第6幕「ミューズの誘い」





 夏の盛りだというのに、この家の庭を抜ける風はなぜかとても心地よい。

 今朝あったことが遠い昔の出来事のような気がする。

 なかったことにする、とか、忘れてしまう、とか言った感じじゃなくって、…そう、まるで時効を迎えたような、『そういえば昔、そんなこともあったよねー』なんて笑いあえるような、そんな感じなんだ。
 


「え、佳代子さんも関西出身なんですか?」

 僕は良く風の通るテラスで、佳代子さんがいれてくれた、いい香りのする紅茶を飲んでいた。
 傾きかけた陽が、薔薇園に影を落とし始めている。

「はい、ちょうど京都と奈良の間くらいのところなんですけどね」

 佳代子さんは40歳ちょっと(らしい)。見た目はもうちょっと若い、桐生家の家政婦さんだ。

 悟たちが両親の離婚でこの家にやってくる以前から、ここで働いているそうで、朗らかで元気な人だ。

「二十歳の時に、東京へ出てきたんですけどね、最初は食事が口に合わなくて困りました」 
「あー、やっぱり。僕も、味付けが濃いからビックリしちゃいました」

 そうでしょう、そうでしょう、と佳代子さんが頷く。

「葵様のご実家はやっぱり白味噌ですか?」
「そうですね、白味噌が多かったですけど…あの、その『葵様』って言うの、やめていただけませんか?」

 くすぐったくってしょうがない。
 佳代子さんはクスクス笑った。

「申し訳ありませんが、ご要望にはお応えできません」

 佳代子さんの返事に、はぁぁ〜、とため息をつく僕。
 …と、電話が鳴り、佳代子さんがリビングへ戻っていった。



 悟は1時間ほど前から、グランドピアノ・防音完備の自分の部屋で練習をしている。

 午前中は一緒に、京都で聞いた『芸妓と一緒に撮った写真』を探したんだけど、結局見つからなかった。

 守先輩は、昼過ぎに、渋る昇先輩を引きずって、光安先生のところへ出かけていった。

 悟に聞いたところによると、光安先生は昇先輩が卒業するのを待っているのだそうだ。
 けれど、その想いは昇先輩には告げられていないようで…。

 ま、『教師と生徒』っていう関係の難しいところだけれど、でも…噂が本当だったとは…。
 ちょっとショックだったりもしつつ、ちょっと嬉しかったりもして…。
 


 さて、僕も練習しようかと、立ち上がったとき、佳代子さんが戻ってきた。

「今、赤坂先生の事務所からお電話がありまして…」
「赤坂先生?」

 あぁ、悟たちのお父さんのことか。
 指揮者の赤坂良昭氏。

 納得した僕の顔を見て、佳代子さんが、そうそう、と言うふうに頷く。

「今夜のニュース番組に生出演されるそうなんです」

 そういえば、ヨーロッパのオケを率いてジャパン・ツアーに来るとか書いてあったな。音楽雑誌で読んだような気がする。

「ぜひ、ご覧下さいとのことでした…と、お伝えいただけます?」

 佳代子さんはにっこり笑って、もう一杯紅茶を注いでくれた。


 こうしているとなんだか小学校の頃を思い出す。
 学校から帰ると、舞妓ちゃんや、芸妓のお姉さんたちが遊び相手になってくれた…。

 結局、年上のお姉さんとお話しするのが大好きな僕は、今日の「おさぼり」を決めてしまった。





 夕食がすむと、僕たちはリビングの大きなソファーに転がった。
 僕の両側には悟と守先輩。
 すっごく大きなソファーなのに、なんでこんなにひっついて座るかな?

