第8幕への間奏曲「運命の力」
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10月。 栗山重紀は京都の自宅で、一睡もできずに朝を迎えていた。 昨日のことが、いつまでもいつまでも、頭の中を巡っている。 目の前には綾乃の写真。祇園を落籍いたあとのものだ。 (綾乃…なんでお前は黙ったまま逝ったんや。なんで一言教えてくれへんかった…) 時間を一昨日に戻したい。 栗山が『時間を戻したい』と思ったのはこれで三度目だ。 最初は留学から帰って来たとき。綾乃に子供ができていた。 しかし、今、その事について『時間を戻したい』とはこれっぽっちも思わない。 今さら葵がいないなんていうことは考えられないからだ。 二度目は綾乃が亡くなったとき。 葵が事件から立ち直り、綾乃が発病するまでの間は僅かに半年だった。 今でも、そのたった半年間の幸せが栗山の心を占める。 今度のことはどうだろう。 この事実は果たして乗り越えられるのだろうか。 差し込む朝の光すら、神経を逆なでする。 昨日、一人の男にあった。 神崎のもとに、CMの少女について知りたいと連絡を入れてきた男。 弁護士で、名を寺崎修二と言った。 葵名義の通帳の、振込主。 少女が、探している女性にそっくりだったので…と寺崎は言った。 寺崎が探していたのは、まさしく「綾乃と葵」だった。 彼は代理人として養育費を振り込んでいたのだが、しかし、父親の代理ではなかった。 父親は子供の出生自体を知らないと言う。 「自分が二人を引き裂いたと、それは気にしておられました。 4年前に一度体調を崩されたのですがすぐに復帰されて、その1年後、3年前の夏に急逝されました。 大学の学長をされていたので、あとの始末も大変で、取り紛れているうちに綾乃さんと葵さんはいなくなってしまわれた…」 『その方』…つまり実際に養育費を払っていた人間を、栗山は知っていた。 当時、訃報も聞いていた。 「綾乃と葵は逃れたんですよ。あなた方から」 栗山の言葉に、寺崎は眉根を寄せた。 「どういうことですか」 「葵は誘拐されたんですよ。学長が亡くなった直後の秋にね。脅迫電話ははっきり言いましたよ。『二度と姿を見せるな』とね。ご丁寧に、振り込んでいただいた額、全額を身代金に要求してくれましたよ」 栗山が語気を荒げると、寺崎の顔に困惑の色が広がった。 「知りません…でした」 心当たりがあるのか、苦しげにネクタイを緩める。 寺崎は恐らく間違いないだろうといいつつも、調べてみるので時間が欲しいと言った。 葵に対する慰謝料の話もでたが、栗山は拒否した。 これ以上『あの』話はしたくないのだ。葵には。 寺崎から告げられた父親の名に、栗山は驚かなかった。 学長の名を聞いたときに、もう、わかっていたのだ。 いや、もっと前から予感はあった。 神崎が告げた『一人は弁護士。もう一人は…』と言う言葉。 弁護士は寺崎。もう一人はそいつだったのだ。 だが、わかっていたけれど、聞きたくなかった。 この耳に入れたくなかった。 葵の父親…綾乃が愛した男の名など…。 「実はそちらからも問い合わせがありましたよ」 栗山は父親が問い合わせてきたことを告げた。 「そんなはずはありません。彼は葵さんが生まれていることを知りませんから」 天女の葵は、綾乃にそっくりだった。 自分が間違えるのくらいなのだから、本当にそっくりなのだ。 (あいつは綾乃を覚えていたのか) 悔しいが、少しでも綾乃に想いを残していて欲しいと思った。 そうでなければ綾乃が可哀相すぎる。 「しかし、あなたも綾乃にそっくりの葵を見て問い合わせてきたのでしょう。だったら…」 「はぁ、それはそうですが、けれど私は葵さんの存在を知っていましたし、遠くからですが…、その…写真を撮って、学長に届けたりもしましたので…」 寺崎は何が何でも認めたくないらしい。 「しかし、美しいお嬢さんに成長されていて、ビックリしました」 葵について、誤解があるようだ。 「…葵は男の子ですよ」 「…は?」 敏腕弁護士も、ここまで間抜け面になると、可愛い。 「葵は男の子です」 再度きっぱりと告げる。 「いや、どうも、その、失礼なことを…」 寺崎はハンカチを取り出し、必死になって汗を拭う。 「…で、今お二人はどちらに」 「綾乃は亡くなりました。今年の始めです」 寺崎は瞬間、言葉を失った。 「……間に…あわなかったんですね…」 「葵は……聖陵学院に…います」 栗山がたたみかけるように告げる。 その言葉に寺崎は、顔色も失った。 「寺崎さん、この件一切他言無用に願います。もちろん、あちらの関係者にも、です。葵には僕から話しますから」 「しかし、実の父親がわかった以上は」 「時間を下さい。葵にも気持ちの整理が必要ですから」 「しかし…しかしっ、栗山さんっ、あちらからの問い合わせにはなんと…」 寺崎は食い下がった。 栗山はそれを、できるだけ冷静に流す。 「モデルに関する問い合わせと同時に、楽曲に関する問い合わせでもあったんですよ。ですから、これ以上葵の件に関して、あちらと接触する気はありません」 有無を言わせぬ栗山の言葉に、寺崎は重い吐息をつき、渋々頷いた。 「お任せいたします」 こうしてただ座っているだけでも、時間は流れていく。 夜が明けて光が射し、一日が始まる。 葵はもう、目覚めただろうか。 悟と仲良くやっているのだろうか。 葵が女の子であればと思ったことが、ないとは言えない。 そうであれば、常識的な幸せは手に入るから。 けれど、今はそうでなかったことに感謝している。 少なくとも、絶対的な破滅は回避できるのだから。 後は、当人たちがどう闘うか…だが。 明日から聖陵祭が始まる。 必ず行くと約束したから、今日中には東京へ行かなければならない。 …一晩考えた。 いろいろなパターンをシミュレーションしてみた。 結果、すべてを闇に葬ることにした。 誰も何も知らない。 それでいい。 ――僕が墓場まで持っていく。 |
第8幕への間奏曲「運命の力」 END
Variation:…心は寄り添うもの…→*「手を伸ばすだけで」へ*