第9幕への間奏曲「涙流れるままに」

【2】





「先生…葵は」

 1番最初に採血をした祐介は、まだ血まみれの制服のまま、処置用のベッドに横たわっていた。

「ありがとう。なんとか持ち直したよ」
「よかった…」

 震える息を吐いて、祐介が目を閉じた。

「浅井くん…。きみ、何か知ってるか」

 閉じられたばかりの目が、ぎょっと見開かれる。

「何の、こと…ですか」

 言葉が震えているのは、ばれていないだろうか。
 祐介の心臓は、一気にテンションを上げている。

「葵が、血を吐くほど、悩んだこと」

 祐介は必死で息を整えた。

「知りません」

 葵が『死ぬまで黙っている』と言い切ったことを、自分の口から言えるはずがない。

 栗山はため息をついて、祐介を見る。

 聖陵祭が終わる夜、帰る自分を、葵は見送りに来なかった。
 そんなことは今まで一度もなかったのだ。
 コンサート終了から、あの時までのほんの数時間。

(葵に何があった…?) 

 あの夜の出来事、一つ一つをその思考の中で検証していると、ふと、あるシーンが浮かんだ。

 別れ際、赤坂良昭が残した言葉。

『改めてご挨拶に伺います』

 栗山の曲を、コンチェルトに…という話があった。
 その事だと思っていたが…。

 考えてみれば、立場が逆だ。自分の曲を使ってやろうと言ってくれたのだ、あの人は。

(まさか…)

 その仮定を中心に据えると、すべてが見えてきた。
 葵があんなになるまで悩み、悟がそれを知らない。

 辻褄が合ってしまう。

 栗山は、その疑問を口にせずにはいられなかった。

「葵は、あの後一人で赤坂先生に会ったんだね」

 すでに疑問形ではない。
 祐介が答えないであろうこともわかっていた。

「葵は…父親が誰か、知ってしまったんだね」
「先生…っ!」

 祐介が飛び起きた。

「先生…知って…」
「知ってたよ。…もっとも、葵より何日か早かっただけだけれど」 

 栗山は飛び起きた祐介の肩をそっとベッドに戻した。

「僕は、死ぬまで黙っていようと思った…。葵も…そうなんだろう?」

 今度は疑問形だった。けれど、有無を言わせない強さを含んだ、形ばかりの疑問形。

 祐介は、思わず栗山の手を掴んだ。
 そして、自分がこの事を知った経緯を語った。





「葵は…悟先輩に捨てられると思いこんでいます」

 それこそが、葵のトラウマかもしれないと栗山は思った。

「事実を知っても、葵の気持ちは変わっていません。けれど、悟先輩もそうとは限らないと…」  

 栗山は天井を仰いだ。
 葵はやはり、綾乃の子だ…。
 愛した人間に対する情の深さ、そして、その深さ故の苦しみ。

『悟に捨てられる』というのは、『悟に想いを拒絶される』こと。

 そして葵がもっとも怖れるのは、その『想い』を禁じられること。

「僕、そうは思えないんです。悟先輩が葵を拒絶するとは思えない。…思いたくないのだけなのかもしれませんが…」   

 僕なら絶対…、そう続けたが、その後は聞き取れなかった。

 栗山は部屋に備え付けられている簡易の洗面台で自分のハンカチを濡らし、葵の血がこびりついた、祐介の頬や首筋をゆっくりと拭いながら、静かに言った。

「それは、葵の心の傷なんだろう」
「心の傷?」

 ハンカチを畳み直し、さらに反対の頬を拭う。

「葵の母親は、想い人と添うことができなかった。 たった数週間の思い出だけを支えに、葵を育て、二人で生きてきた。 明るくめげない母親を、葵は愛していたし、尊敬もしていた。…けれど、夜中に一人で泣く母の姿も、きっと見てきたのだろう…。何年も」  

