第5幕「火の鳥」

【2】





 初めて入る悟の部屋。
 2年生からは二人部屋だから、ベッドは2段じゃない。

 悟は僕の手を引いて、ベッドに座らせた。そして自分も隣に腰を下ろすと、僕の肩を抱いた。

「そんなに笑わなくたって…」

 悟はずっとクスクス笑ってる。

「ごめんごめん、でも、まさか浅井に送られてくるとは…」
「だって…脱走に失敗したんだもん」
「…!」

 悟はクスクス笑いをやめて、本格的に笑い出した。

「もうっ」

 僕はふくれてそっぽを向いた。
 けれど、すぐに悟の手が僕の頭を掴んで、強引に顔を向き合わされた。

「ん…っ」
 強引に向かされた割には、優しいキスだったけど。

「遅いから、出てこられなくなったかと思ってた」

 コツンと額を合わせて、悟が優しい声でいう。

「それにしても浅井のヤツ、よく葵を離したな」

 え? 悟、もしかして気がついていたの?

「葵の行き先が僕のところだとわかっていながら、離すとは…」

 悟の顔から微笑みが消えた。


「何かあったんだろう?」

 僕は目を伏せるようなことはしなかった。悟の瞳が僕を責めていなかったから。
 真剣な表情はしていても、どこか慈愛に満ちた眼差しが僕を包んでいた。

『全てが好きだ』と言ってくれた悟の言葉と、『葵は誰も裏切ったりしていない』と言ってくれた祐介の言葉に励まされて、僕は口を開いた。



                   ☆ .。.:*・゜



「京都のコンサートが終わったら、僕のうちへおいで」

 悟は僕の髪を優しく梳きながら、言った。
 時刻は夜中の2時を回った頃。所は悟のベッドの中。
 僕は悟の左腕を枕にして抱かれていた。
 言っておくけど、二人ともパジャマはちゃんと着ている。

 コンサートが終わったら、栗山先生は10日間ほどツアーに出る。
 その間、僕が一人で京都に残るのは心配だからと言うことで、僕は寮へ帰ることになっていた。
 その期間を悟の自宅に誘われたんだ。

「ちょうどいい。その頃なら母が帰っているはずだから、レッスンを見てもらおう」
「は?」
「は、じゃない。ピアノのレッスンだよ」
「誰の?」
「誰の、じゃない、葵のだよ」
「誰が?」
「うちの母親」

 ちょっと待った。悟の母上はあの…。

「悟のお母さんって、ピアニストの桐生香奈子さんだよね」
「そう」
「僕、CD持ってる」
「何の?」
「モーツァルトのピアノコンチェルト集」
「ああ、あれは結構マシな出来だったっけ」
「で、僕のレッスンがなんて?」
「夏休みに桐生悟の自宅で桐生香奈子が奈月葵のピアノのレッスンをする、って言った」
「くー」

 僕は寝たフリをした。

「こらっ、葵」

 悟がペチペチと僕のほっぺを叩く。
 僕はパッチリと目を開けて、キッパリと言った。

「聞かなかったことにしてあげるよ」
「大丈夫、栗山先生の許可はとった」

 はぃぃぃ〜?

