「清けき笛の音の郷」
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「どひゃー。よりによって定番中の定番引いちゃったよ」 それは小さな声だったが、管弦楽部員全員が耳をそばだてて聞いていた。 「おいっ、葵、モーツァルトのフルート四重奏引いたみたいだぜ」 「……やったっ、俺、それ!」 「嘘っ、俺、同じモーツァルトでもクラリネット三重奏の方だよ〜」 ここは聖陵学院の軽井沢校舎。 8月最後の5日間は、ここで高校生のみの合宿が行われる。 目的は、表向きには「全国コンクールのため」。 しかし、普段の練習量から見ても、ここでわざわざ合宿をせねば勝てないと言うことは絶対にない。 では、何をしているかというと、普段出来ない小編成での『アンサンブルの訓練』をしているのだ。 弦楽四重奏や五重奏、管楽器の重奏、ピアノが入る編成もあるし、管弦混じる編成もある。 夏の始めに、生徒たちから希望のあった曲をピックアップし、合宿でいきなり『くじ引き』をして、どの曲をやるかを決めるのだ。 だから、どの曲を、誰とやるのか、その時にならないとわからない。 そしてそれを、5日間で仕上げようというのだ。 もちろん最終日は『発表会』である。 内容はとてもハードなのだが、生徒たちは結構楽しみにしている。 なんと言っても『くじ引き』だ。 普段の『序列』など関係なく、誰とでも組めるチャンスがあるからだ。 もちろん憧れの先輩と組めるチャンスでもある。 当然今年も、桐生三兄弟の人気は絶大だ。 そして、今年の目玉はなんと言っても、葵。 もう一人の人気フルーティスト、祐介がドイツへ行ってしまっているから、なおのこと葵の人気は高い。 そして葵が引き当てた曲は「モーツァルト作曲フルート四重奏曲 K.285」 フルートの他に、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ…の合計4人で演奏されるCMなどでもお馴染みの名曲だ。 葵の他の面子はすべて3年生。 1番人気のカワイコちゃんをGETして、少々壊れ気味だ。 「奈月〜、5日間たっぷり可愛がってやるから仲良くしような〜」 「はい。よろしくお願いします」 ニコッと笑う葵に、3人の3年生はメロメロになってしまうが、実は『可愛がられ』てしまうのは自分たちの方だということに、彼らはまだ気づいていない。 そして、その様子を遠目で見て、ブスッとしている人間が一人。 今年の曲の中に、ピアノとフルートが組んでいる曲はなかった。 だから最初から自分と葵が組めるということは絶対になかったのはわかっている。 わかっているのだが…。 「おやすみなさ〜い」 1年坊主の大合唱が響き渡る。 「夜更かしするなよ」 普段の寮生活と違い、開放的な雰囲気の夏合宿。 消灯時間にきちんと就寝する者などいやしない。 それくらいのことは、顧問の光安直人にはわかっている。 時は深夜になった。 とっくに消灯は過ぎているが、遊びたい盛りの1年坊主が、久しぶりの再会に、しかも寮とは違う広い座敷に28人勢揃いとあっては、はしゃいでしまうのも無理はない。 高校1年生の管弦楽部員は全部で30人。 全員が寮生だ。 足りない2人のうち、一人は祐介。 そしてもう一人は、交通事情で2日目から参加することになっている麻生隆也だ。 さて、28人で枕投げでもやっているのかと言えばそうではない。 きちんと『消灯』を守って、電気は消えている。 そんな中、広い広い座敷にも関わらず、彼ら28人は部屋の隅で、できるだけ小さく固まっていのだ。 ある者は肩を抱き合い、ある者はしっかりと手をつなぎ…。 別にいかがわしい事になっているわけではない。 輪の中心にいるのは、祐介と並ぶ、学年の中心人物、『奈月葵』。 「足音はそこで、ぴた…っと止まったんだ…」 誰かがギクッと肩を強ばらせる。 「ところがね…廊下へ出ても、誰も…いなかったんだよ…。