幕間「薔薇園の聖母」
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やっと静かになった。 桐生香奈子はリビングのソファーに沈み込んでいた。 夏に父を亡くした。そして冬の足音が近づいてきたこの頃。 …4日前に母が逝った。 著名な音楽評論家で、音楽大学の学長を務めていた父・桐生泰三が、現役のまま心筋梗塞であっけなくこの世を去ってから、桐生家の歯車は以前にも増して狂っていった。 狂った歯車の軸の部分にいたのが、昨日葬儀を終えた、母・百合子。 親族も帰り、わずかの使用人と香奈子だけになった屋敷の中は、異常なほどの静けさに包まれていたが、それは決して不快なものではなかった。 香奈子はむしろ、その静寂を歓迎していた。 (これで、あの子たちも帰ってこられる…) 祖母に当たる人間の葬儀にも関わらず、香奈子は中学2年生の3人の息子たち、悟・昇・守を呼び戻さなかった。 いや、呼び戻してもきっと帰ってこなかっただろう。 昇と守は百合子を怖れていたし、悟は憎んですらいたから。 「奥様、おやすみになられた方が…」 数年前から住み込みで働いている、家政婦の佳代子が声をかけてきた。 「ありがとう…。でも、もう少しここにいさせて…。そうね、コーヒーを淹れてもらえるかしら?」 疲労の色は濃いが、それでも影のない香奈子の表情に、佳代子は少し安堵する。 「すぐにご用意いたします」 明るい声で告げてキッチンへ戻り、しばらくして香ばしい香りと共にリビングへ入ってきた。 「やっぱり佳代子さんの淹れてくれるコーヒーは美味しいわ」 「ありがとうございます」 穏やかな時間。 5日前まで、この屋敷に静寂は望めなかった。 意識をなくす直前まで、百合子は狂乱し、昼夜問わず叫び、辺りのものを手当たり次第に破壊していたのだ。 もとは存在感が薄いくらい静かな人だった。 だから香奈子は気がつかなかったのだ。 血の繋がらない孫、昇と守に向けられた『狂気』に。 百合子は誰にも見つからないように、静かに静かに、昇と守を痛めつけた。 (今日の日があと一年半、早く来ていれば、あの子たちを寮へ入れることもなかったのに) ふとそう思ったが、香奈子は慌ててその思いを否定した。 狂気に支配されてしまっても、母は母。 むしろ、神経の細い母を追いつめてしまったのは自分なのだと、思い直した。 (私と良昭が結婚さえしなければ…) 次に浮かんだ考えも香奈子は即、うち消した。 あの結婚がなければ、悟はいない。恐らく、昇、守とも親子にはなれなかったはず。 (今さらあの子たちがいない人生なんて考えられない) 久しぶりに得られた静寂のせいか、思って良いこと、悪いことが、ない交ぜになって香奈子の思考を駆けめぐる。 (ああ、もういや…) 香奈子はキュッと首筋を伸ばし、佳代子に明るい顔を向けた。 「クリスマスが楽しみだわ」 「ぼっちゃまたち、帰ってこられますね」 佳代子もまた、嬉しそうだった。 その封筒を見つけたのは、百合子の葬儀の1週間後。百合子の文箱の中にあった。 乱暴に開けられた封。 宛名は『赤坂良昭』。差出人は『桐生泰三』。 中を見て、香奈子は目を疑った。 それが、『遺言』だったからだ。 (なぜお父様が良昭に…) そして何故これが、母の文箱にあるのか。 写真が2枚出てきた。 どこかの座敷に、艶やかな芸妓。 隣には父と…悟。小学校の終わり頃だろうか。 そう言えば、いつだったか父は悟を伴って京都へ行ったことがある。 そう思い出しながら、もう1枚の写真を見た。一枚目のものよりは古い写真のようだ。 少女が赤ん坊を抱いている。女の子だろうか? 男の子だろうか? 愛くるしい顔立ちの二人はよく似ていた。 2枚の写真を比べて香奈子はふと思い至った。 この少女の後の姿が、悟の隣に写る芸妓ではないだろうかと。 さらに封筒を探り、便せんを見つけた。 |
親愛なる愛弟子、赤坂良昭君。
この手紙が君の手に渡るとき、私はもう、この世にはいないだろう。
どうしても君に引き継いでもらわねばならないことがあるために、私はこの手紙を書いている。
先ず初めに謝罪をしなければならない。
一つは、意に染まない香奈子との結婚を勧めたこと。これは香奈子にも謝罪せねばと考えている。
そしてもう一つ、十数年前に君が愛した人を隠してしまったことだ。
君が5月の京都で出会った少女に、心惹かれていたのはわかっていた。
しかしその当時の君は、海外のオーケストラと初契約を結ぶ直前の大切な体だったのは覚えているだろう。
昇と守の母親たちとのスキャンダルをようやくクリアしたところだった。
君は知らなかっただろうが、あの子は『綾菊』といって、祇園の舞妓だった。
花街の人間である彼女の存在が、君の契約の妨げになるのは理解できるだろう。
事情を話すと、彼女は素直に聞いてくれた。だが慰謝料の受け取りは拒否された。
祇園の舞妓として君に接していたのではないと語る瞳が印象的だったのを覚えている。
