幕間「悟クンの気持ち」





「先生と葵の伴奏ですか?」

 桐生悟が、栗山重紀から京都でのコンサートの伴奏を依頼されたのは、夏合宿に入る何日か前。
 金曜日の夜に、葵を介さずに直接悟にかかってきた、京都からの遠距離通話でのことだった。

『そう、ぜひお願いしたいんだ。コンサートといっても、大文字の送り火の晩にホテルのロビーを解放して、誰でも聞きに来られるようにするっていうラフな企画のものだし』

 もちろん悟にとってはこの上なく嬉しい話ではあったのだが、
「でも、京都になら先生の伴奏者の方もいらっしゃるのでは…」


 栗山重紀といえば、天才と言われながらも、この10年近くまったく活動せずにいて『幻の』と呼ばれたフルーティストだ。
 音楽界に復帰した今、当然伴奏者もそれなりの器量を持った人間がついているだろう。

 悟がいくら名ピアニスト・桐生香奈子と世界的指揮者・赤坂良昭の息子で、将来を嘱望される実力の持ち主とは言え、デビューもしていない高校生には違いない。


『先を行くものとしては、若い才能を紹介するっていうのも重要な仕事の一つでね。曲はデュオばかりで5曲。楽譜は速達で送るよ。3日ほど前に京都へ来てくれると助かる。どうかな?』

「あ…はい。勉強させていただきます」

 優しげな印象の栗山だったが、意外に強引なのだなと悟は感じていた。

『それと、もう一つ頼みがある』

 声のトーンが少し下がった。

『僕はそのコンサートの後、10日ほどツアーに出る。その間、葵は寮へ返そうと思っているんだが』

 言外に、京都に一人残して置くわけにいかないと言っているのは明白だ。

「寮だなんて。僕の自宅へ連れていきます」

 葵に関しては、即断即決即実行だ。

『いや、そこまで迷惑は…』

 栗山としては、時々様子を見てやって欲しいと言いたかっただけなのだが…。

「ちょうどその頃は、母が休暇を取る予定なので、ピアノのレッスンもできて一石二鳥ですからっ」

『本当にかまわないの?』

「葵には僕から話しておきます」

 すでに悟の中では決定事項になっているのを見て、栗山は素直に降参した。

『助かるよ。きみがいてくれれば安心だ』

「お任せ下さい」

 そう、何だってできるのだ。葵のためならば。







 一学期終業式の夜。消灯から1時間ちょっと。
 悟の部屋はゴールデンウィークの時と同様、事実上『個室』になっている。

 同室の友人は、中学時代に生徒会書記として悟を支えてくれた気心の知れた仲間なので、お互い余計な気遣いのいらない楽な寮生活を送っている。

 しかも中学から生徒会活動一筋の彼は、部活に参加していないため、休暇と同時にさっさと帰省してしまう。

 しかし、今回ほどその事を「ありがたく」思うことはない。それは…。


 普段、悟と葵が二人きりになれる場所は練習室しかない。
 しかし、練習室には高度な防音工事が施してあるため、防災上、密室になってしまうのを防ぐ意味で、鍵はないし、扉には必ず中が確認できるように小窓がついている。

 そう言うわけで、校内では葵と心おきなく二人きりになれるチャンスは皆無に近い。
 だから、これから10日間のチャンスを逃す手はないのだ。

 スリッパに忍ばせたメッセージは葵に届いているはず。



 悟もすでに聖陵生活5年のキャリアのおかげですっかり慣れていることだが、葵の靴箱や準備室の個人ロッカーの隙間にも、ラブレターはひっきりなしに入っているらしい。

 だが葵は初めての男子校生活にもかかわらず、特に驚く様子もなく、差出人があるものには律儀に『ごめんなさい』と返事をだしているし、差出人が無く、場所だけ指定して呼び出しをかけてくるものには『無視』と決めているのだと言っていた。

 悟は敢えて『無記名』を選んだ。
 しかも、場所の指定は『部屋で待ってる』…それだけ。
 どこの部屋と書かなかったことで、恐らく頭のいい葵は察するだろうと考えていたからだ。


(もしかして、出て来られなくなったんだろうか)

 自分と違って、葵には同室者の浅井祐介がいる。
 彼が葵を特別な目で見ていることなど、すでに明々白々だ。

(少なくとも浅井が寝付くまでは出ては来られないか…。)

