第5幕「火の鳥」

【3】





『木陰に佇み、一人笛を奏でるミューズ(天女)。吹き抜ける風が、ミューズ(天女)の衣や髪をそよがせる。やがて後ろからたくましい手が伸び、ミューズ(天女)の顎を優しく捉え、唇が重なる』

 僕は簡単に書かれた台本(?)を見て目眩を起こした。

 これは口紅の宣伝らしい。
 笛から引き離された唇がアップになり、やがて重なりに隠されていくところがミソなんだそうな。

「どちらのパターンも横笛を吹いているシーンだから、いつも通りにしてくれればいいが、一応、指使いは曲に合わせて欲しい。 君は日舞の名手だそうだから、所作の方は心配してない。とりあえず思うようにやってみてくれ。それから演出を入れる」

 日舞の名手ぅ?
 えーえー、どーせ僕は『女舞い一筋・15年』ですよ。 
 神崎氏の言葉に、僕はもう、やけくそになった。
 





「君、初めてなんだって?」

 アポロンが僕の腰を抱き寄せながら囁く。
 どこかで見た顔だと思ったら、結構CMで顔を見せてる人だ。

 かなりハンサムだけど、好き嫌いの別れる顔だな。化粧品のCMに向いてるとは思えないけど…。って、落ち着いて分析してる場合じゃない。

「は?」

 あの…テストとはいえ、カメラまわってるんですけど。

「こういう仕事…」

 当たり前だっ。僕は善良な一高校生だっ。

「緊張しなくていいよ。何から何まで、僕がリードしてあげるから」
「…どうぞお構いなく」

 顔だけはにこやかに…。
 悲しいかな、これも僕の得意技だ。
 アポロン氏はクスッと笑いを漏らした。

「照れちゃって…可愛い…」

 ……今、背筋を悪寒が走ったぞ…。


 僕が身体を固めていると、スタッフの一人がモニターを覗いたまま、大声でいった。 

「はい! キスしてみて」

 …何―――――――――!

 ヤダヤダヤダ!絶対ヤダからな!
 心の中でジタバタ暴れても、アポロン氏の唇は近づいてくる。

 悟っ、助けてっ。

『クスッ』

 は? 何? 今の笑いは。

「君、可愛いね。…大丈夫だよ、ほんとにやっちゃダメだって、ディレクターからきつく言われてるから」

 ひぇぇぇ…。命拾いしたぁ…。

 それでも唇は、あと数センチというところに迫って、しかもOKが出るまでそのままのポーズだ。
 うえ〜ん、息がかかるぅ…。
 
 

 ぐずぐずしていたらいつまでさせられるかわかんない、と判断した僕は、腹をくくった。
 しょーがない、やってやろーじゃん。


 僕の、この悲愴な決意のおかげで、撮影は異様に気合いの入ったものになり、午後は天女に衣装を変えて(もちろんアポロンも衣装替えだ)、2本のCMを取り終えたときはすでに夜の11時を回っていた。




「葵…。綾乃にそっくりやな」

 天女の衣装を解いている時に、ふと先生がそう漏らした。
 僕は先生を見上げた。

 確かにそう思う。
 ミューズの僕は、昇先輩にはよく似た感じだったけど、普段の僕とは完璧に別人だった。

 けれど天女の僕は、母さんそっくりで、しかも『奈月葵』の面影も色濃く残していた。

「おつかれ。葵くん、さいこーだったよ」
 神崎氏がニコニコと寄ってくる。

「ありがとうございました」
 不本意ながらお礼を言う。
 楽屋の礼儀は日舞の世界もギョーカイもきっと一緒だろう。

「また頼むよ」
「お断りします」

 そう。できないことはキッパリお断りするのも礼儀だ。
 言下に断る僕を見て、神崎氏は喉を鳴らして笑ってる。

「アポロン役は『また次回もアンと共演したい』って言ってたよ」

 はぁっ?

