第7幕への間奏曲「天女の微笑み」





 放送されたCMの反響はすごかった。

 葵にとっては運悪く、赤坂良昭のインタビュー中に流れたため、聖陵の管弦楽部員のほとんどが見ていたのだ。 

 インタビュー終了後から、桐生家の電話は鳴りっぱなし。
 特に高等部の2年、3年は遠慮なくかけてくる。

 何故、桐生家の電話が鳴りっぱなしなのかと言うと、まず、『葵に電話したが、帰省先は留守』。

 それと『赤坂良昭が出ていたのだから、悟はきっとTVを見ていただろう』。

 そして『悟なら何か知っているだろう』。
 この3段活用だった。




「やっぱり先輩もご覧になったんですか? …え…ええ、葵だそうです。本人は騙されたと言っていましたけれど。……昇じゃないですよ。あれも葵らしいです。……いえ、僕も録音があるとは聞いていたんですが。…葵ですか? 栗山先生のツアーについて行ってるんじゃないですか。…は? ……冗談やめて下さいよ。…えぇっ!? 録画されたんですか? …要ります! 絶対、要ります!!」

 電話を受ける悟の横で、葵が不安そうにその顔を見上げている。

「今度は誰?」

 受話器を置いた悟に、葵が尋ねる。

「ん? コンバスの本山先輩。ビデオ撮ってあるからって」

 悟は上機嫌だ。
 葵はため息をつく。

「僕がここにいること、言わなかったね」
「当たり前じゃないか。ここにいることがわかったら、明日にはみんな押し掛けてくるよ」

 悟はコンッと葵のおでこを小突いた。

「どーしてー」
「みんな言うんだ、『惚れ直した』って。冗談じゃない」
「ぶっ」

 葵が吹き出した。

「佳代子さん、電話があったら『出かけている』と言って下さい」

 悟は居留守を頼み、返事をもらうと就寝の挨拶をし、葵の手を引いてどんどん歩き出した。

「悟…」

 行き着く先は、当然葵の部屋。

 扉を閉めて、後ろ手に鍵をかけると、悟は葵を抱きしめた。

「もう…どうして黙ってたんだ。教えてくれればいいのに」

 葵の耳元でくぐもった声がする。

「…だって…、恥ずかしかったから…」
「あんなに可愛いのに」

 悟は顔を上げ、手のひらで葵の顔を包んだ。

「僕、男だよ」

 葵は少し口を尖らせる。

「知ってるよ、よーく」

 悟の口調に、言葉の意味の深いところを感じ取り、葵はポッと頬の色を変えた。

 頬を包んだ手の、その親指がそっと葵の唇をなぞる。そこをじっと見つめて、悟が言った。

「まさか、本当にしてない…よね…」

 葵は質問の意味が分からず、包まれた手の中で、わずかに首をかしげた。

「…何を?」

 指が離れ、唇が重なる。

(キ、ス…?)

 CMのキスシーンだと思い当たり、葵は慌てて体を離す。

「してないっ! 絶対にしてないっ!」

 冗談じゃないとばかりにぶんぶん首を振る葵に、悟はゆったりと微笑み、よかった…と呟いた。

 昇と守でさえ許せないのに、まして見ず知らずの男なんかと…。




 自分でも異常ではないかと思うほどのジェラシー。
 2学期が始まったらどうなってしまうのだろうと不安になる。
 その前に校外合宿もある。

 …目の前に、葵の黒い瞳。部屋の間接照明のせいか、妖しい揺らめきが宿る。

(溶かされてしまう…)
 そう思いながら悟は葵を抱きしめる。

 どうせなら、一つになって溶けていきたい。
 止めることのできない自分の中の奔流に、素直に身を投じてしまう。


 真っ白なシーツの海の中、葵が切れ切れに、悟の名を呼んで…。



                    ☆ .。.:*・゜



 翌朝早く、昇は光安に伴われて穏やかな顔で帰ってきた。

 兄弟3人と葵、光安の5人で朝のダイニングテーブルを賑やかに囲んだが、葵も悟も守も、朝早く帰ってきた二人の様子にいつもと違うものを感じている。

「ミルク、入れなくていいのか?」

 光安が昇のコーヒーを気にした。

 その口調に葵が目を丸くする。

(光安先生…こんなに優しい声、してるんだ)