 葵に自分の気持ちを伝え、想いを通わせあうようになってから、そんなに時は経っていない。

 しかし、悟の中で日増しに大きくなる『好きな子のすべてが欲しい』という男子高校生の健全な欲求は、もはや誤魔化しようがなく、もてあます熱に悶々としながら時を耐えるしかなかった。





 どれくらい経っただろうか、静まり返った室内に僅かにノックの音がした。
 悟はマッハのスピードで扉を開ける。
 しかしそこに立っていたのは思わぬ人物…。

「浅井…」

 その隣には、所在なげに葵が立っている。

「ちゃんと9時には返して下さいね。それと…」 

 祐介は悟をジッと見つめ、挑むように言うと、にっこり笑った。

「泣かせたら承知しませんよ」

 それだけ言うと、葵を悟の胸に押しつけ、走って帰っていった。






「何かあったんだろう?」

『脱走に失敗した』とふくれる葵の肩を、笑いながら、あやすように抱いて、悟は静かに聞いた。

 葵はその眼をしっかり見返すと、キュッと可愛い口元を結び、やがて決心したように口を開いた。

「祐介に…」 
「浅井に告白された?」

 悟は、言葉を選んで言い澱む葵の先手を取った。

「悟…」

 その瞳は、どうして? と、問いかけているようでもあり、聞かないで…と、拒絶しているようにも見えたが。

「浅井に告白されて、部屋から出してもらえなかった?」

 悟は極力葵の負担を軽くしたい一心で、言葉の先を継いだ。

「浅井がそう言う気持ちで葵を見ていたことなんか、とっくにわかっていたよ。きっと、僕と同じ様に、いつもいつも葵を追いかけていたんだ」

「悟…」

 見上げる瞳が切なそうに揺れる。
 その愛くるしい表情が、悟の煩悩を直撃した。

「あおいっ…」

 どんなに平然と見せようとも、ほんの少し前に412号室であったであろうやりとりは、十二分に悟の神経をかきむしっているのだ。

「…っ」

 抱きしめて、深く唇を合わせたままベッドに倒れ込む。

「それで…浅井に何をされた…?」

 少し上がった息そのままで、悟は葵の耳に言葉を吹き込んだ。
 瞬間、葵の体が揺らぐ。
 更に力を込めて抱きしめる。

「頼むから…教えて」

 知らずに過ごせるはずはないのだ。
 そうでなければ、自分は何をしでかすかわからない。

 強く抱きしめられた腕の中で、葵が息を吸い込むのがわかった。

「…抱きしめられて…キ、スされ…た」 

 ややあって、悟の拘束が緩くなる。

「それだけ?」

 それだけなら、昇や守もちょっと目を離した隙に仕掛けてくる。
 兄弟だからと言って、許せるものでは決してないのだが。

「ベッドの上で…」

 今度は悟の体が揺らいだ。

「…僕は…僕は…」

 葵の声に涙が混ったのを感じ、悟は顔を上げた。
 葵の瞳にみるみる涙が溢れてくる。

「思い出してしまった」

 そう言った自分自身の言葉を引き金に、葵は突然腕を突っ張って、悟の体を押しのけた。

「葵!」

 唐突に起こった抵抗に、悟は瞬間屈しそうになった。僅かに浮き上がる体。

「僕に触っちゃダメっ」

 それは、信じられない拒絶の言葉だった。

「…何故…?」

 横たわる葵の上で、悟はひじをついた格好で覆い被さる。
 思い切り抱きしめたくても、今そうすると、葵が壊れてしまいそうで怖い。

「何を…思い出した?」

 優しく静かに問う。
 ギュッと唇を噛みしめる葵の頬に、そっと頬を重ねると、葵は震えていた。

「傷つけられたのは…背中だけじゃ…なかった…こと」

 悟は顔を上げた。

「…どういうこと?」

 問うた答えは、悟には思いもよらない言葉だった。

「僕…は、あの時…3…人がかりで…無理…矢理…」

 見る間に涙が溢れ出て、白い肌を流れて落ちた。
 瞳から色が失われていく。そして次第に合わなくなっていく焦点。

「あおい…? ……葵っ」

 葵が、また心を閉ざしてしまう…?
 自分の腕の中から遠ざかろうとする葵の気配に、悟は夢中でその名を呼んだ。

 あの忌まわしい事件のあと、半年もの間、心を閉ざしていたという葵。
 だが、もう、そんなことはさせない。
 
