「埋み火」
〜皐月の風〜
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当時新進気鋭の指揮者として売り出していた赤坂良昭が、恩師であり、義父である桐生泰三に連れられて京都を訪れたのは、この地が最も美しく過ごしやすい5月半ばのことだった。 当時の良昭は、いくつかの国際コンクールを獲り、海外オケと初めての契約を交わして、いよいよ海外進出という状態だった。 海外へ発つ前にどうしても挨拶をしておかねばならない楽壇の重鎮への参詣を終えた良昭は、義父の了解を得て、京都の町へと一人繰り出した。 と言っても、夜の街ではなく、真昼の京都だ。 良昭は今までのスキャンダルから夜遊び好きに思われているが、実のところ酒量は今ひとつで、誘われればついては行くが、一人で飲みに行くなどと言うことはまずない人間だった。 だからその日も、良昭は運良くかち合った京都三大祭りの一つ、『葵祭』を見物しに出掛けたのだ。 もともと各地の風俗や習慣などに関心があった彼は、年に1度の大きな祭りと、自分の訪問が重なったことに幸運を感じ、中2の時に事故で急逝した父親の形見であるカメラを手に出掛けていった。 逗留していた老舗旅館の女将によると、葵祭の見物は、加茂川沿いの加茂街道が一番綺麗だと言うことだ。 生い茂る緑のトンネルを抜けるように進む祭列がいいのだという。 良昭は祭列の終点、上賀茂神社に近い加茂街道で祭列を待った。 葵祭の祭列は長い。 もともと、伊勢へ下る『斉王』の行列を模したものであるから、それも納得出来ようものだ。 当然、祭列のハイライトは『斉王』に扮した『斉王代』の一行である。 何故『代』がつくのかというと、本来『斉王』は皇女が努めるものであるから、皇女でないものが扮するというのは、すなわち『代わり』と言うことになるのである。 良昭の前をその『斉王代』の一行がさしかかった。 輿に乗せられ静かに揺られる『斉王代』は可愛らしい女性だった。 毎年市内にすむ20代の独身女性から選ばれるのだが、家名の力はもちろん、支度金も多額になることから、財力のある家の『お嬢様』しかなることはできない。 良昭は昨晩女将から聞いた、そんな『裏話』を思い出しながら祭列を眺めていたのだが、ふと、『斉王代』につき従う女人行列の中に、一際小柄な女性を見出した。 斉王代よりも若いであろうその子は、少し伏し目がちに歩いていたのだが、何を思ったかふと視線を上げた。 一瞬だけ絡んだ視線。 良昭は、思わずその場を離れ、祭列の終点、上賀茂神社へと向かっていた。 「すみません。写真を取らせて欲しいのですが」 上賀茂神社での神事を終え、祭列が解散し、それぞれが身支度を解くために移動しようとしていたところで、良昭は漸く先刻の少女を発見できた。 そしていきなり声を掛けたのだが、少女は特に驚いた風もなく、にこっと笑うと『どうぞ』と小さく答えた。 装束の着こなしも自然で、レンズを向けられてもごく自然な立ち姿を決めてくれる少女に、良昭は夢中でシャッターを切った。 このままいつまでも撮っていたかったのだが、そうもいかずに無理矢理カメラを降ろすと、少女はまた、にこっと笑って近寄ってきた。 「おおきに。これ、よかったらどうぞ」 柔らかい京都のイントネーションでそう言うと、手にしていた葵の葉を差し出した。 「僕に…?」 「はい。記念にどうぞ」 良昭は差し出されたものを、宝物を受けるように、恭しく受け取った。 「あの、君は…」 「はい?」 「今夜、その…会えない…かな?」 「夜に…ですか?」 いきなりすぎたかと焦った良昭は、慌てて自分が泊まっている旅館の名を告げた。 身元のはっきりしている常連しか泊めない老舗旅館の名に、少女が少し、警戒を解く。 「あの、写真を撮らせてくれた御礼がしたいんだ。その…心配だったら、そこまで来て確かめてくれればいいから…っ」 必死で言い募る自分が、まったく『らしくない』ことをしていると言うことに、良昭は気付いていない。 少女はしばし逡巡していたが、やがてまた、あの笑顔を見せた。 「じゃあ、伺わせてもらいます」 「…ありがとう…」 感動に息を詰まらせてしまった良昭は、慌てて次の言葉を吐いた。 「あ、僕は赤………桐生良昭っていうんだけど」 「うちは…綾乃といいます」 「あやのちゃん…だね」 そうたしかめると、綾乃はにこっと笑って頷いた。 本当に来てくれるだろうか…。 関西音楽界のお歴々が集まるパーティーを、『体調不良』を理由に丁寧に断り、良昭は一人、旅館の広縁に座り込んでいた。 気もそぞろになり、手入れの行き届いた庭の美しさも目に入らない。 「先生…お客さんがおいでになってはるのんどすけど…。