第8幕「天女の迷宮」

【1】





 聖陵祭3日目。

 校舎や校庭は相変わらず催し物で賑わっているけど、僕たち管弦楽部は朝からリハーサル。
 午後からの「聖陵祭コンサート」は毎年人気があるんだそうだ。

 ましてや今年はビッグなお客さんが来ると、直前に伝えられて…。

 そう、あの世界のマエストロ・赤坂良昭氏が来るというのだ。

 部員はワクワクドキドキ。
 悟はポーカーフェイスを決め込んでいるけど、実はちょっと『やだな』と思っているようだ。 
 お父さんの前で指揮棒を振るのは、さすがに嫌かもね。
 昇先輩と守先輩は『我関せず』って顔してる。

 ともかく、先輩も後輩も、もちろん同級生も浮き足だってて、リハーサルのことより、サインをもらうとか一緒に写真を撮ってもらう、といった準備に余念がない。

 そしてリハーサルの合間、僕は呼び出しを受けて本館へ向かった。





 呼ばれていった来賓用の応接室には光安先生と栗山先生、そして当然一番良い席に赤坂氏がいた。
 TVで見るよりちょっと、いい男だ。

「あれ? 悟たちはどうした?」

 光安先生が僕の背後を探す。
 呼ばれたのは悟と昇先輩、守先輩そして僕…の4人。

「すみません。言ったんですが…」 
「振られたかな?」

 それが、僕が初めて聞いた、『巨匠』の生の声だった。
 TVで聞いたときより、深くて穏やかな声。

「あ、あの…。全文正しく伝言するようにと先輩方から言われたので…すみませんが、聞いたとおりにお伝えします。『会いたかったら呼びつけないで準備室まで来るように』…とのことです。すみませんっ」

 僕は勢いをつけてペコッと頭を下げた。
 3人の大人たちは大笑いを始めた。

「いや、悪かったね、君に損な役回りをさせて。まったくうちの息子どもは後輩の扱いがよくないね」
「らしい、と言えばらしいですか」

 光安先生も同調して笑っている。

「葵、ここへ」

 栗山先生が自分の隣を示してくれた。赤坂氏の斜め向かいの席。

「失礼します」

 僕はそう言って腰を下ろした。

「奈月葵くんだったね」

 名前を呼ばれるとさすがにビビッちゃう。

「はいっ、奈月葵ですっ」

 元気に返事をする僕を見て、巨匠はなぜだか、満足そうに頷いている。

 それからは一般的な音楽の話になった。
 好きな作曲家は誰かとか、得意なレパートリーはどんなのだとか、卒業後はどこへ進学したいかとか…。

 はっきり言って進学先なんかこれっぽっちも考えていなかった僕は、内心冷や汗をかいたけれど。

 そのうち、光安先生が呼びだされて席を外した。
 赤坂氏はジャケットの内ポケットからたばこを取りだし、いいですか、と僕たちに尋ねて、了解を得ると綺麗な仕種で火をつけた。

 音を紡ぐ指はやっぱり綺麗なんだなぁ、と僕はぼんやり眺めていた。


「そうそう、栗山さん。オリジナルのフルートデュエット、拝聴しましたよ」

 例のCMの曲のことだ。

「偶然、TVのインタビュー中にCMが入りましてね。画像もよかったが、曲もよくて、印象に残ったんですよ。で、問い合わせてみたらあなたの曲だっていうじゃないですか」

「ありがとうございます。確か、ブロンドの少女を昇くんにそっくりだとおっしゃっていましたよね」

 こらっ、先生っ、いらないことを蒸し返すんじゃない。
 僕がちらちらと伺っても、先生は知らん顔して話を続けている。

「ご覧になっていたんですか? あはは…お恥ずかしい」

 ちっとも恥ずかしそうにはみえないけど。

「CMではフルート2本だけなんですが、ピアノ伴奏つきにしたのもあって、それは以前、悟くんにお願いして弾いてもらいました」

「栗山さんと奈月くんの伴奏とは、悟もさぞかし気を張ったことでしょうね」

 赤坂氏はふぅーっと煙を吐いて、まだたくさん残ってるたばこの火を、消した。

「あの曲、2本のフルートとオーケストラの協奏曲にしてみませんか?」
「は?」

 それは先生にとっても、唐突な話のようだった。
 でも、でもでもでも…すっごーいっ!