「葵! 戻っておいで! 僕はここだっ」

 夢中で唇を合わせる。自分の存在を刻みつけるかのように、深く、長く、激しく。

 抱きしめる力強さと、絡め取られる息の深さに、やがて葵の体がゆっくりと動き出す。

 その両の腕がそっと悟の体に触れて、その存在を確かめるように指先がたどる。

「ん…」

 僅かに上がった葵の声に、悟は唇を離し、じっとその瞳を見つめた。

「さとる…?」

 涙のスクリーンをかけた瞳が、ゆらゆらと光を灯す。

「もう何も心配はいらない。葵の場所はここだ。僕の腕の中だ…」

 弱く、柔らかく光を宿した瞳がゆっくりと悟を捜す。

「ずっと、僕の腕の中にいて」
「…僕は、ここに、いて、いい…の」
「ここにいなきゃ、ダメなんだ」
「悟…」

 葵がゆっくりと悟の頭を抱え、ゆっくりと引き寄せた。
 微かに触れあう唇。

 初めての葵からのキス。

 触れあった瞬間、悟の体がピクッと震える。

「葵っ」

 体の中で何かが弾けた。


 葵の唇を深く奪ったまま、その手は葵の纏う布地を剥いでいく。
 露わになる白い肌に唇を落とし、紅い花を咲かせていく。
 いつもは音を紡ぎ出す悟の指が、今は葵の愛らしい声を紡ぎ出す。

「大丈夫…僕が全部、忘れさせてあげる…」

 思いもかけなかった葵の告白に、動揺していないと言えば大嘘になる。
 
 何より、たった十二歳の幼い葵に、汚い大人の欲望をぶつけたヤツがこの世にいると思うだけで腑が煮えくりかえる。

 だが、今はそのことよりも、葵に一刻でも早くその過去を忘れさせてやりたい。
 そして、そのためには、新しい記憶を塗り重ねてしまうのが一番で…。

「…っ、さ、とる…」

 悟の指が先を急ぐように、葵の体を巡っていく…が、

「…や…っ」

 葵は悲鳴に近い声をあげて、身をよじり、そのまま硬直してしまった。 

「葵…」

 悟は手を止め、そっと強張る体を抱きしめる。
 微かな震えも起こらない、完全な硬直が葵を襲っていた。

「あ…」

 動かない表情から、涙だけが伝い落ちる。
 困惑と悲しみが葵を支配していた。

(どうして…。こんなに悟が好きなのに…)

 悟はゆっくりと体を起こし、凍り付いた身体を解かすように温かい手でなぞり、葵にパジャマを着せかけていった。

 今強引に奪っても、良いことは起こらない。
 悔しいけれど、それが現在のところの事実のようで、悟は葵に気付かれないように、こっそりと息を逃した。

「葵…愛してる」

 にっこりと微笑むとパジャマのボタンを一つずつゆっくりとかけていく。

「昨日も今日も、明日も明後日も…ずっと葵を愛してる」



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 校内合宿が終わり、管弦楽部が漸く夏休みに入って13日目がやって来た。

 京都駅の新幹線ホームに、見つめ合う恋人たちが一組。

「会いたかった」
「僕も…」

 悟にとってこの12日間は、とてつもなく長かった。
 想いを寄せ合いながら、結ばれずに別れた12日間。

 だが今日からは一緒にいられる。
 少なくとも校外合宿が始まるまでの2週間。
 ずっと一緒に。

 


 栗山重紀と葵が住む家は、ほぼ京都の中心地域で古い町並みを残す数少ない場所だった。

 葵の同級生たちによる、思いもかけない歓迎を受け、「二人でいちゃいちゃ」は先送りになってしまったが、聖陵では見られなかった『やんちゃでお子さまで関西人』な葵を見ることができて、悟は『こんなのも悪くないな』と一人頬を緩めていた。 





「お先に」

 先に、と勧められた風呂からあがり、手入れの行き届いた坪庭の見える廊下に出ると、葵がやって来た。

 ボケッと悟を見上げる葵に、悟は『ちゅっ』と派手に音を立ててキスをする。

「悟ってば、大胆…」

 上目遣いに見上げた葵が可愛らしくて、もう一度同じことをして、悟は嬉しそうに笑った。

「だって、何日ぶりだと思ってるの?」

 悟の言葉に、葵はスッと頬を染めて口を開いた。

「あ、あの、由紀が来てるんだ」

(…あぁ、葵の彼女とかお姉さんとか噂されてる舞妓さんか…)

