第5幕「火の鳥」

【1】





「じゃ、また9月にな」
「うん」
「元気でな」
「うん。涼太も、陽司も元気でね」
「おうっ」
「わーっ! な、なにすんだよっ」

 終業式が終わり、僕は帰省する涼太と陽司を正門まで送ってきた。祐介も一緒だ。

「こらっ、離れろっ!」

 いきなり涼太と陽司にキス(もちろんほっぺだっ)された僕を、ひったくるように祐介が抱え込む。

 夏の聖陵は門が閉じることはない。
 夏休みの期間中、必ずどこかのクラブが合宿をしている。 

 8月ともなれば、運動部は全国大会なんかもあるから涼太と陽司も戻ってくる。
 けれど、その頃僕たちは夏休みなんだ。
 だから、二人とは入れ違いで、2学期まで会えない。

「おい、祐介。二人きりだからって抜け駆けすんなよ」

 こら、涼太。真顔で言うな。僕、知ってるんだからな、バスケ部の後輩のこと。

「10日間も二人きりだなんて、心配だなぁ」

 陽司ぃ〜、何の心配だよぉ〜。 


 そう、僕たち管弦楽部は明日から校内合宿だ。
 10日間の合宿の最終日は、後援会とOB会主催の「夏のコンサート」なんだ。 

 その後、僕と悟の『プーランク』はとてもいい感じで仕上がってきている。
 桐生三兄弟の『ブラームス』は言わずもがな、だ。

 麻生は…あれ以来出てこない。
 光安先生も、悟から事情を聞いてからは、特にアクションを起こしていないらしい。

 噂によると、守先輩の影がチラチラしているらしい。けど、僕が詮索するのは麻生にとっても嫌なことだろうと思うから、ここは知らん顔を通すしかない。




 涼太と陽司を見送ってから、僕たちは寮の方へ歩き始めた。

 今日の午後は完全オフだから、昼食のあとちょっと遠出をして、銀座のでっかい楽器屋へ楽譜を買いに行こうと約束しているんだ。
 京都ではちょっと手に入りにくい楽譜も、東京では当たり前みたいに置いてあるし…。

 …しかし、なんだって手をつないでるわけ? 僕たちは。

「葵、夏休みは帰るんだろ?」

 振り解くのも何故かためらわれ――『ためらうなっ』って自分でつっこんだりしちゃうけど――ひんやりとした祐介の手の感触に居心地の良さを感じてしまって、なんとなくそのままにして正門から寮までの5分の道のりをゆっくりと歩いていた。

 帰省を始めた生徒たちが、すれ違いざまに『相変わらずお熱いねっ』とか『葵ちゃん、今度俺とデートしてっ』とかふざけたことをほざいている。

 こらっ、祐介っ、Vサインなんかしてるんじゃないっ。
 …やっぱりこの学校、あけっぴろげすぎる。



「うん、合宿がすんだら、栗山先生と一緒に帰るんだ」

 そう、僕の大好きな栗山先生は、明日からの合宿に、約束通り駆けつけてくれることになっている。
 ま、僕が頼まなくても、聖陵がすでに先生を特別講師として正式に迎えているから、心配することじゃないんだけど。

「京都でコンサートするのっていつだったっけ」
「16日だよ」

 そうなんだ。僕は京都のホテルで行われる『ロビーコンサート』っていうのに、栗山先生とデュオで出演することになっている。
 先生とデュオだなんて…。知らず知らずにほっぺが緩む。しかも…。

「伴奏、悟先輩なんだって?」

 そうなんだよっ! 幸せすぎる…。

「どうしてわざわざ東京から…。京都には栗山先生の専属ピアニストだっているだろうに…」

 祐介は僕の手をギュッと握った。

「痛い、祐介」

 そんなに痛くはないんだけど、なんとなく言ってみた。
 けれど、祐介は力を緩めてくれない。いつもなら、『ごめん』って言ってくれるのに。

 なんだか不穏な雰囲気を感じて、あわてて僕は話題を変えた。

「祐介は? 帰るんだろ、もちろん」

 僕の質問にも、祐介は前を見たままなかなか答えてくれない。

「…僕も京都へ行きたかった…」

 やっと出てきた言葉は、僕の質問とはちょっとばかりつながらないもの。
 けど、そんなに深刻な顔していうことかな?

