第2幕への間奏曲「司クンの複雑な事情」
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佐倉司(さくら・つかさ)は京都生まれの京都育ち。 葵と同じく、修学旅行や家族旅行以外に京都を離れたことなどない。 京都の中でも、しきたりと慣習が根強く残る街、祇園でずっと育ってきた。 京都市内にいくつもの店舗を持つ老舗の土産物屋の次男に生まれ、直接花街とは関係ないものの、自宅が祇園町の中にあるため、自然と置屋に暮らす子たちとも仲良くなり、葵とは物心ついた頃からの幼なじみである。 年子の兄・豊は葵や由紀の同級生で、もっとも近しい友人同士と言っていい仲だ。 そんな兄たち3人が仲良く同じ幼稚園に通い始めた時には、自分もついていくと激しくぐずって親を困らせ、小学校に上がる時には、自分も小学生になるといってランドセル売場の前で座り込んで動かなくなってしまい、またしても親を困らせた。 さすがに彼らが中学へ上がった時にはそう言う暴挙にこそでなかったが、それでも司は、毎日中学の正門で葵が出てくるのを待っているくらいだった。 もちろん、いついかなる時にも――寝坊をした兄をわざと起こさなかった時もある――毎朝せっせと『あーおーいーちゃーん。おはよーさーん』と、迎えに来るのも当然の日課だった。 日々のすべてが『葵ちゃん』を中心に回る。 ドラマティックな展開も何もないけれど、生まれ育った居心地のいい街で、葵と毎日過ごす、何という事はない毎日が、司にはとても大切なものだった。 だが、そんな『なんという事はない毎日』が急変したのは葵が中学に上がった秋の事だった。 いつも友人に囲まれていて、滅多に一人で下校することにない葵がたまたま一人になったとき、それは起こった。 いや、後から考えると、それは恐らく『その時』を狙って行われたのであろう。 誘拐された葵は、心と身体に酷い傷を負わされた。 司は当時まだ小学生で、詳しいことの顛末は聞かされなかったが、今でもその時の異常な様子ははっきりと思い出せる。 帰らぬ葵を待って、寝ずに過ごす大人たちの姿。 憔悴しきった葵の母。 その身体を抱きしめて、ずっと背を撫でていた自分の母の姿。 そして、いつ鳴り出すかわからない電話をじっと見据える先生と、傍で見守る自分の父の姿。 葵が帰ってきた夜、司は豊・由紀と共に栗山家の本宅に預けられていて、その姿を直接見ることはなかった。 しかし、葵が帰ってきたと聞かされ、喜び勇んで見舞いに行った病室で司が見たものは、見知っている葵の姿ではなかった。 いつも明るくて人気者だった葵が、何も映さない瞳をぼんやり開けて、俯せに横たわっていた。 聞けば、背中の怪我が酷く、仰向けには寝かせられないのだと言われた。 「葵ちゃん…僕だよ、司だよ、わかる?」 おずおずとかけた言葉は、受け止められることなく、虚しく地面に転がり落ちた。 葵は誰の声もその耳に通さない。 豊の声も由紀の声も、先生の声も母である綾乃の声も……。 『心が死ぬ』 ついこの前の夏休み、読書感想文の宿題のため、渋々読んだ本の中に確かそんな言葉があった。 もしかしたら、それは、こんなことを言うのではないだろうか。 『葵の心が死んでいる』 そこに肉体はあっても、心はない。 傷ついた器だけが横たわる病室に、司は毎日通った。 兄や由紀と共に、毎日語りかけた。学校でのことをおもしろおかしく聞かせた。 みんなが葵を待っていると、何度も何度もその耳に埋め込んだ。 だが、やはり葵は何の反応も示さなかった。 やがて、身体に負った様々な傷は癒えたが、それでも葵の心は戻ってこなかった。 そして、ただ、無為に流れていく時間の中で、司はやがて自身を責めるようになり始めた。 『もし、あの時自分が葵と一緒にいたら』 『もし、あの日自分が学校を休んでいなければ』 『もし、あの朝自分が熱なんか出していなければ』 6年とはいえ、まだ小学生だった司の心も、長く続く異常事態に押し潰されかかっていたのである。 そんな司に、年齢に似合わずしっかりしていた由紀は、やむを得ず、自分が知っていることをほんの少しだけ話して聞かせたのだ。 