「『アン』ってなんですか?」
「どこのモデルクラブのアイドル候補かってしつこく聞かれたよ」
「だから、『アン』ってなんですか」

 いや〜な予感がする。

「本名その他、プロフィールを一切極秘にするという条件がついてるんだ、君にはね」

 チロッと先生を見ると、『そうそう』っていう顔で頷いている。

「で、『Aoi Nadzuki』の頭文字を取って、アン。かわいいだろ?」

 神崎氏がウィンクを投げてよこした。

 目眩が…。
 安易すぎる…。
 せめてもうちょとひねった名前を…、ってそんなこと言ってる場合じゃないっ。

「おかげでアポロンはすっかり可愛いアンの虜だ」

 もしかしてとは思ったが、やはりアポロン氏は誤解しているに違いない。

「で、ちゃんと訂正しておいて下さったんでしょうね」
「何? 男子高校生です、ってか? まさか。世の中には知らないほうが幸せってこともたくさんあるんだよ」

 …そうかもしれない。
 男子高校生相手に、演技とはいえラブシーンやっただなんて、彼のこれからの人生に暗い影を落とすかもしれない。

「心配はいらないよ。こっちだってプロだ。契約事項は必ず守る。君はモデルのアン。年齢・性別・出身、すべて不明のアイドルだ」

 ……先生のばかーーーーーーーーーーーっ! 





 こうして僕にとって人生最大の汚点となった日の翌日は、ちゃんと音録りだった。
 昨夜の電話で『録音どうだった?』って悟に聞かれたときは、焦りまくったけど。

 今日は、昨日撮った映像に合わせて音を入れる。

 昨日撮影に使ったのは、ミューズの時が『クリスタル』の笛で、天女の時が『漆塗り』の笛だった。
 どちらもちゃんと音の出る笛だったのだけど、フルートとはまったく違うから、撮影では音は出さなかった。
 ただ、指使い合わせだけはしたんだけど。

 自分の吹き癖はよくわかっているから、合わせることには問題はないんだけど、スクリーンの中の自分が恥ずかしくって、まともに見られやしない。

 で、流れる映像を見てびっくり。
 アポロンは顔が映らないんだ。
 斜め後ろからとかのショットはあるんだけど、顔は出ていない。

 反対に僕は、全身から上半身、後ろ姿に…アップ…。はぁぁ…。

 でも、『ミューズ』は大丈夫かもしれない。
 どんなにアップになっても、これは絶対に僕だとはわからない。

 けど、『天女』は…ちょっとやばいかも。
 栗山先生は、天女の僕に見惚れてしまって指使いをとちった。
 いくら母さんに似てるからって、信じらんないー。

 ミューズ編と天女編の両方に音を入れて、やっと京都に帰ったのは日付が変わる頃だった。

 そうして久しぶりの京都の第一夜は、感慨に耽る間もなく、先生と二人で泥のように眠りについてしまった。



                    ☆ .。.:*・゜



 京都での毎日は、それこそ中学3年の夏休みとたいして変わらない。
 先生の立場は変わっているけれど、相変わらず夜に家を空けることは絶対なかったし、先生がいないときは、必ず友達が僕の側にいてくれた。

 たった4ヶ月のブランクなんか、あってないようなもので、僕は友達と遊び回り、この上なく有意義な夏休みを送っていた。
 毎晩の電話を楽しみに、悟に会える日を指折り数えながら。





