Op.1
第1幕「春の祭典」

【1】





 4月、いい天気。

 僕は、僕の部屋の窓辺で大きく伸びをする。

 窓の下に広がるのは、もう、見慣れた風景――香奈子先生の薔薇園。

 先生の薔薇園は、ほとんどが5〜6月咲きの品種だから、今は花はない。

 でも、その代わりにまわりの花壇には春の花が咲きそろっている。

 暑くもなく寒くもない。

 ここは閑静な住宅街とはいえ、都会の中。

 なのに、身体の一番底から深呼吸したくなるほど、空気は美味しくて。



 楽しかった春休みも昨日で終わり、今日午後には入寮して、明日から僕は高校2年生になる。

 初めて向かう東京への新幹線の中で、今や僕にとって最も大切な親友となった祐介のお姉さん――さやかさんに出会ってからちょうど1年。

 激動の…といって差し支えの無かった1年が過ぎ、僕はここにいる。



 そうそう、3日前に赤坂先生が帰ってきた。

 もちろん、あちらでのスケジュールはまだ3年先まで残っているから、本格的に引き上げるというわけにはいかなくて、当面はドイツと日本の二重生活…ってことになるらしい。

 そして、当然こちらの楽壇も、帰ってきた人気指揮者を放っておくはずがなく、早くもあちらこちらからお声がかかって、スケジュール調整が難航しているらしい…って、これは事務所の人からの情報。

 そんな中、赤坂先生がこちらでの仕事として最初に決めたのは、香奈子先生との共演。ピアノ協奏曲の録音なんだ。

 アルバムの発売時期はまだ未定なんだけど、情報はすでに『業界』に流れていて、『いわく付きの元夫婦』の共演ってことで、早くも話題になってるってきいた。これも、もちろん事務所の人がこっそり教えてくれたこと。

 レコーディングされる曲は香奈子先生の十八番。
 モーツァルトの『ピアノ協奏曲第23番』
 あまりにも有名なこの曲は、もちろん僕としてもいつかはやってみたい曲。
 あ、当然『ピアニスト』としてじゃなくて、『オケの一員』として…だけど。
 って、当たり前か。


 反対に赤坂先生は、今まであまりモーツァルトの録音には積極的でなくて、どうも本当は違う曲の方が良かったようなんだけど、結局『香奈子の胸を借りるつもりでやるよ』なんて言ってたっけ。

 香奈子先生には『良昭も随分素直になったものね』って茶化され、守には『完全に尻に敷かれるタイプだな』なんて言われて、悟は『でも、あの二人が音楽的な見地でぶつかったら大変なことになりそうだな』って心配して、昇は『ソリストと指揮者がぶつかっちゃったら、オケがメーワクするんだよね〜』なんて笑ってたな。
 
 