ただ、廊下はぐっしょりと、濡れていたんだけど、ね……」 わざとくぐもった声で、葵が恐怖を煽り、オチがついたところで、全員の表情が強張った。 (くくっ、おもしろ〜い) 葵は同級生たちの表情にいたく満足している。 そう、夏合宿の夜と言えば『怪談』しかない。 葵はこの手の話を語るのには自信がある。 なにしろ出身は『魔界都市』とか『幽霊銀座』などというありがたくない異名をとる『千年の都』なのだから。 しかも、祇園の置屋育ち。 年かさのお姐さんやお客さんからたくさん話を仕入れているし、実際小さい頃には、昼間にさんざん聞かされた話のせいで、夜中にトイレに行けなくなって、舞妓ちゃんについてきてもらったことも、当然ある。 そんな葵がお得意の(?)レパートリーを3つ披露したところで、残りは明日…と、本当に就寝時間を迎えた。 「おやすみー」 「おやすみ…」 あっちこっちから挨拶が聞こえ、皆がそれぞれ布団に潜り込む。 なぜか皆、隅っこに寄ったまま…。 いつの間にか寝入った葵が、何となく目を開けたのは、空がぼんやりと白み始めた頃だった。 (…? 何時だろう?) 見渡しても、時がわかるような物は見あたらない。 葵は、特別寝起きが悪いわけではないのだが、どちらかというと、朝には弱い方だ。当然起床時間より早く目覚めることは滅多にない。 しかも、まだ夜は明けきっていないようだ。 もう一度寝ようと布団に潜り込むのだが、何故か目がさえて眠れない。 両側にはピッタリと同級生が張り付いている。 昨夜じゃんけんで勝ち残り、葵の両隣の布団を確保した、クラリネットの茅野剛とヴィオラの新藤明彦だ。 (…明彦ぉ…僕の枕まで侵略するなよぉ…) 葵は明彦の頭から、枕をそっと引き抜いた。 …が、眠れない…。 どれくらいの時をそうやってぼんやりとしていたのだろう。 ふと葵の耳を掠める物があった。 (笛…の、音…?) 微かにだが、確かに聞こえる。 フルートの音ではない。 笛…つまり、和楽器の音がする。 (佐伯先輩…かな?) 佐伯が龍笛を吹くことは知っている。 しかし…龍笛のような高い、典雅な音ではない。 もっとやさしい…地に足のついた…包み込むように…そう、篠笛のような…。 眠れない葵は、ますます眠れなくなり、ついにムクッと起きあがった。 音のする方へ、誘われるように歩み出す。 気がつくと外へ出ていた。 辺り一面に、薄く霧が立ちこめている。 視界を遮られるほどではないが、周囲の木々の濃い緑が、葵の全身を包むように迫ってくる。 朝露に溶け込んだ草の香りが鼻先を掠め、漂う。 (ここは…何処?) 正面には、何の樹だろう、天を突くような大木がたくさんの枝を伸べている。 その足元に佇む、一人の青年…。 大木を見上げているその背中は、何かに耐えるように僅かに震えている。 笛の音は、確かにその方向から聞こえてくる。 しかし、青年が笛を吹いている様子はない…。 笛は、その手にあるのだが…。 ふと、青年が振り返った。 視線が捉えられる…。 (………?) まったく見覚えのないその青年。 なのに、こみ上げてくる懐かしさはいったい何なのか…。 葵は自分の身体を抱きしめた。 (寒い…っ) 8月下旬、軽井沢の明け方の気温は、夏のパジャマにはもう厳しい。 自分の感覚を取り戻した葵が、次に前を見たとき。 …そこにはもう、誰もいなかった。 「襖を開けるとね…そこには帯が一枚…はらりと落ちていただけ…だったんだ…」 今夜のオチも、強烈に決まった。 29人が表情を強張らせている。 一人増えたのは、今朝到着した、隆也。 しっかりと葵にしがみついている。 そして今夜も、本当の就寝時間がやってきた。 「おやすみー」 「おやすみ…」 あっちこっちから挨拶が聞こえ、皆がそれぞれ布団に潜り込む。 なぜか皆、隅っこに寄ったまま…。 昨日と同じ光景だ。 そして、やはり葵は笛の音に目覚めた。 誘われるように表へ出る。 大木の足元には、あの、懐かしい青年。 彼は、こちらを向いて立っていた。 両手を前へ差し出し、その瞳で葵を招く。 右手には…笛。 笛の音に呼ばれて、葵の足は前へと進む。 