 そして、8月13日。悟が京都へ来る。
 僕は朝からソワソワと落ち着きが無い。
 新幹線が着くのはお昼過ぎ。
 ああ、まだ4時間もある。


「あおいーっ!」

 玄関先で声がした。
 おっと、今日も誰かが来たな。

「おはよー」

 返事をしてみれば、豊と玲二だった。
 二人とも幼稚園の時からの友達で、祇園の土産物屋の跡継ぎだ。
 高校は私立と公立で別々になったと言ってたな。

「今日からお客さん来はるんやろ?」

 豊が靴を脱ぎつつ言う。

「何で知ってんの」
「んー、16日のコンサートのこと、みんな楽しみにしてるしなぁ」

 玲二がのんびりと答えた。

「あ、みんな、聞きに来てくれるんや」
「あたりまえやろ。3年1組全員集合やって」
「マジ?」
「マジ」

 玲二が豊の分も、脱いだ靴をきちんと揃えて、上がってきた。
 ふと振り向くと、いつの間にか先生が起きていて、豊となにやらヒソヒソやっている。

「何?」

 僕が近づいて行くと、二人して『何にもない』と言う。
 …何だか怪しい。





「じゃ、留守番頼んだぞ」
 先生の言葉に玲二がにっこりと応える。
「お任せ下さい」

 やっと来た昼。
 僕と栗山先生は、先生の車で京都駅へ向かう。
 豊と玲二は、悟に会いたいらしくて、留守番して待っているというんだ。
 


                    ☆ .。.:*・゜



「会いたかった」
「僕も…」

 新幹線のホームで向き合う僕たち。

「こんなところで見つめ合うな」

 雰囲気をぶち壊してくれたのは先生。

 シンプルだけど洗練されたシャツとコットンパンツ。
 それだけなのに、悟は今日もかっこいい。
 ふふっ、豊と玲二はビビるぞ、きっと。


「何、笑ってるの?」

 悟が僕の顔を覗き込んだ。

「ん? ちょっとね」

 車の中でも、ちゃっかり僕は悟と後部座席に座って、会えなかった二週間を埋めるように、しっかりと手をつないだりしていた。

 ふと、悟が口を開いた。

「そうだ、CMはいつ流れるの?」

 ぎくっ…。
 慌てるな…、悟は映像のことまで知らないんだから…。

「いや、あの、先生、いつだったっけ」

 先生はクスクス笑いながら答えてくれた。

「8月中に一度スポットで流して、本格的には9月らしいよ」
「そうなんですか」
「でもね、悟、どっちにしても関西でしか流れないから…」
「ビデオにとっといてもらえばいいじゃないか」

 …ごもっともですが。

「とてもいい仕上がりだから、期待してくれていいよ、悟くん」

 せんせっ、なんてこと言うんだっ。

「楽しみです」

 悟ってば、本当に嬉しそう…。
 見て笑ったりしたら承知しないからね。



 やがて、僕たちは我が家へ着いた。

「うわ…。本当に京都の町屋なんですね」

 悟はうちの前に佇んで、感動したように呟いた。

「中はもう近代的になってしまっているけれどね。外観はそのままにしておかなくちゃならないんだ」

 先生が説明しながら玄関の格子戸を、カラカラっと開けた。

「みんな! お待ちかねのお客様だぞ!」

 へ? みんな? 何、それ。

「誰かいるの?」

 悟も僕の顔を見る。

「豊と玲二は留守番してるって言ってたけど…」

 先生は悟の腕を取って、中に引っ張り込んだ。

「さ、上がってくれ」

 僕たちが中に入った瞬間…。

「おこしやす〜!」

 二人やそこらの声じゃない。
 奥座敷の襖が開いて、出てきたのは、3年1組のみんな!

「先生、これ…」
「みんなで悟くんの歓迎会をやりたいんだって」

 これか、コソコソ話していたのは。

「ひどいな、僕にも相談してくれたらいいのに」

 瞬間ビックリしていた悟だったけど、さすがに元生徒会長、現生徒指揮者だけあって立ち直りが早かった。

「初めまして。桐生悟です」

 うわっ、その声、腰にくる…。
 しかも、極上の微笑みつき。

 その声と微笑みに3年1組が固まった。
 女子はもちろん、男子も惚けて見とれている。 

 やったね。みんなメロメロ。
 でもね、この人は僕のものだからね。

「めっちゃ、かっこえ〜…」

 誰かが呆然と呟いた。 



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 その夜、3年1組のみんなは悟を囲んでめちゃめちゃ盛り上がり、近所のおばちゃん、おっちゃんまでも巻き込んで大宴会になり、午後9時になって、いくら何でも、もうこれ以上遅くなってはダメだと言う、元担任の栗山先生に解散を言い渡されてお開きとなった。

 そして深夜11時すぎ、疲れているだろう悟にお風呂を勧め、僕が3人分のお茶を淹れていた時。

「こんばんわぁ」

 はんなりとした京言葉が聞こえた。

 その声に僕は立ち上がった。
 今日、ただ一人いなかった、僕らのクラスメートの声だったからだ。


「由紀、来てくれたんや」

 そういって格子戸の鍵を開けた僕の前に立っていたのは、由紀ではなく、舞妓の菊千代だった。

 京都へ帰ってから2回、由紀には会っていたけれど、この姿を生で見るのは初めてだった。

「うわぁ、綺麗やぁ、由紀」
「おおきに」

 そう言って由紀は営業用の微笑みを浮かべる。
 
「入ってもええ?」
「もちろん」

 由紀は舞妓独特の背の高い草履、『こっぽり』も板についた様子で、ゆるりと格子をくぐって入ってきた。
 いつの間にか、ほんのりと幼い色気が漂って、僕はうっとりと見とれてしまう。


