第9幕への間奏曲「涙流れるままに」

【1】





「葵、見かけなかった?」

 いったい何人に聞いただろうか。
 帰ってくる返事は同じだ。

「コンサートが終わってから見てないよ」

 そう、確かにコンサートのあと、葵はいなくなった。

 3日間の聖陵祭、最終日。
 恒例の管弦楽部コンサートが終わり、今日も出来の良かった葵に、『よかったよ』と声をかけたくて、悟は舞台下手で待っていた。
 けれど、ほんの少し、先輩からかけられた声に答えている間に、葵の姿はなくなっていた。

「悟、ファイヤーストーム始まるぞ」
 声をかけてきたのは守だった。

「葵がいないんだ」
 コンサートが終わってから、もう2時間も経っている。

「え、まだ見つからないのか? もしかしてお前、コンサートが終わってからずっと探してるとか?」

 そういえば守にも2,3回訊ねた。

「連日の大活躍で、疲れでもだして寝てるんじゃないか」

 確かに葵は、一昨日は演劇コンクールで主演し、優勝をさらい、昨日はライブステージで熱唱して近隣からやって来た女子高生に追いかけられ、しばらく準備室に隠れるはめに陥った。

 そして今日は首席奏者として2時間のコンサートをつとめたのだから、かなり疲れてはいるだろう。

「寮も探したし、保健室にも行ってみた」

 でもいないのだ。どこにも。

「それより、隆也見なかった?」
 守も思い人を探しているようだ。

「麻生ならホールの入口にいたよ。女の子たちに囲まれてたけど」

 見たまま教えてやる。けれど、2時間前の情報だ。

「うっそー!」
 そう叫ぶなり、守は駈けて行ってしまう。

(お前だって取り囲まれてたじゃないか)

 かく言う悟も毎年大変な目に遭う。
 桐生三兄弟は校外でも有名人なのだ。
 昇はちゃっかりと『関係者以外立ち入り禁止』の場所へ逃げ込んだようだったが。




 間もなく聖陵祭を締めくくるファイヤーストームが行われる。

 コンサート終了と同時に、一般公開は終わっているので、あとは生徒と教師だけの打ち上げだ。

(一緒にいようって約束していたのに…)

 悟は大きくため息をついた。

 どこへ行ってしまったんだろう。
 



 結局葵は見つからず、悟は夕食後に412号室を訊ねた。
 ノックに答えて出てきたのは祐介だった。

「浅井…。葵、帰ってないか」

 悟の不安そうな声にも、祐介は動じる様子がない。

「まだ、帰ってないです」
 淡々と答える祐介。

「コンサートのあとからずっと姿が見えないんだ」
「本館で見かけましたよ」

 間髪入れない答えに、悟は違和感を覚えた。
 何かおかしい。
 祐介が表情を変えない。
 悟は『葵がいない』と言ってるのに。 
 なのに、祐介は平然としている。

「わかりました。ちゃんと伝えます」

 伝言を頼んだ悟に対する答えを聞いて、悟は確信した。

(葵、中にいる…)

『いない』と言うことに対する不安も大変なものだったが、『居留守』を使われたということが、悟に大きなショックを与えていた。

 心当たりがない。
 避けられるようなことをした覚えがないのだ。
 最後に言葉を交わしたのは、コンサート直前。
 先に舞台へ出て行く葵の耳にそっと囁いた。

『愛してる』と。

 葵はほんのりと染めた頬で悟を見上げ、その唇が『僕も』と動いた。

 一瞬、手を握りあい、無言のエールを送りあって別れた。

 コンサートの前半を指揮したが、その指揮でもミスをした覚えがない。
 一応、父親からも及第点をもらえる出来だった。

 それに、葵は音楽上のことで、悟を避けたりはしない。ミスに気がつけば、いつでもはっきりと指摘してくれる。 
 お互いのために、注意を傾けあい、アドバイスを与えあおうと決めたのだから。

