第9幕「君の愛を奏でて」


 


 僕の意識が戻ったと聞いて、朝1番に栗山先生と、香奈子先生、それに…赤坂先生が来てくれた。

 てっきりドイツにいるものだとばかり思っていたら、僕が倒れたと聞いてすぐに引き返してきたらしい。

「すみません。いっぱいご心配をおかけしたみたいで」

 香奈子先生は泣いていた。
 ハンカチで顔を覆って、首を横に振る。

「あなたに酷いことを、いっぱいしてしまったわ…」

 僕は昨夜のうちに悟からすべてを聞いていた。

 香奈子先生がずいぶん前から知っていたこと。
 僕が誘拐された時のことを、香奈子先生が自分の責任のように感じていること。

 でも、僕は香奈子先生のことが、もっと好きになっていた。

 初めて会ったときから、この人は僕が誰の子供か知っていたんだ。
 なのに、あんなふうに心から大切にしてもらった…。


「薔薇園の聖母…」

 ふと僕が漏らした言葉に、香奈子先生が顔を上げた。

「…守先輩の言葉です。自分たち3人が、複雑な関係に生まれながら、こんなにもいい兄弟になれたわけ…。香奈子先生を見ればわかるって…。
 あの人は『薔薇園の聖母』だからって」


 再び香奈子先生の目から大粒の涙が落ちた。

「違うのよ…私はそんなんじゃないのよ」

 また首を横に振る。

「私があの子たちと…そしてあなたを愛おしいと思うのは…、みんな同じ、愛する人の子供だからなのよ」

「香奈子…」

 赤坂先生が、絶句に近い表情をして見つめている。

「求めても、求めても得られなかったものを…私は子供たちを手に入れることで満たしただけ…」

 …ああ、やっぱり香奈子先生も、『欲しい』と願ったんだ。でも得られなかった…?

 ううん、違う。

「僕の母も、いつも『葵という宝物をくれたから』って言ってました」

 母さんもきっと『欲しい』と願ったに違いない。

「きっと、手に入れた物の姿が少し違っただけで…」

 僕がそう言った後を、悟が継いだ。

「本当はみんな同じだったんだ。あるのは、大切な人を想う気持ち…ただそれだけ」

 そういいながら、僕の髪をそっと撫でる。
 穏やかなのに、力強い輝きを持つ悟の瞳。

「…感謝しています。母を愛してくれた人にも、僕を産んでくれた人にも、僕を育ててくれた人にも、そして…悟を…」

 そこまで言ったとき、香奈子先生が号泣して僕にしがみついた。

「あなたがいたから…あなたが生まれてきてくれたから、みんなが赦されたの…」

 香奈子先生、悟に会わせてくれて…ありがとう…。

 僕は最後まで言えなかった言葉を、心の中でそっと呟く。



「香奈子…すまなかった」

 赤坂先生が、泣きじゃくる香奈子先生の肩をそっと抱いて、僕からゆっくりと離した。
 僕の瞳を見て、照れくさそうに笑う。

「長い間苦しめて…すまなかった。これからは、香奈子と4人の子供たちのために生きていくよ」

 いつの間にか、ちゃっかり僕が数に入っている。調子がいいったら。

 病室の隅では栗山先生が、目を伏せ、腕組みをして壁にもたれかかっていた。

「…舞妓のお母さんに、フルーティストのお父さんに、ピアニストのママに、指揮者のパパ…。これから、父の日と母の日が大変だ…」

 僕の呟きに、栗山先生がビクッとして顔を上げた。

 潤んだ瞳…。
 そういえば先生が泣いたのを見たのは、母さんが死んだときだけ…。

「…あほ。今、綾乃に『ありがとう』って言うてたとこや。変なタイミングでそんなこと聞かせるから…」

 僕の大切なお父さんは、恥ずかしそうに片手で顔を覆って出ていってしまった。



 入れ替わるようにしてやって来たのは、昇先輩と守先輩。

「よかったっ、ほんとに目が覚めてる」

 昇先輩は駆け寄ってきて、抱きしめてくれた。
 守先輩もベッドの反対側にまわり、昇先輩からひったくるようにして抱きしめてくれる。

「もう…心配でこっちが死にそうだったぜ」

 いつも余裕の先輩の、いつもとは違う声に、僕は改めて、かけてしまった心配の大きさに申し訳なくなった。

「ごめんなさい。先輩にまでご迷惑おかけして…」

 僕が殊勝にそう言ったとき…。

「やったっ!」

 昇先輩が声を上げて、手のひらを守先輩に差し出して要求した。

「ほい、1000円ちょーだい」
「かーっ、あおいぃ、なんだっておまえってば…」

 なんのことぉ?

