葵クンの憂鬱

〜楽園殿堂入り記念〜


前編



『1年D組 出席番号30 奈月葵  保護者名:赤坂良昭  面談日:2月25日』


 僕は412号室で、机の上にB5サイズの紙を置いて、こっそりため息をつく。

 そう、祐介、涼太、陽司にわからないように、こっそりと。

 幸い3人とも自分の用紙に記入することに専念しているようで、誰も僕のため息には気付かない…

「どうしたんだ? 葵」
「どっか具合でも悪いのか?」
「それにしても今のは悩ましいため息だったぞ」

 …はずだったんだけど…。




「あれ? 葵、真っ白じゃないか」

 隣から祐介が覗き込んだ僕の紙は、指摘のとおり、真っ白だ。

「え? 何悩んでんだよ、今さら」

 陽司が背後から覆い被さるように覗き込み、涼太がひょいっと紙を取り上げる。

「葵、先輩たちと同じところへ行くんじゃないのか?」

 悟たちと僕の関係を知っている数少ない人間の一人である涼太の言葉はもっともなんだけど。

 真っ白な紙には空欄が3つ。
 第1志望から第3志望までの記入欄だ。

 そう、これは『進路調査票』。

 僕たち1年生は、この学年末に初めてこれを出す。
 高校2年になると、学期末ごとに提出する事になるらしいんだ。
 2年生にはこの用紙は1週間先に配られていて、もう回収されている。

 見せてもらったんだけど、悟と昇と守は同じ大学。
 そう、香奈子先生が教授をしている私立の名門音大の名を書いていた。

 僕はもちろん、『当然だよね』って思ったんだけど、実は悟がすべてをはっきりと記入したのはこれが初めてらしいんだ。

 昇はもちろん最初から『ヴァイオリン科』で守は『チェロ科』。

 で、悟はというと、これまでは大学名だけ書いて提出していたんだそうだ。

 今回やっと書けるようになったと悟が言ったそれは、僕が去年の12月に聞いたとおり、『ピアノ科』だった。
 きっと『指揮科』にするかどうかで悩んでいたんだと思う。

『葵の伴奏がしたい』そういって、『ピアノ科』への進学を決めた悟。 

 そのことについて、僕は未だに素直に喜ぶことが出来ない。
 だって…。


「あれ? 祐介、お前、いつの間に志望校変えたんだ?」

 陽司の声に、僕の思考が中断される。

 へえ、祐介、志望校変えたんだ。知らなかった…って、元の志望校を知らないんだから何とも言えないけれど…。

「ふふっ、そう来るか、祐介」

 ちょっとからかうように涼太が言うと、祐介は拗ねたように口を尖らせた。

「悪かったな、わかりやすくて」
「でもさ、肝心の葵が白紙じゃなぁ」

 陽司も今度はからかうような口調になる。

 え? 僕?
 僕が何か関係あるんだろうか?