 悟は本日何度目かのため息を吐いて、自室へ戻った。
 明日の朝まで待とうと決めた。
 ところが…。


 翌朝、朝食時間よりも早く、葵はいなくなってしまった。

 担任の光安に『外泊届』が出されていた。
 行き先は『1−D、浅井祐介自宅』。外出時間は『午前7時』。正門が開く時間だ。

 もちろん祐介の届も出ている。
 やはり昨夜、部屋に葵はいたのだ。
 そして、はっきりと『避けられて』いる。

 さらに悟の心を暗くしたのは、『今、葵が頼っているのは浅井祐介』という事実だった。

 悟は一日悩み、考えあぐね、昨日から行き詰まっていた気持ちを更に行き詰まらせて、夜、ついに受話器を手に取った。

 電話に出たのは、祐介の母だろう。程なく代わって祐介が出た。
 祐介によると、確かに葵は来ているが、出かけているという。

 こんな時間に? 買い物? 祐介の姉と?

(昨日と同じだ)

 葵は傍にいるはず。きっと自分からの電話だとわかっているだろう。

(何故だ……) 

 受話器を置いた手もそのままに、悟は呆然と立ち尽くしていた。




 葵が、さやかの言葉で少し浮上し、ほんの僅かでも眠る時間を得た夜。

 悟は一睡もできずに、ベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
 こういうときに、同室者が『朝まで熟睡型』なのはありがたい。

(明日の夜には必ず帰ってくる)

 門から寮への道で待っていようと決めた。
 何も知らないでいるなんて、もう我慢できない。
 ヘタをすれば『体に聞いてやる』という暴挙に出かねない自分も怖かったから。




 翌日夕方。四時過ぎくらいだろうか。
 悟は『寮へ行くために必ず通らなければならない道』で葵を待っていた。
 必ずつかまえると決めて、朝からずっと待っている。

(早く帰ってこい)

 そればかりを念じていた。

 …ふと向こうから人影が見えた。

(葵!)

 祐介と葵が、少なくとも楽しげではない表情で話をしながら歩いてくる。

 祐介が悟に気がついた。
 葵の耳元で何か囁き、悟の方へ向けて葵の体を押し出す。

「お帰り、葵」

 できるだけ穏やかな顔をしようと思っていた。怖がらせたり、悲しませたりしないように。

「先輩…黙って連れていってすみませんでした。…葵、ちゃんと話するんだぞ」

 祐介は寮の方へ走っていってしまった。
 やはり、祐介は『何か』を知っているのだ。
 けれど、この様子なら葵も『何か』を話してくれそうだ。


「ちょっと歩こうか」
 悟は葵の手を引いて、雑木林の方へ向かった。

「ごめん」
 悟がそう言うと、葵は不思議そうな顔を見せた。

「え?」
「葵の気持ちがわからない。何を悩んでるのか。何に傷ついているのか。何に怒っているのか」

 正直に言うしかなかった。ずっと考えたが、わからなかったのだから。

 葵がしがみついてきた。
 その行動はますます悟を困惑させる。

 それでも、腕の中に来てくれた愛しい人。抱きしめずにはいられない。 

「葵が僕に何も言ってくれなくて…。部屋にいても出て来てくれない。浅井のところへ行ったって聞いた時、ショックで…。どうしようかと思った…。たまらなくなって電話をしたけれど、やっぱり出てくれないし…もう…息が止まりそうだった…」

 募らせていた不安を一気に吐き出す。

「ごめん、ごめんなさい…」

 謝罪を口にする葵に、悟の心がほんの少し軽くなる。 

「葵、こんなに好きなのに。こんなに愛してるのに」

 想いのすべてを込めて、長く深いキスを贈る。

「僕には話してはくれないの…?」

 もう、話してくれるという確信があった。

 葵は小さく息をついた。
 何か言おうとしている。

 …しかし…。

 悟は、言葉を待っているうちに、腕の中の葵の身体が固くなっていくのを感じた。

「葵…?」
 見上げてくる葵の瞳に涙。

「葵…どうして、泣いてる…」
 何が君に涙を流させる? 

