「あの夏の日の少女」

祐介、中学3年の盛夏




 暑い…。
 こんなに暑いとは思わなかった。

 じりじりと照りつける太陽。
 風の少ない、盆地の湿度の高さが暑さに拍車をかける。
 そりゃあ、雨が降るよりいいかも知れないが、それにしても暑すぎる。

 私立聖陵学院中学校3年3組、生徒会長をつとめる浅井祐介は、
(ハンカチが何枚あっても足りないな)
 と、内心うんざりしながら、額の汗を拭う。


「あーあ、高校の先輩方は、今頃軽井沢で避暑だぜ、うらやましーなー。俺も早く高校生になりたいっ」

 ハンカチではなく、タオルで汗を拭きつつぼやいているのは、祐介と同じクラス、同じ部活の茅野剛(かやの・つよし)だ。

 いつも祐介の後ろでクラリネットを吹いている、気の置けない友人の一人だ。
 拭いても拭いても流れ落ちる汗に業を煮やしたか、タオルではちまきをしようとしている。

「ぶっ、やめろよ茅野。ハンサムがだいなしだ」
「いーの。俺はお前と違ってワイルド系のハンサムだから」

 気持ちはわかる。
 いちいち拭くのももどかしい。拭いた端からまた、汗が流れてくる。




(軽井沢か…)

 彼らの先輩、高等学校の管弦楽部は今、軽井沢で校外合宿中だ。

(涼しくていいだろうけど、楽器三昧だもんな…)

 それもうんざりかも…と、思ってしまうのは、もちろん内緒だ。



 彼らがげっそりとするほど汗をかいている現場は、京都。
 祐介たち中学3年生は、修学旅行の真っ最中なのだ。

 あまりにオーソドックスだが、京都へ来ている。
 現在地は某有名神社。

 暑いのにご苦労なこった…と、思うほど人が多い理由はと言うと、…どうやら今日は祭礼の日らしい。
 大仰なカメラと三脚を持った、いかにもなおじさまたちが、たくさん場所取りをしている。

「浅井も来いよ」

 呼ばれて行ってみると、クラスメイトたちが30cmほどの六角柱を振り回している。

(なんだ、おみくじか)

 なんだ、と思いつつも、つきあいのいい祐介はその輪の中に入っていくのだが。

(ふぅん)

 手渡された細長い紙。
 何やらありがたそうなお言葉が、お説教風に連ねられていた。

「どうだった?」

 覗き込んでくる剛に、ちょっと肩を竦めて、ニッと笑ってみせる。

「当然…大吉」

 手にした薄い紙をひらひらさせる祐介をみて、学年ピカ一のハンサムは、おみくじにも祝福されているのか…と、剛はため息をつく。

「茅野は?」 
「俺、末吉」

 どーせ、と言った風情で、同じように紙をひらひらさせる。

「いいじゃないか。末吉ってことは、まだ上があるってことだろ? 僕にはもう、上がない」

 おどけたように言うが、どこか、冷めた口調。
 思わず剛は、目の前の綺麗な同級生をジッと見つめた。

 こいつはいったい何が欲しいんだろう。
 ルックスも頭もピカ一。
 性格もいいから友人も多いし、信頼されているという結果が、今の生徒会長という立場だ。
 部活だって順調だし…。

(ま、あんまり力を入れてるとは思えないけどな)

 剛はクラリネットが大好きで、クラリネットさえ吹けたら幸せなものだから、部活三昧の学校生活が楽しくてしょうがない。

(こいつにとって、管弦楽部って何なのかな…)

 剛は、ふと祐介に聞いてみたいと思ったが、やっぱりコワイ。

『別になんとも…』とか言われたら、きっとショックで立ち直れないから。



「見惚れてるんじゃないよ」

 目の前に、不敵な笑みを浮かべた祐介。
 剛はあわてて現実に戻ってくる。

「何、ボーッと考え事してるんだ」

 言いながら、祐介は、引き当てた『大吉』を華奢な樹の小枝に結ぼうとしている。

「なんだ、結んじゃうのかよ」

 剛は『末吉』を持って帰ろうとしているのに。
 ふと祐介は手を止めて、数週間前の悟の話を思い出した。



『叶って欲しいことが書いてあるなら、結んでこない方がいいらしいよ』

 去年同じ場所に来た、一年上の先輩たちと、修学旅行の話で盛り上がっている時のことだった。

 悟が大勢の中で、わざわざ自分から口を挟んでくることはあまりない。
 いつも、穏やかな笑顔で聞いているだけだから。

 その悟が珍しく、会話の途中で口を挟んだ。
 しかも、その表情がちょっと夢見がちだったりしたものだから、現場に居合わせた者はみんな、いいものを見てしまったような、見てはいけないものを見てしまったような、複雑な心境になったのだった。



(叶って欲しいこと…か)

 改めて、頼りなげな薄紙を見る。

(悟先輩は、結ばずに持ってるのかな?)

