第3幕への間奏曲「アーネストくんの明快な事情」
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『祐介? 何を見てるんだ?』 『ああ、アニー』 8月も終わりに近づいているからだろうか。 それとも湿度の差だろうか。 ここは、日本よりずっと過ごしやすいのだが、でも、今はあの蒸し暑さが恋しい。 小さな携帯用の額に納められた写真に、いつしかジッと見いっていた祐介は、いつのまにか背後に立っていたらしいアーネストに、まったく気がつかなかった。 大柄な彼なのに、足音でも忍ばせてきたのだろうか? それとも、自分がそれほどこの写真に気を取られていたと言うことだろうか? 『誰?』 肩越しに写真を眺め、アーネストが問う。 『学校のルームメイトなんだ』 フレームの中で優しい笑顔を見せているのは、葵。 二つ折りにすることの出来るそれには、向かい合わせに二枚の写真を収めることが出来る。 一枚はセルフタイマーを使って412号室の4人で撮ったもの。 それぞれがリラックスした部屋着で、何故か3人ともが皆、葵にじゃれるようなポーズをしている。 そしてもう一枚は、葵が一人で写っているもの。 まだ真新しい制服をきちんと着こなし、フルートを胸の前で斜めに持ち、背筋を伸ばした綺麗な姿勢だ。 撮影場所は音楽ホールのロビーで、部屋でじゃれて撮ったものと違い、きちんとしたポートレートに仕上がっている。 それもそのはず、この写真は新聞部が『今年注目の一年生』という特集を組んだときの第1回紙面を飾った写真で、学生コンクールの賞を総なめにしていた当時の写真部部長が直々に自慢の愛機で撮影したものなのだ。 そして祐介は、葵への取材の口利きをしたのをネタに、後日この写真をネガごと手に入れた。 だからこれは、今や誰一人として持っていない、葵の貴重な『生写真』。 祐介はそれを、この夏期留学の荷物の中にしっかりと入れてきた。 葵は今頃何をしているだろう…。 京都のコンサートももう終わったはず。 今どこで何をしているのだろう。 まだ京都にいるのだろうか、それとも……。 『よほど仲がいいんだね』 ドイツ人の父とイギリス人の母の間に生まれたアーネストの英語は、とても分かり易くて、初めての海外生活を送る祐介にとってはとてもありがたいものだ。 『うん…親友……かな?』 『親友?』 何故か聞き返したアーネストに祐介はもう一度「うん」と言うことを躊躇った。 今アーネストが聞き返したのは、祐介の英語が聞き取れなかったためではない…というのはよくわかっていたから。 だからさっきよりももっと言葉を選んでしまう。 けれど、真実は一つで。 『…大好きな…親友、だよ』 『フルーティストなんだね』 何でもなかったようにそう言った途端に、祐介は緊張を解いた。 『そう。すごいんだよ、もうコンクールの優勝歴もあるんだから』 とたんに破顔して、嬉々として写真の中の『彼』について語り始める祐介。 反対にアーネストは知らず表情を曇らせてしまう。 アーネスト・ハース。 祐介より半年ほど先に生まれた17歳。 ごく一般的な銀行員の家庭に生まれた彼は、ピアニストであった母方の祖父の血を引いたのか、幼少の頃から音楽に才を見せ、わずか10才で権威ある音楽院の門をくぐり、その後も順調にスキップを続けてこの秋からは最上級生になる。 しかも、すでに欧州の楽壇にデビューを果たしており、今最も期待される若手音楽家の一人として注目を集めているのだ。 その彼が、まるで身体の一部のように扱う楽器は『オーボエ』。 繊細かつ緻密な音作りの中に瑞々しい若さを溢れさせる演奏を、酷評しようなどと言う評論家は今のところ皆無だ。 アーネストは、このサマースクールにもちろん生徒としてではなく、教授陣のアシスタントとして参加していた。 そして、そこにやってきた東洋人のフルーティストを、初日から見つめてきたのだ。 今までに見てきた東からの留学生と言えば、エリート意識が強いのか、はたまた『留学』という名のプレッシャーに耐えているのか、みな一様に表情固く、ただがむしゃらに『学ぶ』という事だけに意義を求めているように見えた。 確かに『学ぶ』ことは大切なのだが、アーネストとしては、せっかく西洋音楽の本場を訪れたのだから、その空気を感じ、歴史を見つめ、楽器と離れたところでも『音楽』を身体に取り込んでくれればいいと思っているのだ。 そして、もちろんその東洋人のフルーティスト――浅井祐介にも最初はそんな印象を持って見ていたのだが…。 祐介は真面目な生徒であった。 頭の回転も速く、物覚えもすこぶる良い。 礼儀も正しいのだが、さりとて固いばかりではなく、綺麗な表情でよく笑うから留学生同士の間でも人気者のようだ。 