 祐介はされるがままに、栗山を見つめる。

「それが、きっと、葵の恐怖の正体だ」

 沈黙が訪れる。
 扉の向こう、人の行き来は激しい。

 ノックも無しに、いきなり開いた扉の向こうには、光安の姿があった。

「栗山、葵のところへ。主治医が呼んでる」

 部屋を出る栗山の背中に、祐介が問うた。

「どうするんですかっ」

 振り返った栗山の表情は、柔らかかった。

「僕が…話すよ」






 主治医によると、輸血が功を奏し、かろうじて生命の危機は脱したものの、このまま意識が戻らないと再び難しい事態に陥る、ということだった。 

「彼のストレスの原因について、心当たりはお有りですか?」

 主治医の問いに、光安は栗山を見た。
 自分たちに心当たりがないのだ。
 離れている栗山にそれがあろうはずはない。

 だが…。

「あります」

 キッパリと言い切った。

「栗山…」
「心当たりはあります。それがこの事態を引き起こすほど重要なものであることも、認識しています」

 主治医は複雑な顔を見せた。

「その件に関して、私たちがお手伝いできることはありませんか」

 精神的なもの、カウンセリングのようなものの事を言っているのだろうか。

「ありがとうございます。解決の糸口は持っていますので、しばらく時間を下さい」

 主治医は少し安堵したように息をつき、わかりました、と答え、部屋を後にした。

「栗山…お前…」
「光安さん、悟くんを……いえ、昇くんも守くんも、呼んで下さい」

 葵は硝子一つ隔てた向こうにいる。
 たくさんのチューブに繋がれ、デジタル表示がせわしなく数値を変えている。

「…わかった」
 



 間もなく光安に伴われ、3人が入ってきた。
 硝子の向こうの葵に気づき、駆け寄る。

 出来る限りの処置は終わっているものの、安らいだ顔はしていない。

 苦しそうに追いつめられた表情を見て、悟の涙がまた溢れだす。

 昇は硝子に張り付き、守は肩を震わせる悟を抱きしめている。

「大事な話が…ある」

 悟は弾かれたように、栗山を見た。 

「葵がなぜ、追いつめられたか」

 そう、それこそが悟の知りたかったこと。
 生命を危機にさらすほど、愛しい人を追いつめたのは、自分なのか。


「葵の父親がわかった…」


 栗山はできるだけ深刻にならないように声を作る。

「本当かっ、いつ?」

 光安の問いに、栗山は軽く頷き話を続けた。

「わかったのは…。僕が確認したのは、聖陵祭の始まる前日。けれど、僕は、葵には話さなかった。………一生黙っているつもりで」

「どうして!?」

 聞いたのは昇だった。

「言えなかったんだよ、どうしても」

 誰もが不安感を募らせる。
 聞いてはいけないことを、自分たちは聞こうとしているのか。


「葵が知ったのは、聖陵祭の最終日。コンサートの直後だ」

「ちょっと待てよ。お前が言わなかったら誰が言うんだ。そんなタイミングで」

 光安の疑問に、栗山は吐息をついて、肩を落とした。

「僕のミスだ。 まさか、あの状況で父親の方が気づくとは思わなかった。教えない限りわからないとタカをくくっていた。 その判断の誤りが、葵が父親から直接事実を知らされると言う、最悪の事態を招いてしまった」 