「じょ、冗談やめてよ。僕、まだろくに弾けないのに」

 まだ幼稚園レベルの僕のピアノに、どうしてそんなに偉い先生が時間を割かなきゃいけないんだよ〜。

「もう決めた。この話はこれで終わり」

 そう言うと悟は僕に覆い被さってきた。
 唇を深く合わせながら、手はパジャマのボタンにかかる。

 首から肩、喉から胸。ゆっくりと這い廻る悟の唇に、僕の息がだんだん上がってくる。

 やがて悟の右手が僕の腰に掛かった時、僕の体が大きく震えた。
 まるで電気が走ったように全身が硬直する。

 …やっぱりダメだ…。

 ほんの数時間前、僕の告白をこともなげに受け止めてくれた悟は、祐介の言葉どおり、『全部僕が忘れさせてあげる』と言った。

 けれど、僕の体が悟を拒んでしまった。
 そして今度も…。

「さ、とる…」
 僕は泣きそうな声で悟を呼んだ。

「葵、大好きだよ」
 悟は目を細めて僕を見る。

「僕の葵…」
 そう言って全身で抱きしめてくれる。

「ごめんなさい…」
 僕は悟の胸に顔を埋める。
 いったん流れ出てしまうと、もう涙は止まらない。

「時間はたくさんある。ゆっくりと幸せになろう」
「さとる…」
「あおい…」

 どちらからともなく顔を寄せ合って、僕たちは長い長いキスをした。
 


                   ☆ .。.:*・゜



 夏の校内合宿は「黄金週間」に比べるとずっと楽なスケジュールだった。

 午前中の2時間はパート練習。
 午後の2時間は合奏。
 夜の1時間は個人レッスン。
 おかげで夏休みの課題(あ、勉強の方ね)も2日ですんだ。

 栗山先生が生徒たちと過ごせる時間も多くなったのはいいんだけど、夜の自由時間はいつも多くの生徒たちに囲まれていて、ちょっと妬けちゃったりする僕だった。


 そして合宿最終日。
 今日は「夏のコンサート」本番。

 午前中はOB会・後援会の総会とやらが行われていて、エラソーなおじさま方がたくさんやって来た。
 ニュースで見るような顔もたくさん混じっていて、僕はちょっとした野次馬気分でその様子を眺めていたんだ。

 そして、昼食会をはさんで午後がコンサートになるんだ。
 僕にとっては聖陵学院・管弦楽部での初ステージ。

 本番では中・高関係なく、全員お揃いのブレザーを着る。
 色は黒に近い濃紺で、形は普段の制服がシングルなのに対してダブル。
 金ボタンで胸ポケットのエンブレムは普段の制服のものより少し派手で、頭文字『S』にト音記号が絡みついているっていう、誰でも考えそうな安易なデザイン。

 初めて見たときに『なんだこりゃ、安易だな』って言いたかったんだけど、考えたのが光安先生だったりしたら、後がコワイので言わなかった。




「葵、紹介するよ」

 祐介が一人の素敵なおじさまを連れてやってきた。

「うちの父だ。どうしても葵に会いたいって駄々こねるから、しょうがないから連れてきてやった」

 と、言うことは、さやかさんのお父さん! って、当たり前か。
 やっぱり美人さんのお父さんはハンサムだ。

「初めまして、奈月葵です。祐介くんにはいつもお世話になっています」

 僕は大人向けの一番上等の笑顔を繰り出した。いい子ぶりっこ炸裂だ。

「こちらこそお世話になっています。…いや、なんと可愛い…痛っ」

 祐介が足を踏んでいた。

「もういいだろっ、これから本番なんだから。さっさと客席へ行ってくれよ」

 邪険にされたお父さんは『またあとで〜』とお茶目に手を振りながら客席へ向かっていった。

「まったく…」
「いいお父さんだね」
「そうかな?」
「そうだよ。だいたい留学させてくれるだなんて」

 そう、祐介はこの合宿が終わったら、2学期が始まる直前までのまる1ヶ月間ドイツへ行く。
 目的は向こうの音楽院で行われるサマースクール。一流の先生についてみっちり学べるというわけなんだ。

 実は祐介のお父さんもフルートを吹く人で、管弦楽部のOBなんだけど、ご本人は6年間の在学中一度もメインメンバーになれなかったんだそうだ。

 それで息子に夢を託し、高校進学と同時にメインメンバーになれたとあって、大喜び。
 もっと上手になってもらおうと勝手にサマースクールを申し込んだらしい。

 本人は全く乗り気ではなかったんだけど、光安先生から『来年も奈月の隣で吹きたかったら、死にものぐるいでやってこい』と脅されて、それなら…とやっと行く気になったそうだ。
 僕も昨日初めて聞いたことなので、その間の祐介の葛藤はよくわからない。



