第8幕「天女の迷宮」

【2】





 祐介の家族はみんな聖陵祭に来てくれたので、会ったばかりだ。

 けれど、その時に約束した『今度遊びに来てね』がすぐに実現して、お母さんは大歓迎してくれた。
 平日だから、お父さんとさやかさんはもう出勤していたけれど。

 お母さんは、僕に元気がない、と心配してくれたんだけど、祐介が「ちょっと疲れてるから」と言ってくれて、その場は納まった。

 昼間はお母さんがたくさんおやつを作ってくれて、祐介の小さい頃の話なんかをおもしろ可笑しく話してくれて、夕方にはお父さんとさやかさんが帰ってきて賑やかな夕食になった。

 普段は二人ともこんなに早く帰ってくることはないらしい。
 どうも、お母さんが電話を入れてくれたようだった。

 両親に姉弟。幸せな家族の仲間に入れてもらえて、夜も更ける頃には僕の気持ちはずいぶんと落ち着きを取り戻していた。

 そしてリビングでお茶を飲んでいるときに電話が鳴ったのはちょうど10時頃だった。


「浅井でございます。…まぁ…いつも祐介がお世話になりましてありがとうございます。…はい、帰っております。少々お待ち下さいませ」

 保留ボタンを押した電話が祐介の前に差し出される。

「桐生さんから」

 悟…。

 祐介は僕に『大丈夫だから』と目配せして電話を取った。

「お待たせしました。あ、こんばんは。…いえ、そんな。…はい、来ていますが…。すみません、今、姉が買い物に連れだしていて。…は? いいえ、何にもないですよ。…もちろん、明日には戻ります。はい、わかりました。伝えます」

 ご両親とさやかさんが心配そうに僕を見る。

 電話で祐介が嘘をついたことから、僕の元気のなさが、電話の主にあると感づかれたようだった。
 けれど、電話が切れたあとも、お父さんもお母さんも僕に何も聞かなかった。
 ただ、『ゆっくりお休み』って言ってくれただけで…。



 お風呂に入らせてもらって、祐介の部屋で寝る支度をしていると、さやかさんがやってきた。

「葵くん、何かあったの?」

 僕と祐介は顔を見合わせた。

「葵、誰かに喋った方が楽になるぞ」

 へ? さやかさんに?

「うちの姉さんなら、よそに漏れる心配はない」

 そう言う問題では…。

「葵のお父さん、見つかったんだよ」
「ちょ…っと、祐介…」 
「あらー! よかったじゃない」

 …普通はそう思うよね。

「赤坂良昭ってんだ」

 何の含みもなしに、いきなり名前を告げた祐介の声に、僕は俯いた。

「…それって…指揮者の?」
「そう…ついでに言うなら…」

 そこまで言った祐介のあとを、さやかさんが継いだ。

「聖陵名物・桐生三兄弟の父上…ね」
「そういうこと」

 頷く祐介の隣で、僕は深く重く息を吐いた。

「葵くん、よかったじゃないの。お父さんが見つかって兄弟までできて」

 僕はますます俯くしかない。

「よくないよ。だって葵は悟先輩と恋人…」
「ば、ばかっ、祐介!」

 こんなところでカミングアウトする気はないぞっ。

「えーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 ほら見ろ…。さやかさんに嫌われちゃったじゃないか…。これ以上悩みを増やさないで…。

「祐介っ、あんたじゃないのっ? 葵くんの相手はっ」

 は? 今、何か…。

「残念ながら。見事玉砕です」
「うっそー。ショックぅ…」

 さやかさんが天井を見上げて悶絶するというあまりな展開に、僕は思わず伏せていた顔を上げた。

「葵くんっ、悪いこと言わないから、祐介に乗り換えなさい」

 ほへ?

「身内びいきじゃないけどね。こいつはタッパもあるし、おつむもいい。顔も良いし、性格もいい。お得だよ。悩まずにこいつにしちゃえ」

 さ、すが…さやかさん。

「姉貴〜。その条件だったら悟先輩も楽々クリアなんだよ〜」
「あ、そうか」

 あっさり納得しないで〜。

「ま、それならしょうがないね。葵くんにしか決められないことだから…ね。問題は、あなたが一番大切にしたいものは何か…よ」

 さやかさんは、お邪魔さま、と言って出ていった。

 僕にしか決められない…。僕の一番大切なもの…。

 さやかさんの心遣いに感謝して、僕は眠りについた。





 翌日、僕は『近いうちにまた来てね』といってもらって、浅井家をあとにした。

 帰り道、2時間30分。僕らはほとんど話さなかったんだけど、聖陵の門をくぐった時、祐介が口を開いた。

「なぁ、葵…。葵が苦しんでるのは、事実を知っても悟先輩が好きだからだろ。なら、今まで通りで良いんじゃないか? もともと他人同士として知り合ったんだしさ。好きなら好き。いまさら気持ちに蓋なんかできないだろ? それとも…」