お通ししても…」 襖の向こうからかけられた声を最後まで聞かず、良昭は部屋を飛び出した。 びっくりする女将に、ありがとう、とだけ声をかけ水を打った玄関へと走る。 そして、そこに昼間の少女を見つけて漸く、息をついた。 装束を解き、化粧を落としても変わらない、初めて見たときの輝き。 「来てくれたんだね」 そう言うと、綾乃は昼間のように笑った。 「…お約束しましたから…」 そう言うとはにかんだように目を伏せる。 それは装束姿より遥かに幼くて、この少女が思っていたのよりも年若いのではと、良昭は不安になった。 もしも、中学生や高校生なら、親の了解なしに連れ出すのはまずいだろう。 「あの…綾乃ちゃんは…いくつかな?」 「うち……私、18です」 「高校生?」 そう問うと、綾乃はやんわりと首を振った。 「いいえ。こう見えても立派な社会人です」 おどけた調子で言うのが可愛くて、良昭も思わず笑みを返す。 「じゃあ、どこかに食事にでも行こうか?」 「…ほんまに…ほんとにええのですか? お言葉に甘えて…」 その遠慮深い声に、良昭は少し呆気にとられる。 最近の若い子は遠慮などあったものではない。 年上の男性には奢らせて当然だと思っているようで。 「もちろん。昼間に素敵な写真をたくさん撮らせてもらった御礼だからね。その替わり、僕は昨日東京から来たばかりで京都のことは何も知らない。だから、綾乃ちゃんが案内してくれるかな?」 そういうと、綾乃は笑顔をパッと輝かせて嬉しそうに頷いた。 それから、良昭が東京へ帰るまでの3日間、二人の逢瀬は連日となった。 そして、たった3日間で燃え上がってしまった恋は、良昭が東京へ帰ることで終わりを見ることはなかった。 「1週間後、僕はまた来るから。必ず来るから。いつもの場所に、午後2時…。待っていて欲しいんだ…」 連絡先を教えようとしない綾乃に、良昭はそう言いおいて帰った。 そして、1週間後、綾乃は良昭の言葉通り、いつもの場所―初めて逢った、上賀茂神社の境内―にいたのである。 |
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「良昭…。なにか手伝うことはない?」 桐生家の屋敷の一室。 良昭の部屋を、妻・香奈子が訪れてそう訊ねる。 この屋敷を出て、海外へ渡るのは5日後。 だが、もともとこの屋敷にいることもほとんどなかったため、荷物も少ない。 「いや、大丈夫だ。だいたいのことは済んだから…」 そう言ってドアの前にたつ香奈子を見れば、その腕の中には、もう遅い時間だというのにまだ目をパッチリと開けた三男の守が抱かれている。 まだ8ヶ月の赤ん坊は、栗色の髪に同じ色の瞳。 それは良昭のものでも香奈子のものでもない、色。 「悟と昇は…?」 「もう寝たわ。あの子たちは寝付きがいいから」 「なんだ、守は寝ないのか。あんまりママを困らせるんじゃないぞ」 そう言って頬をつつくと、守は身を捩って香奈子にしがみつく。 「その代わり、守は一度寝ると夜泣きしないのよね。いい子ちゃんよ、守は」 守は香奈子にしっかりとしがみついたまま、父親の顔を見ようとはしない。 それも仕方のないことだろう。滅多に見ることのない顔なのだから。 子供を挟んでの会話が途切れると、夫婦の間には奇妙な静けさが訪れる。 良昭は、何を話していいのかわからないのだ。 |
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香奈子と初めてあったのは、良昭が高校を卒業した春。 これから入学する大学の2年先輩であった恩師の娘は、聡明で快活、眩しいほどの魅力に溢れた女性だった。 何も知らずに出会っていたら…。 良昭は何度もそれを思った。 初めての出会いの時、もうすでに周りの大人たちは二人のことを決めていた。 相手を深く知ることもなく、良昭のレールは敷かれていたのである。 香奈子には悪いことをしたと思っている。 もちろん疎ましく思ったことなど一度もない。 むしろ、音楽を志す人間として共感できたし、尊敬もしていた。 なのにこんなにもこじれてしまったのは、自分の歪んだものの見方のせいだと良昭は感じていた。 特待生として高校3年間を平穏に過ごしたあと、のしかかってきた自分の生活と大学の学費。 それらすべてを請け負ってくれたのは他ならない香奈子の父。 そして香奈子の母は、良昭を我が子のように可愛がった。 しかし、可愛がられたのは娘婿としての優秀な『音楽家』である自分。 高校卒業後の自分をすべて桐生家に委ねたことで、同時に良昭の将来も決まってしまったのだ。 一人娘と結婚して養子に入る。 