「堪忍なぁ、昼間はお稽古で出られへんかって、夜はお座敷があるさかい、こないに遅ぅなってしもて」

「でも、来てくれたんや」

「当たり前やないの。大切な弟の恋人に初めてあうんやで。菊千代ねえさんは気合い入れて来ましたがな」

 パンッと帯を叩いて、由紀は婉然と微笑んだが、僕は『恋人』発言に唖然としていた。

「こ、こ、こ…」
「にわとりさんにはまだ早いぇ〜」

 にっこり笑って由紀は座敷へ上がっていった。



「せんせ、遅うからすんまへん」

 きちっと裾を直すと、それはそれは綺麗にお辞儀をした。完璧にプロの舞妓ちゃんに仕上がっている。

「やぁ、よう来たな。疲れてるやろ。ここでそんなに気ぃ張らんでええから、楽にしとき」

「おおきに。ほな、お言葉に甘えて」

 由紀は持っていた包みを横へ置くと、てれっと姿勢を崩し、ぺったりと座り込み、ぺろっと舌を出した。

「あー、疲れた」
「ぷっ」

 吹き出したのは僕と先生。

「そうしていると3年1組、大野由紀やな」

 先生は嬉しそうに笑った。
 そして、妙な言葉を続ける。

「戦闘服で来たな、由紀」

「戦闘服?」

 僕はキョトンとして由紀をみる。

「ふふっ、『振り袖にだらりの帯』は舞妓の戦闘服やで、葵」

 作った低い声で、由紀が不敵に笑う。そして、
「悟さんは?」
 と、キョロキョロと辺りを見回す。

「今、お風呂」

 まさか何か企んでないだろうな、と思いつつ、僕は自分の分に淹れたお茶を由紀の前に出した。

「おおきに。……葵、一緒に入らんでええの?」

 ぶっ!

「由紀ぃ〜、お茶飲んでたら、今頃その高価な着物に向かって吹いてたよ〜」

 さっきの発言と言い、今の発言と言い、いったい何なんだ。

 僕はジロッと先生を見た。
 先生はあさっての方を向いて、しれっとしている。

「あのね…」

 僕が言いかけたとき、奥の方で浴室のドアが開く音がした。
 僕は慌てて立ち上がり、浴室へ向かった。




「お先に」

 濡れた髪の悟もかっこいい…。
 ボケッと見とれる僕に、悟は『ちゅっ』と音を立ててキスをした。

「悟ってば、大胆…」

 上目遣いに見上げた僕に、もう一度同じことをして、悟は嬉しそうに笑った。

「だって、何日ぶりだと思ってるの?」

 ただでさえ、昼間もお預けくらってたのに…と呟く悟。
 そりゃそうだけど…。

「あ、あの、由紀が来てるんだ」

 僕はやっと思いだしてそう告げた。

「舞妓さんの?」
「そう、僕の恋人に挨拶するんだって、気合い入れて戦闘服で来てる」
「戦闘服?」 

 ビックリするかと思ったら、悟はクスクス笑って僕を抱きしめた。

「じゃ、僕も葵のお姉さんに、気合い入れて挨拶しなくちゃね。『弟さんを僕に下さい』って」

 はぃぃぃ〜? カミングアウトする気ぃ〜?

 僕の心配をよそに、悟は僕の手を引いて座敷にむかった。
 しょうがない…。なるようになれってんだ。


 僕は先に立ち、襖を開けた。
 足音に気がついていたんだろう。
 由紀はきちっと居住まいを正して、畳に指をついている。

 悟が座ったとき、由紀が視線を下げたまま口を開いた。

「初めまして。大野由紀と申します。葵がいつもお世話になりましてありがとうございます」

 ビックリした。
 完璧な標準語の挨拶。
 ここにいるのは祇園の舞妓の格好をした、一人の女性。

「初めまして。桐生悟です。栗山先生と奈月くんにはいつもお世話になっています」

 こっちにもビックリした。
『奈月くん』って呼ばれたのは、初対面の時以来かも知れない。

 栗山先生がクスクス笑う中、二人が顔を上げた。
 由紀が息を呑む。

「めっちゃ、男前…」

 こら、落ち着けってば。地に戻ってどうする。
 悟はにっこり笑った。

「写真を拝見したときも、美しい方だとは思っていましたが、やはり実物の方が何倍も美しい」
「ま…」

 由紀がポッと頬を染める。白く塗ってあってもわかるくらいに。

 …悟ってば、もしかしてタラシの素質アリ…?