 そして午後2時。コンサートの幕が開いた。

 プログラム前半は「プーランク:フルート・ソナタ」とメインメンバー以外の「モーツァルト:交響曲第40番」。

 後半は「ブラームス:ピアノトリオ」とメインメンバーによる「ドヴォルザーク:交響曲第8番」というラインナップ。

 そう、僕は一番最初なんだ。

 舞台袖で出を待つあいだ、悟はずっと僕の肩を抱いていてくれた。

 僕たちはこの10日間、できるだけ一緒にいるようにしていた。
 もちろん祐介の協力あってのことなんだけど、それでも僕の体は頑固で、なかなか言うことを聞かなかった。

 明日僕は、栗山先生と一緒に京都へ帰る。悟はここから2時間ほどの実家へ帰る。

 次に会えるのは、16日のコンサートのために悟が京都へ来る13日。
 2週間近くも会えなくなる。それが不安だったりするけれど…。

 なのに、これからの演奏にはちっとも不安を感じていないところが僕の図太さだったりするわけだ。


 やがて客電が落ち、舞台が明るくなった。

 拍手に迎えられて、僕と悟は中央のピアノへ向かう。
 悟が出すピアノのAと僕のフルートのAがぴったり寄り添ったところで、僕がわずかに頷いて、曲が始まる。

 第1楽章は華やかでフランス色豊かな、これぞフルートって言う感じの名曲。
 コンクールの予選の課題がこれだったから、不安なところは少しもない。けれど、コンクールの様には吹きたくなかった。
 コンクールではある程度型にはまった演奏をしないと評価されない。けど、今日は違う。
 栗山先生だって『好き勝手にやれば』とか何とか言ってたので、こうやって好き勝手やらしてもらっている。
 こんなにテンポを揺さぶっても動じない悟ってやっぱりすごい才能なんだなと改めて思ったりもした。

 第2楽章はゆったりとした3拍子。
 儚げな感じがする曲なんだけど、僕は色気たっぷりに吹いてしまった。高校生としては、ちょっと不健全だったかも知れない。後で何か言われるかもな。

 第3楽章は技巧的で派手な曲。
 結構脳天気に吹ける曲なので、肩が凝らなくっていい。

 ともかく全楽章通して悟がぴったりとつけてくれて、後を押してくれたり、リードしてくれたり、僕は甘やかされて、わがまま放題に吹かせてもらってしまった。

 そして、最後の一音が空間に吸い込まれて一息。

 僕と悟はブラボーと拍手に包まれた。
 振り返った僕とイスから立ち上がった悟の目があう。
 よかったよ、と悟の瞳が言い、ありがとう、と僕の瞳が返す、最高に幸せな瞬間だ。

 僕たちは客席に丁寧にお辞儀をし、舞台を下がる。悟がさりげなく肩に手を回す。

「ちょっと、悟、離してってば」
「どうして?」
「まだ舞台だよ」
「肩より腰の方がいい?」
「そうじゃなくってっ」

 悟は最近とても大胆になってきた。
 これが昇先輩や守先輩が言うところの「悟のもともとの性格」だとすると、ちょっとコワイものがあったりするんだけど…。
 

 次のモーツァルトはとても生き生きと仕上がっていた。
 これが所謂「二軍」だなんて誰が信じられるだろう。
 普通、交響曲の管楽器は『各2本』と言うのがお決まりなんだけど、何故かこの曲はフルートだけ1本きり。
 そのたった一人きりのフルートを、藤原くんが踏ん張った。

 中学1年生の管楽器奏者が夏のコンサートに出るというのは、初めてのことらしい。
 やっぱり聖陵は層が厚いな。



 休憩をはさんで、いよいよ桐生三兄弟のブラームス。
 期待度から行くと、はっきり言って今日のメインだ。

 昇先輩のヴァイオリン、守先輩のチェロ、そして悟のピアノ。

 実力もルックスも抜群のトリオに、会場中が、そして舞台の袖で待機している僕たちメインメンバーが心酔してしまっている。



 曲が終盤にさしかかった頃、舞台袖の端っこ、それこそわざわざ探しに来ないと見つかりそうもないところに一人で佇んでいた僕の手に、ふと、何かが触れた。

 フルートを持っていない左の方の手に、暖かいものがそっと触れてきて、指から先がキュッと握られる。

「奈月…」

 優しく耳元で囁かれた僕の名前。
 でも声に覚えがない。
 でも振り向いた僕の目には、よく知った顔。

「麻生…」

 合宿から部活に復帰していた麻生だった。
 左手にヴァイオリンと弓をまとめて持っている。

 麻生の声だとは思わなかった。
 それほどに優しくて暖かい声色だったから。

「奈月に謝りたくて…」

 以前から可愛いとは思っていた麻生の顔だったけど、今日の麻生は思わず抱きしめたくなるような愛らしさだった。

「許してもらおうとは思ってないんだ。ただ、謝りたくて…」

 消え入りそうな声でやっと告げる。

「本当に…ごめん…」

 僕は体ごと振り返ると、そのままギュッと麻生を抱きしめた。

 あまり大きくない僕より、まだ5cmほど小さい麻生は、なんだかしっくりと僕の体に納まった。

 目一杯僕を睨み付けて、憎悪をまき散らかした麻生。
 あの勝ち気な麻生が、こんなに弱々しい声で、僕に『ごめん』と言った。
 これは、決死の覚悟が要ったんじゃないだろうか。