 言葉を切った祐介の顔を、僕はジッと見上げた。

「別の誰かを見つけるか?」

 その言葉に、僕はいったいどんな顔をしたんだろう。

「自分の想い、貫き通せよ」

 祐介がギュッと手を握ってくれた。
 それは、泣きたくなるほど温かくて…。 

「うん…。ありがと。がんばってみる」
「ほら、お迎えだ」

 言われて顔を上げると、悟がこっちへ歩いてくるのが見えた。

「お帰り、葵」

 悟は穏やかな顔をしている。怒っているかと思っていたのに…。

「先輩…黙って連れていってすみませんでした。…葵、ちゃんと話するんだぞ」

 それだけ言うと、祐介は寮の方へ走っていってしまった。





「ちょっと歩こうか」

 悟は僕の手を引いて、雑木林の方へ向かう。

 しばらく二人とも何も言わなかったけれど、ちょうど、小高い丘へ出たところで悟が言った。

「ごめん」
「…え?」

 僕は何で謝られたのかわからない。

「葵の気持ちがわからない。何を悩んでるのか。何に傷ついているのか。何に怒っているのか」

 いつもの悟とは思えないほど、その声は弱くて、僕はたまらずに、ギュッと抱きついた。
 戸惑ったように悟の体が揺れたけれど、暖かい腕は、それでもぎこちなくまわされてきた。

 わかるはずがないんだ。わからないようにしたんだから。

「葵が僕に何も言ってくれなくて…。部屋にいても出て来てくれない。浅井のところへ行ったって聞いた時、ショックで…。どうしようかと思った…。たまらなくなって電話をしたけれど、やっぱり出てくれないし…もう…」

 息が止まりそうだった…。
 そう呟いた悟の体は、震えていた。

「ごめん、ごめんなさい…」

 僕は、すべてを話そうと思った。
 血が繋がっているのに愛し合ってしまったという事実は、もう、僕の中では昇華してしまったように思えたから…。

「葵、こんなに好きなのに。こんなに愛してるのに」

 きつく抱きしめられて、長く深いキスを受ける。

「僕に話してはくれないの…?」

 悟の言葉に、僕は決心した。
 けれど…。

 僕は悟の弟なんだ。

 そう言おうとしたとき、僕の中で何かが向きを変えた。



 …悟はどうなんだろう。

 僕が弟と知って、それでも愛してくれるだろうか…。

 そう思ったとき、僕は、一昨日から僕の胸を塞いでいたものの本当の正体に突き当たった。

 自分自身が『兄弟で愛し合う』という禁忌に怯えていたんじゃない…。

 事実を知った悟に、捨てられるかもしれないという不安…。

 僕は悟が兄だと知っても、気持ちは変わらなかった。
 けれど、悟は…悟はどうなんだろう。

 確かめたい…確かめたいけど、一度口にしてしまったら、もう取り返しがつかない。

『それでも愛している』と言ってくれるのか、『血の繋がった弟と愛し合えるはずがない』と言われるのか…。

 どうやって確かめる?
 確かめようが…ないじゃないか…。


「葵…?」
 見上げると悟の綺麗な顔。

「葵…どうして、泣いてる…」
 僕だけの悟でいて…。

「何を苦しんでる…?」
 僕を捨てないで…っ!

「葵、葵っ」
 悟の顔が…霞んで…。

「僕を…捨て…」
「葵っ!!」

 見えなく、な…る…



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 頭の中心がじんわりとしびれている。
 意識はあるんだろうけど、目を開けるのが面倒くさい。


『脳貧血だろう』

 誰? 斉藤先生かな。

『聖陵祭で大活躍だったからな。疲れがたまってたんじゃないか』 

 ああ、これは光安先生の声だ。

『今夜はここに泊めた方が良さそうだな』
『ついていてはいけませんか?』

 あ、悟だ。

『んー、しかし、お前も疲れてるだろう?』
『いいえ、僕は昨日と今日、ゆっくり休んでいますから』
『じゃ、頼むかな。何かあったらすぐに内線入れろよ』
『わかりました』

 先生たちは出ていったようだ。


「葵…」

 僕の名を呼んでくれる…。

 弟だとわかっても、そんな優しい声で呼んでくれる?

 …呼んでくれるよね。

 でも、それはきっと違う意味…。
 優しい悟は、僕を弟として慈しんでくれるに違いない。

 けれど、そんなものいらない。
 僕は悟に愛されたい。

 愛して、愛されて、生きて行きたかったのに…!