 寮内ではあまりに有名な話だった。
 気にならないと言えば大嘘になる。

「舞妓さんの?」
「そう、僕の恋人に挨拶するんだって、気合い入れて戦闘服で来てる」

(へぇ〜、度胸座ってるな。戦闘服ってことは…正装か)

 表情に不安の色を僅かに乗せて、ちょっと首をかしげた葵が悟を見つめる。

(くくっ、可愛い…) 

 悟はクスクス笑って葵を抱きしめた。

「じゃ、僕も葵のお姉さんに、気合い入れて挨拶しなくちゃね。『弟さんを僕に下さい』って」

 目をまん丸に見開く葵。
 悟はマジだったのだが。



 由紀は悟が想像していた以上に、美しく聡明な印象の女性だった。

 葵が席を外した後、帰宅する由紀を、悟は表通りまで送りに出た。

 方向感覚には自信があるので、このくらいの距離と道のりならば、初めての土地でもなんてことはない。
 まして、京都の道は真っ直ぐでわかりやすい。




「私は生まれたときから葵と一緒に育ってきました」

 由紀が今の出で立ちに似合わない、標準語で話す。

「何をするのも、どんなお稽古にいくのも、いつも一緒で…」

 クスクスっと思い出し笑いをする。

「葵も、今すぐ舞妓になれるくらいの修行は積んでるんですよ」

 由紀が思い出し笑いの正体を明かすと、悟は思わず頬を緩めてしまう。

(舞妓姿の葵…かわいいかも…)

 思わず由紀の正装に葵の笑顔を重ねてしまう。

(見てみたいな…)

 葵は怒るだろうけれど。


「悟さんって、葵のことになるとホントに嬉しそう」

 舞妓独特の背の高い履き物を履いていてもなお、小柄な由紀は悟を見上げる。

「…悟さん…本気ですか? 葵のこと」 

 茶化すことも、嘲ることもない真摯な瞳で悟の目を射る。

「一生を誓う自信…ありますよ」

 悟はいつもと表情を変えなかった。柔らかいまま。
 由紀は立ち止まって、伸び上がるように悟に近づいた。

「出会ったばかりなのに?」

「何年経っても変わらない想いなら、始まりの時間なんて大した問題じゃないでしょう?」

 由紀の瞳をまっすぐに受け止め、それでも柔らかいまま、悟は答える。

「もしも…葵の気持ちが変わったら…?」

 すこし戸惑いがちに発せられた、由紀の、その言葉に初めて悟が表情を変えた。

(もしも…葵の気持ちが変わったら…)

 今まで追いかけるのに必死で、そんなこと考えもしなかった。
 手に入れることだけを考えていた。

「悟さん…?」

 黙ってしまった悟に、由紀がそっと、声をかけた。
 返事次第では許さないつもりでいた。

「……葵がいないなんて、考えられない」
「……」

 それは由紀にとっては思いもかけない返事だった。

『もしも…葵の気持ちが変わったら…』

 その質問に対する答えは2つしかないはずだった。

『その時は、諦める』か、『それでも諦めない』か。

 前者なら、『その程度の想いなら、葵を巻き込まないで』と言うつもりだった。
 後者なら『相手の気持ちを尊重出来ない人間に葵は渡せない』と言うつもりだった。

 いずれにしても、悟を追い込むはずだったのに…。

 目の前の、この綺麗で優秀な男は、頼りなげに『考えられない』と言ったのだ。

「あなたはもう、『葵と一緒のこれから』しか、考えていないのね」

 じっと悟を射抜いていた瞳は、ふと伏せられ、長い睫の影になった。



 由紀にはわかっていた。
 葵は『この人』と決めたら、心を余所に移すことなど考えられない。

 あの、綾菊の子なのだ、葵は。

 たとえ相手がこの世を去っても、それでも想いを寄せ続け、自らの終わりの時までその想いを貫くくらいのことはやってのけるだろう。

 だから、本当に心配だったのは悟の気持ちだったのだ。

 葵には聞けないから。

『もしも、悟さんの気持ちが離れたら…』などとは…。




「葵のこと、よろしくお願いします」

 まつげの先が微かに震えている。

「由紀さん…?」

 悟の問いかけに由紀は顔をあげて、にっこりと微笑んだ。
 もう、そこに『由紀』の面影はなかった。


「おおきに。送ってもろて、すんまへんどした」

 艶やかに笑うと、菊千代は少し膝を折ってゆったりとお辞儀をした。
 そして、そのまま一人、華やかな街の煌びやかな灯の中へと戻っていく。





(人の気持ちはうつろうものなのに…)