綾乃には翌年3月に男の子が生まれている。葵と名付けられたその子は、悟たちの1学年下になるのだろう。
綾乃は君の子だとは一言も言わないが、間違いない。医療機関を通じて確認も取っている。しかし、葵自身も父親の名を知らされていないようだ。
私は君に代わり、弁護士の寺崎氏を通じて養育費を送り続けている。
香奈子には知らせていない。
香奈子のことだ、葵を引き取ると言いかねない。
しかし、葵の立場は昇や守とは違う。
綾乃はしっかりと葵を育てているし、君から引き離された上に、我が子まで取り上げられてはたまらないだろう。
私は私の生のある限り、綾乃と葵に援助を送り続ける。
その後は君に委ねる。
桐生泰三
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(良昭に…もう一人…) 思いもかけない事ではあったが、昇や守の時同様、やはり嫌悪感などなかった。 (悟たちに弟…) そう思うと、不思議と湧いてくるのは愛しいと思う気持ちだけ…。 しかし、これが母の文箱にある理由は…。 父の葬儀後、これを見つけてしまったのか。 だから、あの時以来、あんなにも暴れ、乱れ、苦しんだのか。 学生の頃から我が子のように可愛がっていた良昭の、『3度目』の裏切り。 そして、それを黙認し、影で支えるような真似までしていた自分の夫。 ただでさえ、娘が引き取った二人の子の存在に、神経を掻きむしられていたのであろう…。 しかし、香奈子には納得がいかなかった。 (お母様…。どうして…。どうしてあなたが苦しむの。私じゃなくて、どうしてあなたが…) 香奈子は母が亡くなってから、初めて泣いた。 手紙は良昭に渡されることなく、今度は香奈子の机にしまわれた。 香奈子は、自らが父のあとを引き継ぐことに決めたのである。 葵を引き取る気はなかった。幸せに生きているのなら、母子を引き裂く気はない。 ただ、会ってみたいという欲求はあったが。 香奈子はすぐに行動を起こした。 父の死後数ヶ月、養育費の仕送りはどうなっているのか、弁護士の寺崎に問い合わせてみた。 だが返ってきたのは意外な報告だった。 綾乃は芸妓をやめ、葵と共に姿を消してしまったのである。 母子に何があったのか。 半年ほどの後、一つだけ情報を得た。 『奈月葵は数ヶ月にわたり入院していたようだ』 怪我をしたのか、病気なのか。 香奈子は必死で行方を探したが、手がかりはつきた。 その後、桐生家は元の賑やかさを取り戻した。 子供たちのわずかの休暇にあわせて、香奈子も休暇を取り、親子4人で過ごす時間を香奈子はとても愛おしんだ。 あの時以来、悟が内に隠りがちに見えるのが気になったが、それでもいつも穏やかに笑っている。 しかし、香奈子は、健やかに育っていく3人を見るたびに、心にチリチリと痛みを感じる。 葵はどうしているのだろう。もしも綾乃に何かがあったのなら、葵を自分の4番目の子に迎えたい。 今、どうしているのだろう。 どんな子に育っているのだろう。 香奈子はいつも考えていた。 日曜日の昼下がり。 練習の合間、ご自慢の薔薇園の手入れをしていた香奈子に電話が入った。 「珍しいわね、悟が電話をくれるなんて」 自慢の3人の息子たちは高校2年になっていた。 『今年の夏の予定を聞きたいんだけど』 香奈子はうふふ…と柔らかい笑みを漏らした。 「なぁに? わたしとバカンスにでも行きたい?」 『…残念でした。レッスンの依頼です』 お茶目な母に、笑いをこらえて悟が言った。 「レッスン? 誰の? もしかして悟の? …やったー! やっと本腰を入れてピアニストを目指してくれる気になったのね!」 『違います』 一人で盛り上がって感激している母をばっさりと斬り落とす。 「…なんだ。がっかりさせないでよ。で、誰のレッスン?」 『管弦楽部の1年後輩で、フルートの子なんだけど。音大受験に備えたいんだ』 先輩であれ、後輩であれ、悟が学校関係者のレッスンを香奈子に頼むのは初めてだった。 「へぇ…。珍しいわね、悟が一個人のお願いをしてくるなんて」 『その子、春にコンクールを獲ってるんだ。ピアノのレッスンも見てやって欲しいけど、伴奏もしてやって欲しいし』 いつもの悟と違う。…香奈子は直感していた。 「あなたの伴奏では不足なの?」 悟の才能は香奈子も認めている。悟の伴奏で不足することなど、そうありはしない。 『悔しいけど、今はまだね。必ず追いつくつもりではいるけれど』 (あぁ…昔の悟だ。小学校の頃の、真っ直ぐで、負けず嫌いな…) いったいどんな子が悟を変えたというのだろう。 「OK、いいわ。予定合わせてあげる。楽しみにしてるわ、その子…えっと…」 『奈月葵っていうんだ。可愛い名前だろ?』 香奈子はもう一度名前を聞いた。 「え、ええ…可愛い名前ね。どんな字を…書くの?」 少し、声が震えていた。 |
幕間「薔薇園の聖母」 END
Variation:…もう一度、あなたに逢いたかった…→*「花雪洞の灯りの下で」へ*