「何を苦しんでる…?」
 葵の心が遠ざかっていく…。

「葵、葵っ」
 濡れた瞳がゆっくりと閉じられる。

「僕を…捨て…」

 悟が待ちわびていた言葉を、最後まで言うことなく、身体が崩れ落ちた。

「葵っ!!」



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 葵が眠っている。

 たった二日で酷くやつれたようだ。

 抱き上げてここへ運ぶときも、軽くなっているので驚いた。


 2学期が始まって1ヶ月と少し。
 もともと校内では部活動しか接点がない上に、聖陵祭の準備でお互い忙しく、なかなか身体に触れることもできなかったが、それでも大切な葵の身体の変調ならすぐにわかったはず。

 それに、少なくとも聖陵祭の間は人一倍元気に活躍していたのだから。

 この2,3日の急激な変化が、悟の心を悩ませる。

 先生たちは『脳貧血』だろうと言っていた。
 そうかもしれないが、ならば、そうなったのは何故か。

 葵を追いつめるものの正体は…。

「葵…」
 優しく呼んでみる。

「どうして何も言ってくれない? …僕ではダメなのか?」

 葵が最後に言った言葉を、頭の中で繰り返す。

『僕を…捨て』
 その続きは何だ。

『僕を…捨てて』か。
 ばかな、あり得ない。

『僕を捨てないで』か。
 もっとありえない。 

 いったい葵は何に怯えているのか…。
 悟の心も、迷宮に迷い込んでしまった。





 翌日、昼休みに様子を見に行ったときは、まだ葵は眠っていた。

 しかし、放課後、もう葵はいなかった。
 一度寮へ戻ってみたが、やはりいない。

 まさかと思い、音楽ホールへ向かう。

 すでにメインメンバーの合奏が始まっていた。

(葵…)

 定位置に葵の姿を見つけ、悟は焦った。

 無茶だ。あんなに顔色も悪いのに。

 顔色は昨日より数段蒼ざめている。
 隣から祐介も落ちつきなく視線を送っているのがわかる。



「奈月! どうしたっ、同じミスを繰り返すなっ」

 普段の葵では考えられない凡ミスを繰り返し、たまりかねた光安の、名指しの注意が飛ぶ。

 まわりの部員たちも、尋常ではない事態に困惑している。

(だめだ、止めないと…)  

