とある音楽教諭の、尋常でない午後


前編




 学校生活の一日が終わろうとしている。

 いや、正確には部活動が終わるまで…いや、全校生徒の9割が寮生というこの学校では、完全就寝時間をもって漸く「一日の終わり」というのが本当のところなのだろうが…。


 6時限の授業が終了し、冬の午後の緩い日差しが滑り込む1−DのHRでは、終礼が行われている。

 担任である光安直人は生徒会からの伝達事項を黒板に書き込むクラス委員長・中沢涼太の背中をぼんやりと見つめていた。 

 自分が仕組んだこととはいえ、それこそ『おむつ』を替えたことまである甥っ子と同じ教室にいるというのは、さすがになんだか息苦しかったのだが、1年近くも経つとそれにも慣れた。

 もっともこんな事を言おうものなら、涼太の方が激怒するだろう。
 何しろあちらは『巻き込まれただけ』なのだから。



 黒板の方から目を転じ、教室内を見渡せば、半数近くの生徒たちが、眠そうな顔をしている。

 そんな中、窓際の一番後ろの席で、完璧に机に突っ伏して寝ているのが早坂陽司。 

 確か、中学卒業時の成績は30番あたりだったはずだが、高校へ入ってからグッと伸びた。
 これも、期せずして現れた『412号室効果』といったところか。


 反対に、廊下側の中程の席では浅井祐介が黒板をじっと見つめている。

 この1年で劇的に変わったこの生徒は、喜怒哀楽もはっきりし、信じられないほど表情も豊かになったのだが、相変わらずこういう場面での真面目さは健在のようだ。

 本来ならば彼がクラス委員長になるのがもっとも妥当な線だったのだが、本人が部活に専念したいと申し出たために、副委員長候補だった甥っ子が繰り上がる形になった。

 部活の顧問としては頼もしい申し出ではあったのだが、それに関して甥っ子は『直人も祐介もずるい』…と、結構根に持っていたようだが。



 そして、教室のど真ん中で必死に睡魔と戦っているのが、学年一の秀才、奈月葵だ。

 尋常でない生い立ちを背負ったこの子を友人の手から預かったときには、正直言って気負いもあった。 が、すべてが解決した今、共に過ごせる残り2年間の成長が楽しみで仕方がない。

 見ると頭が微妙に揺れている。

 甥っ子によると、毎晩、完全就寝時間にはすでに爆睡しているということだが、なぜか眠くてたまらないといった顔をしている。

 そんな葵がふと机の中を探る仕草を見せた。
 取り出したのは1本の鉛筆。

 それで何をするのかと思えば…。

 葵はそれを机に逆さ立て、自分の額を当てて『つっかえ棒』にしたのだ。
 それで、ある程度顔をあげたまま寝てしまおうと言う魂胆らしい。

 なんだか、考えることがあいつらしいな…と思って見ていると、今度は消しゴムを取り出し、鉛筆の上にあてがった。

 どうやらこのクッション素材で『単位面積あたりの圧力』を減らし、額に当たる部分の痛みを軽減しようという腹づもりのようだ。
 しかも、消しゴムの厚みの分だけ高さが増えて、具合がいいらしい。

 額を乗せた途端に、葵は目を閉じた。

 ――目を突いたりしたらどうするつもりだ…。

 直人は、そんな葵の様子をじっと見ていた隣の席の生徒に目配せをする。 

『危ないから起こしてやれ…』と。

 すると、その目配せを敏感に受け止めたのか、彼は真剣に頷くと、おもむろに葵の鉛筆に手を伸ばし……。

 あろう事か、引き抜いた。


『ゴンッ』

「って〜!」

 その音と声で、教室中が何事かと注目する。

「も〜、何するんだよ〜」

 額をさすりながら小さな声で抗議する葵に、『ごめん』と、これまた小さな声で謝罪が入る。
 どうやら、やった本人も、結果は考えていなかったようだ。

 あたりで起こり始める笑い声。

 それを『静かに』と、たった一声で制し、直人は甥っ子に先を促す。


 そしてまた訪れる、静けさと眠気…。

 涼太のよく通る声だけが響く教室で、今度は直人まで眠くなってくる。

 だが、こちらはれっきとした睡眠不足。

 学年末を控え、ただでさえ多忙な通常の予定の他に、連日、父兄との個別懇談をこなしているのだ。資料の整理だけでもかなりの時間を食う。

 そう、まだ1年とはいえ高校の担任はやはり大変だ。

 直人は今まで中学の担任しかもったことがない。
 反対に教科担当は、高校の方が多い。

 これには『管弦楽部』が大きく関わっている。

 高校の授業では、ほとんどが専門教育に費やされているのだ。
 それはもちろん、音楽大学への進学を念頭に置いてのこと。
 そして毎年、高校3年生の音大への進路指導はすべて直人の肩にかかってくる。

 だから直人は、高校受験がなく進路指導という物が存在しない中学の担任しか持ってこなかったのだ。

 だが今年は『奈月的事情』で高校1年を持った。だから今までやったことのない『一般大学への進路指導を含んだ3者懇談』に連日くたくたなのだ。

 幸い今年の音大受験はほぼ終了していて、高校3年の進路は、海外の音楽院へ留学する2人を除いてすべて確定している。

 それだけが救いなのだが…。

「先生、終わりました」 

 いつの間にか意識が飛んでいたらしい。

 甥っ子の固い声で現実に戻された直人は、内心慌てて…しかし外見はさりげなく平静を繕う。
 そして、明日の懇談予定に変更がないことを告げると、短い言葉で終礼を締めくくって教室をあとにした。