 花街に生まれ育って16年。舞妓になって3ヶ月。

 舞妓だって命がけで恋をすることもある。
 けれどそれらはすべて、砂上の楼閣。

 うつろう気持ちに翻弄される心をたくさん見てきた。
 だから、今はただ、悟の気持ちを信じるしかない。

 葵が、綾菊の苦しみを繰り返さないよう、祈るしか…。
 


 遠ざかる由紀を見送り、悟はホッとため息をついた。
 自分は葵を手に入れるために、閉ざしていた心を開いた。
 次は、葵をずっと守るために、強くならなければならない。



                    ☆ .。.:*・゜



 由紀が去った後、栗山家に戻った悟は、栗山の腕に抱かれて眠る葵を見た。

「先生…」
「あぁ、お帰り。決着はついた?」

 葵の頭を優しく撫でながら、その表情のまま、悟を見上げる。

 その表情を受け止めて、悟は内心でため息をつく。

(…この人は、虫も殺せないような優しげな顔をして…)

「何のことですか?」

 悟は栗山の手から葵を受け取り、自分の腕の中に抱き込み、じっと見つめる。


「その様子だと、勝ったようだね」

 やはり、栗山相手に『知らん顔』は通用しない。

「……思い知りました」
「何を?」 
「自分の弱さです」

 ゆらりと葵から目を上げる。

「まわりからは、僕が葵を守っているように見えるんでしょうね」

 葵の優しさに包まれているのは自分なのに。
 悟が言外に告げる思いを、栗山は嬉しそうに受け止めた。

「この想いを貫き通すつもりなら、どちらも庇護される立場を捨てるべきだろうね。 僕が望んでいるのは、葵を守る人間ではない。葵と共に歩む人間だ。 葵は情が深い。その想いは半端ではなくなるだろうし、その才能もそうだ」

 栗山はすやすやと眠る葵を眺めて、ふわっと微笑む。

「僕が教員を辞めて、演奏家に戻った訳もその辺にあるわけだ」

 悟が不思議そうな顔をした。

「葵が中学を卒業したから…ではないのですか?」
「葵がフルートを手にしていなかったら、僕は一生演奏家には戻らなかったよ」

 それは、つまり、栗山がその人生を葵と共に生きる決意をしている、と宣言したに他ならない言葉だった。

「先生…」

 葵に対する栗山の愛情の深さはよくわかっているつもりの悟だったが…。

「葵にフルートを持たせたきっかけは、例の事件だった」

 栗山は座敷机に両肘をつき、組んだ長い指を唇にあて、わずかに目を伏せた。

「体の傷が癒えて退院した後も、葵の目は何も見ようとしなかった。
 誰の声も聞かず、何も見ず、ただ、朝、目覚めて、最初に座らせた場所に一日中ジッとしているだけ。 それがある日、僕が何気なく…久しぶりに吹いたフルートを聞いて、葵がこっちを向いた。こっちを向いて、ジッと見つめていた…。 あの時の嬉しさは一生忘れられないだろうな」

 栗山が微笑む。その時の事を思い出して。

 ちりん、と縁側の風鈴が鳴り、葵がわずかに身じろぐ。
 悟が葵を抱え直すのを待って、栗山は言葉を続けた。

「そして、教え始めてから、その資質に驚いた。 それまで葵は和楽器ばかりやっていたから、僕には葵の中に隠されたものを見つけることができなかった。 あの事件がなかったら、葵はずっと、祇園という狭い世界の中で生きていく術をみつけただろう。そして、僕も同じだ。ずっと教員を続けて、葵の側にいただろう。 けれど僕は葵の才能に気づいてしまった。葵はこの先、広い世界へ出ていく。 ならばこれから僕のすることは『先回り』だよ。僕は演奏家に戻り、葵の先に立って道を照らす。 …そして、この子はいずれ、僕を超える。それについていける者にしか、葵は、渡せない」