「オーケストレーションは栗山さんにしていただいても良いし、私がさせてもらってもかまいません。すぐにお返事を下さいとはいいませんから、考えてもらえませんか?」
「光栄です。じっくり考えさせていただきます」

 先生は差し出された手をしっかり握り返していた。





 その後、僕はホールへ戻り、祐介と本番前の最終チェックをやっていた。
 ん、なんだか騒がしい。

「どうしたんだ?」

 興奮気味に駈けてくる下級生に、祐介が聞いた。

「赤坂先生が各パートに顔を出して、アドバイスとか下さってるんです!」

 なるほど、そりゃ興奮するだろう。

「うわっ、緊張するな、そんなの」

 祐介はぺろっと舌を出した。

 そうこうしているうちに、興奮の中心人物はたくさんの部員に取り囲まれつつ、こちらへやって来た。

「や、奈月くん」

 巨匠が片手をあげた。

 僕が頭を下げると、横で祐介も同じように頭を下げた。

「あれ…? 君は…もしかして夏にドイツへ行ってなかったかな?」

 巨匠の言葉に、祐介はビックリして顔を上げた。

「あ、はいっ、サマースクールで…」

「やっぱり…。たまたま近くで仕事をしたときにちょっと覗いたんだけど、聖陵から来てる子がいるって聞いてね。なかなかいい成績を上げていたみたいだね」

「ありがとうございますっ」

 祐介が頬を紅潮させているところなんて、滅多に見られるもんじゃない。
 祐介に憧れる下級生たちがうっとりと見ている。

「そうだ、二人であれ吹いてよ。CMの…」

 巨匠直々のリクエストに僕らが顔を見合わせたとき、後ろから声がした。

「いいねー、せっかくモデルもいることだし、画像つきっていうのはどう?」

 まわりから歓声と拍手が起こる。
 だ〜れ〜だ〜。
 いらないことをほざいたヤツを睨むべく、僕は火の玉を百個くらい背負って振り向いた。

「守せんぱい〜」  

 頼むから余計なこと言わないでー。

「よう、守、久しぶりだな。やっとおでましか」

 巨匠は父親の顔になる。

「たまたま通りかかっただけ。…な、葵、映像を再現するなら、相手役やってやるぜ」

 先輩は茶目っ気たっぷりの表情で僕の肩を抱いてくる。

「せんぱい〜、怒りますよ〜。僕、もうあんなかっこ悪いこと二度としませんからね」

 僕はふつふつと怒りを滾らせる。

「何? なんのこと」

 うー。巨匠のくせに細かいことを気にするんじゃないっ!

「え? まさか知らないの。TVであれだけモデルに見とれておきながら」

 守先輩の小馬鹿にしたような言い方に、巨匠がムッとして見せた。

「昇にそっくりの子だろう」
「あれ、葵だよ」 

 ぎゃーーーーーーーーーーーっ! 言うなぁぁっ!!!!

 事情を知っているギャラリーは「ぶっ」と吹いたり「クスクス」漏らしたり。…後ろの方では大笑いしてるヤツもいる。

「まさか、見てわかんなかったとか? 女を見る目は指揮棒以上だって豪語してたじゃんか」

 守先輩の言葉に、巨匠はあるまじき間抜け面で僕を見る。
 思わず僕の口をついて出たのは…。

「…すみません」

 こらっ、葵、何謝ってんだ。

「モデルのアンって君のこと?」
「まぁ…一応…」

 モデルの名前までご存じとは…。

 その時、『開演15分前』の声がかかり、巨匠は何かを言いたそうな顔のまま、学院長やPTA会長に拉致されて客席へ行ってしまった。

「守先輩…この落とし前、どうつけてもらいましょう…」
「大丈夫、親父は女にしか興味ないから」

 そう言う問題じゃなーーーーーーーーーーーいっ!



 
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 コンサート終了後、今度は僕一人で巨匠に呼ばれた。

「お疲れさま、とてもよかったよ」

 来賓室に二人きり。
 ……女にしか興味ないって言ってたよな…。守先輩。

「葵くん、君、『A特待』なんだって?」

 いきなり巨匠の口から出たのは、久しぶりに聞く言葉。
 
「ご存じなんですか」
「ん…。この学校は創立40年たらずでね。その間、A特待はたったの二人」

 えっ、そうなんだ。

「君と僕だ」
「は?」

 …まじぃ〜?

