「手を伸ばすだけで」

葵、中学3年生のお話





「ただいま…」

 長引きそうな職員会議を、教頭への目配せだけで抜けてきた僕の目に入ったのは、居間の真ん中で取り込んだ洗濯物に埋もれて眠る、葵だった。

 そう言えば少し痩せたようだ。
 もともと華奢な体つきが余計に白くほっそりとなっている。

 眠り込んでいるその表情には、ここ1〜2ヶ月で急に溜まったであろう、疲労の色。
 洗濯物をたたんでいる最中に寝てしまったようだ。



 葵の母、綾乃は入院してそろそろ1年になる。
 10ヶ月目くらいまでは、それでも治療の成果が上がっていたのか、比較的元気で自分のことは自分で出来ていた。 

 けれど、ここ2ヶ月ほどで、病状は急速に悪くなっている。

 ただでさえ、進行性の病だというのに、なまじ若い所為で病気の進行は異常に早い。
 先月あたりから、ベッドから降りることもままならなくなっている。


 葵は学校の帰りに、病院へ行く。
 面会時間ぎりぎり一杯、傍につき、世話をして、洗濯物を持って帰る。

 帰るとまず、朝干していった洗濯物を取り込んで、食事の支度をして…。

 友人と遊ぶ暇などこれっぽっちもないのだが、その友人たちも毎日上がり込んでは葵の手伝いをしてくれている。

「葵…。風邪ひくぞ」

 まだ日中は暑いが、朝夕は気温が下がるようになってきた。
 昼間の格好のままでうたた寝しては、すぐに風邪をひいてしまうだろう。
 軽く揺すってみるが、葵は起きる気配がない。

「葵…あおい…」 

 …ぐっすりと眠っている。

 僕は仕方なく葵を抱き上げ、二階へ運ぶ。
 揺れるリズムが気持ちいいのか、一度、小さく息を吐いて僕の胸に顔を埋めてきた。

 葵の部屋へはいると、そこにはきちんと整えられた布団。
 こういう躾には、綾乃はとてもうるさかった。

 僕は葵ごと、そっと腰を下ろす。
 軽い夏布団を剥いで、葵を寝かせようとすると…。

「ん…」

 葵がギュッとしがみついてきた。

「おいおい、葵…」

 もう一度寝かせようとしたのだが、葵はますますしがみつくばかりで…。

 仕方なく、僕も一緒に横になる。
 目を閉じていても、やはり葵は綾乃によく似ている。
 睫の長さも、鼻筋も、桜色した小さな唇も…。

 僕はその顔立ちをジッと見つめていたのだが、やがて葵を抱いたまま、目を閉じた…。



☆.。.:*・゜



「せんせー、これ見てー」
「どうした?」

 学校から帰った僕を、葵が待ちかねたように呼んだ。

「なんか変―」

 僕が居間の隅にカバンを置くと、台所から綾乃が出てきた。

「なんか、フルートが変なんやって」
「へえ…」
「ちょっと見てやってて。うち、卵買いに行ってくるし」
「なんや、電話くれたら買うてきたのに」

 そう言うと綾乃はペロッと舌を出した。

「へへっ、今、冷蔵庫開けて気がついてん」

 片手で財布をヒラヒラさせて、綾乃はエプロンを外した。

「行ってくるわ」
「気ぃつけてな」
「はぁい」

 格子がカラカラっと音を立てた。

「せんせー!」
「今行くよ!」

 僕はジャケットを脱ぎ、葵の声がする奥座敷へ行く。


「どうした?」
「あんなー、ミとかファの音がちゃんと鳴らへん…」

 葵が始めたばかりのフルート。
 楽器は僕が高校時代に使っていた物だ。

 メンテナンスはしていたが、葵のように毎日何時間も吹いていれば、そろそろ不具合も出る頃だろう。

「どれ、貸してみ」

 僕は受け取って、キーの具合を確かめる。

「ああ、これな」
「どうなったん? 壊れたん?」

 葵は今にも泣きそうな声だ。

「キーの連動が悪くなっただけや。心配せんでええ」
「せんせ、直せる?」

 葵の必死の様子が可愛らしい。

「僕かて直せるけどな、こういうのはちゃんとリペアの技術者に見てもろた方がええんや。明日ちゃんと頼んでやるから」
「ほんまに?」
「ほんまやって。けどな、この際やから何日間か預けて全部調整してもらお」