 光安と兄弟たちは、話を見失いかけていた。

 葵が父親と会ったというのか、あの日、あのわずかな時間に、しかも、校内で。


「君たちは4人兄弟だ」


 唐突に告げられた言葉に、誰も答えない。


「葵は、…君たちの弟だ」


 ややあって、漸く、光安が口を開いた。

「父親は赤坂氏…か」

 栗山は無言で肯定した。




 途切れることなく響いていたはずである廊下の靴音も、すべて遮断してしまったような静かな室内。 

 聞こえてくるのは、それぞれが持つ、自分の鼓動だけで…。



「やったぜ、ホント言うと末っ子って嫌だったんだ。弟ができたってことは、これからは兄貴面できるってことだ」

 沈黙を破ったのは守。
 やはり、こんな場面に一番強いのは守なのかもしれない。 

「女神さまがそっくりなはずだよ…」
 昇がそう言ってから、笑顔で悟の肩を叩く。
「うちには葵の部屋もあるしね」

 しかし、悟の表情は和らぐことなどない。

 葵が自分を避けていた理由。
 …それを突きつけられた。

「おとうと…。葵が…、弟…僕の……弟…」

 まるで何かの呪文のように繰り返す悟。

「悟…」

 それを止めようと守が軽く悟を揺すった。
 しかし、揺すられても、悟は見つめる先を変えないまま、ポツンと言った。


「……葵は…もう、僕を受け入れてはくれない…」


 その言葉に、昇と守は、顔を見合わせる。

 二人の間にある、恋愛感情。
 そして恋愛感情の先にある、自分たちとは違う、葵との関係。


「それは違う」

 栗山が悟の両肩に手を置いた。
 自分とほぼ同じ体格の悟が、小さく見える。 

「葵が悩んだのは、今君が言ったこと、そのものだ。『悟はもう、僕を受け入れてはくれない』と」

 悟は大きく目を見開いた。

「そんなっ……!」

「僕が隠し通そうと思ったのと同じように、葵も…隠し通そうと思ったのだろうな…」

 栗山がそう言って、硝子の向こうの葵をもう一度ジッと見つめる。

「けれど、君も真実を知ってしまった…。後は二人が考えることだ。
 私たちが君にかける言葉は、もう、ない……」


 悟は、握った拳を口元にあて、さらに唇をギュッと噛んだ。
 そして、床の一点を見つめ、絞るように吐き出される、誰に言うでもない言葉。

「…僕は、もうこの想いを止められない…。葵が好きです。愛しています。…周囲から何を言われようと…、僕の想いは…変わらないっ…」

 昇と守が両側から悟に触れる。無言のまま。
 けれどその掌の温もりは、静かに告げている。

『味方はここにいるよ…』と。

 そして、言い終えてから栗山に向けられた悟の瞳は、スッと逸らされて、硝子を越える。


「……たとえ、葵に嫌だと言われても………」


「その言葉、葵に聞かせてやってくれ」

 悟は力強く頷いた。

「覚悟は……とっくについてるもんな」

 栗山が小さく笑う。

 悟の視線は、硝子の向こうの葵に縛られたままで…。



 しかし、それから3日が経っても、葵は目を覚まさなかった。



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 点滴だけで命を繋ぐ。
 見る見るうちに痩せていく。

 悟は授業が済むと、部活を免除してもらい、毎日1時間かけて、葵に会いに来た。

 今日は土曜日。
 昼までの授業を終えて、外泊届を出して、真っ直ぐ病院へ向かう。

 明日の夜までずっと一緒にいよう、ずっと抱きしめていよう。
 そう決めていた。

 が、病室に先客がいた。

 静かにドアを開けると、視線を遮るカーテンの向こうから話し声がした。



「僕は綾乃を愛していました。 留学から戻って、社会的に認められるようになったら、プロポーズしようと思っていました。 けれど、僕がウィーンから帰ったときにはすでに、葵が生まれていて…。 日本を離れなければ良かったと幾度思ったことか。 でも、愛する綾乃の子はやっぱり愛おしくて…。 僕は綾乃の夫にはなれなかったけれど、葵の父親にはなれたと思っています。だから、あなたには感謝しています。 あなたがいなければ、あの子はこの世にいなかった…」


 穏やかに語る、栗山の言葉に、悟は包み込む大きなものを感じていた。

 あんなふうになりたい。
 葵のすべてを包み込めるようになりたい。


「…あなたにはいくら感謝してもし尽くせない。 綾乃は…私が唯一、タクトを捨ててもいいと思った女性でした。綾乃と引き離された理由は、先ほどお渡しした義父の遺言のとおりです。 …私は親としての責任を何一つ果たせなかった上に、息子たちを不要に苦しめた。…父親失格です」

 それは、自信家だと思っていた父の、初めて聞く頼りない声だった。

「あなたは、彼らの目標でいて下さい。4人がそれぞれに持つ才能を、より高くより大きく開かせるために」

「……ありがとうございます。あなたの言葉に…救われた」

「救ったのは葵です。葵の存在が僕たちを救う」
「そうですね…」


 悟はそっとカーテンを開けた。

「悟…」
「悟くん」

 悟は葵の枕元へ進み、そっとその頭を撫でる。

「これを、君に渡しておくよ」

 悟の前に一通の手紙と写真が差し出された。
 受け取って、二人を見る。

 葵の『育ての父』と『実の父』。

 写真は葵に見せようと、探していたものだった。
 京都で、祖父と綺麗な人と、撮ったもの。

「葵の…母だ」
「あの時…祖父は…知っていたんですね」
「綾乃も知っていたんだろう。 君が、我が子の兄であることをね」 

 頷く栗山を見て、悟は手紙を開いた。
 それは祖父から父に宛てられた遺言だった。

 表情を変えないまま、静かに読み終えた息子に、父が告げる。

「私がそれを受け取ったのは、昨日だ」
「昨日?」
「それを持っていたのは…香奈子だ」

 衝撃の事実だった。

「お母さん…知ってた…?」

 母とは昨日も一昨日も、ここで会っている。

 香奈子も大学の授業が終わり次第やってくるのだ。
 そして、学校へ戻らねばならない悟たち兄弟に代わって、夜をこの病室…葵の枕元で、明かしていた。

 しかし、そんな母に、兄弟たちはまだ何も話していなかったのだ。

 特に、昇と守が反対した。
 母が受ける衝撃を考えたのだ。

 葵が目覚めて、悟との関係が揺るぎないものになったら、その時4人で報告しようと決めていた。
 なのにこの手紙は…。

「香奈子は、3年前から知っていたそうだ。 母子が幸せに暮らしているのならと、最初は養育費の振り込みだけを続けようとしていたらしい。 ところが行方がわからなくった。焦って探したが見つからず、この夏漸く、思いもかけない形で出会えたのだと喜んでいた」