 栗山先生は、お正月を僕と京都で過ごしたあと、1月の終わりにウィーンへ引っ越した。

 音楽院の新学年は秋からだけど、今から演奏活動の基盤をヨーロッパに移しておいた方がいいから…って言うことらしい。

 夏には遊びにおいでって言われてるから、今から夏休みが楽しみなんだ。

 それに、今年、うちの管弦楽部は海外公演もあるらしいから、忙しくなりそうだな…って、かなりワクワクしてる。

 ベランダの手すりにもたれてそんなことをいろいろと考えていたら、ノックの音がして、声がかかった。


『葵…』 

 香奈子先生だ。

 僕はドアへ走る。不要に広いんだ、僕がもらったこの部屋って。

 京都の僕の部屋の軽く5倍はあって、もともと客間だったから、最初は家具っていうとベッドとソファーセットだけで、収納は全部壁に収まってるから妙にすっきり。

 もっともこの春休みの始めに、僕の勉強机と本棚、譜面台やピアノまで運び込まれたから、それなりに生活空間っぽくはなった。

 でも、慣れていない部屋の、慣れ親しんだ純日本家屋と決定的に違う天井の高さは、僕に、久しぶりに「夜が怖い」とか「一人が怖い」って感情を起こさせたりしたんだ。

 でも、ま、それも悟たちが修学旅行に行ってる間だけで……。
 あとは一人で寝る事なんてなかったし……。うう。




「はい」

 鍵なんてもちろん掛けてないんだけど、香奈子先生はいつもこうやって僕が開けるのを待っててくれる。

「あのね、洋なしのタルトを焼いたから、食べて行きなさい」

 そう言って、僕の手を引く。

 先生は、春休みにまったく演奏会を入れなかった。
 大学は休みだから、当然、『完全オフ』。
 やるべき事は、録音に向けての練習だけ。

 ということで、春休みに帰省してきた僕たち…ううん、正確には『僕』にべったりだったんだ。

 おかげで悟のご機嫌が悪かったこと…。



 手を繋いだままリビングへ行くと、ベテラン家政婦の佳代子さんが、僕の大好きな、いい香りのする紅茶を淹れて待っていてくれた。

「よ、お先に」
「早く来ないとなくなるよ〜」

 守と昇はすでに、タルトに手を着けていた。

 こう見えても守は大の甘党。僕と同じで、生クリーム系からチョコ、飴、和菓子に至るまで、甘いものなら何でも来い!なんだ。

「おいしそうだね」
「めっちゃ、美味い」

 それはもう、幸せそうな顔でパクついてる。

 寮へ戻ると、なかなかケーキ類って食べられないからね。特にこんな『手作り』は。

 あ、そうでもないか。食堂のおばちゃんたち、プリンなんか作って守に貢いでたっけ。僕も人のことは言えなくて、しょっちゅういい思いさせてもらってるけど。

 昇は甘辛両党。甘いものも何でもOK、しかもアルコールもかなりの底なしときてる。
 アルコールの方は、校内では自粛してるって言ってるけどね…って当たり前か。

 悟や守によると、昇は先生ときちんと『そういう仲』になってからは『やんちゃ』をしなくなったんだそうだ。

 先生を困らせる必要がなくなったからじゃないか…って言うのは守の見解。


 僕がソファーに腰を下ろすと、香奈子先生が盛大にため息をついた。

「もう行っちゃうのね〜。寂しくなるわ…」
「なんだったら、葵だけ置いていこうか」

 はぁぁ? 