 麻生は麻生なりに、真剣に悟を思っていたに違いないんだから…。

「大好きだよ、麻生」

 僕が麻生の耳元でそっと囁くと、麻生は楽器を持った手ごと僕を抱き返してきた。

「奈月…ありがとう…奈月」

 その声は泣き声に変わっている。
 新しい友達を手に入れたお互いが、幸せに酔っている背後で、大きな拍手が沸き上がった。
 ブラームスが終わったんだ。


 僕らは何となく離れ難くて、音楽の余韻に浸りながら、まだのんびりと抱き合っていた。

「こら、何してる」
 低い声が聞こえた。

 見ると、長身で美形の面々がずらりと取り囲んで下さっている。

「ちゃんとブラームス聞いてたんだろうね」

 昇先輩が美しいふくれっ面で僕たちを睨む。
 このフランス人形は、最近少し背が伸びたようだ。羨ましい…。

「「もちろんですっ」」
 見事にハモる僕たち。

「葵、浮気するなら僕としてくれ」
 祐介が真顔で言う。
 いや、別に僕は浮気をしているわけでは…。

「隆也、悟の替わりにオレで我慢しろって言っただろ」
 えぇっ! 守先輩と麻生っていつの間にそんなことに…。噂は本当だったのかっ。

「どちら様であろうと、僕の葵にちょっかいは許さないよ」

 悟がさりげに爆弾発言を落としながら僕を引き剥がしにかかったとき、『スタンバイ』の声がかかった。

 舞台からはピアノが撤去されていて、すっかりオケ仕様になっている。

「さ、みんながんばって来いよ」

 悟が僕たちを、大きく広げた長い腕で包み込むようにした後、ステージへ向かって押し出した。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



「僕、自分が悟先輩のライバルになるなんて思ってもみなかったよ」

 麻生が、泣いた後の少し赤い目で僕を見上げて微笑んだ。
 はぁ? 麻生が? 悟のライバル?

「麻生、今さらだぞ。僕だって諦めたんだ」
 横から祐介が口を挟んだ。

「え? 浅井、諦めたの? そんなのだめだよ。好きになったらとことん、だよ」

 お先に、と言って、麻生は明るいステージへ踏み出し、管楽器にほど近い、第2ヴァイオリンの自分の席に着いた。
 その後を、僕と祐介は後方真ん中、一段高いフルートの席へ向かう。

 なんだか僕は、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がしたんだけど、麻生と祐介の会話を1回反芻したところで、左隣の坂口先輩がオーボエで正確無比なAを紡ぎだした。
 その音を僕たち管楽器がもらい、昇先輩が立ち上がって引き継ぎ、弦楽器全員に伝える。
 そして万雷の拍手を背負って指揮者・光安直人の登場となり、僕の思考は全て音楽へと向けられた。


 見渡せば、昇先輩も守先輩も続くステージの疲れもみせず、トップ奏者としての威厳すら漂わせている。

 そして光安先生のタクトから現れてくる僕たちの「ドヴォルザーク:交響曲第8番」。

 この曲は、民俗色豊かでチェコの田園風景を彷彿させる名曲で、「第9番〜新世界より」に次いで人気が高い。
 もちろんオーケストラの第1奏者としては宿命的な「ソロ」がこの曲にもふんだんにある。

 一番気になっていた、第1楽章最初の方のフルートソロ。
 僕が伸ばしているDの音に、祐介のピッコロが同じ音を重ね、更にもう一度僕が同じ音に重なるところ。
 ここは単純なところだけに、僅かなズレでも目立ってしまうところで、練習中何度かしっくりいかないことがあって、二人で必死になったところだ。

 たかだかピッチ(音程)を揃えるだけなんだけど、これがフルートとピッコロという楽器の違いのせいか、なかなかすんなりとはいってくれなかったんだ。

 それが今日は見事にはまった。
 フレーズの切れ目で僕と祐介は、右手の拳を軽くぶつからせて、無言で喜びを分かち合った。 
 こうなったら後は楽しく吹くだけだ。

 そのまま僕は、第4楽章の「ソロ・ウルトラC」も気持ちよく流して、最後はティーンの情熱溢れるパワー炸裂で30分強の曲を締めくくった。
 カーテンコールが続いたのは言うまでもない。





