乃を迎えに来る』…と。

 でもな、綾乃…。僕には守るものが出来た。
 世界一のフルーティストになる夢なんかよりも、もっともっと大事なものが…。

「葵…大丈夫か?」

 葵の涙が止まるまで、ずっとこうしていよう。

 綾乃…心配はいらない。
 君が抱いた僕の夢は、君の自慢の息子が叶えてくれる。




『しげちゃん…。見て見て。新しいかんざし、作ってもろた。なぁ、似合うやろか…』

 丁寧に結い上げられた黒髪に、揺れる、揺れる花かんざし…。

 綾乃は祇園を落籍いた時、舞妓・芸妓時代の物をすべて処分したのだが、なぜか『菜の花』だけは桐の箱に納めて、箪笥の奥に残していた。

『そんなに菜の花が好き?』と聞いた僕に、綾乃はやけに真剣な表情で答えた。


『もうすぐ春よ…、って言われてるような気がするの…。春になれば、きっと……。それを、待つの…』


 忘れないよ…綾乃。

 あれは、三月、菜の花の艶やかな黄色…。 



END




 37777GETのりかさまからいただきましたリクエストです。
 栗山先生と綾乃さん。この二人はいずれ書いてみたいと思っていましたので、とてもいい機会になりました。

 「人を想う」…それにはこんな形の物があってもいいかな…と思うのです。
 先生と綾乃さん親子が一緒に暮らすきっかけになった『誘拐事件』のあたりは、いずれ番外編でご覧いただくことになると思います。

 そうそう、難解な京都弁がありましたらご遠慮なくお尋ね下さい(笑)
 12ヶ月の『花かんざし』をすべて知りたい…とおっしゃる方も、どうぞご遠慮なく(#^.^#)

 ちなみにこの背景は「桜」ですが、「菜の花」の花かんざしの色合いは、ちょうどこんな感じの、『桃色と黄色』なのです。
 もしも、京都へおいでになる機会がお有りの方は、八坂神社の近く、四条通りの北側に花かんざしを作っているお店がありますので、覗いてみられてはいかがでしょうか?
 ウィンドウから見ることが出来ると思いますので…。

 りかさま、リクエストありがとうございました。



*第5幕「火の鳥」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*