 昇の冗談に、先生は本気で頷く。

「そうね、葵だけ家から通えるところに転校させちゃおうかしら」

 うー。

「…母さん…冗談言わないで」

 120%不機嫌モードで入ってきたのは……悟だ。

「葵を転校させたりしたら、管弦楽部員が黙ってないよ」

 ムスッとしながら僕の隣に腰を下ろす。

「管弦楽部員ももちろんだけど、管弦楽部長さんが特に…だろ?」

 守が嬉しそうに茶化す。

 そんな守に、悟はチラッと視線を投げて小さく『ふん』…なんて言う。

 ま、冗談はさておき、僕は『特待生』ではなくなったものの、『音楽推薦入学』であることには変わりはない。

 部活を卒業まで全うするのは義務。もちろん、義務でなくても僕はこんなに楽しいこと、絶対やめないけどね。


「とにかく母さん、あんまり冗談キツイと、葵を夏休みまで一回も帰さないからね」

「ええーっ、そんなのないわよ。第一、あなたたち学校ではデートもままならないんじゃないの? 帰って来なきゃ、いちゃいちゃ出来ないわよ」

 …母は強い…。 

「今年も同室は浅井くんだしねー」

 ただでさえ答えに詰まっている悟に、香奈子先生はとんでもない追い打ちをかける。

「や、それはまだ、今日行ってからでないと…」

 そうなんだ、一応寮の『同室希望』は、僕は祐介、祐介は僕…で提出したんだけど。

 ただ、話を聞いてみると、隆也を始め、管弦楽部員やクラスメイトのうち少なくとも30人くらいが、第1希望に僕の名前を書いたとかで、祐介の怒りを買っていたっけ…。  

 悟たち新3年生の部屋割はすでに決まっていて(基本的には2年のまま)、部屋の引っ越しもすんでいるから、今日の入寮もそう急ぐことはない。

 けれど僕たち新2年生以下の学年は、登校して初めて部屋割がわかるんだ。

 だから、入寮後は引っ越しで大忙しってわけだ。

 僕は去年、すっかり準備が整ったところへ入寮したものだから、そのあたりの騒ぎはちっともわかっていなくて…。


「葵、食べたらすぐに行くよ」
「いやん、悟のケチ。もう少し葵といさせてよ」
「母さんっ」

 この2人、何とかして…。

「葵は入寮してから部屋の引っ越しがあるから、のんびりはしてられないんだって」

 悟…。とってつけたように聞こえるけど。

「ま、いずれにしても、僕たちだって管弦楽部絡みで用事は色々ありそうだしね」

 そう言う昇の横で、守が2つ目のタルトの最後の一口を頬張ってる。

「そうだな。とりあえず、食ったらそろそろ出た方がいいってのは、ホントのことだな」

 …って、守。3つ目に手を伸ばしながら言っても説得力ないよ…。

「あ、美味しい〜!」

 僕は漸くタルトを口にすることができて…。

「幸せ〜」

 手作りタルトのあまりの美味しさに、僕がふにゃんととろけると、香奈子先生は僕をギュッと抱きしめた。

 わわっ、タルトが落ちる〜。

「や〜ん、やっぱり葵は手放せないわ〜」
「母さんっ」

 悟〜、食べないんだったら僕、悟の分ももらっちゃうよ。
 悟はあんまり甘いもの食べないもんね。



 こんな感じで、僕の春休みは賑やかに過ぎた。

 特に、今回は昇があんまり家にいなくて――光安先生と旅行に行っちゃったりしてたから――香奈子先生もちょっと寂しかった分の思いを僕に向けちゃったんじゃないかな……なんて僕なりに分析してみたりして。



 いろいろ騒いだ挙げ句、漸く桐生家を出発した僕たちの足は、香奈子先生の運転する車だ。

 これはいつものことだそうで、もちろん今回もそういうことなんだけど、僕だけはそうはいかない。

 休み中、僕が桐生家にいるって事は、祐介と陽司と涼太、そして隆也しかしらない。

 だから当然、一緒に登校するわけには行かなくて、僕は一つ手前の駅で降ろしてもらい、そこから学校へ向かうことにした。

 悟はやっぱり不服そうにしていて、珍しく守も『こんな気遣いしなきゃなんないんだったら、兄弟だってカミングアウトしちゃおうぜ』…な〜んて言ってたけど。

 でも、これって『カミングアウト』とは言わないよね。

 反対に、昇はちょっと切なそうな顔をしただけで、特に何にも言わなかった。

 昇も、本当は先生と一緒に登校したいんだよね。 でも、できない。

 だからきっと、僕にも何にも言わなかったんだと思うんだ。

 僕も昇も、『時が来るまで誰にも言わない』って決めてるから。

 香奈子先生もちょっと心配そうだったけど、僕は笑顔で車を降りた。

「葵、気を付けていくのよ」
「はい、ありがとうございました」



 そう。何も『隠したい』って一心ばかりじゃなく、僕はなんとなく、歩きたい気分でもあったんだ。


 一年前、たった一人でここへやって来たあの日のことを、何となく懐かしく思い出すために。



【2】へ続く

君の愛を奏でて2〜Op.1、スタートしましたv(*^_^*)
読んで下さってありがとうございますv

ここで『Op.』の説明を簡単にさせていただきますv

「君愛2本編」は3部作になりますですので、それぞれに、Op.1、Op.2、Op.3とつけました。

『Op.』とは『Opus』の略で『オーパス』と読みます。
日本語では『作品』と訳されています。

例えば『ピアノソナタ ヘ長調 Op.35』と表記されていましたら、
『ピアノソナタ ヘ長調 オーパス35』と読んでも、
『ピアノソナタ ヘ長調 作品35』と読んでも、どちらでもいいわけです。

『君の愛を奏でて2〜Op.1』も、みなさまのお好みで呼んでやって下さいませv

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