君の愛を奏でて
花雪洞の灯りの下で
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こういう所は、本当は僕のような子供がくる場所じゃないと思う。 時間もきっと、もう遅いと思う。 眠い…。 遠くで三味線の音や、何かを歌ってる声が聞こえる。 よくわかんないけれど、僕や昇や守が習ってる音楽とはずいぶん違う。 目をつぶって聞いていると、結構楽しいんだけど、そのかわり…だんだん…眠く…。 僕は、おじいさまに連れられてここまで来た。 新幹線に乗って。 おじいさまが何かの賞をもらうことになって、その授賞式のために来たんだ。 けれど、おじいさまは式のあとのパーティーをそこそこに抜け出して、ここへ来た。 ここ、静かな場所なんだ…。 僕とおじいさまと綺麗な女の人と…。 でも、退屈だ。 こんな事なら、一人で留守番していれば良かった。 昇と守はお母さんに連れられて、ウィーンへ行った。 二人を産んだ人たちが、ちょうど今、同じ歌劇場で公演中だから。 あの人たちのことを「昇と守の本当のお母さん」と呼ぶと、二人はすごく怒る。 必ず『"産んでくれた人"だ』と訂正されてしまう。 そうなんだ、僕たち3人のお母さんは、桐生香奈子。 でも、お母さんは何年かに一度は必ず二人を連れて、その人たちに会いに行く。 昇と守は、面倒だから、って嫌がっているけれど。 僕たちは、来月6年生になる。 この春休み、ここ、京都に来る1週間前、僕たちは引っ越しをした。 お母さんと僕たち、4人で住んでいたマンションを出て、お母さんの実家に住むことになったからだ。 お母さんとお父さんは、ついこの前に離婚した。 って言っても、お父さんと僕たちは一緒に暮らしたことがないから、あんまり実感はない。 僕たちの名前もお母さんの名前も『桐生』のまま変わらないし。 ただ、お父さんが『桐生良昭』から、『赤坂良昭』に戻っただけ。 でも、お父さんも、仕事はずっと『赤坂』で通していたから、やっぱり何も変わらない。 そうだ…家で留守番していても、退屈なんだった。 新しいうちはすごく広くて、僕たちは初めて3人別々の部屋をもらったし、それに家政婦さんがいるから、自分たちで「お皿洗い」の当番を決めることもなくなった。 でも…昇と守がいなくっちゃ、なんにもならない。 僕もウィーンに行きたかったな…。 でも、お母さんは絶対連れていってくれない。 今回のは旅行じゃないから。 昇と守の為に行くんだから。 本人たちは嫌がってるけどね。 「いやぁ、悟くん、おねむの時間やわ」 耳元で誰かが優しく言った。 鼻をくすぐるのは優しい香り。 お母さんの花の香りと違って、この人の香りは樹の香り…。 何だかとっても気持ちいい。 今、僕の頭を撫でた人は、とっても綺麗な人だ。 舞妓さんっていうのかな? まるで日本人形のように綺麗だ。 お嫁さんにするならこんな人がいいな。 僕はぼんやりと目を開ける。 暗くなったはずの窓の外は、何だか明るい。 紙でできた丸いものに、灯りがともっている。 ふんわりとして、柔らかい光…。 その光と同じくらい柔らかくて暖かい声が…。 「センセ…、悟くん、もう可哀相どっせ。こないに遅い時間まで…」 「そうだな、そろそろ引き上げるとするか…。…また来るよ」 おじいさまが僕の肩をポンポンと叩く。 優しく微笑むおじいさまに、お姉さんはすまなそうに口を開いた。 「…すんまへん…もう…来んといておくれやす。もう…うちらのことは…忘れて欲しいんどす」 綺麗なお姉さんの口から出た言葉は、とっても悲しい感じがした。 長い睫が少し震えているみたいだ。 泣いてるの…? 「うちには、あの子がいてます。それ以上の幸せは、ないんどす」 見上げた瞳は、濡れてはいなかったみたいだ。 僕がじっと見つめているのに気がついて、お姉さんはにっこりと微笑んだ。 「悟くん…元気で…。立派なピアニストさんになってなぁ…」 ひんやりとした手が僕のほっぺに触れた。 お姉さんの瞳に写る僕。 「元気で…元気でいてなぁ…」 濡れていなかったはずのその目から、初めて一筋、涙が落ちた。 「悲しいの…?」 僕も悲しくなって、お姉さんのほっぺに手を伸ばしてみた。 「泣かないで…」 お姉さんは、とても嬉しそうに、何度も頷いた。 「そやね、泣いたからあかんね。…優しいなぁ、悟くんは…」 「会わせては、やれないか?」 おじいさまが、お姉さんに言った。その声はとても遠慮がちに聞こえた。 誰に会うんだろう…? けど、お姉さんは静かに首を振った。 「もう…うちらは、いないもんと思うて下さい」 「しかし…」 「お願いどす。これが…うちの最初で最後の…わがままどす」 静かでも、はっきりしたその声に、おじいさまも言い返せなかったみたいだった。 「…わかった…」 「すんまへん……堪忍しておくれやす」 どうして…? 「どうして、お姉さんが謝るの?」 僕がそう聞いたら、お姉さんは困ったような顔をした。 「ごめんなぁ、悟くん。うちは…」 ふと俯いたお姉さんは、それきり何も言わなかった。 それからちょっとして、表に迎えの車が来たと言われて、僕とおじいさまは玄関へ行った。 すぐ後ろにお姉さんがいてくれたんだけど、小さな声が聞こえると、障子の向こうへ姿を消してしまった。 可愛らしい声が聞こえてきた。 「おかあさん…」 「これ…こんなとこまで来たらあかんやろ」 「う…ん、そやかて…」 「…そやなぁ、…今日は誕生日やったなぁ。堪忍な…今日くらいは一緒にいてあげようと思うてたのに…」 「ううん…。お座敷忙しいのわかってるし。…僕な…おかあさん、迎えに来たんやで」 「おおきに…。ほな、帰りにお好み焼き食べて帰ろっか?」 「うん!」 「ほな、もうちょっと待っててな」 お姉さんが障子を開けて戻ってきた。 「元気そうだな」 おじいさまの声は、とても機嫌が良い声だ。 「おかげさまで…」 お姉さんが綺麗に手をついて頭を下げた。 頭に着いた飾りが揺れて、キラキラ光る。 「大切に育ててやってくれ…」 おじいさまが僕の肩を引き寄せる。 「へぇ…。あの子はうちの、命…ですから」 ほんの少しだけ頭を上げたお姉さんは、手をついたまま、あとは目だけで僕たちを見上げた。 そのままニコッと微笑んだ顔は…怖いくらいに綺麗だった…。 春の匂いがする京都。 雪洞の灯りが優しくて、お姉さんの樹の香りが暖かくて。 僕は帰ってからも、この事を誰にも言わなかった。 だって、喋ってしまったら、この暖かい夢を忘れてしまいそうだったから…。 ずっとずっと、覚えていたかったから。 僕がその人と会ったのは、それが最初で最後だった。 祇園の名花・綾菊。 僕の愛する人を、強く、優しく育てた、美しい人。 もう一度、あなたに逢いたかった…。 |
15万Hits感謝夏祭り「花雪洞の灯りの下で」 END