 夕食直前に守先輩は帰ってきたんだけど、昇先輩は帰ってこなかった。

 守先輩の言葉によると、光安先生に「拉致監禁」してもらったらしい。
 ちょっと想像したくないけれど。

 佳代子さんが食後のコーヒーを淹れてくれたので、僕たちはそれを飲みながらTVをつけた。
 もちろん、悟たちの父上を見るためだ。


「べーつにー、親父にあんまし興味ないからなー」

 守先輩はわざわざぶっきらぼうに言う。

 でも僕は、はっきり言って興味津々だ。
 だって、今までは『指揮者・赤坂良昭』っていう認識しかなかったけれど、今日はきっと、少し違う目で見られるかもしれないから。
 だって、恋人の父上だもんね。

「オレたち、親父に会ったのって何回くらいだっけ?」
「ん…。2、30回は会ってると思うけど?」

 はぁぁぁ〜?
 悟と守先輩の『思い出話』とも言えない淡々とした会話に僕はポカンと口を開けた。

 悟がククッと笑う。

「そういう親子関係なんだよ、僕らはね」

 ふぅん。
 でも、親がどこの誰だかわかってるだけでもいいじゃんか。…と、口に出せない言葉を一人で心の中に突っ込んでみたりする。


「でもこの前に会ったのは、わりと最近だったよな」
「あぁ、春休みになってすぐだったかな。法事にチラッと顔出してたな」
「30分くらいはいたんじゃないか?」

 30分…。

「まあ、あの30分のためにわざわざドイツから帰ってきたらしいからね。努力は認めるよ」

 悟が半分呆れ顔で言う。

「お父さんのこと、好きなんだね」

 僕がそう言うと、二人は顔を見合わせて首をかしげた。 

「嫌いじゃないな」
「そうかもな」

 素直じゃないんだから。

「でもさ、それって、親父がエライからじゃないんだ」

 守先輩は僕の頭をくちゃっとかき混ぜた。

「明日、母が帰ってきたらわかるよ。オレたち兄弟がまっとうに育った訳もね。なにしろあの人は…」

 …『薔薇園の聖母』だから…。

 僕の耳元に小さくそう吹き込み、『ちゅっ』と僕の頬に音を立てた守先輩の頭を、悟がクッションでぶっ飛ばした。



 そうやって、3人でふざけあっているうちに、ニュース番組は、『今日のニュース』、『今日の話題』と続き、いよいよ『今日の特集』となった。

『CMの後は…お待たせしました。指揮者・赤坂良昭さん、生出演です』

 アナウンサーがそう告げると、画面がチラッとスタジオでふんぞり返る赤坂氏を捉えて、CM画面に切り替わる。
 

 流れてくるのはロマンチックなフルートの音色。ブロンドの女神が硝子のフルートを吹いている…。

 …僕が固まったのは言うまでもない。

「これっ…!」

 悟がすぐに音に反応した。
 だって、コンサートではこの曲のピアノ伴奏を弾いていたんだから。

「おおおっ、むっちゃかわいー子じゃんか」

 守先輩が『モデルのアン』を誉めてくれる。
 喜んで良いのやら…。

「やー、なんか昇に似てるぞー」

 僕もそう思うってば。

「そうじゃなくって、守、この曲、葵と栗山先生が吹いてるんだぞ」

 悟は曲に気を取られていて、ブロンド女神の正体に気がつかない。

 僕は『どうかこのまま…』と心の中で手を合わせていた。

「え? これが例の、栗山重紀オリジナル?」
「そう」
「良い曲じゃんか。演奏の方も流石にお二人さん。やっぱ一流だな〜」

 守先輩が手放しで誉めてくれる。
 僕の初めての『お仕事』。
 認めてもらえるってやっぱり嬉しい。

「うん……葵、すっごくいいよ…」  

 悟ってばホントに嬉しそう。
 その笑顔を見て、当然僕のほっぺもゆるゆるになる。

「う、ん。ありがと…。でも、変だよね、放送は関西だけって聞いてたのに」

 ともかく、流れたのが「ミューズ編」でよかったぁぁ。ったく、話が違うじゃないかっ。神崎のバカ。