「ご両親は健在?」
 
 ふいに繰り出されたその問いに、僕の体が無意識に、わずかに揺らぐ。

「僕はね、中2の時に事故で一度に両親を亡くした。 親戚はいたが、頼るべきところはなくてね。ここに拾ってもらえたおかげで、今こうしてこの世界で生きていられる。息子たちがここへ入ったと聞いたときは嬉しかったよ」

 …ああ、この人は知らないんだ。3人が何故ここへ来たか。
 悟がどれだけ悩んだか、昇先輩と守先輩がどれだけ傷ついたか。

「君は…?」

 僕はわからないようにこっそり息をついて、口を開いた。

「僕も両親はいません」
「亡くなったの?」

 巨匠の目は澄んでいて、興味本位で聞いているのではないと、何となくわかる。

「母は今年の始めに病気でなくなりました。父は…最初からいません」

 当然、疑問符を浮かべて見返される。

「僕は私生児です。母は最後まで父の名を言いませんでした」

 どんな反応を返されようが、僕は動じないつもりで…。

「…すまない。辛いことを言わせてしまったね」

 赤坂氏は目を伏せた。

「いいんです。母は最後まで父のことを愛していましたから」

 明るい僕の声に、顔を上げた赤坂氏は笑ってくれた。

「強いね。君は。…察するに5月生れだろう」

 え?

「京都出身で葵と言えば、誰でも5月の『葵祭』を思い浮かべるよ」

 赤坂氏は遠くを懐かしむように目を細めた。

「残念ですが、僕は3月生れなんです」
「おや」

「でも、『葵祭』って言う発想は大当たりです。 母が父に初めて会ったのが葵祭の時だったので。 …何度も聞かされました。女人行列の中にいた装束姿の母に、父は写真を取らせて欲しいと言ったそうです。写真を撮った後、手にしていた葵の葉を『記念にどうぞ』と渡したら、今夜会ってくれませんかと言われた、と嬉しそうに話していました」

 僕が他人にこんな話をしたのは初めてだ。
 知っているのは恋人・悟だけ。

「デートするのはいつも、初めて会った上賀茂神社で、会うたびにおみくじを引いて交換してた…なんて言ってました」

 何度も聞いた母の恋の話…。思い出すのは久しぶりだった。

 けれど…。
 赤坂氏が何の反応も示さないので、僕は顔を上げた。

 そこには色を失った巨匠が…。

「君のお母さんは……綾乃…か」

 絞り出された声。それは、母さんの名前。

「ど…して…」

 何、それ。

 心臓が早鐘のように鳴る。頭を流れる血の音がうるさくて、僕が考えようとしているのに邪魔をする。

 いつの間にか僕は抱きしめられていた。

「すまない…。許してくれ…。君が生まれていることを…知らなかった」

 どういうこと?

「綾乃は突然姿を消してしまった。待っても待っても、もう…来なかった。あんなに愛していたのに。一緒に行こうと言ったのに…」

 誰の話…?

「探しても探しても、どこにもいなかった。私を置いて、いなくなってしまった…」

 何言ってるの?

「綾乃は…逝ってしまったんだね」

 綾乃…綾乃…それは確かに母さんの名前だけれど…。

「君は…私と綾乃の子だ…」

 僕が…? この人の…子供…?

「う…そ」

 この人は…悟のお父さんで…。

「君は、悟たちと同じ、私の息子だ」

 …違う…そんなことって…。

 絶対違うっ!

「違うっ! 違う違う違うっ! 僕のお父さんは栗山先生だっ、あなたじゃないっ!」
「葵っ」

 全身で突き飛ばしたのに、また抱きすくめられる…。

「長い間、辛い思いをさせた…」

 いやだ…。離して…。

 崩れ落ちようとする僕の体を、誰かが後ろから引っ張った。

「…君は…」
「葵を離して下さい」

 ゆ、うす、け…?