(あぁ…、だから、あんなに葵を可愛がって…)

 悟は目を閉じた。

 自分たちの母は、こんなにも強い人だったのだ。
 それは、自分たち兄弟3人の関係を見れば、実証済だったのに。
 隠すことなど、何もなかったのだ。



「悟、お前は…その…」

 言葉に詰まる父親の声に、悟は目を開ける。

「本気なのか? 葵、とのことは」
「その話なら、聞く耳持ちません」

 横で栗山が小さく吹き出した。

「遺伝学的問題も起きないんですから、ほっといてもらいましょう」

 有無を言わさない態度に、赤坂はらしくもなく、おろおろと取り繕う。

「いや、その、香奈子も気にしていたから…」

(そうだった…)

『直人くんのようなことを考えるのはまだまだ先ってことよ』

 光安直人が昇との養子縁組の許しを乞うたとき、香奈子は悟にそう言ったのだ。

 あの時は、様々に思考を巡らせてみたが、二人の血のつながりを知っていた香奈子の胸中はさぞ複雑だったことだろう。

 だからこそ、香奈子は何も言わなかった。
 いや、言えなかったのだ。
 本当なら、喜びと共に告げられるはずの真実を、胸の奥に隠して…。

 けれど。

「僕の気持ちは、変わらない」

 それだけは、譲れない。

「わかった…」
「それより、お父さん。聞きたいことがあります」

 語気が荒くなる。

「何だ?」

 栗山には何となくわかっていた。悟が何を聞こうとしているか。

「葵の身体に傷を付けたのは、誰ですか」

 かつて栗山は、『葵を誘拐したのは、父親、もしくは父親に関係する人物』と言ったのだ。
 父が関与しているというのなら、絶対に許さない。
 一生許さない。

 葵の誕生すら知らなかった父が関与している可能性など、皆無に等しいのだが、悟はこの件に関しては完全に冷静さを失っていた。

「その事は、弁護士の寺崎さんから報告があった」
 諭すような口調で答えたのは栗山だ。
「赤坂さん、僕から話します」

 赤坂は口を引き結んで頷いた。

「寺崎さんは桐生家の弁護士さんだよね」

 悟が頷く。
 悟が生まれる前からのつきあいと聞いている。

「彼を通して桐生家から正式に、葵に対する慰謝料の申し出があった」

 その言葉だけで悟は理解した。誰がやったのか。
 きっと、直接ではない。金で誰かを雇ったのだろう。
 あの人なら…やりそうだ。


 自分を可愛がるその手で…、昇と守を傷つけた人。


「香奈子がショックを受けていてね…」

 赤坂が悟の肩を抱いた。

 母が受けた衝撃は容易に想像ができる。
 昇と守の時も、あの人はあんなにも自身を責めたのだ。
 そして、自分も…。

「この話はもう、なかったことにしたい。慰謝料の件もお断りした」
「先生っ」
「君は、葵を守るんだろう? 葵が何か聞いてきたら隠さずに事実を教えてやってくれ。フォローは君に任せる」

 それは『お前が悩むことは許さない』と言われたも同然だった。

(ああ…また、だ) 

 また、自分の弱さを思い知る。
 自分が揺らいでいたのでは、葵はきっと不安になる。

「わかりました」

 言いきる悟を、二人の大人は複雑な胸中で見つめていた。

 一人は、いつの間にか愛を知り、大人になっていこうとする息子を。

 そしてもう一人は、心中で深いため息をついていた。

(綾乃も葵も、こいつら親子に持っていかれたってわけか…。ったく…)