 いつも聞く光安の声は、はっきりとしている。明瞭で鮮烈な発音だ。
 それが今は、静かな部屋で寝入った赤ん坊をあやすような声。

「うん、ありがと。入れる」

 蚊の鳴くような声で答えた昇に、今度は悟と守も目を丸くした。
 いつも一番賑やかな昇が…。


(もしかして…)
 そう思ったのは悟だった。

(まさか、本当に昨夜まで何にもなかったとか…)
 そう思ったのは守だった。

(うそぉ…)
 葵は顔を紅くしていた。
 昇の様子が、つい先日の自分の様子と重なったのだ。
 送り火の翌朝、悟の腕の中で目覚めたときの自分と。


 奇妙な静けさが訪れたダイニング。
 光安が昇のカップにミルクを注ぐ。
 ふと二人の視線が絡まり、微笑みあう。

 守は天を仰いだ。
(上等じゃねーの)

 自分がけしかけたとはいえ、あまりに素直な結果を見せつけられて、出るのはため息しかない。

 葵は真っ赤になって俯き、悟は小さく笑みを漏らす。 
 もう誰一人、昨日の朝の出来事なんか覚えてはいなかった。



                      ♪



 日が高くなってきた。午(ひる)が近い。

 薔薇園の木陰のベンチに、葵は光安と腰掛けていた。
 悟と昇はそれぞれ練習に、守は夏の課題に手を着けていないと言って、部屋に籠もっている。


「昨夜、見たよ」

 いつもと同じ、明瞭な光安の声。

 見たよと言われて思い浮かぶのは『アレ』しかない。

「栗山先生に騙されたんですっ」

 本意ではないことを力一杯アピールする。

「はいはい…。栗山の使いそうな手だけどね」
「光安センセも知ってたんじゃないんですか?」

 なでなでと葵の頭をかき回す光安を、疑惑一杯に見上げる葵に、光安は不敵な笑いを浮かべる。

「当たり前だろう。校外活動には学院長と担任の許可がいる。ちゃんと『CM出演』と聞いていたよ」

 呆れてものも言えないとはこの事だ、と、葵はため息をついた。

「放送が終わった後、院長からも電話があったよ。スポンサーに連絡しろって」

 葵はぎくっと肩を強ばらせ、次の言葉を待った。内容が内容だけに、まずかったのでは…と不安になったのだ。

「大切な生徒を貸したのだから、マスターテープのコピーを寄こせとさ。あのスケベおやじ、自分のコレクションにする気だよ」

 さすが、聖陵の学院長というべきか。

(腐りすぎてる……)

「腐るな」

 脱力する葵に、光安が脳天気な声をかけた。

「ブロンドの方があまりにも昇に似てたから、驚いたけれどね」

 ま、父親がビックリするくらいだから…、と小さく付け加える。 

 TVでの父親の反応に対する昇の評価は、『あのバカおやじ』の一言だったらしいが。






 リビングの方から佳代子の声が聞こえた。
「奥様がお帰りになりましたー!」

 葵が光安を見上げる。

「緊張してる?」

 訊ねる光安に、葵は素直に頷いた。

「私だって緊張してるさ…」

 光安は本当に不安を掃いた表情を見せた。

(先生が…? どうして?) 

 光安直人は、悟たちの母、香奈子の親友の弟だと聞いている。
 祖母の虐待から逃した昇と守を預けた先も、光安のところだったはずだ。

 それが何故、今頃『緊張』なのか。

 葵の疑問を、光安は読みとった様だったが、それには答えなかった。

「行こうか」

 そう言って、葵の肩を抱いて歩き出した。





 玄関ではすでに親子の対面が行われていた。

「守、恋患いって聞いたけど、その後どう? 珍しいわね、守が振り回されるなんて」
「ちょ…待ってよ、誰に聞いたのっ」

 香奈子のカバンを受け取りながら守が昇を睨む。

「な、い、しょ」
 香奈子はウィンクしてみせる。

「昇…伸びたわね。何センチになった?」

 手を伸ばして、昇の頭の上に手のひらを当てる。

「え…っと、170はどうにか越えたと思うよ」
「マリーアントワネットからオスカル様になったって感じね」
「へ?」

 訳わからんと言う顔をする昇に、悟と守がクスクス笑いを漏らす。

 香奈子は悟に向き直った。

「悟…。変わったわね」

 それしかない、正直な感想だった。

「…そう、かな?」

 悟は照れたように、笑った。

 香奈子にとっては、悟のこんな笑い方さえ新鮮だった。

 そして、笑顔に笑顔を返したとき、香奈子はリビングへの扉に、葵と光安の姿を見つけた。

「直人くん、久しぶりね」
「ご無沙汰しまして」

 香奈子はゆっくりと近づいて来た。

(写真でも綺麗だったのに、本物はもっともっと綺麗だ…)