「来ればいいじゃん。うちは先生と二人暮らしだから、部屋は余ってるよ」

 僕は気楽にそう誘った。ついうっかり。

「…葵…先生と暮らしてるってホントだったんだ…」

 祐介が目を見開いて立ち止まる。
 っちゃー、しまった。ばれちまったぜい。


「葵、家族は?」

 そうなんだ、僕は友人たちとそう言う話は一切していない。
 同室の祐介・涼太・陽司の家族構成とか、お父さんは何してるとかはだいたい知ってるんだけど(ちなみに祐介のうちは4人家族で、お父さんは超有名企業の取締役、ご存じ美人のお姉さん・さやかさんは東大出だそうだ)、僕の方から僕の話は一度もしなかったし、だいたいみんな、僕の姉さんは舞妓さん、で納得しているから。

「家族は栗山先生だけだよ」

 悟のおかげでずいぶんと楽になった僕の肩の錘は、今ならそんなに重くない。
 僕はつないだ手を引っ張り、先を促しながら続けた。祐介になら話してもいいと思ったから。

「生まれたときから母子家庭で、一人っ子。母さんは今年の始めに死んじゃった」

 ことさら明るい声で告げた言葉に、祐介の表情が固まった。

「母さんと栗山先生は幼なじみだったんだ。すごく仲良くてね。それで…」

「葵にはおじいさんやおばあさんもいないのか?」

 手を引っ張られていた祐介が、今度は僕の手を引いて前に出た。

「うん。母さんの両親は僕が生まれる前に亡くなってるし…。父親は…」

 父さん、とは絶対に呼ばない。
 どこの誰かもわかんないヤツ。母さんは愛していたかもしれないけど、僕は知らない、そんなこと。

「どこの誰だか…知らない」
 僕の声は、ほんのちょっと暗くなった。
「僕は、私生児なんだ」

 僕は真っ直ぐに祐介を見た。
 微笑んだつもりだったんだけど、ちょっと無理はあったかもしれない。
 祐介の双眸は驚愕に満ちていた。

「ごめん、嫌な話聞かせて…」

 やっぱりふつーの高校生にはちょっとばかり刺激がきつかったかも。
 僕はそっと手をはずすと、そのまま歩みを進めた。

「葵っ」
 唐突に後ろから抱きしめられた。

「ゆ、祐介…」
「…頼む、このままじっとしてて」

 あたりの人影は途絶えているけれど…。
 僕の耳には、自分のだか、祐介のだかわからない鼓動が届いて来るばかり。


「あーーーーーーーーーーーっ!」

 あたりの空気を震わせて静寂を突き破ったこの声は…。 

「ちょっと浅井!! 何やってんだよぉぉ!」

 何でこんなところに現れるのか、麗しきフランス人形、昇先輩である。
 麻生の一件以来、このパターンがなぜか多い。
 僕が誰かと二人でいたりすると、何故だか昇先輩が現れるんだ。
 悟が現れるのならともかく、どうして昇先輩なんだ。

「こらっ、こんなところでおいしいことやってんじゃないのっ」

 そう言うや否や、昇先輩は思いっきり僕を抱きしめて、濃厚な一撃を食らわせてくれた。
 ちょっとまてぇぇぇぇっ! ひ、人前でっ。って人前じゃなきゃいいってもんじゃないけど。

