「埋み火」
〜冬の虹〜
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「ふう…」 最も寒い時期を漸く抜けようとしている京都。 京都の五つの花街の中でも最も格式が高いと言われている祇園の一角、古くからあるこぢんまりとした町屋の二階で、奈月綾乃は干していた小さな布団を取り込んだ。 ここは舞妓や芸妓が暮らす『置屋』と言われている家。 現在は『お母さん』である祇園の重鎮・弥生と、その娘である一番の姐さん芸妓・竜千代を筆頭に芸妓が3人、舞妓が4人の大所帯である。 綾乃は中学卒業同時にこの厳しい世界へ入った。この春には満4年になる。 舞妓としてはベテランであり、また祇園の中でも一番の売れっ妓『綾菊』としてその名を知られていた。 しかし、数ヶ月前から『だらりの帯』も締めていない。 綾乃は今取り込んだばかりの小さな布団にそっと顔を埋めた。 久々の晴天で、フカフカに膨らんだ布団は日なたの匂いをさせている。 それを丁寧にたたんでそっと置く。 「ふう…」 そしてそっと腰を下ろすと、細い身体に不似合いなお腹をそっと撫でた。 間もなく臨月。 だがそこに父親の姿はない。 本来なら、花街という環境が幸いして、綾乃が責められることはなかっただろう。 誰もが温かく見守ってくれるし、理解をしてくれるはずであった。 しかし、綾乃が頑としてお腹の子の父親を明かさなかったために、周囲は酷く狼狽し、綾乃に詰め寄った。 相手は誰か…と。 相手がお茶屋の上客であるならばそれなりの対応が必要になるし、そうでないのなら、今後のつきあいが尾を引かないようにしなければならない。 綾乃は大切な『商品』であるのだから。 『母』である弥生は、『悪いようにはしないから、名前だけでも言いなさい』と何度も綾乃を説得したが、結局綾乃は相手の名を明かさなかった。 『もう二度と会うことはないから』と言い切ったのである。 「よっこいしょっと」 綾乃はここのところ急速に大きくなり始めたお腹を抱え、座椅子に座り直すと引き出しを開けた。 手にしたのはカセットテープ。 今年の始めに、ラジオで放送されたものを録音したものだった。 綾乃はそれを、ラジカセにそっとセットする。 『カチッ』とスイッチの音がすると同時に、いきなり演奏が始まり、小さなスピーカーいっぱいに溢れ出てくるのは、今まで綾乃の世界にはなかった音楽。 西洋楽器の管弦が奏でる音楽である。 そっと目を閉じ、綾乃は曲の中へ入っていこうとする。 どうしても越えられなかった壁も、こうしていると無いような気がする…。 しかし演奏がいくらも流れないうちに、襖を開けて絢爛な衣装に身を包んだ芸妓が、寝ている赤ん坊を抱いて入ってきた。 「なんや、また聞いてんの? あんたホンマにこの曲好きやなぁ」 綾乃はなんとも幸せそうな顔をして、たっている芸妓を見上げる。 「竜千代姐さん、今日はえらい早いんやね」 まだ陽は高い。 普通芸妓や舞妓が『出勤』するにはまだまだ早い時間だ。 「お座敷の予約だけで一杯やのに、パーティーまで入ってしもてん。評論家の山田センセの出版記念パーティやって。 …この調子やったら夜のお座敷かて、一箇所に20分いてられたらええ方とちゃうやろか?」 「すんまへん。うちが休んでるさかい…」 「何言うてんの。綾ちゃんは大事なときやんか。ゆっくり休んでええ子を産んでもらわんとな」 綾乃が手を伸ばし、干していた布団を引き寄せて自分の隣に据えると、竜千代は抱いた子をゆっくりとそこへおろす。 両手を軽く握って万歳のポーズで眠りに入っている赤ん坊は10ヶ月。 竜千代の一人娘で、やはり父親はここにはいない。 しかし、きちんと認知を受け、周囲も納得している。 「ほな、悪いけど由紀のこと頼むわ」 「任せといて。由紀ちゃんのおかげで、うちも母親修行が出来て助かってるし」 「綾ちゃんはええお母さんになれるで。なんせ、ここにええ見本がいるさかいな」 竜千代はそう言って婉然と微笑むと、慣れた足取りで裾をさばき、綾乃の部屋を後にした。 会話がなくなると部屋の中は、赤ん坊の小さな寝息と、ラジカセから流れてくる音だけになる。 モーツァルトが胎教にいいと言ったのは誰だったか。 けれど、綾乃にとってはこれがモーツァルトであろうがベートーヴェンであろうがあまり大差はない。 誰の作曲であろうが『この演奏』であることが大切なのだから。 テープは何度も繰り返し再生されているせいで、音にひずみが出始めている。 でも、『この演奏』が好きなのだ。 綾乃はもう一度目を閉じる。 身体を包むのは、ハープの音、フルートの音、そしてたくさんの楽器の音……そしてその向こうにいるはずの人…。 今こうしている時だけは、あなたは私と…そしてこの子のもの…。 