「気をつけてね」
「うん、葵も元気でいろよ」
「僕は大丈夫だよ。それより祐介、生水飲んじゃダメだよ」
「なんだよ、それ。ガキじゃあるまいし」
「葵くん、今度うちにご招待したら、受けてもらえるかな?」
「はい、喜んで」
「さやかも喜ぶよ」


 コンサートが終演して3時間。

 寮の食堂での打ち上げもすんで、僕は浅井親子を見送りに正門まで来ていた。

 祐介のお父さんが駐車場から回してきた車は『メルセデス』のめちゃめちゃデカイやつ。
 僕は車の方はさっぱりわかんないんだけど、これが高そうなのはだけはわかる。

 あたりはまだ少し明るい。
 祐介は明後日にはドイツへ発つから、今日中に自宅へ帰っておかないと支度が間に合わないんだ。

「悟先輩と仲良くやれよ」
「あのねぇ…」

 そういうことを父親の前で言うか…。 
 祐介の父上はニコニコと聞いている。
 …そうだ、この人OBなんだ。
 この手のことには慣れてます、とか言わないよな…。

「なんだ、祐介のライバルは桐生家の長男か」
「そういうこと」

 ちょ、ちょっと…。

「そりゃ可哀相だったな、祐介。勝ち目ないぞ」
「そういうこと」

 …この親子、なんとかしてくれ。

「じゃ、葵」
「う、うん、いってらっしゃい。がんばってね」
「ああ。これからもずっと、葵の隣は僕の席だ。これだけは絶対、誰にも譲らないからな」


 走り去る外国製超大型高級車を見送った僕は、日中の暑さが去った夕暮れのさわやかな風の中、一人ゆっくりと寮へ向かった。

 明日、僕は栗山先生と京都へ帰る。
 4ヶ月ぶりの生まれ故郷。
 会いたい人もいっぱいいる。少しは大人になったね、って言ってもらえるだろうか。



                   ☆ .。.:*・゜



「それじゃ、悟くん、13日に会おう」
「はい。よろしくお願いします」
「京都駅のホームまで迎えに行くからね」
「うん。毎晩電話するから元気でいるんだぞ」

 8月1日、東京駅のホーム。
 昇先輩と守先輩をさっさと帰宅させて、悟は僕と栗山先生をわざわざ東京駅まで見送りに来てくれた。

 別れを惜しむ僕たちに、発車ベルは無情に鳴り響く。

「今夜と明日は携帯に頼むよ」
「了解です」

 これは、ドアが閉まる寸前、先生と悟の間で交わされた会話。




「あれ、何のこと?」

 荷物を網棚に乗せて、シートに落ち着くなり僕は聞いた。

「ん?」
「携帯に、って言ってたやん」
「ああ、今夜と明日の晩は自宅にいないから、僕の携帯に電話してくれってこと」
「え? 先生、うちに帰らへんの」 

 先生、どっか行っちゃうんだろうか? 仕事なのかな?

「うん…。今日、明日は大阪に泊まり。葵もな」
「そんなこと聞いてへんよっ」

 もしかして僕の知らないことを悟は知ってたってこと?

「ごめんごめん。帰り道でゆっくり話そうと思ってたんや」

 そうして栗山先生から聞かされた話に、僕はびっっっくりしていた。


 それは僕と先生の『お仕事』だったんだ。
 しかもTVCMの録音取り。

 化粧品会社の新作口紅のCMで、バックに流れる音楽をフルート二重奏で入れるんだそうだ。

「学校の許可はとってあるから心配はいらん」
「悟の許可も、やろ」

 ぶすっとふくれて僕は言った。

「まぁまぁ。勉強になるんやから」

 それはそうだろうけど。本当に僕にできるのかな?

「楽譜見せるよ。僕の最新作」
「えっ? オリジナル?!」

 二度びっくり。栗山重紀作曲のフルート二重奏だったんだ。しかもCM用の書き下ろし。

「CMではフルート二本やけど、16日は悟くんの伴奏が入る」
「あ…。だから悟はもう…」
「そう。楽譜を渡してきたからな」

 僕は渡された譜面を読み始めた。
 頭から始まって、体中に音符が溢れ出す。
 なんだかすごくロマンチックな曲だ。あぁ、早く吹きた〜い。



                   ☆ .。.:*・゜



 翌早朝、僕たちは迎えに来たタクシーでスタジオへ向かった。

 昨夜は大阪駅のホテル泊まり。
 悟はしっかり、先生の携帯に電話を入れてくれた。
 初めて聞く受話器越しの悟の声に、僕は4月に初めてあった時のことなんかを思い出して、一人で赤くなっていたりしたんだ。
 悟は録音がんばって、と励ましてくれた。