「昇先輩っ。先輩までっ」

 祐介が僕を掴んで引き剥がす。
 おいっ、助けてくれるのはいいけど、『まで』ってのはなんだ。

 僕は、もみ合う祐介と昇先輩の間をすり抜けて、走り出した。もちろん寮を目指して全力疾走だっ。

「あっ、こらっ!」
「待てってばっ、葵っ」





 二人を振りきって寮に駆け込んだ僕は、自分のスリッパを履いて違和感を感じた。
 先になんか入ってる。

 覗くとそれは、小さな紙切れだった。
 画鋲でなくてよかったと思うあたりが情けないけど、幸い画鋲が入っていたことは一度もない。

 それにしても、靴箱やロッカーに手紙が入ってることは日常茶飯事だけど、スリッパの中は初めてだ。

『消灯後、部屋で待ってる』

 たったそれだけの文面で一気に心臓が跳ねた。
 どこの部屋とも書いてなく、差し出し人すらない。
 だから僕にははっきりわかる。

 今夜から10日間の寮内は管弦楽部の生徒だけになる。
 悟は今夜から一人だ。僕は祐介と二人だけど。

 というわけで、夏休み中はどの部屋も『歯抜け』の状態になるので、いくら点呼をきっちりとしたところで、消灯後の寮内は移動し放題だ。

 それに先生方の数も減るので、自然と規律も甘くなる。というわけで…聖陵の夏は恋の季節ということらしい。

 涼太と陽司は、そこのところを特に丁寧(きっとかなりの尾ひれをつけて)に教えてくれて、『気をつけるんだよ』と言ってくれた。

 いったい何に気をつけるんだか。部屋には鍵があるし、だいたい祐介が一緒にいるんだし…。

 僕は唐突に思い当たった。
 もしかして…祐介…冗談じゃなく?。
  



 その日、僕たちは予定通り外出して、楽譜を買い込んで帰ってきた。
 夕食も済ませ、休暇中はシャワーしか使えないので(僕はいつもシャワーだけど)、普段は地下へいく祐介もシャワーを浴びて…。

 祐介はいつもの祐介だ。
 僕は自分のことを『自意識過剰』と診断して自分のベッドに上がろうとした。消灯10分前だ。




「あれ? 葵、もう寝ちゃうの」

 祐介に不思議そうに訊ねられて、だって抜け出すんだもん…とは言えずに、僕は曖昧に返事をした。

「ちょっと眠いかなって…」
「なら下で寝れば。涼太がベッド使っていいって言ってたじゃないか」

 そう言えばそんなこと言ってたな。
 下のベッドか…抜け出すには好都合かもしれない。
 んじゃ、ありがたく…っと。

 僕は限りなくお勝手な考えを抱きしめて、自分のベッドから枕と綿毛布を持ってきた。
 そしてそれを涼太のものと交換して、僕はごそごそと潜り込んだ。

「おやすみ、祐介」
「…うん、おやすみ」

 まもなく消灯の放送が流れた。
 それから15分…。

 祐介は、いつもならしばらく本を読んでいたりするんだけど、今日は電気が消えている。
 耳を澄ませると、微かに聞こえる規則正しい息づかい。

 僕はゆっくりと起きあがった。
 スリッパを履こうと思ったんだけど、音がするのがなんだか怖くて、裸足で立った。スリッパは手に持って。


 ドアノブの下の鍵に手をかけた時だった。


「どこ行くの?」

 それは、少なくとも、『今起きた』っていう声じゃなかった。
 瞬間、指の力が抜けた僕は、ご丁寧なことに、スリッパを落としてしまった。

 パタン、と乾いた音が静かな部屋に響く。

 背後で祐介がベッドから降りる気配がした。
 ゆっくり近づいて来る。
 背中に祐介の体温を感じた時、両肩に手が掛かった。

「悟先輩のところ…?」

 僕の体は思いっきり動揺した。
 言葉で返すより、たちが悪い。

 両肩の手はそのまま前へ回された。力がこもる。僕の体はすでに竦んでしまっている。

「行かせない」

 え…っ? なに…。耳元で囁かれた、これが…祐介の声…?

「誰にも渡さないっ!」



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 言葉が吐き出されたのと同時に、僕は乱暴に抱き上げられ、そのまま祐介のベッドに押し込まれた。

「祐介っ」

 僕はやっと言葉を発した。
 そして、暴れてもがいたけれど、体格の差はどうしようもなく、僕の体は自由を失った。

「やめて、祐介、頼む…からっ」

 押さえつけられて満足な呼吸もできない僕は、切れ切れに声をあげる。

 けれど、声すら奪われた。
 いきなり合わされた唇は、僕から、言葉も息も吸い取ってしまった…。

 いらだちを露わにした、祐介の動き。
 逃げれば逃げるだけ激しく追いつめられ、呼吸も奪われた僕の意識はゆっくりと闇に溶け込んでいこうとする。

「どうして僕じゃだめなんだ」

 遠くで祐介の声がした。

「こんなに葵が好きなのに。ずっとずっと側にいて守ってきたのに。どうして僕を置いて行くんだ」

 祐介…本気だったんだ…。

 僕の唇は解放されているはずなのに、呼吸は戻らない。
 あたりの闇はどんどん深くなっていく。
 ごめん、祐介。僕はその気持ちには応えられない…。

 僕が好きなのは、悟…ただ一人。
 悟にしか、僕はあげられない。





『そっちちゃんと押さえとけ』
『痛いばっかりじゃ、可哀相だからな』
『こらっ、いい目にもあわせてやろうってんだから暴れるな』
『可哀相にな、こんなに可愛い顔してるのに…』
『バカ、可愛い顔してるからこんな目に遭うんだよ』

 …なに? 僕を…どうするのっ! いやだっ、やめてっ、助けてっ!