「守ね、賭けに負けたんだよ」

 昇先輩が『ホレホレ、早く寄こせ』と手をひらひらさせる。
 守先輩は嫌そうに財布を出し、渋々1000円札を取り出して昇先輩のひらひらした手にもったいなさそうに乗せる。

「ふふっ。やった。葵、元気になったらこれでチョコパ奢ってあげる」
「ホントですかっ」

 やったっ。この際自分がダシにされたことはチャラだ。

 それにしても何の賭だろう…、と、守先輩を見れば…。 

「オレはなぁ、弟ができて、やっと末っ子という情けない立場から解放されるんだ」

 力説する守先輩に僕は聞いた。

「末っ子って情けないんですか?」

 今度からその『情けない役』を僕が引き受けるわけ?

「当たり前だろう。オレ、3人の中で一番でかいんだぞ。それなのに、悟から半年、昇から3ヶ月遅れて生まれたってだけで、末っ子だ」

 みんなが吹き出す中、香奈子先生がいつもの華やかな声で言った。

「おめでとう、守。今日で3人とも同い年ね」

 え、そうなんだ。

「流石、母さん。覚えててくれたんだ」
「当たり前でしょう」

 香奈子先生が、僕のベッドに腰掛ける守先輩の肩を抱いた。

「僕たちだってちゃんと覚えてるよ」

 悟がそういうと、昇先輩もうんうんと頷いて言う。

「覚えてないのは、この人くらいのもんだろう」

 そういって軽くあしらわれたのは、『世界の若き巨匠』、その人。

 しかし、巨匠は余裕の笑みを見せた。

「香奈子が8月26日、悟が4月10日、昇が7月17日、守が今日、10月10日、そして…葵が3月20日だ」

 すらすらと淀みなく言う赤坂先生を、全員が呆気にとられてみている。
 しかも、いつの間に僕の誕生日を調べて…。

「…忘れたことなんか、ないんだよ。 ただ…私は未熟なまま父親になってしまったから、どう接していいかわからないままに17年も経ってしまった。随分苦しめたと思う。父親らしいことを何一つしていない…」 

 そう言って、照れくさそうに顔を背ける。
 僕たち4人は交互に顔を見合わせた。

「お父さんは、僕らの自慢で、目標だから…」

 悟の言葉に、また香奈子先生の大きな目から涙が溢れた。

「これからは、お母さんを大切にしてあげて」

 昇先輩が言うと、赤坂先生は大きく頷いた。

「そうだな。そうしよう」

 僕は、綺麗な涙を薔薇模様のハンカチで拭う香奈子先生を見て、幸せな気分に浸っていた。

 ふと、守先輩と目があったので、耳元に囁く。

「先輩…お誕生日おめでとう…」

 守先輩は柔らかく笑ったけど…。

「あのなぁ、お前がそういうことを言うから、オレは1000円とられたんだぞ」

 …そういえば何に賭けていたのか聞いてない。

「オレたちお前の先輩じゃないんだぞ」

 へ?

「兄貴だ、ア、ニ、キ」

 そうだったかもしんない…。

「葵が僕らのことを『先輩』って呼ぶか、それとも…」

 昇先輩が僕の鼻先をちょこんとつついた。
 そ、そんなの決まってるじゃないかっ。

「守先輩…そんな無茶な賭を…」
「無茶を承知で賭けたんじゃないかー。オレは末っ子を脱出したのを実感したいんだー」

 守先輩は、よよっと泣き伏す振りをして僕を抱きしめ、そしてすぐに顔をあげてニッと笑った。

「ほい、言い直しだ」

 言い直し?