それは『赤坂良昭』という個人の存在よりも、ただ『優秀な桐生家の婿』が必要とされていたのだと、良昭は感じていたのだ。 その息苦しさから逃れるため、良昭は海外へ出てコンクールを転戦した。 その間に2人の音楽家と出会い、自由な恋に落ちた。 しかし、その2人もまた、『新進気鋭の若手指揮者』を愛しているのだと知ったとき、良昭はそこも去ることになってしまう。 そして、その恋の後始末も香奈子に負わせてしまったのだ。 もう、良昭に行くところはなかった。 ベビーベッドの中で仲良く眠る3人の――髪の色も瞳の色も違う――我が子。 自分だけがこの3人を繋ぐ存在であるとわかっていながらも、その6つの瞳で見つめられると己の罪深さを嫌と言うほど思い知らされる。 真っ直ぐ見つめてくる瞳に、真っ直ぐ応えてやれない父親は、やがて自分の存在を否定し、自分がいない方が子供たちは健やかに育つのではないかと思い詰め…、帰ってこなくなった。 そんな良昭を見かね、海外へだす算段をしたのが義父であった。 |
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だが、今、自分は何をしようとしているか…。 5月のあの日以来、周りの目を盗んで良昭は京都へ通い詰めた。 それこそ、日帰りする日も幾たびもあった。 綾乃は「桐生良昭」と言う人間しか知らない。 そこにはどんな肩書きもなく、何の後ろ盾も存在しない。 そんな綾乃の、ただ、愛される喜びに溢れた純粋な笑顔を見るために、何度も何度も通った。 そして、一昨日、ついに良昭は綾乃に言ったのだ。 「君と歩んで行きたい」と。 海外へ行くための荷造りは、綾乃の元へ行くためのものと変わってしまった。 初夏の日差しが木々の間を零れ落ちる、賀茂社の境内。 24歳と18歳。誰が見てもお似合いの初々しいカップルは、手を繋ぎ、将来へと夢を馳せる。 「綾乃、僕と歩いていこう…。一生、二人で…」 「良昭さん…」 |
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気まずい沈黙の中、視線を落とした良昭に、香奈子が小さく言った。 「たまには、この子たちのこと、思いだしてね」 寂しそうに笑う香奈子に、良昭の胸は深く抉られる。 こんな男の妻として、我慢を重ねてくれた香奈子。 そして、何の罪もない可愛い3人の息子たち。 この存在をも、捨てていけるのか…。 桐生家を発つ日の朝は、雨だった。 京都は昨日、時雨れたらしいが、今日の予報は晴れ。 「行ってらっしゃい」 珍しく、どの子も連れずに一人、玄関まで見送りに来た香奈子に、良昭は心の中で深く頭を下げた。 「行ってくるよ…。元気で…」 「…良昭も、ね」 雨足が強くなる中、良昭を乗せたタクシーは、空港へは向かわず、東京駅へと向かう。 もう、引き返せない。引き返さない。 中学2年のあの日。 学校から帰宅した良昭を待っていたのは、冷たくなった両親の亡骸だった。 今朝、『いってらっしゃい』と見送ってくれた母も、『気をつけていけよ』と言ってくれた父も、もう物言わぬ人となっていた。 そして、その、突き落とされた絶望の底から引き上げてくれたのが『音楽』だった。 音の世界に身を投げているときだけは、何もかも忘れていられた。 以来、音楽は良昭という人間を構成するもっとも大きな要素となった。 だが、良昭はその世界を去ろうとしている。 自身が音楽界――桐生家――を捨てなければ、綾乃との恋は貫けない。 今、出奔すれば、二度と音楽界に還ることはかなわないだろう。 それでも、良昭は綾乃の笑顔を想った。 何もいらない。 あの笑顔だけ…! 『綾乃、返事がOKなら、次の日曜日、午後3時にここに来て』 綾乃が必ず待っていてくれた『いつも』の場所。 日曜日、午後3時。 木漏れ日の下、綾乃の姿はなく…。 こうして、良昭の最後の恋は、終わった。 |
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そして幾たびもの季節が流れ、良昭は骨を埋めるつもりで渡ったドイツから、1ヶ月という今までになく長期の予定で帰国した。 香奈子との離婚から5年あまり。 3人の我が子は高校2年生になっている。 プライベートでも数えるほどしかない帰国なのだが、仕事で故国へ戻るのは本当に久しぶりだった。 それは、自らが音楽監督を務めるオケを率いてのジャパンツアー。 そして、出たくはなかったのだが、エージェントからも『宣伝ですから』と脅されて出演したTV番組。 そのスタジオで見た、一本のCM。 心を掴む笛の音と共に、良昭の記憶は時間を超えた。 『綾乃…?』 蘇る、皐月の風、薫る日々。 |