第2幕「Audition!」
【3】
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新学年のオーディション。 フルートパートの課題はフォーレ作曲の「コンクールのための小品」と決まった。 僕も大好きでよく吹く曲なんだけど、これが課題になるのは2回目なんだそうだ。 祐介は入学して初めてのオーディションでこの曲を吹いたんだって。 『結果はどうだった?』 そう僕が聞いたら、祐介ってばペロッと舌を出して『うちのパートは葵が来るまではきっちり年功序列だったんだよ』……だって。 フォーレの「コンクールのための小品」。 普通に吹くと、とっても耳馴染みのいいロマンチックな曲だから、今ではリサイタルのアンコールピースなんかによく使われているけれど、これはもともと演奏会用の曲じゃない。 1898年、パリ音楽院の初見課題曲としてフルートとピアノのために作曲された、3分にも満たない短い曲なんだ。 しかも『初見課題曲』ってことは、練習を重ねて臨む曲ではなく、楽譜を見せられてからそう時間を置かずに演奏しなくちゃいけないってこと。 当時のパリ音楽院の試験ってのがどんなものだったのか、もちろん僕は知らないけれど、現代の日本の音大入試では『初見演奏』――入試要項では『新曲視奏』というのが一般的――っていうと、楽譜を渡されてから譜読みをして演奏を始めるまで、だいたい2〜3分ってところ。 もちろん楽器で音を出す事は許されないし、そんな場所も時間もない。 とりあえず、与えられた短い時間の間に、楽譜上のすべてを読んで、イメージまでもつくっておかなくてはならないんだ。 ただ、最近はもう、この『新曲視奏』は主にピアノなどの鍵盤楽器の入試でしかみかけない。 管弦打楽器や声楽の入試では『新曲視唱』と言って、初めてみる楽譜を『歌う』という試験が一般的なんだ。 僕としては『視唱』より『視奏』の方がいいんだけれどね。 「さて、どうしたものか」 椅子の背もたれに身体を預け、腕を組んで真面目くさって言うのは祐介。 オリエンテーションから数時間後の音楽ホール2階の練習室。 特に決まっているわけではないんだけれど、ここ『練習室15』は何故だかフルートパートのたまり場になってる。 そして、学年始まりの今日も、同じように、ここに全員が集まった。 トランペットパートは、みんなして羽野くんを離そうとしないので、今日もやっぱり彼らのたまり場で、みんなで課題曲を練習し始めたようなんだけど、他のパートは『昨日の友も、今日からオーディションまでは敵!』…とばかりに、バラバラになって練習を始めている。 特にヴァイオリンパートは一番人数も多いから競争が激しい。数に限りのある練習室は争奪戦だ。 争奪戦に敗れると、音楽的環境としては最悪の『裏山』を練習場にするしかないから、みんな必死なんだ。 隆也もヴァイオリンケースを抱えて走ってた。 通り過ぎざまに『今回はやるからね、乞うご期待!』なんて言って、ウィンクしてたっけ。 そういえば、去年の夏以降、ぐんと練習量が増えてたからなぁ。 そんな、期間限定の殺伐とした雰囲気の中、我らがフルートパートは固まってここにいる。 全員で集まるにはちょっとばかり狭い部屋の中には、中1の初瀬くんから、最高学年の佐伯先輩まで……のはずなんだけど、佐伯先輩の姿はない。 さっきまではいたんだ。そして、初瀬くんと顔合わせして、自己紹介して……。 そこまでは『いつものフルートパート』だったのに。 実は、課題曲の練習どころではない非常事態が起こったんだ。唐突に。 「まさか…ですよね」 そう呟いたのは、高等部に上がってきた紺野くん。春休みの間にぐっと背が伸びて大人っぽくなっていて、ちょっとびっくり。 「信じらんないデス」 中等部の最上級生になった谷川くんは、相変わらず飄々としてるけど、この事態を受けて表情は硬い。 「……ぐすっ」 「こら、泣くなって」 「…は、はいっ」 祐介にぐりぐりと頭を撫でられてもまだ鼻をすすっているのは、もう最下級生ではないのに、何故かそう見えてしまう藤原くん。 初瀬くんは……入学したてで、まだ何が何だかわからないんだろう。 ちょっと伏し目がちに、表情を変えずジッと黙って座ってる。 