 そう思って祐介の調査票を覗き込んだ。

 そこには悟たちと同じ音大名に続けて『フルート科』と書かれてあった。
 そして、第2、第3志望は空欄のままで…。

「祐介も同じとこ行くんだ」

 僕は嬉しくなってそう言う。
 だって、僕も同じことを書こうとしているんだから。 

「いつの間に宗旨替えだ、祐介」

 けれど、涼太のからかう声は止まらない。

「確かお前って、中3の時には『音大行くのかよ』って聞かれたら、冷た〜い目をして『行かないよ、そんなとこ』って言ってたよな」

「そうそう、生徒会長の第1志望は東大だって、もっぱらの評判だったもんな」

 ふ〜ん、東大か〜。
 そう言えばさやかさんって東大だもんな。祐介の成績だったら当然か…。 

「その『そんなとこ』に行く気になったのはどういうわけだ? え? 祐介」

 陽司はほとんど笑い声だ。

「悪かったな」

 プイッとそっぽを向いた祐介の顔がちょっと赤い。
 照れてるんだ、祐介。ふふっ、可愛いや。

「そう言うお前はどこだよっ」

 祐介は反撃…とばかりに陽司の紙を取り上げる。
 僕の目にチラッと見えたそれは…。

「あれぇ? 陽司も真っ白だ」

 僕の声に涼太が「え?」っとばかりに目を見開く。

「なんだ、お前まだ聞き出せてないのか」

「…知りたきゃ自分で考えろって…。『俺よりいい成績とってれば、俺が何処へ行こうと問題ないだろ』なんて言ってさ…」

 ぐすん…と鼻を鳴らす泣き真似までして、陽司はふか〜いため息をつく。 

「相変わらず、振り回されてるんだ」

 祐介が茶化しても、陽司はそんなに堪えてないようだ。
 だって、ニヤッと笑って「そんなとこも好きだし」なんて、いけしゃあしゃあと言うくらいだから。

 陽司の想い人は一つ先輩。

 もちろん陽司は大学も追いかけていくつもりでいるようなんだけど、その森澤先輩もなかなか意地っ張りで、素直に進学希望先を明かさないらしい。

 でも陽司はめげてない。だって…。

「いいんだ。最悪、『2−B 森澤東吾と同じ大学』って書いて出してやるんだ」

 なーんて言うんだもんね。

「それをみたときの光安先生の反応が見物だな」

 祐介が余裕を取り戻してクスクス笑う。

「先生なら森澤先輩の進学希望先を教えてくれそうだよ」

 僕がそう言うと、陽司もニッと笑って頷いた。

「だろ? 先生ってそういうところ、話せる人だしな」 

「えー! そんなこと許されるかよ! 守秘義務ってもんがあるだろうが、教師には」

 涼太は先生に手厳しい。

 僕はその理由を去年の夏に知り、祐介と陽司はついこの間に知ったところなんだけど。

 ともかくそう言う涼太の進路調査はと言うと…。

「あ、やっぱり書いたか」
「どれどれ」

 陽司が言うと、祐介が覗き込む。 

 涼太も特に隠そうとしないそこには、国立と有名私学の医学部が書いてあった。
 涼太が医学部を目指しているのは何となくわかっていた。

 こちらも理由は多分…想い人。

 1年下の秋園くんが心臓に疾患を抱えていることが、涼太を動かしていて…。

 でも、大丈夫なんだろうか?
 涼太のお母さんは、今でも涼太が音大へ行くものと思ってるんじゃないかな。

 見上げた僕の顔はきっと心配そうな表情だったんだろう。
 涼太はニコッと笑うと僕の頭をくしゃっと撫でた。

「大丈夫だよ、葵。こんな時のために担任がいるんだろ?」

 なるほどね。
 涼太が4年間、ナイショのままバスケ部にいられたのも光安先生の応援があってこそだったし、きっと先生は今度もうまくやってくれるんだろう。

「そうだね、きっと大丈夫だね」

 そう言うと、涼太は嬉しそうに笑い、また祐介に向き直る。

「俺のことより、祐介は大丈夫なのか? お前んとこ、姉さんも東大だろ。親父さん、何にも言わないか? いきなり音大なんて言いだしてさ」 

 あ、そういうえばそうだ。
 いくらお父さんも管弦楽部の出身で、音楽が好きと言っても、それとこれとでは話が違うだろう。

 なにしろこれは『一生』に関わる問題なんだから。

 けれど祐介はなんでもないと言う風に肩を竦めた。

「親父のヤツ、狂喜してる」
「え? そうなんだ」

 びっくり。涼太も陽司も目を丸くする。

「うち、もともと『音大へは行きたくないのか』ってうるさかったんだ」

 そうか、そういえば、去年の夏の短期留学もお父さんのお膳立てだったっけ。

「だから、面談日には母さんじゃなくて、親父が来る。多分、スキップでもしながら来るんじゃないか?」

 スキップ!
 僕は祐介のお父さんのお茶目な姿を思い浮かべて吹き出した。

 涼太と陽司も、思いっきり笑ってるんだけど、ふと祐介が真顔に戻り、笑いを止めた。

「陽司、お前のとこは大丈夫なのか? 進路をはっきり書かないままでさぁ。面談の時に怒られないか? お父さんとお母さんのどっちが来るか知らないけど」

 うん、そう思う。
 先生はともかく、ご両親はびっくりするだろうな『先輩とおなじところ』なんて書いてたら。

「大丈夫。うちは親父に来てくれるように頼んだから。お袋は早く決めろってうるさいんだけど、親父は焦るな、一生のことだから2年生の1年をかけてゆっくり決めろって言ってくれたしな。それに、先輩のことはうちの両親も気に入ってるから」