「お兄さま、誕生日おめでとう…だ」
「お、おにいさまぁ?」

 裏返った声を上げた僕に、悟たちが笑いを漏らした。
 昇先輩が守先輩のおでこを小突く。

「ばーか。守はどう見たって、『兄貴〜』って雰囲気じゃんか。『お兄さま』って呼ぶんなら、僕だよ、僕。…さ、葵、言ってごらん。お兄さまって」

「ちょ…ちょっと、待って…」

 追いつめられて、ベッドの上をはいずる僕に、悟が助け船を出してくれた。

「いきなりは無理だよ。僕だって、『悟』って呼んでもらうのに1ヶ月もかかったんだから」

 えっと……そんなにお待たせしましたっけ?

「そうだっ」
 次男と三男がハモった。

「だいたい、悟だけ『先輩』がついてないのが気にくわなかったんだ」
「そうそう。…葵、僕たちも名前でいいよ」

 どうやら墓穴を掘ったらしい…。

「さ、『昇』って呼んでごらん」
「『守』って言ってみ」 

 おろおろする僕をしばらく楽しんでから、やっと悟がまた、助けてくれた。

「お楽しみは1ヶ月後だよ」
 クシャっと僕の頭を撫でる。 

 僕は、とんでもない宿題を背負わされてしまったらしい…。





 その後、僕の籍をどうするか、学校や関係者にどう報告するかが、真剣に話し合われてしまった。


 籍の取り合いをしたのは赤坂先生と、香奈子先生。

 赤坂先生は『親権者』を主張して譲らないし、香奈子先生は『兄弟は一緒の方がいい』と言って譲らなかった。

 悟も『籍取り合戦』に参加したかったようなんだけど、なにぶん未成年の身の上。ジッと我慢をしていたようだった。

 …で、結局、籍は卒業するまでこのまま。

 僕がどうしても『奈月葵』で卒業したいとお願いして、受け入れてもらったんだ。

 その流れで、学校などにもこのまま、特に何も報告せずにおきたかったんだけど、『親権者がいない』と言う理由で受けている、『特待生A種』の待遇を返上しなければいけないだろう、ということになり、仕方なく学校へは報告することにした。

 それじゃあ僕の学費はどうなるかというと、赤坂先生が『どうしても払う』と言ってきかないので、栗山先生とも相談して、お願いすることにして…。

 これで、僕は『お父さんお母さんを2人ずつ持った』と言うこと以外は、今までの生活に戻れることになったんだ。



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 入院中はたくさんの人がお見舞いに来てくれて、ちっとも退屈しなかった。
 そして、明日の検査の結果が良好なら、明後日退院してもいい…と言われた日の午後。

 栗山先生が、楽譜を持ってやって来た。


「これ、見てごらん」

 差し出された楽譜はかなり分厚い。
 広げてみると、オーケストラのスコア(総譜)だった。

 タイトルは…。

『2本のフルートのためのファンタジー』。

 十数段ある、五線の中ほどに2本のソロフルートは書かれている。
 音を辿ってみると…。

「先生…これ」
「葵が入院してから、赤坂さんと二人で仕上げた」

 それは、あのCMの曲だった。

 赤坂先生が『オーケストラとのコンチェルトにしないか』と声をかけたあの曲。
 こんなに早く、できる…?

「仕事、早いやろ」

 僕の疑問を見透かしたように、先生がお茶目に言った。

「急いで作ったのには訳があって…」

 先生はベッドの横に腰掛けて、僕の手から楽譜を取った。

「これをね、12月の定演でやってもらうことが決まった」

 定演…って。

「定期演奏会…? どこの?」

 僕がピンとこない頭をひねると、先生が僕の鼻をキュッとつまんだ。

「なーに、ボケてるんや。聖陵の管弦楽部に決まってるやろ」

 えーーーーっ!

「ほんとに?!」

 すごいや、すごいっ!