真っ直ぐに青年の元へ。 そして、きつく抱きしめられる。 …その様子を見ている者がいた。 ちゃっかりと葵の布団に潜り込んでいた隆也が、気づいて、ついてきていたのだ。 しかし、隆也の耳に、笛の音は届いていない。 葵を抱きしめる逞しい青年は、不思議な格好をしていた。 着物とも洋服ともつかないような…。 (どうしよう…) 大変なところを見てしまった。 葵の浮気現場を押さえてしまったのだ。 一度はうろたえてみたが、なんだか無性に腹が立つ。 (僕とは浮気しないって言ったクセに) ニュアンスにかなり違いがあるが、ともかく自分は受け入れられなかったのに…と言う思いがふつふつと沸き上がる。 2,3のことに思いを巡らしている隙に、大木の根本にはもう、誰もいなくなっていた。 (葵?!) 見渡すと、葵はもう、道の向こうを校舎の方へ向かっていた。 その日の夕食後、隆也は決意をして立ち上がった。 悟に言おうと決めたのだ。 |
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隆也はもちろん悩んだ。 告げ口をするような真似はもう二度としないと決めていたのだから。 このままにしておこうかと何度も思った。 こっそり葵に注意するだけにして…。 自分が告げ口したせいで、悟との仲が壊れてしまったら、一生葵に許してもらえないかもしれないし…。 そう思いもしたのだが…。 しかし、壊れたなら壊れたで、自分が責任を持って葵を……などと思い始めると、もう隆也は止まらなかった。 だいたい、浮気をしている葵が悪い。 悟に目を向けなくなったのなら、次は自分でないとイヤなのだ。 覚悟を決めて、隆也は悟を探した。 同級生と談笑している悟を見つけ、声をかける。 「すみません…大事な話があって…」 悟と話していた2年生は、『先に行ってる』と言い残して消えた。 「どうした? 麻生」 優しい笑顔だ。 胸が痛む。 「ついてきて欲しいところがあるんです」 悟は怪訝そうな顔をした。 かまわずに続ける。 「葵が…明け方に抜け出して…」 そう聞いただけで、悟は顔色を変えた。 「葵が? …抜け出してるって…、ここを?」 隆也はそっと頷く。 「多分、今夜も同じだと思うんです。だから、ついてきて欲しいんです」 悟にもちろん異存はない。 「わかった。明け方に一人で抜け出してるんだな」 語気が荒くなる。 「それで…何処へ行ってるんだ」 隆也は一瞬迷った…が、ここまで言ってしまったのだ。もう、後へは引けない。 「人に…会いに…」 「…そんなバカな…だってここは…」 そう、ここは聖陵学院軽井沢校舎。 葵にとっては初めての土地。 来るときも、家からずっと一緒だった。 いつ、知り合いを作るというのだ。 「僕も…そう思いますが」 隆也は顔を上げ、キッパリと言った。 「男の人と会ってます」 最後まで聞くや否やで、悟は踵を返そうとした。 葵を探しに行くであろうことは目に見えている。 「待って下さいっ」 隆也はその手にすがって止める。 「落ち着いて下さいっ、悟先輩っ」 落ち着け、だと? 悟の表情はそう言っている。 「葵も…相手の男性も…少し様子が変なんです」 そう、落ち着いて考えてみれば、そうなのだ。 ただの浮気にしては、なんだかおかしい。 けれど、抱き合っていたのは事実だ。 しかし、今そこまで言うと、悟が逆上してしまうのは目に見えている。 悟は動きを止めて、隆也をジッと見た。 「お願いです。今夜…一緒についてきて下さい」 悟は唇を噛みしめて、仕方なさそうに頷いた。 「うっすら目を開けるとね…枕元に…女の人が…座ってたんだよ…。こっちを向いて…ね」 「ひぃっ…」 今夜のオチはメガトン級だった。 29人が表情を強張らせている。 小さく上がった叫び声に、葵は満足そうだ。 しかし隆也は、数時間後に予想される修羅場を思うと、怪談どころではない。 なのに何故かしっかりとしがみついている。 そして今夜も、本当の就寝時間がやってきた。 