貫禄あるなぁ。でも、時々動く視線の先は…。 「で、どうする」 僕がその視線の先をもう一度確かめようとしたとき、祐介が言った。 祐介の視線の先は、僕。 「どうするって言っても、佐伯先輩、言い出したら聞かないよ。それに、思いつきを口にするような人じゃないし」 僕の言葉に、みんながため息をつく。 それはきっと、みんなもそう思っているっていう、肯定のため息。 あろうことか、佐伯先輩は聖陵生活最後の今年、オーディションを受けない…と宣言したんだ。 それはつまり、演奏をしない……という選択。 もちろん、フルートパートの最上級生として、僕らの相談役にはなるし、何かあったら何でも言ってこい…って言ってはくれたんだけど、それでも先輩は、最上級生が務めるはずの『パートリーダー』すら、祐介に任せると言うんだ。 僕たちのショックは大きかった。 そりゃあ、極めてオヤジくさいセクハラもするし、冗談しか飛ばさないようにみえるけれど、佐伯先輩はいつもさりげなく優しくて、有言実行の頼りになる先輩なんだから。 まったく、大黒柱を失った気分……。 「副部長職に専念する…ってことでしょうか?」 「…だろうな」 紺野くんの言葉に祐介が応えると、またみんながため息をつく。 これもきっと同意のため息。 「でも、光安先生は許可されたんでしょうか?」 藤原くんが赤い目をして見上げてくる。 「そうか。顧問が認めなきゃどうしようもないよな」 祐介が腕組みを解いて立ち上がりかけたとき、防音扉をかなり乱暴にノックして、渦中の人物が…。 「おい、何ぼんやりしてるんだよ、練習はどうした?」 いきなり佐伯先輩。 誰のせいでぼんやりしてると思ってるの〜。 「あ、念のためもう一度言っておくが、俺の決意に関してはご意見無用だ。顧問の許可も取った」 あっさりと先回りされたその瞬間、部屋に流れる無力感……。 「ほら、浅井、これ頼むぞ」 「…なんですか?」 「課題曲の伴奏合わせの日程だ。今年は外部講師に伴奏を頼んだから、一人あたり2回しかチャンスはない。しかも1回あたり15分だ。かなりきついからな、伴奏合わせまでに個人でやれることはやっておけよ」 え? ピアノ伴奏は外部の先生? 「先輩!」 「ん? なんだ、葵」 僕が呼ぶと先輩はいきなり声色まで変えて、僕の腰を抱いて、あろう事か頬まで寄せてくる。 ちょっと…新入生の前で…! 慌てて視線を巡らせると、藤原くんは特に反応していない。 去年はハトが豆鉄砲食らったような顔してたのに……ったく、一年ですっかり慣らされちゃって。…って、そうじゃなくて初瀬くんが…。 あ、こっちも全然動じてないや。 「どうした、葵。デートのお誘いなら…」 「誰がデートですかっ」 腰に回されている手をぺちっと叩いてみても、先輩はお構いなし。 「それより先輩っ、伴奏って」 僕の言いたいことがわかったのか、先輩は僕の腰をまだ抱いたまま『ああ…』と呟いた。 「いつもなら悟が伴奏するのに…って言いたいんだろ?」 そうです、その通り。 去年、フルートの課題は『無伴奏』だったけれど、他のパートで伴奏付きの課題のところは、全部悟が弾いていたんだ。 「悟は今回、先生方と一緒に審査にあたるんだ。だから伴奏からは降りた」 え? 「審査ですか?!」 僕が言おうとしたことを、祐介が言った。 「すっげぇ…」 後ろで誰かが呟いた。 「ああ、もちろん知っての通り、今までは顧問と外部講師が審査してたけど、今年は悟もそれに加わることになった。悟のヤツ、今朝それを言い渡されてかなり緊張しているからな。それに、審査に加わるからには全パートの課題曲を頭にたたき込まなきゃならん。お前たち、悟の邪魔するんじゃないぞ」 邪魔? 何、それ。 「とりあえず練習しろよ。ただでさえ、今年のフルートの課題は他のパートより簡単なんだ。恥ずかしい演奏してみろ。ただじゃおかないぞ!」 ……そうだった! その言葉を聞いた途端、みんなハタと思い出した。 先輩の爆弾発言を聞くまでは、そのことで持ちきりだったんだ。 「じゃあな」 ニヤッと意味深な笑いを残し、しかもちゃっかり僕の頬にセクハラを残して、先輩は慌ただしく駆けていった。 本当に、悟の補佐に専念する気みたいだ……。 |
【4】へ続く |