「じゃんけんぽんっ!」
第5幕「火の鳥」のサイドストーリー。
悟が京都にやってきた翌朝のお話です。
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「じゃんけんぽんっ!」 (ん…? じゃんけんぽん…?) 悟はゆっくりと目を開けた。 枕元の時計は8時前を指している。 室内は明るい。 いつもなら、寮でも自宅でも、カーテンが朝の日差しを遮ってくれるから、起きる時刻でも室内は暗いのに。 腕の中に愛しい存在を確認する。 京都の、葵の部屋。 窓を隠すのはカーテンではなく、障子。 朝から暑い京都の夏の日差しを呼び込んでいる。 和紙を通した柔らかい光の中で、自分の胸に、無防備な寝顔を寄せる葵。 悟はそっと額に唇を寄せた。 そのまま鼻筋を通り、唇へキスを落とす。 「ふっ…」 葵が小さく息をついた。 悟の中心に火がともる。 (このまま抱いてしまいたい) 無理強いはできないという想いと、せき止められたままの欲望が激しく葛藤を繰り返す。 耐えかねて、その首筋に顔を埋めた。 その時…。 「あいこでしょっ!」 少し前の「じゃんけんぽんっ!」が幻聴でなかったことが、悟の煩悩の横っ面を張り飛ばす。 威勢のいい女の子たちの声。 表から聞こえているのではない。声は階下から響いているようだ。 聞き覚えのある声だった。 (昨夜の女の子たちか?) 昨夜9時までどんちゃん騒ぎをしていた、葵の同級生たちだ。 一際大きな歓声が上がった。 どうやらじゃんけんに決着がついたらしい。 「やったー! 悟さんを起こす権利、獲得!!」 げ。 (ご冗談でしょ…) 悟は慌てて葵から離れ、隣に用意されている客間へこっそり戻った。 マッハのスピードで服を整え、泥棒並の足取りで階段を下り、ゴキ○リ並の素早さで廊下を抜け、洗面所へ潜り込み、顔を洗って、再び廊下から奥の部屋を目指した。 京都の町屋は「うなぎの寝床」と呼ばれる細長い造りになっている。 間口が狭く、奥行きが深いのだ。 最奥に『蔵』がある。 そこへたどり着いたとき、ついに捕まった。 「悟さん…お目覚めですか?」 振り返ると、ポニーテールの小柄な女の子がニコニコと見上げている。 「おはようございます」 日本人形のような子だ。 とても小さく、線も細い。 しかし、かなり儚げな印象の奥に、妙に威圧感を感じさせる、不思議な少女。 「おはよう…」 押され気味になりながらも、そこはそれ、『聖陵のカリスマ』の異名に嘘はない。 朝にふさわしい爽やかな笑みを向ける。 「朝早くから元気だね」 さっきのじゃんけん騒ぎを思い出して言う。 少女はクスッと笑って小さな声で『ごめんなさい』と言った。 「練習前に栄養をつけていただこうと思って、早くから用意してたもんですから…」 変わらない笑顔。 「ちょうど今…美弥子が2階へ上がったところなんですよ。悟さんがいなくてがっかりしてるでしょうね」 少女は頬を染めて、幸せそうに笑ってくれる。 そして、連れて行かれた座敷の大きな座卓には、ところせましと朝食が並んでいた。 「これ…全部」 悟が呟いたのを女の子たちが受ける。 「そうです! これ全部、作ったんですっ」 誇らしげな3人組。 悟が言いたかったのは、『これ全部食べろって…?』と言うことだったのだが、女の子たちには通じなかったようだ。 「さ、どうぞ! 京都の朝ご飯はヘルシーで栄養満点ですから」 確かにそのようだ。野菜類が多く、彩りも美しい。 腕を引っ張られて座らされる。 「先生と葵は?」 そう、家人も揃わないうちに先に手を着けていいはずがない。 「いいんです。あの2人、お寝坊さんだから」 「じゃ、起こしに行ってくるよ」 そう言って立ち上がりかけた悟を4本の腕が引き留める。 「いいんですってば。葵は…」 そう言ったショートカットの少女は、意味ありげに隣の少女を見る。 さっき悟に声をかけたポニーテールの可愛い子だ。 「笙子が起こしに行きますから」 そう言われた『笙子』は一気に頬を染めた。 「ちょっと待って…。美弥子が行って…な。お願い」 顔の前で手をあわせて『お願いポーズ』を取る。 その仕種は嫌みでなく、可愛らしい。 「もう…。あんなに葵が帰ってくるの、楽しみにしてたクセに」 悟は思わず笙子を不躾な瞳で凝視してしまった。 (この子…葵のこと好きなんだ…) 悟は葵の中学時代を何も知らない。 公立の共学へ行っていたとは聞いているが。 