幕間「管弦楽部長の個人的感傷」

【2】





「あちらではマエストロ・アカサカに、いろいろなことをおしえていただきました」

 おかわりを入れてもらった珈琲カップを丁寧な仕草でソーサーに返し、アーネストが言う。

「ええ、父からもあなたのことは聞いていました」

 丁寧な口調で悟が返すと、アーネストはまた、ニコッと笑って見せる。

「ええと、さとるせんぱい」
「…はぁっ?」

 それは紛れもなく、聖陵の生徒がみな口にする、自分への呼びかけだが、この壮絶な違和感はどうだ。


「ぼくは いちねんせいで、せんぱいは じょうきゅうせいですから、きをつかわないで、ください」

 唐突にそんなことを言われても、相手は、自分と変わらない年齢のはずだというのに、すでにヨーロッパ音楽界の第1線で活動している『プロ』だ。

「しかし、Mr.ハース…」

 悟がそう言うと、アーネストは悪戯っぽく瞳を細め、チッチッチと人差し指を振ってみせる。

「Annie……とよんでください。さとるせんぱい」

 目を見開く悟の前で、光安が肩を震わせて耐えている。

「せ、先生っ、笑ってないで何とかいって下さいっ」

「あっはっは。いいじゃないか、悟。ここは日本。聖陵学院という学校の中だ。アーネストもそれを承知で入学してきたんだから。な、アニー」

「はい。そーなのです」
「そんな無茶な…」 

 アーネストの正体を知っている悟は、とてもではないがそんな気にはなれない。  

 それに…。

「そうだ。Mr.ハ…」
「Annie」

 ニコッと言い切られて、悟は渋々呼び方を変える。

「……アニー」
「はい、なんでしょう」

 こっそりため息をついて、悟は仕方なく、気持ちを切り替えた。

「では、アニー。聞きたい事があるんだけれど、かまわない?」
「なんでも、どーぞ」

 ニコニコ顔は変わらない。

「君…確か音楽院の最上級生じゃなかったっけ?」
「そうです……じゃなくて……そうでした」

 言い直してから、アーネストは光安を見る。

「ね、せんせ。ここは、“かこけい”をつかうのが、ただしいんですよね」
「そうだな、過去形だな」

 文法の話じゃないって…と内心突っ込みながらも、悟は呆れ顔を隠せない。

「まさか、卒業を目前にして……?」
「やめてきました。せいりょうに、はいりたかったから」

 なんて事だ…と悟は天を仰ぐ。

 アーネストが在籍していた音楽院は、欧州でも有数の名門で、並みの才能で門をくぐれるところではない。

 その門を幼くしてくぐり、スキップを重ねて通常より随分早く卒業しようという矢先に、アーネストはいとも簡単に『やめてきた』…というのだ。

「ぼく、どうしてもせいりょうにはいりたくて、マエストロ・アカサカにそうだんしよう、と、おもったんですけど、ちょうどそのとき、マエストロはニッポンにツアーにいかれてしまって……」