 ドキドキ見守った30秒ほどのCMが終わり、いよいよインタビューが始まった。

「親父のヤツ、今のCM見てたら、『昇にそっくりー』とか思って、にやけてるだろうなー」
「言えてる」

 兄弟が顔を見合わせて頷きあっていた。

 その時、赤坂良昭氏の生インタビュー、開口一番が流れたんだ。

『今のCMの子、私の次男にそっくりなんですよ』

 …………。
 この人って…。

「言いやがった…」

 守先輩が脱力してる。

 アナウンサーは一瞬途方に暮れた顔をしたけれど、やがて当たり障りのない話からインタビューが始まっていった。

 世界のマエストロ(巨匠)、赤坂良昭は、喋らせてみると結構人を食ったおじさんだった。

 自信に溢れた受け答え、お洒落な物腰、回転の速い切り返し…。
 高校生の子供がいるとは思えない若々しさは、年齢聞いてみれば納得。まだ40歳になるかならないか…だ。
 容姿は一般的な男前…かな?
 悟たちの方が綺麗でかっこいい。
 お母さんたちが美人だからかなぁ。



 やがてもう一度CMが入った。

 流れてくるのはロマンチックな『あの』フルートの音色……。
 けれど、それを奏でているのはブロンド女神ではなく、黒髪の…。

 今度こそ僕は、本当に固まった。それこそ心臓まで。

 悟も守先輩も、たまたま通りかかった佳代子さんも固まった。

 30秒間、誰も喋らない。
 食い入るように画面に見入る。
 それはインタビューが再開されたスタジオも同じだった。

『赤坂さん…赤坂さん』

 アナウンサーが、モニターに見入る赤坂氏に呼びかける。

『今度の子は、ご長男にそっくりでしたか?』

 スタジオ中で笑いが起こったのが聞こえた。
 赤坂氏は一度瞬きをした後、ニッと笑った

『いえ…。妹にそっくりで…』

 スタジオは赤坂氏の冗談に爆笑しているけど…。

 …さぶー。
 僕は一人で冷えていたけど、…それどころじゃなかった。
 もっと冷えてるところが…。

 長い沈黙の桐生家のリビング。

 しばらくして守先輩が口を開いた。

「うそつけ、親父、一人っ子じゃないか」

 タイミングをすっかりはずしたその言葉にも、誰一人、リアクションを起こさない。

 電話が鳴った。
 佳代子さんが慌てて取りに行く。

「葵様、栗山先生からお電話ですよ」
「は、はいっ!」

 くそー、とっちめてやる!

『葵、見たか?』
「せんせのうそつき」

 僕は小さな声で怒る。

『あはは、やっぱり見てたか。ごめんごめん。全国放送は今日だけやって。9月からの放送は関西だけらしいから』

 先生てっば、まったく悪びれてないぞ。

「そんなこと言ったって、悟も見ちゃったよっ」
『気がついたか?』
「わかんないけど、みんな黙っちゃってる」
『ふぅん…。ま、いいじゃないか、綺麗なんだから』
「よくないっ」

 知らず、声が大きくなる。

『けど、まさか赤坂氏のインタビュー中に入るとは思わなかったよ』
「タイミング悪すぎっ」

 その時電話の向こうで誰かが先生を呼んだ。

『あ、悪い、時間だ。葵、いい子にしてろよ』
「いい子って…。いくつだと思ってるのぉ」

 受話器を置いて振り返ると、僕の真後ろに、悟、守先輩、そして佳代子さんまでが腕組みをして立っていた。

 …そうして、結局、天女はもちろん、ブロンド女神の方も僕だとバレてしまったのだった…。




第6幕「ミューズの誘い」 END


タイトルの「誘い」は「いざない」と読んでくださね〜(笑)
ちなみに文中で葵くんが呟く『さぶ〜』というのは、『寒い』という意味です(^^ゞ

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