 
「ふぅ…」

 音楽ホールへの道すがら、らしくもなくため息が出てしまう。

 なんのことはない、緊張しているのだ。
 だが、何の緊張なのか、直人本人にもいまいち掴めない。

 今日の部活は『オーケストラ・クリニック』。
 世界的指揮者の赤坂良昭が、直々に指導してくれるという願ってもないチャンスなのだ。

 しかし、それで自分が緊張するのはお門違いだ。
 緊張すべきは演奏する生徒たちであって自分ではない。

 まして相手は巨匠とはいえ見ず知らずの他人ではない。
 中学の頃から世話になってきたピアニスト、桐生香奈子の元伴侶ということもあり、面識だけならかなり昔からある。

 しかも、葵の一件に端を発したいろいろで、この半年は幾度も会い、何時間も話を交わしてきた。
 つい先月、期せずして京都で会ったときなどは、完全にプライベートな時間を過ごし、その『人となり』もかなり把握できている。

 だから、緊張する事などない、はずなのに…。



 ホールへ入ると、ロビーに悟がいた。

「全員集合完了しています。まもなくチューニングの予定ですが」
「ん、わかった。…赤坂先生は?」
「2階席の奥に潜んでいます」

 潜んでいる…という言い方はあんまりだな…と苦笑が漏れる。

 なんのことはない、巨匠は人目に付かないところで、チューニングを待っているのだ。

 一流の指揮者は、チューニングだけでそのオケのクセまでも掴んでしまうから。

 だがきっと、自分が前に立つだけで生徒たちは緊張する。
 それをわかっているからこそ、巨匠はみえないところで、『ありのままのチューニング』を聞こうと待機しているのだろう。


「じゃあ、チューニングがすんだら先生を案内してきてくれ」
「はい」

 悟は踵を返して2階席へ向かった。

 直人はそれを見送ると、ゆっくりとホールへ入っていった。

 ちょうど昇が立ち上がって、オーボエからAを拾っているところだ。

 昇のことだから、きっと父親がどこかで聞いているであろう事ぐらい、重々承知だろう。
 だが、そんなことでひるむ『タマ』ではない。
 堂々と背筋を伸ばしたままチューニングを終えると、こちらを見てニコッと笑った。

 いつも見慣れている笑顔なのに、何故か心臓が鳴った。

 その瞬間…。

「光安先生」

 ポンッと肩を叩かれ、振り返るとそこには巨匠と悟の姿。

「あ…」
「よろしくお願いします」

 らしくもなく絶句してしまった隙に、あろうことか、巨匠から先に挨拶をされてしまう。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 その言葉に、巨匠は優しく微笑みを返すと、悠然とした歩みで舞台へ向かっていく。

 そして、軽く、慣れた仕草で舞台へ飛び上がる。

「まずは君たちの演奏を聴かせてもらえるかな」 

 声楽家といっても通りそうなほど、豊かで包み込むような響きのバリトンが、その暖かさで生徒たちの緊張を解くのが伝わってくる。

 全員が楽器を構えたのを確認してからおろされたタクトに導き出されるのは、今まで直人が創ってきた『聖陵の音楽』そのもの。

 巨匠は、ただ、それに合わせて振っているだけなのだ。
 一度目は…。


 二度目から、ペースは完全に巨匠のものになった。

 元の音楽を崩すことなく、さらに高みへ引き上げる。
 その様子を目の当たりにして、直人は高揚する心を抑えられなかった。

 なんて、すごい…。

 陳腐な言葉だが、それしか出てこない。

 きっとこの時間は、ここにいるものすべてにとって、宝物になるだろう。
 そう確信して、直人はまた、この素晴らしい一時に身を委ねた。






「ありがとうございました。本当に、なんとお礼を申し上げてよいか…」
「いえ、こちらこそ…。最前線にばかりいて、教育現場からは長く遠ざかっていましたので、いい勉強になりました」

 押しも押されもしない第1級の音楽家の言葉とは思えない。しかし、概して超一流と呼ばれる者たちは謙虚なのだ。
 かえって二流三流の奴らがふんぞり返る。

 そして、その言葉が嘘でないことは、タオルで汗を拭う姿に現れている。全身に『充実』を漲らせているのだから。

「光安先生」
「はい」
「素晴らしいご指導をなさってらっしゃいますね」
「は…?」

 正面から誉められて面食らった。 

「技術的な面は言うまでもありませんが、精神的にここまでまとめ上げられるというのはなかなか出来るものではありません。私の後輩たちは幸せものですよ」

 微笑まれて返す言葉がない。

 もちろん、今まで自身の信念に基づいて、最高の努力は払ってきた。が、こんな風に言われると、何故か酷く気恥ずかしい。
 まるで自分が子供にでもなってしまったような気分だ。

「セ・ン・セ」

 そしてそんな直人に、茶化すように声をかけてきたのは、昇だ。

「昇…」

 いたずらっ子の瞳で見上げてきた昇に、また一つ、心臓が大きな音を立て、自覚のない緊張が蘇る。

「昇、随分腕を上げたな」
「そりゃ、毎日がんばってるもん」

 若い父親は、息子の成長に目を細める。

 そんなやりとりを見て、直人はふと思った。
 …もしかして、この緊張感は…。

「これから葵の懇談だろ?」

 しかし、一瞬よぎった考えは、昇が父親にかけた言葉で霧散した。

「あ、ああ、そうなんだ。 光安先生、お疲れのところを申し訳ありませんがよろしくお願いいたします」

 頭を下げる巨匠に、直人は慌てる。

「とんでもありません。赤坂先生こそ、お疲れのところを…」
「いえ、我が子の事ですから」

 上げた顔は真剣そのもので…。



後編へ続く