 みんな、おもしろがって悟を問いつめていたが、悟はいつものように笑うだけで、結局答えなかった。

(叶って欲しいこと…)

 もう一度思い、もう一度読み直す。
 そして、ふうっとため息をつく。

(何が欲しいかわかってないんだから、処置なし、だよな…)

 そう思い至って、薄紙を小枝に結んだ。



 手を離したときに、雑音だけだった周囲に、突然音色がやって来た。
 耳馴染みの少ない、和楽器の音色だ。

 皆の注目が一斉に、音色の方に移る。

 だがカメラマンたちは、音ではなく奏者に注意を払っているようで、無粋なシャッター音が、耳障りだ。

 神殿前の舞台に、白い装束の少女が三人。
 向き合って、典雅な音色を響かせている。


「雅楽だな」

 剛が小さな声で言った。
 たとえ和楽器であろうと、管楽器。興味はある。

「笙(しょう)…と、龍笛(りゅうてき)…と、…もう一つのあれ、なんだったっけ?」

 剛がちょいと指さした先には小さな縦笛。

「あれか? あれは…チャルメラだ」
「ぶっ」

 剛が恨めしそうに見る。

「茅野、言っとくが冗談じゃないぞ。オーボエとチャルメラと…アレ、篳篥(ひちりき)は同族楽器だ」

 若干乱暴だが嘘ではない。

 剛は、
(さすが、物知り祐介クンだな)
 と、感心しきりだったが、祐介の意識はすでに、龍笛に向いていた。

 やはり、横笛奏者は横笛に意識が行くのか、さして興味があるわけではないのに、その音色が勝手に身体に入ってくる。

 吹いているのは、ショートヘアの少女。
 薄く化粧が施され、目元にはほんのり紅が入れられて、幼いのに、ふんわりと色香が漂よう。

「おい、三人ともめちゃ可愛いな」

 剛の言葉に、小さく頷いたが、やっぱり龍笛の子が一番可愛い。

 音色に聞き惚れているのか、少女の容姿に見惚れているのか、ジッと見つめているうちに、奏楽は終わり、少女たちは舞台を降りていった。


「そろそろ、集合時間だな」

 剛が腕に目をやった。
 





「おい、あの子…」

 祐介は集合場所の近くまで来たところで、剛に腕を引っ張られた。
 視線の先にはさっきの少女。

 装束のまま、手には錦の細長い袋。きっと龍笛が入っているのだろう。

 可愛い笑顔で駈けていく。
 少女にしては背のある方だ。

「へぇ…。もっと小さな子かと思ったな」

 剛が誰に言うでもなく、呟いた。

「そうだな…。座ってると幼く見えた…」

 答える祐介も、同じだ。



 少女はやがて、一人の若い男性に飛びついた。
 少し遠くて、その表情は読めないが、きっと嬉しそうな顔をしているのだろう。

 少女の頭を優しく撫でている男性の、ポロシャツにコットンパンツといったラフな出で立ちが、少女が纏う神域の装束と不釣り合いで、周囲の目を引いている。

 恋人同士と言うには歳が離れすぎているようだし、親子にしては歳が近すぎるか。

 少女はじゃれて、男性の腕に自分の腕を絡める。
 男性は絡められた手に持っていた二つの物を、一つは反対の手に持ち替え、一つは少女に手渡した。

 それは、そろばんが何枚か重ねて入りそうな、横長のケース。
 祐介や剛にはすぐにわかるものだった。

「…フルートだ」

 剛が祐介の脇腹をつついた。

「ああ…そうだな」

 洋楽器と和楽器の両立は難しいと聞いたことがある。

 凛とした、清冽な音を奏でていたあの少女が、いったいどんな音でフルートを吹くのか、聞いてみたいと、祐介は思った。

(あの子は、きっと笛が好きなんだな…)

 去っていく少女の後ろ姿を目に焼き付けて、祐介は、本日何度目かのため息をついた。

(帰ったら、ちょっと練習してみようかな…)


 一瞬やる気を見せた祐介クン。
 動機が若干不純なことには、この際、目をつぶろう。




1000Hits記念 「あの夏の日の少女」  END


Variation:照りつける日差しの下、僕たちは…→*「待ち人来る」へ*

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