 こうなったら、葵を演奏旅行に連れ回してやる…。
 こっそり復讐のプランを練る栗山だった。 
  


                   ☆ .。.:*・゜



 都会のど真ん中の病院なのに、どこからか虫の音が聞こえてくる。

 消灯時間を過ぎ、葵の個室の中は淡い光の間接照明が一つ、小さく灯っているだけ。

 悟は葵を抱き起こし、ベッドに深く腰掛け、点滴のチューブや鼻から通されているチューブに注意を払い、ゆっくりと自分の腕に抱き込んだ。

 片膝をたて、葵が楽な姿勢をとれるようにする。


 学校の雑木林で倒れたとき、あの時よりも、もっと葵は軽くなっていた。

「葵…。まだ目を開けてくれないんだね…」

 このままの状態が続けば、生命は再び危機にさらされる。

「どうしたら、起きてくれる?」
 静かに、耳に言葉を埋めていく。
「もう、目を覚ましても大丈夫なんだよ」

 唇をそっと頬に這わせる。
 そしてそのまま葵の唇を覆う。
 しばらく軽くついばんで、やがて深く合わせていく。
 応えてくることのない舌をやんわりと吸い、愛を伝える。

「…くぅ…」

 わずかに葵の喉が鳴る。
 しかし、その瞳が開かれる様子はない。
 震えることすらない長い睫にも一つキスを落とし、そっと離れ、抱きしめる。

「葵…好きだよ…大好きだよ…」

 明日の朝までこうしていよう。
 僕は君を離さない。


 虫の音と、医療器具の僅かな機械音だけの病室で、ふと、悟の口をついて出るものがあった。

 あの夏の日、葵が作った曲。
 悟が伴奏をつけた曲。
 二人で奏でたメロディー。
 心だけで紡ぐことの出来る歌。

 低く、密やかに、暖かい艶を含んで悟が口ずさむ。
 葵に出会い、愛し、愛される幸せに感謝して。

「どんな葵も…みんな僕の、僕だけの葵だよ」

 言葉の終わりに再び唇を重ねる。



 ふと、悟の頬に何かが触れた。
 ひんやりとしたものが頬をなぞる。

 その僅かな感触にゆっくりと顔を上げ、葵の顔を見る。
 閉じられたままの瞳。

 しかし、その細い指が悟の頬に触れていた。

「あおい…」

 悟は触れた指先を握りしめた。

 やがてゆっくりと開かれる…。

 葵の瞳に自分が映る。

「お目覚めですか…お姫様」

 静かに優しく微笑む。

「さ、とる…?」
 掠れた声。

「そうだよ、僕だ。葵を抱きしめてもいいのは…僕だけだよ」

「僕…を、捨て、ないで…」

 絞り出されるのは、葵がどうしても悟に告げたかった言葉。

「ばか。何考えてるんだ。僕が葵と別れる日なんか、永遠に来ないよ。葵から別れるって言っても許さない。絶対に逃がさない」

 嬉しそうに、悟は葵を抱きしめる。
 腕の中の温もりを確かめるように、何度も、何度も。

「でも…僕たち…は」

 葵の言葉はそこで途切れた。
 そこから先は、どうしても言えずに心の中に永遠に葬った言葉。

 見る見るうちに、瞳が揺れ始める
 悟はその瞳を熱く捉えたまま、微笑んだ。

「兄弟なら、一緒に住んでも誰にも文句は言われないよ」

 悟がウィンクをしてみせた。

「籍を入れて、苗字が一緒になるのも当たり前だろ?」

 見開く葵の目から、溜まっていた涙が、零れ落ちる。

「もっとも葵が入るのは、母の籍じゃなくて、僕の籍だけどね」

 …ん、まてよ、僕が二十歳になるまでダメなのかな、調べておかなきゃ…、と一人呟く悟を、信じられない、といった面もちで、葵が見つめる。


「ねぇ、葵。夏の京都であったこと、覚えてる?」

 悟は葵に髪にキスを埋める。

「夏…?」
「そう、今年の夏も、2年前の夏も、同じ場所で僕たちは…」

 葵が悟を見上げる。
 2年前に出会っていた二人。

「でも、僕たちの出会いは、あの時が初めてじゃなかったんだ」

 指を絡め合い、その指先にキス。

「春の夜、京都で聞いた葵の声…」

 ひんやりとした白い頬にキス。

「僕たちの出会いは、生まれる前から決まっていたんだ」

 泣き濡れた瞼に、そっとキス。

「だから、僕たちは死ぬまで一緒だ」

 柔らかい唇に、深く、深く愛し合うキス。



 葵の涙は再び溢れ出し、押さえきれない想いを静かに伝えていく…。
 



第9幕への間奏曲「涙流れるままに」 END


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