 そう言うと安心しかけていた葵の表情は、また急に曇った。

「そんなことしたら、その間、僕、練習できへん…」

 ほんの僅かな期間にフルートという楽器に魅入られた葵。
 いや、このままで行くと、いつかフルートが葵に魅入られるときが来るだろう。

「僕の貸してやるから。それ使い」

 葵は途端に破顔した。しかし…。

「でも…せんせの楽器はすごい上等やて母さん言うてたし…」

 そんなことの心配か…。

「どんなにええ楽器でもな、吹いてやらへんかったら意味ないやろ?」
「う…ん」
「僕は新学期でそれどころやないし、代わりに葵が吹いといて」

 葵は今度こそ、心の底から嬉しそうに笑った。
 その笑顔が…。

 僕の心臓が、ドキン…と大きな音を立てた。

 それは、あの時の…。



『な、しげちゃん。これ見て〜』
『どうしたんや、綾乃』
『壊れてしもたかもしれへん…』

 あの時、綾乃が大切にしていたものが壊れて…。
 それが何だったか、今となってははっきりと思い出せないのだが…。

『これ、大丈夫やで。僕が直してやるから』
『ほんまに?! おおきに、しげちゃん!』

 年の頃は、ちょうど今の葵と同じ頃。

 直ると聞いて、それは嬉しそうに笑った綾乃に、突き上げるような感情を覚えた、あの時の僕…。

 葵は今、その綾乃と同じ笑顔で僕を見た…。  

 手を伸ばしても、触れることの出来ない綾乃。
 傍にいるのに、その心はとてつもなく遠くて…。
 手に入れることなど、叶うはずもなく…。

 だが、葵には…?
 葵には、この手が届くのだろうか…?

 その答えを出す前に、僕の手は葵の頬に触れた。
 こうやって、手を伸ばすだけで、葵は…。

「せんせ?」

 見上げる愛くるしい瞳には、絶対の信頼。

「せんせ、ありがとー」

 葵がギュウッとしがみついてきた。
 その温もりは…。

「ただいま」
 笑いを含んだ声が聞こえた。

「綾乃…」
「葵はほんまに、しげちゃんっ子やなぁ」 
「そやかて僕、せんせのこと大好きやもん」
「そんなん、お母さんかて負けてへんで」

 綾乃がコツンと葵のおでこを小突いた。

「さ、お腹すいたやろ? ご飯にしよ」 

 微笑んだ綾乃。
 照れくさそうに、まだ僕にしがみついてくる葵。 

 それは、綾乃と葵の心はここにある…と感じた瞬間だった。

 心は、手に入れるものでも何でもなく…寄り添うものなのだと…。



 
☆.。.:*・゜



「せんせー!!」

 葵に揺さぶられて、僕は目を覚ました。

「……あれ?」
「先生ってば、僕よりよく寝てたよ」

 ああ…。ミイラ取りがミイラになったってことか…。 

「せんせ、お腹すいたやろ? ご飯にしよ」

 葵、お前は物のいい方も綾乃に似てきたな。
 思わず苦笑を漏らした僕を、葵が不思議そうに見る。

「どしたん?」
「ん? いや。今夜のおかずは何かな〜っと、思っただけ」  

 そう言うと、葵はいたずらっ子の様に、目をきらっと輝かせた。

「由紀が作って持ってきてくれた。 "由紀ねえさん特製肉じゃが"やって。『不味いてゆうたら、ぶっ飛ばす』って」
「そら、怖いな」
「由紀のやることやから、きっとジャガイモなんか、まんまで入ってると思うで」
「まんま、ゴロゴロもいけると思うで」
「そやね」 

 見上げてくる葵の瞳には、変わることのない、絶対の信頼。



「うわー、僕、洗濯物ほったらかしで寝てしもたんや〜」

 葵がバタバタと洗濯物をたたみ始める。

「葵、そっちは僕がやるし、食器並べて」
「は〜い」

 カチャカチャと鳴る茶碗の音。
 葵が立てる小さな足音。

「せんせー! できたー!」
「んー。今行く」



 昨日、医者からはっきり告げられた。
 綾乃に、次の春は巡ってこないことを…。 

 葵、僕はお前を飛び立たせることにした。
 

 離れていても、心は寄り添う。

 そう、葵…。
 お前は僕の、かけがえのない、我が子だから…。




10万Hits感謝祭「手を伸ばすだけで」 END


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