「どうして何も言ってくれない? …僕ではダメなのか?」

 悟の温かい手が僕の髪に触れて、そっと梳いてくれる。

 伝わってくる体温は温かいのに、悟の独白は僕の身体に深く刺さって、そこからだんだんと冷たくなっていく。

 違うよ…悟。悟だから…言えないんだ。

 …もし、僕が一生黙っていたら、悟はずっと傍にいてくれるだろうか。

 死ぬまで黙っていられたら。

 ずっと騙し通せたら。

 …でも、あの人が喋ってしまったら?

 悟は騙されたと怒るだろうか。
 何故言わなかったとなじるだろうか。

 その時僕は、どうすればいい…。

 あ、体が痛い…。鳩尾の辺りが熱くて…。
 
 

                   ☆ .。.:*・゜



「おい、起きちゃだめだ」

 僕が保健室のベッドから降りたのは次の日の午後だった。
 午前中をしっかり休んでしまい、結局午後の授業も行かずに終わってしまった。

 昨夜からずっと体が痛い。鳩尾の辺りに焼け付くような痛みが走って、それがだんだん酷くなってくる。

 そして、激しく痛んでは引いていく…を繰り返しているうちに、痛みがやって来る間隔が、すごい勢いで狭まってきた。


「祐介…。ごめん、いろいろ心配かけて」

「ばか、そんなこと気にするな。それより葵、昨夜悟先輩に話をしなかったんだろう」

 僕は祐介の手で、ベッドに押し戻される。

「そんな顔色して、起きてどうするんだ」
「ん…。でも練習いかなくちゃ」

 僕は片手で鳩尾を、片手で祐介の肩を押して、ベッドを離れようとする。

「何言ってんだよ。こんな状態で練習に出られるはずないだろう。代わりなら僕がちゃんとやるから」

「ありがと。代わりの心配をしてるんじゃないよ。…僕が行かないと、悟が心配するから」

 祐介は目を見開いて僕を凝視する。

「葵…。何考えてるんだ。悟先輩にちゃんと話すんだろうな」

 僕は、同じように祐介を見返す。

「言わない」

 祐介が顔色を変えた。

「ちょ、ちょっとまてよっ、どういうことだ」

 祐介が僕の腕を掴む。

「僕は一生黙ってる」
「何、バカなこと…。どうしてだよっ、昨夜は納得してたじゃないかっ」

 両腕を掴まれて、祐介に揺さぶられる。
 やめて…。痛い。痛い。

「僕は良くっても、悟はどう思うかわかんないじゃないかっ! 弟を抱きたいなんて思うかっ?!」

 痛い。焼け切れそうだ。

「あお、い…」
「ふつー、思わないよ、そんなこと…」

 痛い…。痛い…。

「捨てられないためには、黙ってるしかないんだ」
「葵…そんな、こ…と、考え…て」

 痛い…。内臓が握りつぶされているようだ。 

「僕、練習行くよ」

 僕は祐介にかまわず、保健室を出た。

 音楽ホールまで行くのにずいぶんかかった。
 途中何度も歩けなくなったけれど、後ろから追いかけてきた祐介が、支えてくれた。

「ごめん、祐介。結局いつも迷惑かけてばかり…」
「ばかやろっ、こんな時に謝るな」

 祐介を好きになれば…よかった…。
 顔を見上げた僕に、祐介は眉を寄せて言った。

「無茶するなよ。倒れる前にちゃんと言えよ。我慢するな」

 ごめんね、祐介。
 やっぱり僕って酷いやつだよね。
 身勝手で…、わがままで…。






「奈月! どうしたっ、同じミスを繰り返すなっ」

 光安先生の言葉が痛い。
 さっきから何度も注意をされている。
 僕がミスをするたびに、合奏が止まってしまう。

 悟が心配そうに見てる。
 だめだ。がんばらなくちゃ…。心配させちゃいけない…。

 合奏が始まってから、鳩尾の痛みが途切れることはなくなった。引きちぎられそうだ。
 息が吸えない。吐くこともできない。

「葵っ、もうやめろ。保健室に行こう」

 隣から小さい声で祐介が言う。

 鳩尾から大きな固まりが上がってくる。
 口の中に鉄の味が広がって…。

「先生! 葵、様子が変ですっ」

 ついに祐介が立ち上がってしまった。 

「だいじょ…」

 大丈夫、と言おうとしたんだ、僕は。
 でも言葉にならなかった。

『ごふっ』

 なんか変な音がした。

 …なに、これ……。
 手が…制服が…僕のフルートが…真っ赤に…汚れ…ちゃ…った…。

『あおい!』

 遠くの方で、悟が僕を呼んだ…ような気が、した…。




第8幕「天女の迷宮」 END


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