 悟が立ち上がった時、祐介も立ち上がった。

「先生! 葵、様子が変ですっ」

 緊迫した声に、全員の視線が集中する。

「葵っ!」

 悟の悲痛な声が響き渡る。

 大量の血を吐いて、葵が崩れ落ちた。
 受け止める祐介が血に染まる。



                   ☆ .。.:*・゜



 白い扉が頻繁に開閉し、大勢の白衣の人間が出入りを繰り返す。

 早口に専門用語が飛び交うが、意味は分からない。

 ただ、緊迫した状況である、ということが見て取れるだけ。

 葵が救急車で搬送されるとき、同乗を許されたのは担任であり顧問である光安だけで、搬送先は学校指定の病院ではなく、救急救命センターを持つ総合病院だった。

 救急車に遅れること1時間。

 悟たち兄弟と祐介が病院に到着したとき、すでに葵は処置室の中で、光安が廊下の公衆電話で電話をかけていた。

 制服を血で汚したままの祐介、昇と守に両脇から支えられるように立つ、悟。

 光安は受話器を持ったまま、ちら、と視線を投げたが、再び会話に集中した。

「若い教師と…あとはできるだけ上級生から。…そう、体格の良い生徒…。少なくとも20人だが、出来るだけたくさん…。…うん、頼む」

 受話器を置き、光安は4人に向き直った。

「今日、昼過ぎに大きな事故があったらしくて…。センターに血液が足らないそうだ」

 4人とも何も言わない。
 何を言えばいいか、わからない。

「出血が酷くて…。緊急に輸血が必要なんだが、足らないんだ。それで…聖陵から、O型の教師と生徒を」

「僕、O型ですっ!」
 祐介が叫んだ。

 光安が通りかかった看護婦に声をかける。

「こちらへ!」

 祐介はすぐに別室へ連れて行かれた。

 光安はそれを見送ると、悟たちに座るよう促す。
 光安の隣に悟を座らせ、二人を挟んで、昇と守が腰を下ろした。

「栗山にも連絡がとれた。名古屋で仕事中だった。一番早い方法でこちらへ来るそうだ」

 悟は何も言わない。

「…何が、あった…」
 静かに光安が聞く。

「…わかりま…せん。葵は、何も、言ってくれません…でした…」

 しかし、自分が追いつめたに違いないのだ。
 あんなになるまで追いつめたのだ。

 悟の視線が定まっていないことに気づいた光安は、それ以上何も問わなかった。

 目線だけを昇と守に向けてみたが、二人とも、悔しそうに頭を振るだけ。


「保護者はまだですか」
 処置室から出てきた医師が、光安に声をかけた。

「名古屋からなので、もうしばらくは…」

 医師は眉を寄せ、腕時計をちらっと見た。

「…間に合うといいが…」

 その言葉に4人が愕然と医師に視線を向ける。

「あなた…担任の先生でしたね」

 光安が頷くのを見て、医師は話を続けた。

「…あと数時間で胃穿孔になるところでした。幸い穿孔は防げましたが、出血が酷く、止血に手間取っています。 輸血でつないでいますが…。はっきり申し上げて…かなり危険な状態です。今夜が越せるかどうか…」


 一瞬、悟の周りからすべての音が消え去った。

(葵が…死んでしまう…?)

 硬直した悟を、隣にいる守が力一杯抱きしめる。 

「そ、んな…。何とかならないんですかっ!」

 掴みかからんばかりに、光安が詰め寄る。

「全力は尽くします」

 そう告げて、医師は再び処置室に去った。

 昇がギュッと光安の腕を掴む。
 震えるその手を、光安の手が覆う。
 しかし、その手もやはり、震えていた。

 やがて、聖陵の教師と3年生たちが続々と駆けつけて来た。それは病院の処理能力を超える数。
 誰もが学院のアイドルを助けようと、自ら進んでやって来た。

 次々と注がれる命の素。
 誰もが葵を失いたくないと、必死に願う。





 いったいどれくらいの時が経ったのか。
 栗山が到着した。

 光安と言葉を交わす間もなく、医師に招かれて処置室に入る。

(このまま葵を失ったら…)

 悟の恐怖は極限に達していた。

(一生を賭けて、守ると誓ったのに…)

 静かに恐慌状態に落ちる悟を見て、光安も、昇も、守も、ひとつの確信をしていた。

 目の前のこの人間は、今、葵が逝ってしまったら、躊躇うことなく後を追うだろう…と。

 葵も悟も失ってはならない。

 3人は、処理しきれない感情に翻弄されながら、ただ時が経つのをじっと耐えていた。





 やがて栗山が出てきた。

「…血圧が、漸く安定してきました。一応現在の危機は回避できたとのことです。みなさんの、輸血のおかげです」

 悟が、顔を伏せ、うずくまった姿勢のまま、肩を震わせ始めた。
 恐らく泣いているのだろう。

「強度のストレスによるものではないかと言われたんだが…」

 栗山が、座る悟の前に片膝をつき、肩に手を置いた。

「悟くん、何か心当たりあるか?」

 優しい声だった。咎めるような色はどこにもない。

 しかし栗山は確信していた。
 ここまで葵を追いつめられるのは、悟しかいない。

 悟は泣き濡れた瞳で栗山を見た。すがるような眼差しだった。

 返事はない。
 ない、が、答えがNOなのは、はっきりと見て取れる。

(やっかいだな)

 悟に心当たりがあるのなら、ここまで事態は悪くはならなかったのだろう。

 葵は何を気に病んだのか。

 まさか…。

 暗い予感が一瞬浮かんだのを無視して、栗山は黙って立ち上がると、そのまま、別室へ消えていった。



【2】へ