 栗山先生は奥歯を噛みしめて笑いを殺している。

「舞妓さんにお目にかかるのは二度目です」

 悟が由紀に、微笑みを向けたまま言った。

「え? そうなの」

 僕が訊ねると悟はうん、と頷いた。

「小学校の5年か6年の頃だったと思うんだけど、祖父が京都で仕事をするのについてきてね。その時に」

「お祖父さんというと、亡くなった桐生泰三氏のこと?」

 先生が口を挟んだ。

「ええ、そうです。ご存じでしたか」
「もちろんさ。留学から帰りたての頃、リサイタルの評論を新聞に書いていただいたことがある」

 悟のおじいさんも、その道の有名人らしい…。

「その舞妓の名前は覚えていらっしゃいます?」

 由紀が聞いた。相変わらず標準語だ。
 どうした、由紀。

「いえ、名前までは…」

 特徴を聞くと、悟が会ったのは、どうも舞妓ではなく芸妓のようだった。

「うちに帰るとその時の写真があるはずなんだけどね」

 悟のうちに行った時に見せてもらう約束をして、僕は先生に言われて、お風呂に入った。
 なんだか追い払われたような気がしたんだけど…。



                    ☆ .。.:*・゜



 案の定、お風呂から上がると悟と由紀はいなかった。

「ん? 悟くん? 由紀を送っていったよ」

 先生は読んでいた新聞から、顔も上げずに答える。
 そんなアホな。

「初めてここへ来た悟がどうやって由紀を送って行くんだよっ」
「まぁまぁ、ライバル同士、ゆっくり話をさせてやれって」

 らいばるぅぅ?

「さっきの挨拶。火花散ってたやないか。いいねぇ、若いって」

 先生はまだクスクス笑ってる。

「せんせ、飲み過ぎとちゃう?」

 ぶすっとして新聞を取り上げた僕を、先生がグッと引き寄せた。
 僕は、立て膝になった先生の腕の中に、すっぱりと横抱きに納まってしまう。

「葵は悟くんを信じているんやろ?」

 せんせ…?

「彼なら葵と一緒に歩いて行けるだろう」
「何のこと…?」

 先生の声が、急に硬質のものになった。
 僕は先生の真意をはかりかねて、その顔をじっと見上げた。

「『想いが強い』と言うだけでは、葵とは釣り合わない。葵の持つ才能と共に歩める人間でなければ、葵は渡せないと思っていた」

 それって悟のこと…?

「こんなに早く見つかるとは思わなかったけどな。…まして…」

 クククっと先生は笑った。
 先は読めた。相手が同性だったってこと。

「そんな顔するなって。きっと、なにも心配はいらない…」

 先生は抱き寄せた僕の肩を、ゆっくりとさすった。
 僕は先生の肩に頭を預け、ゆっくりと目を閉じる。

 …なにもしんぱいはいらない…



 耳元で誰かが呼んだ。
 僕の体はフワッと宙に浮かび、心地よい揺れに導かれて、夢の中に堕ちていく。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