 葵は目を見開いて香奈子を見た。

(悟の…お母さん…)

「いつも息子たちがお世話になりまして、ありがとうございます」

 香奈子が光安に、いたずらっぽく、保護者の挨拶をする。

「いえ、優秀な生徒たちですから、助けてもらっています」

 二人、目を見合わせて笑う。

 悟が葵を紹介しようと近づいてきた。
 しかし、その前に…。  


「奈月葵くんね」

 綺麗な綺麗な笑顔が葵に向けられた。やっぱり悟と似ている。

「はい。初めまして」

 背の高さはほぼ同じか、ほんの少し香奈子が高いか。女性としては身長のある方になるだろう。
 若々しく華やかな、満面の笑み。

「会いたかったわ」

 握手どころではなかった。

 返事をする前に、葵はギュッと抱きしめられたのである。

(え?)  

「なんて可愛いのかしら…」

 香奈子は葵を抱きしめたまま、うっとりと呟いた。


(もしかして、母子で好みのタイプが一緒とか…)

 そんなことを考えながら、三兄弟と光安はその光景を呆然と見ていた。



 
☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



「で、直人くんのご用はなぁに?」

 リビングでお茶を飲みながら、演奏旅行の話、管弦楽部の話、京都の話などに花を咲かせている時、ふとした会話の切れ目で香奈子が言った。

 忙しい光安が、香奈子の帰りを迎えるためだけに来ているはずがないことはわかっていた。

 光安はわずかに目を伏せたが、すぐに意を決したように香奈子を見つめた。

「お願いがあってきました」

 そのただならぬ様子に、悟が思わず口を挟む。
「僕たち、はずしましょうか?」
 もう、腰は浮いている。

 悟の言葉にならって立ち上がろうとした葵は、香奈子によって引き戻された。
 香奈子はずっと葵を離そうとしない。

「いや、君たちにとっても大切なことだから、聞いていて欲しい」

 光安の言葉に、悟と守は顔を見合わせたが、昇は俯いたままだった。

 香奈子は息子たちを見回し、昇のところで目を留めた。
 隣に座るのは光安である。

「どうぞ。伺います」
 香奈子が笑顔で水を向ける。

「昇君を下さい」
 間髪を入れない答えに、昇がギュッと俯いた。

(マ、ジ…? これって……カミングアウトじゃねーかっ)
 守は開いた口がふさがらない。

(やられた…。二番目は分が悪いな…)
 悟は自分の時のことを考えている。 

 葵は……真っ白になっていた。

「…それは…養子縁組ということでしょうか?」

 一番冷静なのは香奈子だった。笑顔がわずかに曇っただけ。

「そうです。昇君が高校を卒業したら、正式に僕の籍に入って欲しいと思っています」

(そうか、先生が緊張していたのはこの事だったのか…)
 葵は真摯な瞳を香奈子に向ける光安をじっと見ていた。
(センセ、かっこいい…)



「…昇は、どう思っているの?」

 香奈子が昇の隣に席を移し、その手が昇の背をさする。

 光安の力強い声と、母の手の温かさに勇気づけられたのだろう。昇がゆっくりと顔を上げた。

「僕も、望んでいます。直人さんについていきたい」

 蒼い瞳が決意の色を宿し、不安に泣き濡れたときとは違う、紺碧に近い色に輝いた。

 香奈子がそっとため息をもらすと、辺りが緊張に包まれる。


 香奈子は、誰にも悟られないように、動揺していた。

 しかし、光安直人と言う男が、気まぐれや気の迷いでこんなことを言う人間でないことは、よくわかっているつもりだった。
 直人が中学の時からのつきあいなのだ。
 決めたことしか口にしないと言うことも、知っている…。