「葵っ! 葵、息をしてっ!」

 僕の喉めがけて大量の息が送り込まれてきた。
 むせようとした瞬間、次は一気に吸い込まれて、僕は目を開けた。
 喉からひゅぅ…と、音がした。

 目の前には祐介。泣いてるの? どうして?

「ごめん、葵…。怖い思いをさせて…」

 祐介、僕に何をしようとしたの?
 でも、あれは、祐介と違う…。
 誰が、僕に、何を、した…?

「僕…僕は…」
「葵?」
「僕は…」




『可哀相にな、こんなに可愛い顔してるのに、汚れちまって』

 男の声は楽しそうだった。




「汚れているの…?」
「葵っ?!」
「祐介…僕に触っちゃダメだ…僕は…汚れて…る」
「何言ってるんだっ、葵はどこも汚れてなんかいない!」

 祐介、頼むから、僕に触らないで…。

 僕は、全てを思い出した。
 僕の奥深くに潜んでいた、微かなものの正体を。
 なぜ今まで忘れていられたのか。
 僕が傷つけられたのは、背中だけじゃなかったんだ。


「…悟先輩のところまで、送るよ…」

 祐介…?

「悟先輩が好きなんだろう。ごめん…、葵の気持ちも考えずに」

 表情をまったく変えないままに、さ、行こう…と呟いて、祐介は僕を抱き起こし、手を引こうとした。

「行かない」

 抑揚のない声でそう言って、僕はその手を振り払った。

「葵…」
「祐介も…僕に触っちゃダメなんだ」
「どうして…?」
「僕は…汚れているんだから」
「葵のどこがっ! こんなに綺麗な葵のどこが汚れてるって言うんだっ」

 僕はだまってパジャマのボタンをはずし始めた。

「…あお、い…」

 全てはずして、僕は立ち上がった。
 祐介に背を向け、パジャマを脱ぐ。

 どうして祐介に見せる気になったんだろう。
 僕は全てを話すつもりなんだろうか。

「こ、これ…」

 祐介が息を呑む音がした。

「これが、僕がシャワーしか浴びなかった理由だよ。でも、これだけじゃあない」

 僕はパジャマを着た。ボタンを留めながら、祐介に向き直る。
 どうしてこんなに、まっすぐ顔を見つめたまま話せるんだろう。

「僕は、性的暴行を受けている」

 自分自身信じられないほど、落ち着き払って乾いた声。

「中学1年の時…僕は学校帰りに、後ろから近づいてきた車に無理矢理連れ込まれた…」

 ゆっくりと紡ぐように、僕は3年前の出来事を話した。
 祐介は言葉を無くして立ち尽くしている。

「どこかへ閉じこめられて、焼けた火箸やたばこの火を背中に押しつけられて…。 気絶した僕が次に気がついたのは、半年近く経った後だった。その間、僕の目は開いていたけれど、何も見ていなかったと、後から栗山先生から聞いた。残った記憶は背中の傷の理由だけで。 だけど、今、思い出したんだ…。ずっと、ずっと忘れていた…まるでなかったことのように…。僕は3人の奴らに、何度も…」

 何故だろう、涙もでない。
 何かがカサカサと音を立てて騒いでいるだけ。

 祐介がゆっくり近づいてきた。
 カーテンから漏れる月の光に、祐介の綺麗な顔が白く浮かび上がる。
 そして、手を伸ばす。そっと僕の肩に手を触れる。
 僕の肩は大きく揺らいだ。
 祐介の手に力がこもる。

「僕の、せいだ…」

 確かにそうかもしれない。
 思い出したのは祐介のとった行動のせいだろう。
 けれど…。

「忘れたままでいいことじゃ、ない。何かを置き去りにしてるって言う自覚はあったから、僕はその正体を知りたかったんだ。それが…祐介でよかった」

 それは僕の偽りのない気持ちだった。
 もしも、あの時のように僕を壊すことだけが目的の行為によって思い出していたとしたら、今度こそ僕の心は本当に崩壊していただろう。