「着いたよ」

 栗山先生の声が、ぼんやりと昨夜の悟とのやりとりを思い出していた僕を、現実に引き戻した。

「…先生。ここ、どこ」

 どう見ても録音スタジオじゃない。
 どう見ても『撮影所』だ。

「やぁ! 栗山さん、お待ちしていました」

 ニコニコと声をかけてきた男性。
 いかにもギョーカイって感じの優男。ちょっと佐伯先輩に似てたりする。

「おはようございます」

 先生がにこやかに挨拶する。

「奈月葵くんだね。初めまして」

 ニコニコと愛想笑いはしてるけれど、その目で僕の全身を舐めるように見る。
 う〜ん、商品を値踏みするような目だな、こりゃ。

「初めまして」

 僕も、愛想笑いの中でもちょっと上等な方のを投げかける。
 なんてったって、先生の仕事の相手だ。いい顔しとかなきゃダメだろう。

 優男は『ヒュゥ〜』と長く口笛を吹いて『これはこれは』とほざいた。

 名刺によると、優男はCMディレクターの神崎氏。
 先生よりちょっと年上って感じかな。

「今回のコンセプトを説明するよ」

 それはいいから、肩を抱くなっての。

 僕が連れて行かれたのは、文字通り『楽屋』。
 複数の若いお姉さんが待っていた。

「パターンは2つ。一つは『ミューズ伝説』でもう一つは『天女伝説』だ」

 …ふ〜ん。
 僕は眩しいオレンジの照明がついた鏡の前に座らされた。
 お姉さんたちが僕の髪や顔を触り出す。

「せんせ…。」

 僕は冷えた声で先生を呼んだ。

「ごめんっ、騙すつもりはなかったんだっ。言えば怒ると思ってつい…」
「当たり前です。怒りますっ」

「仕方ないさ、売れっ子演奏家が10日間もスケジュールを空けるのにはそれ相応の見返りがないとね」

 横から神崎氏が口を挟む。カチッとライターが音をたて、神崎氏は深く煙を吸い込んだ。

「栗山氏がきみの学校へ行くためだよ。無理してね」

 え? ホントに?

「神崎さん、そういう言い方はやめて下さい。僕は聖陵から正式に依頼を受けて行ってるんですから」
「はいはい」

 神崎氏の話によると、先生はツアーの日程を決めるときに、無理を承知で聖陵を優先させたんだそうだ。で、その替わりにエージェントから出された条件ってのが、フルート二重奏の作曲と僕のCM出演だったんだ。

 …むちゃくちゃだよ。まったく。
 だいたい、どこから僕のCM出演の話がでるっていうんだよぉ。

 唯一の救いは、このCMが関西地区のみの放映だってとこだ。
 関東で流されちゃったら、僕もう学校に行けないじゃんか。

「ボク、ホントにお人形さんみたいね」

 なんだか顔をごちゃごちゃ塗られていたので、僕はずっと目を閉じていたんだけど、お姉さんの声を聞いて、恐る恐る目を開けた。
 そこには…。

 うっわー。これ、僕? めっちゃ可愛いじゃん。
 はっきり言って別人。
 なんたって、昇先輩ばりのブロンド頭になっている。 
 頭が重いと思ったら鬘を乗せられていたのか。
 そしてとどめは蒼いコンタクトレンズ。

「昇くんの弟みたいだな」

 ノー天気に先生がはしゃいでる。
 ギロッと睨むと慌てて口を押さえる先生。
 ったく、誰のせいだよ、もうっ。
 でも、ちょっと似てるかも…。

 さらにギリシャ神話のような衣装までつけさせられたところで、僕ははっきりと「もう二度としない」と心に誓ったはずの『女装』をしていることに気がついた。

 そっか、ミューズって音楽の女神様だったよな。

 …とほほ…ため息が出ちゃう。
 日舞の衣装ならともかく、これっていったい…。

 しかし、僕の悲劇はそこで終わらなかった。

 げ。 

 スタジオのセットに入ったとき、そこにアポロンのようなカッコをした男優を見つけてしまったのである。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



葵くんのCM曲「Muse〜クリスタルの笛」です(*^_^*)→
Music by Ayane Sudou
 Copyright Ayane Sudou 2001. All rights reserved.


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