「私の天使たちは、いつの間にか自分だけの人を見つけて巣立っていくのね」

 光安の表情に、わずかに安堵の色が見えた。

「直人くん」

 しかし、呼びかけられ、再び表情を引き締める。

「あなたは私の大切な親友、中沢優子の弟で、私の大事な息子たちの教師よね」 

 分かり切ったことに念を押す。

「逃げられないのよ。…そこのところ、よろしくね」 

 香奈子はニッと笑って光安を見据えた。

「逃げる気なんてありませんっ、未来永劫」

 強烈な愛の告白に、少年たちは紅くなる。



「昇、それ以上大きくなっちゃダメよ」
「どうして…?」
「ウェディングドレスが似合わなくなるわ」

 それは、香奈子なりの、精一杯の強がりであり、祝福の言葉だった。

「マ…ママっ」

 昇の顔が火を噴いた。
 光安が幸せそうにそれを見つめている。

 香奈子は久しぶりに聞いた、『ママ』という幼い頃の昇の口調に、娘を嫁に出す父親のような気分に陥っていた。

 もっとも、最初から一人で母親と父親の両方の立場を担ってきたようなものだったから、当たり前なのかもしれないが。




 守の口はさっきからずっと塞がらない。

(昇がこうなって、悟がああなるとすると…。おいっ、オレがまっとうに結婚しなくちゃ桐生家が絶えるじゃねーかっ。…と、待てよ。オレ、血筋は引いてないよなぁ。ってことはやっぱり悟が跡継ぎ残さなきゃいけないよな。そんなこと言ったら怒るだろうなー、悟のヤツ。ってことは…どうせ血が絶えるんなら、オレも自由にしていいわけだ。…けどなー、兄弟3人、みんなしてこういうことするかー? …もしかして親父の悪い癖の反動かねー)

 守がこんなふうに自分の将来を憂いているとは、誰も気がつかない。

 悟は葵のウェディングドレス姿にうっとりと妄想を馳せている。女装の美しさは、全国レベルで実証済だ。

 葵は…。
(すごい人…。一流の演奏家って、やっぱり度胸据わってるんだ…)

 度胸が据わっているというだけで、こういうことができるのかどうか、はなはだ疑問ではあるが、ともかく葵は尊敬の目を向けて、香奈子をじっと見ていた。


「そうだ、直人くん。涼太くんは元気にしてるの?」

 光安が『しまった』と言う顔をした。口止めを忘れていた。

「あら、何? 内緒だったの? でも涼太くんは一年生だし、管弦楽部でもないし」

 香奈子はキョトンとしている。

「あの…。もしかして涼太って、中沢…涼太のことですか?」

 葵が恐る恐る口を挟んだ。

「そうだ、葵くんは同級生よね。知ってる? 中沢涼太くん」
「同室です…」 
「えーーーっ、まぁ、なんて偶然っ。涼太くんは優子の息子なの」

(優子…? あぁ、大親友で光安先生のお姉さん…ってことは…)

「先生の甥―――――――――っ!?」

 ばれてしまった、と、光安が脱力した。

「そうか、先生それでやたらと葵の情報に詳しかったんですね。教室に教科書置きっぱなしとか」
「それは担任だから教室で確認できる」

 光安は偉そうに言う。

「そうでした」 
「甥っ子から情報を仕入れてたわけか」

 悟と守が顔を見合わせた。

「どうして葵の寝言まで知ってるのかと思って不審に…」
「ちょっと待った。僕がいつ寝言を…」

 聞き捨てならない!とばかりに葵が悟に詰め寄る。

「葵、『富士山ってでかい』って言ったらしいよ」

 悟がにっこりと笑う。
 そうそう、とばかりに光安が頷く。

(涼太のヤツーーーーーーーーーーーっ、覚えてろっ)
 
 笑い声の溢れるリビングをチラッと見て、佳代子は幸せそうに微笑んだ。



                   ☆ .。.:*・゜



 次の日から、香奈子は葵につきっきりだった。
 ピアノのレッスン、フルートの伴奏、果ては二人で「ねこふんじゃった」まで弾いて遊んでいる。

 悟はおもしろくない。自宅で過ごせる休みはあとわずかだ。数日後には校外合宿が始まり、そのまま2学期になだれ込む。

 今も香奈子の部屋から笑い声が聞こえている。

 母が葵を気に入ってくれたのには、心底安堵した。
「気に入った」どころか「溺愛」なのが気にかかるところではあるが。

 とにもかくにも、香奈子は葵を離さない。
 帰国した晩などは、葵の部屋で寝てしまったくらいだ。

(なんとかしないと…)

 やっと思いを遂げてから、まだ数日しか経っていない。しかも一つ屋根の下にいて、手が出せないとは情けない。

 よもや母親にベッドをとられるとは思っていなかったし、守が向けてくる憐れみの眼差しも気に入らないし、葵も香奈子に懐きまくっている。

 葵が実は『年上のお姉さま好き』なのを悟は知らなかった。

(もー我慢できないっ)

 思い切って香奈子の部屋をノックしようとしたとき、扉が開いた。

「あれ、悟。どうしたの?」

 今まで思いっきり笑っていました、と言う顔で葵が見上げてきた。

(どうしたの…じゃないだろうっ)