「僕は、葵が好きだ」

 祐介は潤んだ瞳で僕を見つめている。

「葵の心が、悟先輩にしか向いていなくても、それでも好きだ」
「祐介…」
「…悟先輩のところへ…行こう」

 祐介は柔らかく微笑んだ。潤んだ瞳に月明かりが入って、静かな光を湛えている。
 静かに首を振る僕に、祐介は表情を曇らせた。

「背中の傷のことは…」
「悟…先輩は知ってる」
「自分から話した?」
「ううん。階段から落ちたときに、バレてたみたい。…僕がこの事を自分から話したのは、祐介が初めて」

 祐介は曇らせていた表情を緩め、また柔らかく微笑んだ。

「…傷のこと、先輩、何か言った?」

 そう言われて、僕は、あの、練習室の夜を思い出した。


『僕を信じてくれる?』


「あ…」
「思い出した?」

 僕はコックリと頷いた。

「『僕を信じてくれる?』って」
「それで、葵は先輩を信じたんだろう」

 でも、でも…。

「悟も僕のことを…信じていたのに…」
「葵は先輩を裏切ったのか?」

 僕は弾かれるように顔を上げ、祐介を見つめた。祐介の優しい笑顔は変わらない。

「葵は誰も裏切ったりしていない。僕にも…必死で抵抗したじゃないか」

 祐介は少し恥ずかしそうに目を伏せた。

「悟先輩が葵に出会ってから変わったっていうのは、よくわかってたんだ。けれど僕だって、あの桜並木の下で初めてあった時から、葵のことが好きだった。 だから、悟先輩と葵を見るたびに、気持ちばかり焦って…。どうしようもないこの気持ちを持て余して…」

 祐介はそっと僕を抱きしめた。

「怒ってるだろう…」

 声が微かに震えている。

「祐介…ありがとう」

 祐介の体がピクッと震えた。

「僕、今夜のことがなかったら、自分の中に閉じこめた記憶を、忘れたままでいた。心の隅にひっかかったものをいつまでも引きずっていた。祐介が僕を呼び戻して、そして、包んでくれた。だから僕は…」

「今度こそ本当に全部忘れてしまうんだ」

 祐介は僕の体を少し離すと、ジッと視線を捉えたまま、言った。

「悟先輩に…全部忘れさせてもらえ」


 僕は一瞬何を言われたのかわからなかった。
 けど、それって、もしかして。
 僕の頬が一気に熱くなった。

「ばか、そんな顔すんなよ。離したくなくなるじゃないか」

 さ、行くぞ、と言って祐介は僕の手を引いた。急にてきぱきと。

「ほら、ちゃんとスリッパ履いて」

 有無を言わせずに僕を廊下へ連れ出すと、
「明日は10時集合なんだから、9時には戻って来いよ」
 …と、そんな心配までしてくれて、悟先輩のことだから抜かりはないよな、なんて呟いたりもしてる。

 祐介、本当にごめん。それと…ありがとう。





 そして、悟の部屋の前。
 祐介は僕の手をギュッと握った。

「葵、僕はまだ、友達でいてもいいか」
 絞り出したような掠れた声…。
「祐介は僕の一番の親友だよ」

 それが今の祐介にとって、とても残酷な言葉だとわかっていても、僕にはそう言うしかなかった。本当のことだから。

 祐介がじっと僕の瞳を捉え、やがてフッと逸らした。

「葵を悲しませてしまうのなら、もう、見つめない。…でも、でも…もう一度だけ…」

 祐介は僕をギュッと抱きしめた。
 伝わる鼓動は早くない。
 トクトクと落ち着いたリズムを刻んでいる。

「ありがとう」

 僕を離して、うつむき加減に祐介は微笑んだ。
 本当に綺麗な笑顔。
 強くて優しくて綺麗な、僕の一番の友達。

「僕こそ…ありがとう」
「うん、やっぱりいいな、葵のその笑顔」

 そう言うと祐介は、小さくドアをノックした。
 ゆ…祐介…。

 すぐにドアが開いた。

「浅井…」

 悟がびっくりしている。そりゃそうだろ。どこの世界に同室のヤツに送られて忍んでくる人間がいるってんだ。

「ちゃんと9時には返して下さいね。それと…」 

 祐介は挑むように言うと、にっこり笑った。

「泣かせたら承知しませんよ」

 祐介は僕を悟に押しつけて、走って帰ってしまった。



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