 え? なにそれ。まさか…。

「おいっ、お前、まさか…」

 僕と同じ疑問を、声に出して涼太が詰め寄ると、陽司はブンブンと首を振った。

「まさか。何にも言ってないって。ただ、冬休みの帰省の時に、強引に連れて帰ったんだ。その時に、うちの両親が先輩のこと気に入っちゃってさ。だって、先輩ってば、俺以外の人間の前ではめちゃめちゃ素直で可愛いし…」

 その時のことを思いだしたのか、陽司がプウッとふくれる。

 でも、思いっきり幸せそうなんだけど、陽司。

「で、涼太のところはお袋さんが来るんだよな」

 照れくさくなったのか、陽司がいきなり話を涼太に振った。

「あ? うん。うち、親父はまったく放任だし。お袋は息子の顔より『可愛い弟』の顔を見る方が楽しみらしいし…」

 か、可愛い弟…。それって…。
 思わず、かっこいい先生とのギャップを思い浮かべて笑ってしまう僕。

 祐介も陽司も『見てはいけないものを見てしまった』ような顔をしてる。
 
 ま、いずれにしても面談日にはそれぞれお母さんやお父さんが来るってことだ。

 みんな、うちが遠いから、学校まで来るのも結構大変だろうな。 

 こう言うとき、寮生って困るんだよね。

 ここでまた僕は深くため息をついた。

「葵?」

 祐介が僕の顔を覗き込む。

「そういえば、葵って誰が面談に…」

 陽司が疑問を口にすると、涼太がハッとしたように声をあげた。

「まさか…あの…」

 そう、そのまさかなんだ…。

 僕の面談に、赤坂先生が来るっていうんだ…。

 僕が神妙に頷くと、3人ともあからさまにびっくりした。

 1学期末も2学期末も『3者懇談』はあった。
 でも、その時はちょうど栗山先生が聖陵に来てる時だったんで、ちょうど都合がよかったんだ。当時は保護者欄も『栗山重紀』だったしね。

 けれどその栗山先生は、今では遠いウィーンの空の下。
 駆けつけるにはあまりに遠い…と思ったんだけど、なんと赤坂先生は…。

「まさか、ドイツから来るって…?」
「そう、そのまさか」

 僕は一応進路も決まってるし、それに関して不安な点も特にない。
 だから、無理に来てもらわなくてもいいんだけど…。

 それは光安先生からも言ってもらったんだ。
 赤坂先生は春から活動拠点を日本に移すって言ってるから、その時でもいいし、指定日は一応出席番号順に入れただけだから気にしてもらわなくてもいいって。

 それに香奈子先生からも言ってもらったんだ。
 香奈子先生が悟たちの面談に来るときに、僕のも一緒に…って。

 でも、赤坂先生は「行く、絶対行く」って聞かないんだ。

「はぁぁ、どうしよう…」 

 赤坂先生が来ることはイヤじゃない。
 イヤじゃないどころか、ホントのところ、嬉しいんだ、僕は。

 それどころじゃないくらい忙しい人が…3年先のスケジュールまで埋まっている人が…僕のためにわざわざ飛んできてくれる…。

 母さんが生きていたら、きっと『よかったなぁ、葵』って言ってくれたんだと思う。

 でも…。

「葵、結局ホントのこと知ってるのは俺たちと隆也くらいのもんなんだろ?」

 陽司がじっと僕の目を見て聞いてくる。

「うん、そう…」

 僕が答えると、今度は涼太が聞いてきた。

「やっぱりこのまま卒業まで誰にも言わないのか?」
「うん、そのつもり」

「葵…」

 この中でただ一人、悟と僕の『本当の仲』を知っている祐介が心配そうな声をかけてきた。

 そう、涼太と陽司は知らないんだ。僕と悟が『兄弟以上』の仲であることなんて…。

 知っているのはそれこそ祐介と隆也くらいで…。

「僕、これ以上目立つのやなんだ」



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陽司と森澤くんの恋物語は「私立聖陵学院・テニス部!」でどうぞvv