 悟の不機嫌は、絵に描いたようだ。

「もしかして…ご機嫌ななめ…?」

 不機嫌の理由に若干の心当たりがあるため、葵の語尾は自然と小さくなる。

「まぁね」

 視線をはずして悟が答える。

「あら、悟、ちょうどよかったわ。お茶にしようと思っていたところなの。葵くん、昇と守も呼んできてやってちょうだい」

 後ろに立った香奈子に、葵は可愛らしい笑顔を向けて、元気よく返事をして階段を上がっていった。




「…あなたのそんな顔が見られるのも、葵くんのおかげなんでしょうね」

 悟のふくれっ面など、この5年間拝んだことがない。
 香奈子は自分よりずいぶん大きくなってしまった息子の背を押して、リビングへ促した。

「あなたたちはまだ若いわ。先を急がないことね」

 香奈子の言葉に悟は立ち止まった。

「どういう意味?」
「直人くんのようなことを考えるのはまだまだ先ってことよ」

 悟の考えなどすでにお見通しだったのだ。
 悟は一つの嫌な思考を巡らせていた。

 昇が許されて、自分が許されないのだとしたら、それは、『血の繋がり』がそうさせるのか…と。自分が産んだ子か、そうでない子か。家の血筋が残せるか、残せないか。

 香奈子にとって、いつも3人は同等のはずなのに…。


「葵くんのフルートを聞いて思ったの。 悟…あなた、ついていくつもりなら相当の覚悟が要るわ。 今のうちに卒業後の進路をしっかり考えておくべきね。今の段階で指揮科へ進むかピアノ科へ進むか悩んでいるようなら、終わってるわ」

 悟は香奈子の顔を凝視して、それから自分を恥じた。

 ほんの一瞬でも、香奈子の愛情を疑った。
 それは香奈子にとっても、昇や守にとっても失礼極まりない発想だったのだ思い知る。

 悟はホッと安堵の息を吐いた。

「ちょっと、悟。何ホッとしてるの。緊迫感ないわねー。ちゃんとわかってるの? ああいう繊細な天才タイプの子には、後押しも、先人も必要ないの。常に並び立てる人間が必要なの。ホントにわかってる?」

 悟は余裕にも笑って見せた。

「そんな覚悟はとっくについてるし、卒業後のことも考えてる」

 そう言って、ちょうど降りてきた3人とリビングへ入っていった。



 香奈子はその後ろ姿を、ため息で見送る。

(悟と葵…。どうして出会ってしまったの…。私より先に…) 

 自分が先に出会っていれば、きっと、二人が惹かれあうのを止められたに違いない。
 そうすればすべてが上手くいったに違いない。

 そう断じたが、そう思う端から自信は揺らぐ。
 それでも二人が惹かれあってしまったら。

 香奈子はふと、自分が考えても仕方がないことに思いを巡らせていることに気づいた。

 すでに二人は想いを寄せ合っている。
 ならば、許さなければならないのだろうか。そんな日がいつか来てしまうのだろうか。

 そこから先は考えたくなかった。
 確実に、傷つくのはあの二人なのだと、自分だけが知っているからこそ。

 ならば二人を守るために、自分が貝になるしかないのか。
 出来るのだろうか、そんなことが。

 香奈子は再び、深く暗いため息をついた。





 その頃、九州でオーケストラと協演中の栗山は、CMプロデューサー、神崎からの電話を受けていた。

『いやぁ、すごい反響ですよ。スポンサーもホクホクで、早くも第2弾の話まで出てますから』

「葵がやると言えばかまいませんけどね。ま、無理でしょうけど」

 神崎が手放しで喜んでいても、栗山は取り合わない。
 CMに出した目的が果たせなければ何にもならないのだ。

『一般はもちろん、モデルクラブ、芸能プロダクション、TV局…その他諸々、問い合わせの嵐でね。あ、もちろん契約事項は遵守していますよ。プロフィールはすべて謎ってね。だからますます煽ってるのかもしれませんがね』

 一気に喋って、クスクス笑う。
 栗山はそんな話につき合う気はない。

「…僕の目的はご存じでしょう」

 不機嫌な声で答え、言外に「切るぞ」と匂わす。

『もちろんです。だから電話してるんじゃないですか』

 動じないところはやはり敏腕プロデューサーたる所以か。

『実はおもしろいところから問い合わせがありましてね』

 声のトーンが落ちた。

『一人は弁護士で…』

 栗山は受話器を持つ手を握りしめた。

『もう一人は…』

 栗山は受話器を耳に押しつけ、やがて…絶句した。




第7幕への間奏曲「天女の微笑み」 END


Variation:金色の天使は小さな小指を差し出した→*「約束〜この手の中の小さな宝石」へ*

*君の愛を奏でて〜目次へ*