「おやすみー」 「おやすみ…」 あっちこっちから挨拶が聞こえ、皆がそれぞれ布団に潜り込む。 なぜか皆、隅っこに寄ったまま…。 やっぱり今夜も同じ光景だ。 そして、葵は笛の音に誘われる。 フワッと起きあがり、そのまま部屋を後にする。 気配を殺して追う、隆也。 葵が校舎を出たのを確認したところで、悟がやってきた。 どこからか見ていて、ついてきたようだ。 「悟先輩…」 隆也の声に、悟は無言で頷き、二人で後を追う。 (僕をあの人の元へ…) 葵の意識を支配しているのは、誰なのか。 (その笛を…渡して…) 葵は両手を差し伸べる。 青年は微笑んで、葵を見つめ、その手の笛を、大切に乗せる。 葵の手に。 (やっと帰れる…。二人で…) 葵はゆっくり笛にその口を当てる。 流れてくるのは、葵が毎夜耳にした音色。 全身に満ちてくる、甘く懐かしい香り。 (会いたかった…会いたかった…) 笛から流れ込んでくる、胸が締め付けられるような切なさ。 (あぁ…、愛してる。…一緒に…帰ろう。二人で…帰ろう…) 突然、葵の耳元を風が横切った。 その風圧に耐えかねて、思わずうずくまる。 その両肩に暖かいものが触れた。 (ありがとう…) その言葉を最後に、葵は意識を失った。 葵の向かった先には、たしかに青年がいた。 葵が手を差し伸べて、笛を受け取る。 今にも飛び出していきそうだった悟が、動きを止めた。 隆也は悟の肘を掴んで離さない。 葵がゆっくりと笛に口を当てると…。 静寂の世界に、音がやって来た。 今まで葵の耳にしか届かなかった音色が…。 葵が奏でる音色は、確かに現世の二人にも届いた。 切なく、甘く、懐かしい香りが漂ってくる。 もう、悟も、隆也も、自分の意志で身体を動かすことは叶わなかった。 その音色と香りに身を任せるのみ…。 変化は突然訪れた。 葵のまわりの霧が、形を作り始める。 葵が身を震わせて、うずくまった。 青年が葵を抱きしめる。 その腕の中には…葵と…もう一人…誰か…いる。 肩の辺りまで伸びた、真っ直ぐな黒髪。 どんな服装でいるのかは、葵と重なり合っていてよく見えない。 葵と共に、青年の腕に抱かれているのは…少年のようだ。 青年が少年に微笑みかける、そして二人が微笑みあった表情をそのまま、葵に向けると、やがて葵は静かに目を閉じた。 二人が慈しむように葵の髪を撫でる。 やがて青年の手が、葵をゆっくりと大樹の根本に横たえ、少年がその頬にそっと唇を寄せた。 そして青年は、少年だけを抱え上げ、そのまま、大樹の幹へと消えていった…。 「帰れない…って言われたんだ。この笛を吹ける人がいないから、僕はここから出られないって。その笛を吹いて…僕をここから解放して…って。」 起床時間までまだ2時間もある。 談話室で悟は、冷え切った葵の身体を毛布で包んで抱きしめていた。 羨ましそうに見つめる隆也の視線など、お構いなしだ。 二人が消えていったとたんに、悟と隆也は自由を取り戻した。 そして、駆け寄り、横たわる葵を抱き上げて引き返してきたのだ。 「なんだかよくわかんないけど、二人はとても嬉しそうだった…」 なんだかよくわかんないのは、見ていた二人も同じだ。 結局修羅場にはならなかったが、その代わりに不思議なものを見てしまった隆也は、ちょっと満足していた。 (葵…綺麗だったな…) せっかく惚れ直したのに、目の前の葵は悟の膝に抱かれている。 …こんなラブラブを見せつけられるなんて…。 やっぱり不満な隆也だった。 悟は柔らかい微笑みで、腕の中の葵を見つめている。 葵はほんの小さくあくびをすると、悟の胸に頭をもたせかけ、目を閉じた。 意識を失った後に、あの恋人たちが囁いた言葉を、もちろん葵は知らない。 (あなたの笛に、永久の祝福がありますように…) 葵と悟が、この土地に伝わる哀しい伝説を知るのは、翌年の夏合宿のことである。 |
10万Hits記念感謝祭「清けき笛の音の郷」 END
Variation:聖陵の9月は萌えているかっ?→*「September Rhapsody」へ*