男子校で『可愛い』とか『綺麗』とか評されるルックスだが、それは女の子たちにとっても魅力的だろう。 まして、葵は優しい。 悟の視線に気づいたのか、笙子は僅かに俯いて隣の美弥子に言った。 「な、冷めてしまうし、はよ、悟さんに食べてもらお」 そうして、3人の少女に囲まれて、悟の朝食は始まってしまった。 元気のいい美弥子と、もう一人の少女、真奈美は悟のことをいろいろと聞きたがった。 しかし、笙子は、控えめながらも葵のことを聞きたがっているようだった。 「葵は、学校の皆さんとうまくやってますか?」 不安そうに聞く。 「葵は全校生徒のアイドルだよ」 何故か悟が誇らしそうに言うので、少女たちは内心首をかしげる。 笙子は少し安心したようだ。 「よかった…。言葉とか…違うやろうから、苛められてへんかな…とか思って…」 悟はにっこりと笑って笙子を見る。 「大丈夫。葵は完璧な標準語で話しているし、時々でる京都弁だって、みんな可愛いと思っているだけだから」 笙子はそれを聞いて心底嬉しそうに悟に微笑み返した。 「笙子はね、葵が東京へ行ってしまうって聞いた時、1週間寝込んだんですよ」 真奈美の言葉に、笙子が慌ててその口を塞ごうとする。 「笙子だけやないけどね」 美弥子も言う。 「みんな、葵と同じ高校へ行こうと思って、区域の公立受けたんです」 その後を真奈美が続ける。 「そしたら、公立の試験の前の日になって、突然、『聖陵に行くことになったから、公立は受けない』って言い出して」 「東京の学校受けたなんて、一言も教えてくれへんかった…」 その時のことを思い出したのか、笙子が涙声になった。 場が一気に沈み込む。 「葵はみんなに愛されてたんだね」 悟はそう言いながら、自分の幸福を改めて噛みしめていた。 この子たちには悪いが。 栗山家の最奥。 『蔵』は今、改造されて防音室になっている。 悟はそのドアを開け、中にはいるとホッと息をついた。 電気のスイッチを入れる。 昨日、着いてすぐに案内された部屋。 いつでも自由に使っていいと言われていた。 中央に2台のグランドピアノ。 一つはベーゼンドルファーの逸品だ。 だがこれは、伴奏に向いているピアノではない。 悟はもう1台の国産ピアノの蓋を開け、ポーンッと一つ鳴らす。 流石に部屋の響きも計算されている。 ゆっくりと座ると、悟は指慣らしを始めた。 どれくらい弾いていただろうか。 葵がやって来た。 「ごはん食べた?」 手を止めて立ち上がる。 「うん」 頷いた葵をそっと抱きしめ柔らかく言う。 「おはよう」 「おはよう、悟」 見上げる笑顔が愛らしい。 「大変だったでしょ? ごめんね」 葵の言葉に、ああ、女の子たちのことか、と思い当たる。 「いや…いろんな話が聞けておもしろかったよ」 それを聞いて、葵が少し怪訝そうな顔を見せた。 「何の話…?」 「ん…? 笙子ちゃんて可愛いね」 突然出た固有名詞に、明らかに葵が表情を変えた。 「笙子…なんか言った?」 瞬間、悟の中に苦いものが沸き上がる。 呼び捨てでその名を口にされるだけでも、苛々してしまうほどに。 やんわりと触れていた身体をギュッと抱き寄せ、耳たぶを甘く噛んだ。 「別に…」 珍しく歯切れの悪い悟を、葵はため息をついて抱き返す。 「笙子のお父さんは…雅楽会の偉い人で、僕の龍笛の先生なんだ…。それで、笙子が一人娘なもんだから、僕を…って」 葵も歯切れが悪い。 悟は話の間もまだ、葵の耳を軽く噛んでいた。 それをそのまま首筋に降ろす。 葵の身体がビクッと揺れる。 「僕を…って。何…? 葵をどうしようって?」 わかっていて聞いている。 葵は答えない。 「何? 葵、教えて…」 悟は首筋に這わせる息を熱くして、軽く歯を立てる。 まだ葵は口を開かない。 ただ、反応する身体が、葵の動揺を伝えるだけ。 「言って…。言わないと、酷いことしてしまう…」 まだ、この想いも遂げていないのに…。 嫉妬に潰されてしまいそうな、僕の心を助けて。 「…意地悪しない…で」 葵が弱々しく告げた。 「僕は悟しか見ていないのに…」 その言葉に、心底安堵の吐息をつき、悟は呟いた。 よかった…と。 些細なことで動揺する自分。 葵の、たった一言で、救われる自分の気持ち。 人を想うのは、こんなにも甘くて…苦しい。 強くなると誓ったばかりなのに。 |
60000Hits記念番外「じゃんけんぽんっ」 END