「葵に逢えてよかった…」
「何言ってるんや。僕を産んでくれたんは、母さんやんか」

 母さんの病状が悪化して1週間。
 個室に移されてからの母さんは日に日に衰弱していく。

「お父さんに会わせてあげられへんかった…。ごめんなぁ、葵」

 その言葉に、僕の返す言葉はいつも同じ。

「僕には母さんさえいてくれたらそれでいいんや」
「ありがとう…でもな、母さんはな、あの人に逢えたこと、後悔してない」

 僕は母さんの額に手を当てる。いつもより冷たい。
 僕は嫌な予感を覚えた。

「あの人に逢えたから、葵にも逢えた。…葵…」

 母さんがゆるりと微笑んだ。

 それは、祇園一の売れっ妓の微笑みではなく、僕一人に向けられた、母の微笑みだった。

「母さん…」
「葵にもきっと、いつか、好きな人ができるね…。その時は…」
「その時は…?」

「後悔しないように、全力でぶつかりなさい」
 母さんの瞳に一瞬力が宿った。
「心から、欲しいと願いなさい」

 そう言って、母さんは目を閉じ、荒い息をついて眠りに入った。
 僕は震える手で、毛布を直し、その肩口に顔を埋めた。
 こんな母さんを見たのは初めてだった。

「母さんは、心から欲しいと願わなかったの…?」

 僕のつぶやきに返事があった。

「願わなかったんやない。願えなかったんや」

 いつの間にか、栗山先生が来ていた。
 先生は僕の隣に静かに腰を下ろす。

「綾乃が願えば、手に入ったやろう。けれど、願わなかった。いや、願えなかった」
「…なんで」 

 先生の手が僕の肩を抱いた。

「綾乃が願えば、必ず壊れる家庭があったやろうから…」

 その言葉に、僕は唇を噛みしめた。

「じゃあ、僕の父親は? やっぱり、願わなかったんやね」
「それはわからない」

 先生は僕を抱く腕に力を込めた。

「願わなかったのかもしれないし、願えなかったのかもしれない」

 それから二人でしばらく、母さんを見守った。




「先生は…願わなかったの?」

 僕はついに口にした。
 母さんの命の火が細くなっていく毎日が、禁句を口にさせたのかもしれない。

「願ったよ。何度も、強く」

 先生は、静かに、けれど言い切った。

「でも…でも…」

 僕の声が潤み始める。


 先生の思いは叶わなかったじゃないか!


「僕の思いは…叶ったんだよ」

 言葉にできなかった問いに答えを返されて、僕は顔を上げ、先生を見つめた。
 とたんに一筋流れ落ちた雫を、先生の指がそっと拭う。

「僕は今、誰よりも近く、綾乃と葵の側にいる。二人が僕のところで羽を休めるんや。こんな幸せ、あるか?」

 そう言って先生は笑った。鮮やかに。

「葵が誰かを好きになった時、きっとわかるよ。綾乃の言葉が。そして、僕が今、どれほど幸せかということがね」

 僕は何も言えず、ただ先生の胸に顔を埋めて、静かに涙を零した。

「なにも心配はいらない…」

 …なにもしんぱいはいらない…





 僕はゆっくりと目を開けた。
 開けたつもりなんだけど、まだ閉じているんだろうか?

 僕を包む状況は、漆黒の闇。
 これは先生の胸?

 僕は母さんの病室で先生にしがみついたまま、寝てしまったんだろうか?

 深く息をついてみる。そして吸い込んだ香りは、先生とはちがうもの…。

 あぁ…これは…悟の腕の中…。

 僕は夢から帰ってきた。

『心から欲しいと願いなさい』

 母さんの言葉がよみがえる。
 ねぇ、母さん。僕、悟が欲しいと思っていいんだろうか?



                   ☆ .。.:*・゜



「あおいーーーーーーーっ! いつまで寝てるんやーーーーーーっ!」
「うわあっ!」

 聞き覚えのある女の子の声と、いきなりひっぺがされたタオルケットに、僕は飛び起きた。

 目の前には3年1組の同級生。美弥子。
 かわいいんだけど、両親揃って柔道の先生という環境のせいか、なまじの男子より頼もしい。

「み、みやこっ。なんでっ」

「悟さんは、もう、お食事を済ませて練習なさってるわよ」

 な、なんだ、その中途半端な標準語の敬語は…。
 気持ちわりぃ。

 いつもの美弥子なら、
「悟さんやったら、もう、ごはん食べて練習してはるでー」
 …となるはずなんだけど。

 時計を見ると、まだ9時前!

「ついでに先生と葵の分も作ってあるから、早よ食べてな。片づけたら昼食班と交代やから」

 ついで? 昼食班?

「何やねんな、それ」

 僕はひっぺがされたタオルを奪い返して、思わず後ずさる。

「だいたいやなぁ、美弥子ぉ、仮にもお年頃の女子高生が男子高校生の寝室に入り込んで寝込みを襲うってのは…」

「そうなんやわぁ、せっかく隣の部屋のお客様を起こそうと思ってたのに、私らが来たときはもうすでにお目覚め…。お布団はもぬけの殻。あーん、残念やったぁ」

 ななななな、なにっ?!
 悟の寝込みを襲う気だったのかっ!

「今日から悟さんが帰られるまで、私たち3年1組栗山学級の女子、12名が交代でお世話させていただくからね。ついでに葵と先生の面倒も見て上げるから。よかったなぁ、葵」

 美弥子はうっとり幸せそうに笑う。
 冗談じゃないぞっ!
 これから毎日、こいつらの見張りつきってか!