「ソリストは、第1フルート栗山重紀、第2フルート奈月葵…」

「僕が吹いてええのっ?」

「当たり前や。これは僕と葵の曲やないか」

 嬉しくって目が回りそうっ。
 先生は僕の頭をクシャっと撫でて、続けた。

「管弦楽は聖陵学院管弦楽部、指揮は…」

 先生が黙った。

「誰だと思う?」

 誰って…。

「光安先生じゃないの?」
「は・ず・れ」

 もしかして…。

「赤坂先生?」
「は・ず・れ」

 僕の胸が『ドキン』と音をたてた。

「まさか…さとる…?」

 先生は悪戯な笑みを浮かべた。

「指揮は、桐生悟に決まった」

 …僕は言葉をなくしていた。
 こんな幸せなことがあるなんて…。 

「退院したら即、練習開始だ。演奏時間20分の短い曲だとはいえ、本番まであと2ヶ月ちょっと、しかも『世界初演』やからな。 管弦楽部のメンバーには中間試験が終わり次第、楽譜が渡されることになっているし、悟くんは試験勉強そっちのけで譜読みを始めている」

 悟はいいんだ。きっとそれでも1番だろう。

「先生、僕、テストなんかほっといて練習するよ。特待でなければ成績なんか落ちてもいいし」

 そう。これで心おきなく練習ができる!

「アホ。勉強はちゃんとしろ。順位が一桁から落ちたら承知しないぞ」

 うそぉ〜。

「先生の鬼っ」

 …その時僕は、目の前の出来事に夢中になっていて、先生の表情がいつもと少し、違うことに気がつかなかった。






 そして、中間試験の前日、ちょうどみんなが寮に帰ってくる時間に、僕は退院してきた。

 一時は危篤にまでなりながら、3週間の入院で帰ることができたのは、大勢のお医者さんに看護婦さんたち、聖陵の先生方、僕に血をくれた上級生や励ましてくれた同級生、下級生、そして愛する人たちのおかげだと、僕は感謝の気持ちで胸をいっぱいにしていた。


 学校に帰ってからは、また忙しい日々が待っていた。
 中間試験が終わり、練習に明け暮れる毎日。

 僕は先生とソロを吹くので、オーケストラのメンバーからは外れることになり、僕の代わりに祐介が初めての首席をつとめ、佐伯先輩が次席に繰り上がった。

 赤坂先生(お父さん、とは未だに呼べない)は時間を作っては日本に帰ってきて、悟の指導をしている。
 親子とはいえ、まったく容赦がないらしい。親子だからこそ、かもしれないけど。

 本番の日は、どうしてもドイツでのスケジュールがはずせないので、生で聞けなくて残念だって言ってた。

 栗山先生も時間を作っては聖陵へ来てくれる。
 こっちも容赦がない。CMの音録りの時はこんなに大変じゃなかったのに…。





 矢のように過ぎていく時間に、後ろを振り返る間もなく、12月がやって来た。

 聖陵の期末試験は12月上旬だ。
 中間から1ヶ月ちょっと。試験範囲が狭いのはいいんだけど、せわしないったらありゃしない。

 期末は、1年生なのに5日間15科目というキツイものだけど、それもどうにかこなし、2学期を終えた。

 聖陵は変わったシステムで、2学期を終えた翌日に3学期が始まることになっている。
 つまり『試験休み』はない。

 23日に終業式を迎えるまでの2週間がすでに3学期なんだ。

 そして、管弦楽部最大のイベント、「定期演奏会」は24日、クリスマスイブに行われる。
 

 僕は『準備室』で刷り上がったばかりのプログラムを見ていた。

 管弦楽部のみんなは連日の練習でヘロヘロで、夕食後のこの時間にはもう寮でぐったりしているはずなんだ。

 でも、僕はまだ帰らずに、人を待っている。



聖陵学院中学校・聖陵学院高等学校管弦楽部 
 第25回定期演奏会

フンパーディンク作曲     『ヘンゼルとグレーテル』序曲 
                                    指揮 光安直人
                                   中等部管弦楽部

栗山重紀作曲    2本のフルートとオーケストラのためのファンタジー
             第1楽章『ミューズ〜クリスタルの笛』
             第2楽章『天女〜伝説の笛』  
                               第1フルート 栗山重紀
                               第2フルート 奈月 葵
                                     (高等部1年)
                                    指揮 桐生 悟
                                     (高等部2年)
                                   高等部管弦楽部

チャイコフスキー作曲  交響曲第5番 ホ短調 作品64
             T.Andante-Allegro con anima
             U.Andante cantabile,con alcuna licenza
             V.Valse.Allegro moderato
             W.Finale.Andante maestoso-Allegro vivace   
                                    指揮 光安直人
                                     管弦楽部選抜