そんな祐介の様子を注意深く見守ってきたアーネストだが、何より彼は、フルートに向き合う祐介の表情を気に入った。 まるで愛おしむような柔らかい笑顔。 ただ一本の細い銀の管に、祐介はそれは丁寧に思いを込めていたように見える。 それは祐介を指導した教授も言っていたこと。 『祐介は、本当にフルートを愛しているね』…と。 しかし、祐介のその――少し大げさだが――『愛情』というものが『フルート』そのものにではなくて、その先にある別の何か…に向けられているのでは…と思い至ったのは、出会ってからそう先のことではなかった。 それがいったい何なのか。 今まで経験したことのない焦燥感を自覚ながら、アーネストは祐介の親しい友人となり、側近くで見つめてきた。 そして、サマースクールも終盤に差しかかったある週末。 休日を利用して祐介を誘って出かけた、国内外でその名を知られる有名な保養地『バーデン・バーデン』のホテルの一室で、その答えを見つけたのだ。 祐介が見つめるフォトフレームの中の綺麗な少年は、東洋人特有の幼さで、年齢の検討がつかない。 ただ、西洋人の目から見ても、大変な美少年であろうことはわかる。 そして、その手に持つ『フルート』。 祐介は、『フルート』を通してこの少年を見つめていたのだ。 アーネストはこの時はっきりと自覚した。 自分もまた、音楽を通して彼を見つめ、そしていつしか心惹かれていることを。 そんなアーネストの気持ちに気づこうはずもなく、祐介はアーネストと信頼関係を深め、やがて短い夏が終わりを告げた。 『アニー、元気で』 『…祐介も』 『ずっと応援してるから、演奏活動がんばって』 『うん』 『もし日本に来るような事があったら必ず教えてくれよな』 『…それはもちろん。でも、祐介は?』 『え?』 『祐介はもう、こっちへは来ないのか?』 『そうだな…来年の夏は演奏旅行が入るって噂だし、3年になったら受験だから…』 来ないとはっきり告げたわけではないのに…、ただ、これから2年のスケジュールを簡単に口にしただけなのに、予想外に気落ちした様子のアーネストを見て祐介は少なからず慌てた。 『でも、アニーとはずっと友達だから』 …ずっと、友達。 『…うん…』 少し噛みしめた唇が気になったが、その時の祐介には、帰国して葵に会える喜びの方が優っていた。 『祐介、また…な』 『うん、また会おう』 こうして、祐介の帰国はアーネストとしては『涙の別れ』となったのだが、その後彼が落ち込んでいたのはほんの24時間ほどだった。 25時間目あたりには、彼はすでに行動を起こしていたのである。 10日ほど前、『近くまで来たついでに』とサマースクールを覗いていった指揮者、赤坂良昭。 2年前、まだ15歳という若さのアーネストに、『オーボエ協奏曲』という、デビューとしてはまたとない舞台を作ってくれたのは、この指揮者だった。 以来、アーネストは彼のことを兄のように――実際自分と変わらない歳頃の子供を3人も持つ彼だが、父というにはあまりに若くて気の毒だと言うのもあり――慕ってきた。 その彼は、確か祐介のことを母校の後輩らしいと言っていなかったか? 祐介が来ないと言うのなら、こちらから追いかけて行くまでのこと。 まずは留学生制度がないか尋ねてみる。 もしないというのなら、日本語を身につけ入試を受けて入ればいいだけのことだ。 アーネストは早速、赤坂良昭に連絡を入れた。 だが彼はすでにツアーのため日本へ発った後だった。 事務所に頼めば連絡は取れる。 だが、ただでさえ『ツアー』という普段以上に体力を使う仕事の最中であるマエストロの邪魔はしたくない。 これがいつものように仕事の話というのならまだしも、どうしようもないくらい『私用』なのだから。 …どうしよう。誰に相談すればいいんだ…。 だが、途方に暮れたアーネストの元へ数日後、日本から連絡が入る。 アーネストから連絡があったと聞いた良昭からのものだった。 『日本へ行きたい?』 『…はい』 『またどうして』 いきなり日本へ、しかも留学したいと言い出したアーネストに良昭は電話口でもはっきりわかるほど驚いた声で対応する。 だが、アーネストには彼を説得出来るような材料を持っておらず…。 『…わかったよ』 黙り込んでしまったアーネストに、良昭は根負けした声を出した。 『私も今は母校の入試システムなどはよくわからないんだ。だから東京にいる友人を紹介するよ。まずは彼に話をしてみなさい』 こうして紹介されたのが、珠生の父、宮階幸夫であり、アーネストは祐介との別れから一月後には日本の土を踏んでいたのであった。 |
第3幕への間奏曲「アーネストくんの明快な事情」 END |