「うわぁぁぁぁぁん」 突然赤ん坊が泣き出した。 「あらあら、由紀ちゃんはどうしたんかな〜」 綾乃は赤ん坊に添うようにゆっくりと横たわり、細い手でそっとその肩を軽くあやす。 やがてまた元通りの寝息を取り戻した赤ん坊に、綾乃は小さく声をかける。 「なぁ由紀ちゃん、もうすぐ弟か妹が生まれるんえ。 仲良うしてやってな…。 この子はなぁ、3人もお兄ちゃんがいてるのに、会うことも、『お兄ちゃん』て呼ぶこともできへんのや。 そやから由紀ちゃんがこの子のお姉ちゃんになってやってなぁ…」 寝入る赤ん坊を見つめていると、ふと室内が暗くなった。 窓の外を見ると、先ほどまで機嫌良く輝いていた太陽が、すっかり姿を消している。 (時雨れるんやろうか…) 綾乃がそう思ったとき、音もなく小さな雨が落ち始めた。 静かに、そっと…。 綾乃の運命を変えてしまった日も、こんな風に晴れた午後の、突然の時雨だった。 そう、ただひたすらに、愛する人についていこうとしていた、あの時…。 |
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『すまないが、君のことは調べさせてもらった』 『…はい』 『だが、良昭は何もかも捨てて、家を出る覚悟でいる』 『…え?』 『君を迎えにいくつもりのようだ』 『……』 『だが、こちらの事情は話したとおりだ。君たち祇園の舞妓は一流だ。こう言うときの身の処し方も心得てくれていると思っているが』 『…はい。十分に承知しております』 『すまないね…』 『いえ…。何も知らずに申し訳ないことをしたと思っています…』 『いや…謝るべきはこちらだ。君はまだ若い。やり直しもきくだろう。慰謝料の方はいくらでも気の済むようにさせてもらいたい』 それについて何と答えたのか、綾乃の記憶はない。 だが、『慰謝料』と言われた瞬間に、奈月綾乃という一人の女の『想い』をすべて否定されてしまったと感じた。 何もかもが幻しになって消えていく。 あの、皐月の風が薫る、出会いの時も、何もかもすべてが…。 ただ、何故か怒る気にはなれなかった。 何も知らなかった彼の素性。 これから世界へ出ていく指揮者であるということも、すでに妻子があるということも…。 何も知らされなかったし、知ろうともしなかった。 そして自分もまた、『舞妓』であることを言わなかった。 そこにいるのは、良昭と綾乃という、一組のごくありふれた幸せな恋人同士だったのだから。 『先生…、お気をつけてお帰り下さいませ…』 綾乃がそっと差し出した傘を、桐生泰三は丁寧に受け取った。 『また、来るよ』 この子が花街の子でさえなければ…。 綾乃の人柄に触れたとき、桐生泰三の頭を、ふとそんな思いもよぎったが、やっと1才になったばかりの幼子を抱え、しかも、なさぬ仲の子を2人も引き取った愛娘のことを思うと、その決断はどうしてもできなかった。 『先生…。うちは祇園の綾菊どす。お約束したことは、絶対に違えたりいたしません。ですから、もう…』 もう、来ないで下さいと、言いたかった言葉はどうしても綾乃の喉を通らなかった。 言葉の前に、涙が溢れそうだったから。 祇園の舞妓は、絶対に人前で泣いたりしないのだから…。 綾乃の代わりに泣いてくれた空は、直に晴れて、北の空に大きな虹を架けた。 |
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『モーツアルト作曲、フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299。 演奏、KBC放送交響楽団。 フルート独奏、アンドレア・ファドル。 ハープ独奏、シャロン・ギューム。 指揮は赤坂良昭でした。…次回放送予定の…』 アナウンサーがその人の名前を淀みなく告げると、綾乃はそっとスイッチを切った。 そして、そのまま目を閉じて雨をやり過ごす。 どれくらい経ったろうか、ふと頬に感触を覚えて、綾乃は目を開けた。 いつの間にか伝った一筋の涙。 それを、いつの間に起きたのか、由紀がジッと見つめていた。 「いややわぁ、由紀ちゃんにカッコ悪いとこ見られてしもたなぁ」 慌てて涙を拭うと、綾乃は窓の外に視線を転じる。 いつの間にか雨は去り、北の空には…。 「いやぁ…虹が架かってるわ…」 「あー」 「ほら、由紀ちゃん、綺麗やなぁ」 由紀はごろんと寝返りを打ち、腹這いになると窓の方へハイハイしていく。 綾乃はゆっくりとした動作でそれを追う。 そして、窓の桟にしがみついて立ち上がろうとする由紀を、後ろからそっと支える。 その時、綾乃の中で、小さな命が動いた。 そっと撫でるとまた静かになる。 「葵…早う出ておいで…。 お母さんと2人、どんなに泣いても、最後は空に大きな虹を掛けようなぁ…」 |