 


「あ、できたんだ」

 いつのまにか悟が後ろに立っていた。
 僕の手から、ひょいっとプログラムを取り上げる。

「練習は終わったの?」

 今日は赤坂先生の最後の練習。
 僕たちの『合わせ』を見てもらった後、悟は指揮だけを重点的に見てもらっていたんだ。

「終わったよ。今、栗山先生と話してる」

 悟は左手で後ろから僕を抱いて、右手にプログラムを持っている。

「このプログラム、記念にとっとかなくちゃいけないな」

 やさしい唇が僕の右の頬に落ちてくる。

 少し振り向こうとしたら、そのまま僕の唇が捕まってしまった。

 しばらくそのままジッとしていると、だんだんキスが深くなってくる。
 火が点いてしまう前に身体を離そうとするけれど、悟は許してくれない。

「…んっ…んーーーーーーーーーっ」

 僕は必死でもがいて、漸く、わずかに身体を離すことに成功した。

「…もうっ、悟ってば…」

 息はすでに上がってしまっている。

「愛してるよ、僕の葵」

 鼻先をくっつけたまま、ほとんど触れているに近い場所で唇が囁く。 

「僕は伴奏という立場で葵と一緒に音を作ってきたけれど、指揮者という立場でソリストの葵と共演できる日が来るなんて、本当に夢にも思わなかったよ」

 どうして?

「僕は、いつかこんな日が来ると思っていたよ。悟が振って、僕が吹いている限りね。…こんなに早く来るとは思っていなかったけど」 

 顔が近すぎるから、悟の表情はわからない。
 もう一度唇が触れ、そして離れた後、悟はまた僕をギュッと抱きしめた。

「でも、これが、最初で最後だ」

 悟の言葉に、僕はビックリして突き飛ばすような勢いで身体を離す。

「何で? どうしてこれが最後なの?」

 掴みかからんばかりの僕に、悟はいつもの綺麗な微笑みを見せた。

「決めたんだ。大学はピアノ科へ進む」

 僕は呆然と悟を見上げた。
 指揮科へ進むものだとばかり思っていたから。

 僕の目から見て…なんていうのはおこがましいけど、悟は指揮者としての資質を十二分に備えていると思う。
 光安先生や、赤坂先生っていうまたとない指導者にも恵まれているのに。

「どうして指揮科じゃないの?」

 もちろんピアニストとしての資質も十二分だけれど…。

「僕にはね、ピアニストになって叶えたい夢がある」

 そんな…。

「指揮者としての夢はないの?」

「ないよ」

 そんなっ、あっさりとっ!

 僕は不満を顔いっぱいに表していたんだろう。
 悟は僕の頬を、大きな手のひらでふわりと包んだ。

「ピアニストとしての夢はなに? …って聞いてくれないの?」

 悟の夢。
 悟が叶えたいと思うのなら、僕は精一杯手伝いたいけれど。


「では、ピアニスト・桐生悟さんの夢は何ですか?」

 僕はインタビュアーのように聞く。
 すると悟はちょっと照れたように、はにかんだように、答えた。

「僕の夢は、愛するフルーティスト、奈月葵さんの専属ピアニストとして認められること、です」 

 僕…僕のピアニスト…!?
 そのためにピアノを選ぶの?!

「悟っ、ちょっとまって! そんなのだめだよっ」

 慌てる僕に、悟は余裕の笑みを見せる。

「そう言うだろうと思ったよ。多分葵は『僕のためなんかに』って思ってるんだろ」

 そりゃそうに決まってる。
 頷く僕。

「悪いけどね、これは葵の為じゃない。僕の夢だ」

 僕の頬を包んだ両手は、右手がそっと首の後ろにまわり、左手がそっと腰に落ちた。

 ゆっくりと密着していく僕たちの温もり。

「それに、この夢にはまだ続きがある…」

 ゆっくりと近づいていく僕たちの吐息。

「…そして、ずっとずっと、葵の傍にいられますように…って」

 ゆっくりと寄り添う僕たちの心。

「いつも、いつまでも…」


 触れあった唇から溢れ出る、僕たちの…気持ち。




第9幕「君の愛を奏でて」 END


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