 アーネストがそこまで言葉を継いだとき、いきなりドアが大きく開いた。


「光安せんせっ! お、遅くなってごめんなさいっ」

 いきなり現れたのは、これもまた真新しい制服に身を包んだ――『正真正銘』。

 3年間の成長を見越して大きめに作ったのか、肩も袖もあまりあるブレザーの中で小さな身体が泳いでいる。

 悟はてっきり中学生だと思ったのだが、よく見るとブレザーの色が高等部のものだ。

「こらっ、珠生っ! ノックもせずにいきなりドアを開けるとは何事だっ」

 飛び込んできて肩で息をする少年の背後からいきなり大きな声がかかる。

「ひゃっ。パパっ、ごめんなさ〜い」

 その少年のブレザーの首を、まるで猫でもぶら下げるかのように引っかけて、恰幅の言い男性が入ってきた。

 年の頃は、悟の父よりいくつか上だろうか。

「お騒がせして申し訳ありません」
「お待ちしていました」

 光安が立ち上がり、右手を差し出すと、男性もまた、その手をしっかりと握り返す。

「光安先生、このたびはお世話になります。なにぶん甘やかして育ててしまい、躾けも行き届いていません。どうか厳しくご指導下さい」 
 
「いえ、珠生くんは礼儀正しい優しいお子さんですよ」

 そう言って光安は柔らかい眼差しで『珠生』と呼ばれた少年を見る。

 少年もまたぽわっと頬を染めて光安を見返し……。

 そんな光景を悟はじっと見つめていた。


 一目でわかった。目の前の男性は、父の同業者だ。

 やはり国内外で活躍中の指揮者、宮階幸夫(みやがい・ゆきお)。

 そんな悟の視線に気付いたか、宮階はふと顔を悟に向けた。そして大きく目を見開く。 

「き、君は…」

 掴んでいた息子の襟首を離し、悟に向き直る。

「もしかしたら、香奈子さん…桐生香奈子さんの…」

 いきなり母の名が出て、正直悟は面食らう。
 普通なら、同業者である父親の名が先に出ると思ったのだ。

 桐生香奈子の息子ならみな、赤坂良昭の息子であるはずなのだから。

 悟が面食らったのに気付いたか、光安が横から紹介を挟む。

「ええ、桐生香奈子先生の長男、悟くんです」

「初めまして、桐生悟です。両親がいつもお世話になりましてありがとうございます」

 光安の機転に助けてもらい、悟はいつもの冷静さで対応する。

 しかし、宮階はますますヒートアップした模様だ。

「…そうかっ、君が悟くん…。香奈子さんの子かぁ……。いやあ、ほんとに立派だ。さすが香奈子さんの自慢の息子さんだけのことはあるよ…」

 何故かべたべたと触りまくる。

 だが、その手をキュッと引っ張ったものがあった。

「……パパ。いい加減にしないと、ママにいいつけるよ」

 制服の中で泳いでいる少年の手だ。
 言われた瞬間に、宮階の頬が引きつる。

「マエストロ・ミヤガイは、かなこせんせいが、はつこいのひと、なんですよね」

 クスクス笑いながら割って入ってきたのはアーネストだ。

「あ、アニー!」
「いまさらかくしても、ダメダメ…です、マエストロ」

 アーネストと宮階は、挨拶もなしに軽口をたたき合う。

 父親を止めた小さな手が、今度はその様子を不思議そうに見つめている悟の制服の袖口にかかった。

 キュッと引っ張って、悟の視線を自分に向けさせると、ニコッと笑った。

「あのね。アニーとパパは仲良しなんだ。アニーの日本のお家は僕んちなんだよ」

 一生懸命説明してくれる口調は、まるで中学生か、下手をすれば小学生並みだが、悟の様子を見上げただけで、悟がいったい何を不思議に思っているのか察したらしいその頭の回転は、侮ってはいけないようだ。


 そんな珠生の肩に手を置き、光安が改めて父親を紹介した。

「悟、紹介するまでもないと思うが、指揮者の宮階幸夫先生だ」

「はい。もちろん存じています」

「いや〜、すまないね、悟くん。ついうれしさのあまりに興奮してしまった。香奈子さんにはいつもお世話になっている。……ああ…ついでに良昭にも…とりあえず世話にはなってるがね」

 最後のはどうも付け足しくさい。 

「今度、うちの息子がこちらへ世話になることになってね。ご覧の通り、ボケボケに育ってしまったものだから、寮へ入れることにはかなり不安があるんだが、どうか一つ、よろしくお願いしたい」

 悟の手をギュッと握りしめ、息がかかりそうなほど詰め寄られて、思わず悟が後ずさる。

「は、はいっ、もちろんです。大切な後輩ですからっ」

「うんうん、頼むよ〜。いや〜、香奈子さんによく似て知的で綺麗だなぁ、悟くんは〜」 


 更ににじり寄られ、さりとて音楽界の大先輩を振り払うわけにもいかず、悟が進退窮まったとき、唐突に珠生が声をあげた。

「そうだ!」

 小さな珠生は大きなアーネストに向き直った。視線を合わせようとすると、顔はほぼ天井に向くくらいだ。

「アニー! 酷いじゃない〜、僕をおいていくなんて〜。今日は一緒に登校してねってあれだけ約束したのに〜!」

「だって、たまきが ねぼうするからいけないんだよ」

「じゃあ起こしてよ〜」

「おこしたよ。でも、たまきったらおきないんだもんね」

 まるで大人に突っかかる小さな小さな子猫だ。 

「ほら、たまき。そんなことより、ちゃんと さとるせんぱいに、じこしょうかいして」

「うん!」
「うんじゃなくて、はい」

「はーい」
「はーい、じゃなくて、はい」

「…はい」
「せんぱいには、きちんとけいごではなさなきゃ、だめだよ」

 神妙に頷く珠生の横では、父親が『自分よりアニーの方がよほど子どもの躾けには向いている』と言わんばかりに肩をすくめている。

「あの…」

 さっきの様子はどこへやら。
 おずおずと声をかけてくる珠生に、悟は出来るだけ優しい微笑みを返す。

 その、あまりに綺麗な微笑みに、珠生は頬を真っ赤に染めて、それでもしっかり目を見て自己紹介を始めた。

「初めまして。僕、宮階珠生(みやがい・たまき)です。聖陵学院高校に、音楽推薦で入学しました。楽器はホルンです。よろしくお願いします」

 一気に言い切ってぺこっと頭を下げる。
 その可愛らしさに、悟もアーネストも笑みをこぼし……。

「そうか、君がホルン奏者なのか」

 光安直人が直々に選んだというホルン奏者。恐らく父親の元で厳しくレッスンを受けてきたのだろう。

 それにしても、指揮者の子が管楽器をしているというのも珍しい。
 何故か指揮者の子というのは、ピアノか弦楽器をやらされることの方が多いのだが。


「こちらこそよろしく。がんばろうね」




 とってもとっても綺麗な先輩に優しく微笑まれて、珠生は漸くその緊張を解く。

 アーネストが行くと言ったから、聖陵についてきた。

 けれど、寮生活は正直不安だった。

 でも、こんなに優しくて綺麗な先輩と一緒ならきっと、大丈夫。




 微笑み返してくる珠生に、悟はまだ見ぬ『佐倉司』もこんな子ならいいのにな……と知らず願っていた。


 その司が、実は悟が来る直前までここにいて、佐伯から『葵が登校してきた』と聞かされて飛んでいってしまったのだと知ったのは、もう少し後のことだった。



幕間「管弦楽部長の個人的感傷」 END

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