葵は恐らく狙われていたのだ…と。だから、司のせいではないのだと。 そんな由紀に、司は『何故?』と問うたのだが、その答えは教えてもらえずじまいだった。 しかし、司はある日、大人たちの話を偶然耳にしてしまった。 『だがな、綾乃。葵の父親が関係しているのなら、早く対処しないとまた同じ事が起こるかも知れないんだぞっ』 『な、何を言うの、しげちゃんっ。葵の父親は関係あらへんっ』 大人たちの口調に、聡い司は幼いながらに結論を出した。 父親のいない葵。 だが、そのいないはずの父親に、葵は殺されかけたのだ…と。 いや、心は殺されてしまったのだ…と。 家族と周囲に愛され、伸び伸びとまっすぐに育った少年の心に、初めて『憎い』という感情が宿った瞬間だった。 ☆ .。.:*・゜ その後、『音』をきっかけに葵は心を取り戻した。 同じ中学に進学した司は何処にでも葵についてまわった。 葵を守るのは自分だと、心に決めていた。 兄の豊も同じ思いを抱いていることには気がついていた。 だが、兄の思いと自分の思いは違う。 兄は『葵を守る』と言う。 もちろん自分も『葵を守る』。 けれどそれだけでは終わらせない。 葵は……誰にも渡さない。 だから、葵が東京の高校へ進学を決めた時、自分も迷わず後を追うことを決意した。 たとえ超難関私立であろうが、学費が高かろうが、寮生になろうが、とにかく葵がいなければ自分は始まらないのだ。 だから、やり遂げてみせる。 私立聖陵学院高等学校に挑戦する準備期間としてはあまりに短い1年を、司はそれこそ寝る間も惜しんで努力を重ねた。 夏休みに葵が帰省してきたが、塾の夏期講習のため、一度も会えなかった。 だが、たった一度、講習を終えて遅れて駆けつけた、ホテルのロビーコンサートで遠くから見た葵は、たった4ヶ月で驚くほど洗練された姿を見せていた。 そして、傍らに葵を守るようにして立つ、同じ制服の大人びた生徒。 音楽と、そして眼差しだけで語りあう二人に、言い様のない焦りが募った。 しかし、結局司は葵に声をかけることなく、その場を去った。 入試は一度きり。失敗は許されない。 『長く続くはずのこれから』に賭けるため、今は目をつぶるしかないと思った。 葵に追いつくためには、学科だけでなくヴァイオリンの練習もしなくてはならない。 子どもの頃からやらされてはいたが、真剣になったことは一度もなかったヴァイオリン。 兄は性に合わないと言ってさっさとやめてしまったが、司は『僕、司のヴァイオリン好きや』という幼い日の葵の一言だけで、今までかろうじてやめないで来た…と言う程度である。 それを音楽推薦を受けられるレベルまで持っていくのは、あまりにも無謀だった。 だが、やるしかない。 本当に、寝ている間などなかったのである。 ☆ .。.:*・゜ 秋。 葵が倒れて入院したという連絡が入った。 さすがの司も、この時ばかりは東京へ行くと言いだした。 だが、栗山によってそれは止められた。 葵の周辺は、もっともデリケートな時期にさしかかっていると判断したからだ。 やがて、葵が回復した頃を見計らって、栗山重紀は、由紀と、そして豊と司の兄弟を呼び、すべてを話して聞かせた。 彼らもまた、葵の事件の時に心に傷を負っていただろうから。 だから、語る事にとまどいはなく、また不必要に気負うこともなく、事実だけを淡々と話した。 葵の父親のこと。 同じ学校に兄たちがいたこと。 包み隠さず、円満に解決したと語った。 だが、司は忘れてはいなかった。 葵の心を闇に閉じこめたのは、葵の父親なのだと。 葵の父親が犯人なのかと問いつめる司に、栗山は『葵に対しては二度とこの話を蒸し返さないこと』を条件に、やはり正直に真相を語った。 それから司の睡眠時間はますます削られていった。 何が何でも聖陵学院へ行く。 管弦楽部に入る。 そして、葵を取り返す。 葵を傷つけた人間……その血を引く『あいつ』の手から。 絶対に許さない。その汚れた手で、葵を抱きしめることなど。 |
第2幕への間奏曲「司クンの複雑な事情」 END |