「美弥子ぉ! 早よ葵にごはん食べさせてーなー! 片づかへんやんかー!」

 階下から聞こえてくるのは、真奈美の声…。
 僕は盛大にため息をつく。





 それから二日間、僕と悟と先生は午前中に2時間。夕方に2時間。夜に1時間と言うスケジュールで練習をこなした。

 ま、正直、女の子たちが食事の用意をしてくれたのはありがたかったりもしたけれど。
 その間、悟が過剰なまでのサービスを受け続けたのはいうまでもない。

 それでも僕と悟は女どもの目をなんとか誤魔化して、八坂神社や清水寺まで散歩に出かけたりして、そしてあっという間に16日を迎えた。



                    ☆ .。.:*・゜



 京都の夏の代名詞、『五山の送り火』は夜8時に如意ヶ嶽の「大文字」に灯がともるのを最初に、その後30分間に「妙法」「左大文字」「舟形」「鳥居」と次々に山肌に炎が浮かび上がる、精霊送りの行事だ。

 午前中に悟と二人、母さんのお墓参りに行き、3時にリハーサルに入った。

 コンサートの開演は6時。
 約1時間のコンサートの後、観客はそれぞれ五山の見えるところまで移動しなくてはならない。
 招待客にはホテルの展望ラウンジが解放されるらしいが、コンサートそのものはロビーで行われるので、誰でも聞くことが出きる。


 開演5分前。
 先生はおしゃれなマオカラーのスーツに身を包み、僕と悟は聖陵の管弦楽部スーツだ。

 こそっとロビーを覗くと、大勢のお客さんに混じって…いるいる、3年1組大集合だ。

「あ、由紀も来てる」
「ホントか?」

 僕の声に、先生もロビーを覗く。

「お、今日は公休日かな? 珍しいな、髪もおろしてる」

 僕の後ろから、肩を抱くように悟も覗いてきた。

「へー、ああやってみると普通の女の子ですね」

 悟の正直な感想に、先生が答えた。

「ああ、舞妓の時は大人っぽいだろう? 舞妓ってのは実は大変な商売でね。あの年で大人の世界を渡って行かなくちゃならん。見た目の華やかさとは裏腹の厳しい世界だからね。恐ろしいほどに人を見る目ができてしまう」

 ホテルの人から『開演です』と声がかかり、僕たちは明るい世界へ踏み出した。

 スポットライトと拍手が僕たちを包む…。
 僕と悟と先生と…。



                    ☆ .。.:*・゜



「じゃ、明日の昼、うちで会おう」

 そう言って先生は別件の打ち合わせに行ってしまった。

 7時に予定通り終わったコンサート。
 控室で僕たちは取材や写真やサイン責めにあい、8時の『送り火点火』ぎりぎりにホテルの部屋へ戻ることができた。

 この部屋からは『大文字』がよく見える。
 初めて送り火を見る悟のために、先生が取っておいてくれたらしい。
 僕と悟は今日はこのまま泊まり、明日の昼、うちに戻ることになっていた。


「あ、ついた…!」

 大きな窓。送り火がよく見えるように、部屋の灯りは全部消えている。

『大』の字の中心にオレンジ色の粒が灯る。
 僕たちは窓辺にたち、じっと前を見つめた。

 中心から走るように炎が広がる。
 浮かび上がる送り火。

 最初の数分はかなりの煙が上がるが、やがて緩やかな風が霞を払い、帰っていく精霊を見送るために明々と空への道を照らす。

 母さんの初盆。
 母さん、安心して。僕は元気。

 僕は…悟を欲しいと、心から願うよ…。

 いつの間にか、僕の肩にまわされた悟の右手。
 温もりがじんわりと僕に染み込んでくる。
 僕も左手をそっと悟の背にまわす。
 きっと、もう、大丈夫。

 僕たち、一つになろう。


 送り火色に染められた月明かりの下、やがて、僕の身体が、悟で満たされていく…。




第5幕 「火の鳥」  END


お待ちかね(?) お薦めCDのコーナーです!
*プーランク作曲/フルート・ソナタ    語る人…葵&祐介
*モーツァルト作曲/交響曲第40番   語る人…彰久&管理人
*ブラームス作曲/ピアノ・トリオ     語る人…桐生家の三兄弟
*ドヴォルザーク作曲/交響曲第8番  語る人…葵&祐介
                  →GO!

Variation:真夏の京都、女の子たちのバトルは熱いっ!→*「じゃんけんぽんっ」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*