 瞬間、悟の背をゾッとするものが走った。
(この才能に追いつけ…と言うこと…)

 今の悟にとって、それはとてつもなく高い山を目指すことのように思えた。

 沈黙が訪れる。



 やがて、二人をじっと見つめていた栗山が口を開いた。

「さて、汗を流してくるか」

 立ち上がった栗山に、悟が思い詰めたように声をかけた。

「先生は…いいんですか?」

 瞬間真顔になった栗山は、すぐに表情を戻したのだが、それを悟が見逃すはずがなかった。

 しょうがないな、と呟きながら、栗山はもう一度座り直す。

「僕はね、ずっと葵の母親を見てきた。けれど、彼女はいつも、葵の父親の面影を追っていた。 …届かない想いに耐えかねて、葵を身代わりにしてしまいそうな時も……あった」

「……」

 もしかして、という思いも無くはなかったが、本人の口からハッキリ聞かされて、悟はその動揺を正直に表情に伝える。
 そして無意識に葵の体を抱き込んでしまう。

 それを見て、栗山はフッと笑いを漏らした。

「心配要らない。昔の話だ。綾乃が葵のことを『あの人からもらった宝物』と言っていたのと同じように、僕にとっての葵も『綾乃が残していった宝物』なんだから」

 栗山はもう一度立ち上がった。

「その宝物を奪って行くんだ。覚悟はできているんだろう?」

 悟はキッと栗山を見据えた。

「もちろんです」

 悟の言葉にふわりと微笑んで、栗山は襖に手をかけた。

「先に寝てなさい」 

 そして廊下へ消えていった。



 その姿を見送り、悟は葵に目を落とした。
 表情に安らかさを掃いて眠っている。
 うっすらと開く唇。
 誘われるように重ねた。
 ほんの少し、押しつけてから、ゆっくりと離す。

「葵、寝ような」

 ふんわりと抱き上げて、二階へ向かった。 



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 練習に費やした2日間はあっという間に過ぎた。 
 ロビーコンサート開演の前。
 悟は葵のタイを結んでいる。

「悟、器用だね。僕、人のタイなんか絶対結べないよ」

「中学1年の間、昇と守のを結び続けたからね。あの2人、案外不器用でね。おかげで自分のよりも人の方が上手にできるようになったよ」

「ふーん、結構器用そうに見えるのにな」

「さ、できたよ」

 悟はタイから手を離して、今度はその手で葵の頬を挟んだ。

「ありがとう、悟」

 微笑んで見つめ合っていると、栗山がやってきた。

「超満員らしい」

 その言葉に促されて、二人はロビーの様子が見えるところまで移動する。

「あ、由紀も来てる」

 悟は『由紀』と聞いて、3日前の夜を思い出していた。

(あの子、普通なら一番問題にする点を口にしなかった)

 まず、同性である点を責められると思っていたのだ。



「へー、ああやってみると普通の女の子ですね」

 悟の目に映るのは16歳の、どちらかと言えば幼い雰囲気の少女。

「ああ、舞妓の時は大人っぽいだろう? 舞妓ってのは実は大変な商売でね。あの年で大人の世界を渡って行かなくちゃならん。見た目の華やかさとは裏腹の厳しい世界だからね。恐ろしいほどに人を見る目ができてしまう」

 栗山の言葉に、悟は何となく答えのようなものを見つけていた。

(まず、『想い』ありき…か)