「赤坂先生、葵は…動揺しています。追いつめないで下さい」
「しかし…」
「お願いですっ。葵の身になってやって下さい! いきなり…いきなりこんな事聞かされて…っ」

 祐介の腕に抱き留められ、僕の心はほんの少し、平静を取り戻しそうだったけど…。

「君、聞いてたの…」
「ノックをしても返事がなかったので」

 ぶっきらぼうに祐介が言い放ったとき、ドアの外から声がかかった。

『赤坂先生、お車のご用意ができておりますが』

 ため息をついて、あの人は返事をした。

「すぐ行きます」

 僕は祐介の腕の中で、まだ、荒い息をついている。

「葵、私は明日、ドイツへ発つ…が、またすぐ戻ってくるから…」

 もういい、もう、聞かせないで…。
 激しく首を振る僕を、祐介がギュッと抱きしめる。

「…葵の保護者は栗山先生です…ですから、栗山先生に…」
「やめてっ。絶対に言わないでっ」

 誰にも言わないで、絶対誰にも言わないで…。

「…誰かに話したら…僕、絶対にあなたを許さない…」

 あの人は僕に向かって差し出していた手を凍り付かせた。

「……わかった。誰にも言わない。…すぐに戻ってくるから…」

 あの人は…出ていった。







 遠く、下の方で炎が見える。
 聖陵祭の終了を告げるファイヤーストームの火だ。

 僕は誰にも会いたくなくて、学院の敷地のはずれ、寮よりももっと奥にある裏山の雑木林の中、 大きな木の根本で膝を抱えてうずくまっている。

 隣には祐介。ずっと僕の肩を抱いてくれている。

「悟、探してるかなぁ…」

 自分で言ったくせに、その言葉を引き金にして僕の目は大粒の涙を流し始めた。

「葵…」
 祐介がギュッと抱いてくれる。

「僕、弟だったんだぁ…」
「葵…」
「僕、悟のこと、お兄ちゃんって呼ばなきゃいけないのかなぁ…」
「葵…っ」
「僕、…愛してるって言っちゃったのに…」
「もういいっ、葵! 黙って!」

 抱き寄せられるままに、僕は祐介の胸に頭を預け、目を閉じた。
 遠くから歓声が聞こえてくる。


「葵…ほんとに誰にも言わない気か」

 祐介の声が胸から直接響いてくる。

「……喋ったら…許さないよ…」

 力無く脅したって、怖くなんかないだろうけど、それでも精一杯、僕は脅しをかける。

 …そうだ、良いことを思いついた。

「僕、学校辞めて、京都に帰るよ」
「ばかっ、何言ってるんだっ。くだらないこというなっ」
「…じゃあ、どうすればいい…」

 遠くの炎はまだまだ勢いをつけている。
 あそこに悟はいるんだろうか…。

「葵、僕が守ってやるから」
「祐介…」

 祐介と兄弟だったらよかった…。

 あは…ごめん、祐介。酷いこと考えるね、僕…。

「みんなが校庭にいる間に、寮へ戻ろう」

 祐介は僕の体ごと、立ち上がろうとした。

「やだ。帰らない」

 僕はしゃがみ込もうとする。

「だめだ。帰らなくて騒ぎになったら…どうする」

 強く言われ、僕は力の抜けた体を無理矢理起こす。
 




 寮へ帰ってしばらくしたら、ノックの音がした。
 僕はベッドの中で息を潜ませる。
 ドアが開いても、死角に入る方だから、見える心配はないはず。

「浅井…。葵、帰ってないか」

 悟だ…っ。
 僕は心臓の音さえ、悟に聞こえてしまいそうで、必死で身を固くした。

「まだ、帰ってないです」

 祐介の声は淡々としている。

「コンサートの後からずっと姿が見えないんだ」

 やっぱり探してくれてたんだ。

「本館の方で見かけましたよ」

 祐介っ、余計なことを…。

「栗山先生のところじゃないんですか」

「いや、栗山先生はうちの父と一緒に帰られた。明日一番で大阪の仕事があるとかで…。それで、先生も葵を探しておられたから…」

 そうだ、そういえば先生、今日急ぐって言ってた。

「葵が帰ったら、僕のところまで来て欲しいって伝えてもらえるかな」

「わかりました。ちゃんと伝えます」

 明るい声。祐介はきっと役者になれる。一昨日の演劇コンクールも見事な役者ぶりだったからな…。

 ドアが閉まる。


「葵…明日早く、ここを出よう」

 祐介の言葉に僕はベッドの上に飛び起きる。

「明日、明後日、聖陵祭の代休だろ? 外泊許可を取って、僕のうちへ行こう」

 僕はすぐに頷いた。

 そして、翌朝、本当に僕たちは、門が開くのと同時に学校を出た。



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