 悟はピアノを弾きながら思う。
 今のこの瞬間の幸福を絶対に手放したくない。
 葵が昇り詰めるところまで、ついて行きたい。
 そのためならば、何だってできる。

 割れるような拍手の中、葵が振り向いた。
 スポットライトを浴びて、悟に微笑む。



                      ♪



「早くしないと始まっちゃう…!」

 エレベーターを降りるなり、葵が悟の手を引いて廊下を小走りに駆ける。

 ホテルの廊下は分厚い絨毯敷きだから、足音は大きくない。
 腕時計に目をやり、もどかしげにカードキーを差し込み室内へ滑り込む。

 人が入ったのを感知して間接照明が灯る。
 葵はすぐにそれを消した。

「真っ暗でないとね」

 そう言いながらレースのカーテンを開け放す。

 送り火の夜は、市内各所で自主的に照明やネオンが落とされる。
 いつもより暗い、京の街。

「真っ正面だよ、悟」

 そう言われても、真っ暗で何も見えない。

「どこ…あ…っ」

 場所を聞こうとした悟だったが、答えをもらうまでもなかった。

「あ、ついた…!」

『大』の字の中心にオレンジ色の粒が灯る。

 二人は窓辺にたち、じっと前を見つめた。
 中心から走るように炎が広がる。
 闇に浮かび上がる送り火。

「すごい…」

 悟はそっと葵の肩を抱き寄せた。
 昼間の大文字は何かのモニュメントのようにも見えた。
 けれど、年に一度だけ灯される火を見て、悟は静かに息をついた。

 荘厳な静けさが山を包む。
 これが「送り火」であることが、よくわかった。
 この火の明るさに導かれて、精霊たちが帰っていく。


 葵の手が悟の背にまわされた。
 ゆっくりと頭を寄せてくる葵。
 悟は肩を抱く手に力を込めた。
 きつく抱き寄せ、唇を重ねる。
 角度を変え、何度も何度も重ね合う。
 オレンジの炎に照らされて、何度も。



                    ☆ .。.:*・゜



 葵はベッドの端に腰掛けていた。
 精霊を送った後、シャワーを浴びて、真っ白なバスローブに包まれて。

『パタン』

 浴室のドアの音がする。
 少しだけ早かった鼓動が、急に跳ね上がる。
 同じ白のバスローブがフワッと隣に降ってくる。

「葵…」
 静かな声だった。
「悟…」
 葵は顔を上げずに、頭をもたせかけてきた。

「こっち向いて」

 頬に手だけを添えて、言う。
 親指でスッと頬をなぞられ、葵がピクッと震える。

「葵の顔、見せて」

 耳元で囁かれて、またピクッと震える。
 恐る恐る上げた葵の顔はほんのりと朱に染まり、すでに目が潤んだ状態になっていた。

「……!」

 あまりの愛らしさに、悟は息を詰めた。
 暴走しそうになる自分を心中できつく叱り、力加減を忘れてしまったかのようにぎこちなく葵を抱きしめる。

 そしてそのまま倒れ込む。

 耳を甘く噛み、唇と舌とで、葵の白いうなじから、喉、頬、瞼、へとゆっくり気持ちを伝えていく。

 葵がその動きに翻弄されている間に、二人は布地に邪魔されることなく、互いの体温を直に伝えあっていた。

(暖かい…悟…)

 葵が温もりを追ってしがみついてくる。

「怖い…?」

 すがりついてきた葵に、悟が囁いた。

 葵は少し体を離し、じっと悟の目を見つめる。
 すごく恥ずかしかったが、『もう大丈夫』と悟に伝えたかった。

「悟が…欲しい」

 そう告げた葵の眼は透き通るように月光を映した。

 今夜は満月も、送り火のオレンジ色に染まったまま。
 深い水の底に誘い込まれるような錯覚。 

 ……このまま水底に沈んでもいい……。

 悟はうっとりと葵の胸に顔を埋めた。

「僕も、葵が欲しい…」

 思いの丈を込めて、葵を追いつめ、優しく囁く。

「どこまでも、一緒に行こう」



                   ☆ .。.:*・゜



 愛らしくあどけない寝顔に、僅かに疲労の色を乗せて、静かに葵が眠っている。

 やっと結ばれた愛しい人。

 可愛い仕種と細く艶やかな声に、最後は歯止めがきかなくなった。
 細心の注意は払ったが、それでも痛みがないはずはなかっただろう。

 なのに葵は一言も痛いと言わなかった。ぶつける想いを全身で受け止めてくれた。

 自分は弱い。
 もう一度思い知る。

 ごめんね、葵。
 もっと、もっと強くなるから。

 悟は枕元のデジタル表示を見る。
 夜明けが近い。

 朝になったら昇と守に電話を入れよう。
 今夜、葵と一緒に帰るから、と。



2人のお初物語『このまま朝まで抱いていて』へ


幕間「悟クンの気持ち」 END



ついに思いを遂げた二人ですが、
この後、物語は少しずつ終盤に向かって動き出します。

Variation:中3の祐介クンが出会ったのは?→*「あの夏の日の少女」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*